田村が通っていたアクティング・スタジオはブラッド・ピットやシャーリーズ・セロン、
ケイト・ハドソンなど、数々の有名俳優が学んだことで知られる名門スタジオだ。

クラスでは、毎回、アトランダムに選ばれた1組が映画や芝居のシーンを与えられ、
1週間で仕上げ、クラス全員の前で演じ、コーチが厳しく指導する。

そして、スタジオに通いながら、エージェントを探す。
エージェントは、俳優の代理人であり、所属するのではなく契約する。
エージェントはモデル、コマーシャル、演劇の3つに区分されている。
アメリカではエージェントとの契約がなければオーディションにすら参加できないこともあるが、
演技力が要求される演劇のエージェントと契約するのは至難の業で、
ハリウッドではエージェントを持てない俳優がほとんどだという。

田村もエージェントとの契約で苦労している。50近くのエージェントに履歴書を送付しても、反応はまったくなく、
電話をして「エージェントを探しています」などと言おうものなら、ガチャンと切られるというのが当たり前だった。

そこで、田村は方針を転換し、演劇のエージェントではなく、コマーシャル・エージェントに目を向けたが、
そこでも英語力が障害となり、なかなかうまくいかず、
渡米から3年ほど過ぎてから、モデル・エージェントと契約することになった。
これによって自信をつけた田村はコマーシャルのエージェントと契約することに成功し
、2006年、ヨーロッパで放送されるフォルクスワーゲンのテレビ・コマーシャルに出演を果たした。

この仕事をしたことで、田村は全米映画俳優組合(SAG、現在はSAG-AFTRA)への加入を許された。
俳優が本格的な映画に出演するには、それ以前にオーディションに参加するには、SAGへの加入が必須だ。
SAGへの加入は通常、3本のエキストラの出演が条件だが、
田村はそれまでにエキストラのオーディションにも落ちた経験があり、SAGのメンバーになれたことは、大きな成果だった。

だが、この段階になっても田村は演劇のエージェントと契約ができなかった。
そもそも、アメリカの映画やテレビ全体でアジア系の俳優が占める割合は3.4%に過ぎず、
通常、起用されるのは、アメリカ育ちのネイティブ・スピーカーである。

田村が日本で活躍していたことを知るアメリカ人はほぼいない。
最初から出る幕はなく、エージェントからは「You are a hard sell」と言われ、返す言葉もなかった。

そんな田村がオーディションに合格し、大きな仕事を得たのはアメリカ3大ネットワークテレビの1つである
NBCが放送するドラマ『HEROES』セカンドシーズンのヒロイン、ヤエコ役だった。

オファーがあってから、出演料などの契約が進められるが、田村は次のように述べている。
「一般にはここで、エージェントまたは弁護士が登場し、クライアントであるアクターにとって、
少しでも良い条件になるように折衝する。そして製作側とアクター双方が合意できる条件にいたった段階で、
サインを交わして、ようやく正式なオファーとなる」

『HEROES』のセカンドシーズンは24話の放送が予定されていたが、
撮影の途中で全米脚本家組合のストライキが始まり、11話で終了することになってしまった。
田村も『HEROES』の仲間とともに、SAGのプラカードを掲げてデモに参加している。

以上、田村のハリウッド女優としての軌跡をたどって行くと、日本の芸能界とはまったく異なることに気付かされる。