>>385
(常松幹雄)
  邪馬台国は、3世紀の第1四半期に、北部九州から畿内へ首都移転が実施されたと考えています。
(七田忠昭)
  邪馬台国は、倭人伝の記述や、中国古代城郭の影響をつよく受けた集落構造、中国の権威を帯びた鏡や刀の出土などから吉野ヶ里遺跡を擁する佐賀の神埼地方にあったと推定します。
(安楽 勉)
  九州北部の「伊都国」には巫女王が存在していることが知られており、倭国王ヒミコとかんがえれば、この地が主体となって連合し、畿内に初期ヤマト政権を樹立したことが考えられます。

(中村幸史郎)
  邪馬台国は菊池川流域です。
(北郷泰道)
  邪馬台国を都とする倭国の範囲は、大きく見ても北部九州から中国・四国の範囲。
はじめかから「畿内説」など、『三国志』の記述の外。そして、日向は卑弥呼に背を向けます。

「邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム」【私の邪馬台国論】