植松さん、ヒトは殺してないのに死刑になってしまう
【元ネタ】史実(日本史実)(アジア史実)
【CLASS】アサシン/フォーリナー
【マスター】衛宮切嗣
【真名】植松聖
【性別】男性
【身長・体重】180cm・70kg
【属性】混沌・善/悪 ・人
【ステータス】
筋力:C 耐久:C 敏捷:B 魔力:C 幸運:D+ 宝具:C
【クラス別スキル】
気配遮断:B+
気配を遮断する。戦闘態勢に移らなければ気配を察知されない。
対魔力(大麻/偽):C+
大麻吸引による擬似的な対魔力を有する。
狂化(大麻):C
大麻吸引で狂化スキルを保持する。
領域外の生命:E
狂気:C++ 【固有スキル】
対害児:EX
意思疎通の出来ない相手、又は障害者手帳持ち相手だと、アサシンによる攻撃ダメージが10倍加する。
一撃一撃がより致命傷に近しき傷となる。
処刑人(独断):B+++
本人が悪と断じた相手に対する特攻効果を付与する。
対邪悪(特殊):EX
終末をもたらす者より与えられた権能に等しい力。あらゆる悪を抹殺する使命を背負っている。
……だがあまりに高潔なため、アレな人ほぼ全てに通用してしまう。
生きる限り人はどこかで大なり小なり邪悪の因子をその身に宿してしまうのだから。
弱体状態の相手に特攻効果を持つ。
無冠の理想:A+
様々な理由から、認められることになかった理想。属性を真逆のものとして表示する。
貧者の見識:A
相手の性格・属性を見抜く眼力。言葉による弁明、欺瞞に騙される事がない。天涯孤独の身から弱きものの生と価値を問う機会に恵まれたアサシンが持つ、相手の本質を掴む力を表す。
電脳網のカリスマ:B+
電脳網の世界における絶対的なカリスマを誇る。
薬物汚染:B
薬物による精神汚染効果を持つ。
陰謀論:B
陰謀論による特殊な情報収集能力を持つ。
優生学:EX
優勢思想による弱体耐性。
優生保護:EX
優生保護法を重んじる信徒。
信仰の加護:A
恒心教への絶対的な信仰による精神・肉体の絶対性。
【宝具】
「日本と世界の救済(ディサビリティ・スレイヤー)」
ランク:C 対害宝具 レンジ1〜10 最大補足100人
それが害を有するものであれば、問答無用で刺し穿ちポアにより来世に送る宝具。
【Weapon】ダガーナイフ2丁、スマートフォン、大麻
【解説】現代日本史実に名を残した今世紀最大にして最後の英霊。
死刑執行され殉教する予定。
【アサシン】【植松聖】
カード構成:AAQQB
宝具:B >>85
> 植松様の死刑はダメです
> すぐに釈放を
大丈夫。お前にだって生きる権利はある。 植松的鞭打ち指導は正しい
精薄通称害獣連中に甘いツラすればつけあがるため身体で教えることが大事 >>88
> 植松的鞭打ち指導は正しい
> 精薄通称害獣連中に甘いツラすればつけあがるため身体で教えることが大事
大丈夫。君のような人間にも鞭打たれることなく生きていける資格はある。
人間として最低限の尊厳を尊重される権利は、すべての人が持っているから。 精神薄弱集めやまゆり園的指導方法
植松を放ちなさい 残念ながら精神薄弱者にも人権いうモノが御座います。
ただ、害獣のため本来なら駆除せねばならない。 残念ながら精神薄弱者にも人権いうモノが御座います。
ただ、害獣のため本来なら駆除せねばならない。 残念ながら精神薄弱者にも人権いうモノが御座います。
ただ、害獣のため本来なら駆除せねばならない。 >>101
> 残念ながら精神薄弱者にも人権いうモノが御座います。
> ただ、害獣のため本来なら駆除せねばならない。
大丈夫。人と獣の区別のつかない精神薄弱者のお前にも、生きる権利はある。
自分を駆除すべきだ、なんて言っちゃダメ。 Asperger's Death Guidance rip 人間と云うのは間違い
チンパンジー連中だったんだろ? 相 模 原 障 害 者 施 設 1 9 人 殺 害 事 件 か ら 6 年
再 建 さ れ た 施 設 で 追 悼 式
2022年7月26日 4時29分
相模原市の知的障害者施設で19人が殺害された事件から26日で6年です。
現場となった建物は取り壊されたあと、去年、規模を縮小して再建され、50人が生活しています。
この事件で死刑判決が確定した元職員の死刑囚(32)は、
ことしになって横浜地方裁判所に再審=裁判のやり直しを申請しています。
事件は6年前の7月26日の未明に起きました。
相模原市にある神奈川県の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、
