豊臣秀吉の朝鮮侵略/文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱
16世紀末、2度行われた豊臣秀吉の朝鮮侵略。日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という。1592年、朝鮮に侵攻した倭軍は平壌まで進んだが、朝鮮の義兵の抵抗と明の援軍によって反撃を受け、さらに李舜臣指揮の朝鮮水軍によって補給路を断たれたため苦戦、一旦講和した。1597年に再び侵攻し、朝鮮南部で朝鮮・明の連合軍と戦った。98年、秀吉の死によって撤退し、戦争は終わったが豊臣政権は間もなく倒れ、朝鮮の国土は荒廃し、明もまた間もなく清によって滅ぼされる。またこのとき捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって、日本の朱子学の興隆、陶芸技術の飛躍的発展などがもたらされた。

 1592(文禄元)年に始まる第1次の出兵である文禄の役=壬辰の倭乱は、1594年末に一旦講和し、1597(慶長2)年1月、第2次出兵の慶長の役=丁酉の倭乱が行われた。翌98年8月の秀吉の死により、倭軍は撤退に転じ、12月までに戦闘が終了した。戦場となったのは朝鮮半島全土であって、特に第2次では朝鮮南部が大きな被害を受けた。
戦争の呼称と意義  日本での文禄・慶長の役は、当時は「唐入り」、戦前には「朝鮮征伐」といわれていたが、その実態は侵略戦争であった。朝鮮(李朝)では壬辰・丁酉の倭乱(朝鮮には年号がなかったので干支で年代を示した)といわれ、明(時の皇帝は万暦帝)では秀吉を「平秀吉」とよび、最近ではこの戦争を「抗倭援朝戦争」と呼んでいる。
 戦争に大義名分はなく、戦国時代の日本を統一した豊臣秀吉が、更なる領土拡張をめざして朝鮮を侵略したものであり、さらに秀吉の構想では明を征服し、天皇を北京に移すというものだった。豊臣秀吉の個人的な野望から始まり、その死によって終わった無謀な侵略戦争であったが、結果として領土の変更は何一つなく終わった。また秀吉は1588年に海賊禁止令を出して倭寇を終わらせたが、彼自身の出兵が最後で最大の倭寇であったとも言える。