1944年10月10日の十・十空襲による沖縄県民の被害は大きく、那覇の市街地の90%が焼失したほか、
県民の1か月分の食糧も焼失、生活必要物資がひっ迫し県民の生活は困窮した。
当時沖縄を管轄していた熊本財務局は、空襲被害による那覇市民の窮状を考慮して、空襲被害のあった地域の租税徴収を2年間免除するという特例を講じた。
また、1942年2月24日に施行された『戦時災害保護法』を適用し、那覇市民の罹災者救援のために現金給付を行ったが、
アメリカ軍により日本本土から沖縄への海上輸送路は脅かされている状況で、現金で購入できる物資にも事欠いており、実質的な効果は薄かった。

沖縄県の経済情勢が急速に悪化する中、1944年12月に軍中央より『皇土警備要領』が示達された。
これは台湾と南西諸島を最前線と位置付けて、住民を戦力化できるものとできないものに選別し、
戦力化できるものは戦闘や後方支援や食糧生産で軍に協力させ、戦力化できない老若婦女子はあらかじめ退避させるというものであったが
第32軍の高級参謀八原はこれでは不足と考え、より具体化した「南西諸島警備要領」を作成した。