川辺川ダムの話のwiki先生より

川辺川ダムも当初350億円の予算だった事業費が事業の長期化に伴い1984年に1130億円、
1998年(平成10年)には約2200億円にまで跳ね上がった[24] ことから格好の標的となり、天野礼子やまさのあつこなど著名なダム反対活動家が川辺川ダムを「壮大な税金の無駄遣い」として
反対運動を全国的に広めていった。彼らダム反対派は川辺川ダムの目的について逐一検証し、「川辺川ダムは無用の長物」として建設中止を強固に求めた。
また地元熊本県内でのダムに対する疑問も、この時期起こり始めた。毎日新聞記者の福岡賢正が1991年(平成3年)8月から1995年(平成7年)6月まで同紙熊本版に断続的に掲載した「再考川辺川ダム」連載であった。当時、流域で圧倒的なシェアを誇る地元紙・熊本日日新聞の論調は、ダムに対する否定的な記事は一切見られず、
むしろ川辺川ダムのPRを大々的に行う全面広告企画特集を組むなど「ダム肯定」とも
取れる風潮にあった。その中で福岡は独自に科学的なデータを集めて検証し、
建設省が訴えるダム建設理由の不合理性を次々と指摘した。基本
高水流量の妥当性、森林保水力の有無、球磨川本流と川辺川の水質の差異などについて、
具体的な数値を示して国の主張に真っ向から反論した。これらの論点は、今日に至るまで国土交通省と反対派による主要な争点として議論され続けており、川辺川ダム反対運動における福岡の影響は、その先鞭を付けたという意味で極めて大きい。
同連載は後に「国が川を壊す理由」(葦書房)として出版され、この連載をきっかけに
1992年(平成4年)には地元で「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す会」が発足。
翌1993年(平成5年)には「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」として改組し、今日に至っている。
さらに地元の住民の中には昭和40年7月梅雨前線豪雨の被害を市房ダムの放流が原因であるとする住民も多く、かつ清流で名高い川辺川の
環境を破壊するとして「清流川辺川を守る県民の会」など複数の市民団体が誕生。県内外の反対派と連携して反対活動を広げた。これら一連の活動は書籍やマスコミなどを通じて
全国に知れ渡り、川辺川ダム問題を広く世に問う役割を果たした

えーまさのあつこってダム反対だけじゃなく絵に描いたような放射脳パヨ
とにかく引っ掻き回すことを生きがいにしとるんだなこのババア