入所していた人たちが次々と刃物で刺されて19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負いました。
死刑囚は逮捕直後から「障害者は不幸しか作らない」とか
「意思疎通できない障害者は殺そうと思った」などと差別的な主張を繰り返しました。
おととし3月の判決で、横浜地方裁判所は
「施設での勤務経験から重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった」
と指摘しました。そのうえで
「19人もの命を奪った結果は、ほかの事例と比較できないほどはなはだしく重大だ」として死刑を言い渡しました。
ことし4月、本人が横浜地方裁判所に再審=裁判のやり直しを請求しています。
事件のあと、ほとんどの建物は解体されました。
去年、現地には「津久井やまゆり園」が横浜市には「芹が谷やまゆり園」が完成し、新たな生活が始まりました … 。
施設の再建に際しては、やまゆり園を運営している社会福祉法人の支援の在り方についても議論になりました。
事件のあと、県が行った有識者による検証で、一部の利用者について「見守りが困難」という理由で、
外から施錠した個室に長時間拘束していたことなどが明らかになり、支援の改善を求められました。
(相模原障害者施設19人殺害事件から6年 再建された施設で追悼式 ttps://www3.nhk.or.jp/news/htm) 相 模 原 知 的 障 害 者 施 設 1 9 人 殺 害 事 件 か ら 6 年
遺 族 ら 参 列 し 追 悼 式
2022年7月26日 15時05分
相模原市の知的障害者施設で19人が殺害された事件から6年となる26日、現場に再建された施設で追悼式が行われました。
現場に再建された施設では追悼式が行われ、遺族など62人が参列しました。
神奈川県の黒岩知事
「犯人が口にした『意思疎通が図れない人間は生きる意味がない』という考え方が、
いかに独善的で、間違ったものであるか証明するためにも、
誰もが、その人らしく暮らすことができる地域社会を、何としても実現しなくてはなりません」
園を運営する、かながわ共同会 理事長
「私たちが皆様をお守りできなかったことを深い後悔と自責の念をもって、今なお振り返ります。
どんなに重い障害があろうと、私たちは、すべての人をかけがえのない存在として大切に思い、
偏見と差別は断じて許しません」
「植松死刑囚は意思疎通ができない人を指して心失者ということばを使っていたが、利用者には気持ちが必ずある。
施設として利用者の意思決定を支援する取り組みを進めることが、事件を風化させないことにつながると思う」
利用者の家族で作る会会長
「この6年、凄惨(せいさん)な光景と途方もない混乱、けん噪が脳裏を離れることはありません。
亡くなった方の無念さを思い、19のみ霊(御霊)がやすらかにと、心から願います。
私たちは、あなたたちのことを決して忘れません」
「きょうの雨は施設が新しくなったあと一区切りついたこの日に、亡くなった19人が思いっきり泣いたのかなと思った。
追悼式は区切りとして大きい機能を持っていると思う」
津久井やまゆり園 園長
「犠牲になられた19人の皆さんも、いろいろな事を考え、感じながら自分の夢に向かって生きていました。
このようなことを二度と起きないよう全力で取り組むことをお誓いします」
「同僚が犯行に及んだことで、犠牲になった19人やご遺族に申し訳なく思う気持ちは、6年間で何も変わらない。
植松死刑囚には非常に複雑な思いだが、しっかりと自分が犯した罪に向き合ってほしい」
追悼式のあと、県の黒岩知事と相模原市の本村市長が記者会見しました。
黒岩知事
「この場所に来る途中に血だらけの惨状の記憶がよみがえってきた。
改めてあのようなことを二度と起こしてはいけないと感じている」
「事件があった神奈川県だからこそ、当事者目線にたった支援の在り方を模索し、
障害者福祉に関する条例を作るなど、全力で取り組んでいきたい」
本村市長
「遺族の気持ちを考えるとことばが見つからない。あの痛ましい事件を後世に伝え、
障害の有無にかかわらず地域で生きていけるような共生社会を、市民とともに作っていかなければならない」
(相模原知的障害者施設19人殺害事件から6年 遺族ら参列し追悼式 : tps://www3.nhk.or.jp/news/html) セイント植松は無罪ビックリ!
