朝鮮支配めぐる侵略戦争

 明治維新から10年もたたない1875年、日本は江華島事件を起こしました。軍艦をソウルの入り口の江華島まで行かせて、衝突を挑発し、砲撃戦で砲台を占領し、大砲などを強奪。翌年、日本は朝鮮に不平等条約を押しつけました。これを機に日本は朝鮮への圧迫を続け、本格的な侵略に乗り出したのが日清戦争(94年)でした。

 当時、朝鮮では官吏の腐敗と重税に反対して東学農民運動が起こっていました。運動は朝鮮半島の南西部の中心都市・全州を実質的に統治するほど力を持ちました。

 そのとき日本は、朝鮮王朝の要請もないのに、東学農民運動への対応を口実に大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧。開戦直前の朝鮮王宮を軍事占拠し、国王と王妃を拘禁しました。そして、軍事的脅迫のもとで朝鮮に日本への協力を約束させたのでした。同時に、日本軍は農民軍の大量虐殺を行いました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫ると言われています。

 日清戦争に勝利した日本は下関講和条約(95年4月)で朝鮮への清国の影響力の排除を約束させますが、同条約で日本へ割譲をきめていた中国の遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの要求で清国に返還せざるを得ませんでした。朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は同年10月、公使の三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心であった明成皇后(閔妃=ミンピ=)を殺害し、遺体を焼き捨てるという暴挙を行いました。こうして日本は朝鮮の植民地化への一歩を踏み出しました。

 日露戦争(1904年)は、韓国(1897年に大韓帝国に改称)と中国東北部をめぐる日露双方からの侵略戦争=帝国主義戦争でした。

 日本は開戦と同時にソウルを軍事占領した上、韓国に「日韓議定書」を強要し、日露戦争への協力を約束させました。さらに、「第1次日韓協約」で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押し付け、財政と外交の事実上の実権を握りました。