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生まれは横浜中華街、在日コリアン三世です。祖父母が朝鮮半島から日本に渡り、中華街に住み始めたのがルーツになります。当時の祖父母にとって、日本は言葉も知らない異国の地。そこで何とか生計を
立てるため、あらゆる商売を手がけながら、最終的に貯めた資金で中華街に土地を
購入しました。そこから徐々に、不動産管理ビジネスを家業にしていったのです。
中華街という土地柄上、私は物心ついた頃から、インターナショナルな環境で育ちました。周囲には、やはり商売人が多かったですね。ちなみに我々のような在日コリアンの子供は、医者か弁護士になりなさいと言われて育つのが普通でした。なぜなら
企業や公務員への就職は、日本において圧倒的に不利だったからです。国籍関係なく
機会が開かれた職業といえば医者でした。弁護士にも前例はありましたが、
それ以外の道となると、自分で商売をする以外なかったのです。
実際に大学の専攻も、兄は医学部、私は法学部へと進みました。
中学・高校・大学と、日本の学校を出ていますが、名前はコリアンネーム一つで、いわゆる通名を持っていません。マイノリティーに対する差別やいじめに遭った
経験も当然ありますが、理解してくれる人間を大切にすれば良いと幼少期から教えられ、比較的ポジティブな環境で育ったほうだと思います。(略)
大変な学生生活ではありましたが、出逢いには恵まれていました。その一つが、大学教授とのご縁です。私は当初、弁護士になろうと法学部へ進みました。
法律的な側面から、在日コリアンのサポートをしたいという想いがあったからです。しかし、自身も在日コリアンである教授が、
あるとき人生を変える助言をくださいました。「弁護士になるのも素晴らしい。だけど、もし君が真の社会貢献を目指すなら、ビジネスで成功しなさい。
そして、多くの弁護士を使える立場になりなさい」…と。この
言葉に非常に感銘を受け、私はビジネスの道に進むことを決意しました。
また、当時は家業と両立して、民団(在日本大韓民国民団/日本に定住しており、朝鮮半島にルーツを持つ人々を支援するための韓国政府の公認団体)の学生会会長を務めていました。
200名ほど引率して韓国へ行ったり、勉強会やイベントを開催したりと、精力的に活動していました。その結果、会長就任当初は数十名だった関東の学生会は、3年ほどで数倍規模へと拡大。当時は酒を飲みながら、自分たちが日本社会、
そして世界で、どのように生きてくのか、仲間と熱く語ったものです。