ガイジを処分してくれた英雄 パ ン ド ラ の 箱 は 閉 じ ら れ た の か
相 模 原 障 害 者 殺 傷 事 件 は 終 わ っ て い な い
…
19人の障害者を殺害した相模原障害者殺傷事件を扱う本書の編集姿勢は、要約を排したところにあるのだろう。
月刊『創』編集長は、二年半にわたって容疑者・死刑囚と接見し、時には抽選に外れながらも裁判の傍聴を重ねてきた。
可能な限り一次資料を掲載しようという思いから、津久井やまゆり園元職員や死刑囚の元恋人や友人たちの調書、
本人の手紙や死刑判決文が掲載され、後半部は識者インタビューや鼎談などが収録される。
犯人について事件発生から死刑判決に至るまで、大量の報道がなされてきた。
しかしそのような断片を組み合わせるだけでは窺うことのできなかった事件の別の側面が見えてくることもある。
たとえば死刑囚は親子関係に問題があった、家族は彼を見捨てて引越したという報道もあったが、彼の幼馴染はそれを否定する。
しかし、その証言もひとつの見方でしかない。どの証言が正しく、どの見立てが間違っているというものではない。
おそらくどれも一面では正しく、一面では間違っているのだろう。
犯人は優生思想を持ちながらも、フランクルの『夜と霧』を最後になるかもしれない手記に引用するまでに愛読していた。
絶対的な真実はひとつではなく、人間と言うものは様々な顔を持っているということに改めて思い至る。
本書のもうひとつの特徴は、異なる考えを持つ人による対話を示唆したことであろう。
やまゆり園をいい施設だと語る被害者の家族もいれば、
今まで面倒を見てもらっているという負い目から言いづらかった施設の問題点を提起する家族もいる。
誰かを責めるだけでは何も生み出さない。障害者の生活を社会で支える社会福祉施設の考え方と、
地域で暮らしたいという自立生活運動の考え方の相違もこの事件の根底にあるが、
両者が議論する機会さえ乏しいことも本書は指摘する。
この問題に限らず同じ考えを持つ人たちだけで集まっていては、いつまで経っても議論は平行線のまま終わる。
必要なのは違う考えの人たちによる粘り強い対話であろう。
死刑囚は対話することのできない知的障害者を無用の存在と考えながらも、
彼自身が真の意味で誰とも対話できずに苦しんでいたのかもしれない。
その視点から本書を手に取ると、要約された情報の受け手であった立場から解き放たれ、
読み手自身が大きく感情と思考を揺さぶられながら主体的に本を読みすすめることになるだろう。
それこそが対話の一歩になるだろうか。
(パンドラの箱は閉じられたのか・相模原障害者殺傷事件は終わっていない 月刊『創』編集部編:週刊文春2020年9月3日号) 植松や山上こそ軽度アスペだろ
植松に殺されたのは強度行動障害+重度重複障害の奇形肉塊でアスペ未満の池沼クズレやぞ 「 人 命 」 よ り 「 経 済 」 を 優 先 さ せ る 政 権 へ の 根 源 的 批 判
資 本 主 義 へ の 「 包 摂 」 と コ ロ ナ 危 機
新型コロナの感染爆発が危機的な様相を呈しつつあるが、政府は信じがたいほど無策だ。
人命や生活よりも、ひたすら新自由主義経済を回すことだけを考える政権の病根はどこにあるのか。
この政権は戦後民主主義体制の劣化から生まれたが、それが長期間持続することによって、その劣化をさらに促進した。
ゆえに、政権期の世相に何が現れたかをわれわれは十分に検討しなければならないだろう。
日本を「世界で一番企業が活躍しやすい国」にするとした政権の根本的なマインドは、新自由主義なのであろう。
新自由主義もサッチャー/レーガン登場以来40年を閲し、その政策的内容は多様化してきた。
とりわけ、2008年の金融危機に際して各国政府が大々的な経済介入を行ったことにより、
新自由主義のイデオロギーは自己矛盾に陥り破綻した、としばしば評される。
だが、それでも「新自由主義的なもの」が一向に退場していない現実に鑑みれば、
このような自己矛盾においてこそ、新自由主義はその本質を露にした、と逆に考えるべきである。
「小さな政府」とか「自由放任」といったことは、新自由主義の本質ではなかったのだ。
表向きのイデオロギーが破綻したにもかかわらず新自由主義が生き延びていることが何を意味するのか。
別言すれば、新自由主義の真の本質はどこにあるのか。それは、「世界で一番企業が活躍しやすい国」という言葉に表れている。
