日本は徐々に強制的に、朝鮮半島を蹂躙しながら、抵抗できないようにして、最後に併合したと言い張る人がいますが、
真っ赤な嘘です。
高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする「日省録」や「承政院日記」
も残されている。また締結時に学部大臣だった李完用も閣議で『わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は
2回の大戦争に従事し、多大の犠牲を出して、ようやく今日における韓国の地位を保全したのだから、これ以上わが
国の外交が原因で東洋の平和を乱し、再び危地に瀬するような事は、その耐えざる所』とし、日本との協約締結を肯定している。
また、少なくとも、第一次日韓協約1904年8月が締結されるまで、日本は、朝鮮半島の独立体制を維持していたのです。
ところが、日露戦争当時、韓国皇帝高宗が保身のため、勝手にロシア側に付く姿勢を示すなど、韓国内の趨勢を無視して
独断行動をとり、外交の基本を成していないと判断されたため、第一次日韓協約が締結されました。

が、この時においても、大蔵省主税局長の目賀田種太郎が財務顧問に、アメリカ駐日公使館顧問であった
ダーハム・ホワイト・スティーヴンス(Durham Stevens)が韓国外交顧問に就任しています。
※日本の伊藤博文暗殺を英雄化して教育してる韓国は、ダーハム・ホワイト・スティーヴンスの暗殺には黙んまり決め込んでます。
つまり、外交権を概ね抑えたのはこの時ですが、そのように間接的に誘導したのは、明らかにアメリカです。
アメリカやイギリスの一番の希望は対ロシアの南下制作防止であり、そのために、日露戦争も応援しているのに、韓国の馬鹿な皇帝が
勝手な保身のために、ロシアと通謀していたから、しかたなく、外交権も日本が握ることになったのです。
しかも、まだ、この段階では、完全な外交権剥奪ではありません。外交の基本権は韓国に残されています。
ところが、馬鹿な韓国皇帝が、再び、1905年(明治38年)3月26日韓国皇帝によるロシア皇帝ニコライ2世宛の密書が発覚し、
日本は、韓国は外交案件について日本政府と協議することを定めた同協約第3条を遵守する意志がないと考え、
日本が韓国の外交権を完全に掌握できる協約の締結を要求するようになり、ポーツマス条約調印後の1905年11月17日、
日韓両国は第二次日韓協約を結んだのです。
なお、1918年以降は、ウィルソンの民族自決路線などによって、アメリカは態度を変えます。
これは、一番の理由は、アジアの植民地政策に乗り遅れたアメリカにとっては、むしろ、そのほうが都合が良いと悟ったからです。
まあ、振り返ってみれば、日本は、日韓併合も、対米戦争に誘導されたことも、また、戦後の混乱や、竹島強奪など、
全てにおいて、まさに、ジャイアンであるアメリカに踊らされたと言えるでしょう。