日本人がなぜ従軍慰安婦の謝罪が足りないのがお金もです [無断転載禁止]©2ch.net
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【李朝時代末当時の証言】「朝鮮事情(仏人宣教師シャルル・ダレ神父/平凡社東洋文庫)」1874年
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『1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮・人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ』
ほんとの奴隷ってのは日本統治前のチョンのことを言うんだよ
頭下げて感謝しろよ、奴隷解放やった日本様に対してw 【李朝時代末当時の証言】「朝鮮事情(仏人宣教師シャルル・ダレ神父/平凡社東洋文庫)」1874年
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『1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮・人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ』
ほんとの奴隷ってのは日本統治前のチョンのことを言うんだよ
頭下げて感謝しろよ、奴隷解放やった日本様に対してw 【李朝時代末当時の証言】「朝鮮事情(仏人宣教師シャルル・ダレ神父/平凡社東洋文庫)」1874年
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『1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮・人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ』
ほんとの奴隷ってのは日本統治前のチョンのことを言うんだよ
頭下げて感謝しろよ、奴隷解放やった日本様に対してw >>117
あの〜、時系列ちゃんと把握出来てますか? 日独接近後のヒトラーは国民党支援から手を引いていくんですが…
むしろチェコスロバキア完全併合やポーランド分割とかドイツがどんどんおかしくなってから安直にすり寄ってってしまった当時の帝国日本外交の愚が露わになっていくわけでなんですがw
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中独合作(Wikipedia)
中独合作(ちゅうどくがっさく、中: 中コ合作、独: Chinesisch-Deutsche Kooperation、英: Sino-German cooperation)とは、1910年代から1940年代にかけての、中華民国とドイツの一連の軍事的・経済的協力関係を指す。独中合作とも。
日中戦争直前の中国で、産業と軍隊の近代化に役立った。1912年に中華民国が成立した直後の中国では、軍閥が跋扈し、列強の侵略に苛まれていたが、1928年の国民党による北伐の完成により、一応ながらも国内統一がなされた。
しかし、その後満州事変などの日本の進出により、「中華民国による国家統一」が脅かされるようになった。
そのような背景において、軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて、両国の蜜月関係は最高潮に達した。
ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化されたが[1]、日独防共協定が締結されると関係は弱められた。中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果を発揮した。
■日独防共協定
1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた[14]。
ヒトラーの外交政策が変更され日独防共協定が締結されると、中国とドイツの関係は弱められていった。ヒトラーは、ソ連のボリシェヴィキ主義に対抗するには日本の方が頼りになると考え、同盟国に日本を選んだ[17]。
さらに中国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、中国系ロビイストやドイツ人投資家から執拗な抗議を受けても変わらなかった。
ヒトラーは、中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。
・・・ドイツは在華大使トラウトマンを介して、中国と日本の和平交渉を仲介しようとしたが、1937年12月に南京が陥落してからは、両国が納得できるような和解勧告をすることはできず、ドイツ仲介による休戦の可能性は全く失われた。
1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。その年の4月、ヘルマン・ゲーリングにより、中国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月、日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。
ドイツが親交国を中国から日本に切り替えたことは、ドイツの経済界を失望させた。中国との交易に比べれば、日本と満洲国から得られる経済効果ははるかに小さかったためである。
また、中国在住のドイツ人のほとんどは、国民政府を支持した。例えば、漢口のドイツ人は現地の赤十字に対し、中国人と他の外国人からの合計以上の寄付を行っていた。ドイツの軍事顧問達は、国民政府に同情的だった。
ファルケンハウゼンは、1938年6月末日に退去を命じられていたが、蒋介石に対して、日本に味方することだけはないと断言した。その一方で、ナチス幹部達は、日本を中国で勃興する共産主義に対する最後の防波堤と位置づけていた。
実際にも、ドイツが日本と手を組んだことは、必ずしも成功とは言えなかった。日本が北中国及び満洲国の権益を独占したため、中国におけるドイツの権益は他国並みにまで落ち込んだ[18]。
1938年中ごろ、これらの経済問題が未解決なまま、ヒトラーはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、1936年に締結された日独防共協定が事実上無効となった。ソ連は満州国の物資をドイツに送るのに
シベリア鉄道の利用を認めたが、当初からその量は少なく、ソ連、ドイツ、日本の交流が浅いためにさらに減少することになった。1941年、ドイツがソ連に宣戦布告すると、ドイツとアジアの経済交流は完全に無くなった[19]。
中国とドイツの交流再開は1941年までは模索されていた。しかし、ドイツが1940年のバトル・オブ・ブリテンでイギリスを攻めあぐねているうちに、ヒトラーの興味を奪ってしまった[20]。ドイツはその年の終わりに日独伊三国軍事同盟を締結した。
それを受けてドイツは1941年7月、重慶に移っていた国民政府と手を切り、南京の汪兆銘政権を中国の公式政府として承認した。太平洋戦争の勃発を契機にして、中国は連合国の一員として1941年12月9日にドイツに宣戦布告した。
■後世への影響
ドイツ軍装の蒋緯国
1930年代の中独合作は、孫文が理想とした「中国の国際化」において最も成功したものだった。その関係は短期間で終わったが、国民党政府が国共内戦に敗れて台湾に撤退した後に関係が再開した。
台湾(中華民国)の政府高官や大臣の多くがドイツで教育を受け、その他にも学者や蒋介石の息子(のち養子であることが判明したが当時は実子とされていた)蒋緯国のような軍当局の高位者の多くがドイツで学んだ。
>>129
なに今更遅レスしてんだよ、屑自演チャンコロw
おまえの好きなラーベもナチ党員だろw
手を引くもなにもシナ事変当時はズブズブだったよなあ
まあシナ事変がおまえらチャンコロが仕掛けてきたってのは間違いないな
んで蒋介石は結局どうなった?
大陸追い出されてのたれ死んで、毛沢東とか言う基地外が統治者になったよな
結局基地外の奴隷になったチャンコロ、ざまあwww wikiソースを馬鹿にしてたくせに、wikiをソースにするチョン族チャンコロ、ワロタ
なら朝鮮統治の記述にも従えよw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています