東満の東寧(とうねい)の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。
その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も……
(一般兵用)施設は藁筵(むしろ)でかこまれた粗末な小屋で、三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、
その上に仰向けになった女性の姿を見たとき、私の心には小さなヒューマニズムが燃えた。
一日に何人の兵隊と営業するのか。外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい
義憤めいた衝動を覚え、その場を立ち去った。

 これらの朝鮮女性は「従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため
、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、
いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、
戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。……

 おれは東京の吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。
あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだが、伊藤上等兵も同感する。
長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年