企業とは資本であり、資本のやりたい放題ができる空間をつくり出すことである。
その際の主体は、資本自身よりもむしろ国家が担うことになる。新自由主義は、
資本自身の自立的な活動を核とするのではなく、政治権力(とりわけ暴力)を媒介としてはじめて機能しうるとの指摘は、
ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』をはじめとして既に数多くなされてきた。
ここで考えたいのは、このような「上から」の新自由主義的な権力の作動に対して、
「下から」どのような反応が生じてきたのか、という問題である。
というのも、日本の現政権に限らず、「下から」の支持なしに新自由主義政権が長期的に維持されることはあり得なかった。
現政権以後の社会を展望するためにも、個別的な政策の間での、時に矛盾する傾向に拘泥するのでなく、
社会の基調となったものとしての「新自由主義的なもの」言い換えれば「文明としての新自由主義」の核心を見定めるべきである。 「 包 摂 」 の 新 段 階 と し て の 新 自 由 主 義
新自由主義の時代の資本主義を分析するにあたってマルクスの『資本論』で展開される概念の中で
「文明としての新自由主義」を考察するに際して最も有効なものと見定めたのが「包摂(subsmption)」の概念である。
『資本論』における「包摂」の概念は「生産的労働の資本の許への形式的及び実質的包摂」という形で導入される。
ここで言う「形式的/実質的」とは、自給自足的に生きていた人々が、市場向けの商品の生産を始めることにより
最初は「形式的に」資本主義経済に参加するが、多くの段階を経て
やがては資本によって準備された生産手段の付属品として働くようになる事態(「実質的包摂」)を指す。
具体的には、農閑期の家内工業からさまざまな規模のマニュファクチュアを経て、機械制大工業にまで至る過程で、
労働者の労働の在り方が自立性を失ってゆき、資本によって深く「包摂」される事態を言い表している。
そうならざるを得ない(労働者の自立性が高い手工業は廃れてゆく)のは、
資本主義のシステムに、より高い生産性を絶えず追及するメカニズムが内在しているからである。
20世紀後半から21世紀にかけてのマルクス主義論の発展は、包摂の対象は労働過程だけでない、
労働者は1日の労働を終えた後も包摂の標的となる、という事態を把握してきた。
例えば、いわゆる消費社会は欲望をあの手この手で煽り立てて、大して要りもしないものを買わせる。
ジャン・ボードリヤールが指摘したように、人々は「モノの消費」から「意味の消費」へと駆り立てられ、永遠の欲求不満に陥れられる。
そこでは人間の欲望が資本によって全的に包摂される。
そして、低成長の新自由主義時代が到来し、一層吝嗇になった資本は、
欲求不満を介して人々に山積みの消費財を押し付けることすら拒むようになった。
ガラクタすら与えないとすれば、包摂は、人々の消費の欲望を超えて、価値観・感性・魂に及ばなければならなくなる。
新自由主義の「欲しがりません、勝つまでは!」の時代が到来する。
自己の人材としての価値を高めるべく、自己啓発本を読み漁り、なけなしの可処分所得をオンラインサロンに費やし、
ついでに公的扶助の不足を嘆く人をSNS上で罵倒する。
選挙ではもちろん、自民党か維新の会に投票する。理想的な自己責任社会を作ってくれることを期待して。
こんな人物はマンガ的であり、実際は多くないのかもしれないが、
経団連の公式見解が書かれた紙くずを毎日ありがたく拝読する賃金労働者はいくらでも見つかる。
資本家でもないのに資本の価値観・利害・論理を内面化した「エア資本家」が大量発生している。
つまり、「文明としての新自由主義」の核心には、人間の内的なもの、
すなわち価値観・感性・魂といったものの資本の論理との一体化、後者による前者の包摂という現象がある。
ゆえに、新自由主義の時代に『資本論』を武器として取り戻すためには、包摂の概念が呼び出されなければならなかったのである。
新自由主義の時代に特有の「魂の包摂」は、日本においては固有の特色を帯びる。
それは、… 近代天皇制に由来する、人間に対する独特の矮小化作用であり、それが新自由主義化と一体をなして機能する。 生 産 性 至 上 主 義 こ そ が 現 政 権 の 本 質
そうした複合作用の極北というべき事件が本年4月に発覚した就職内定者の自殺事件である。
この事件は、内定者が参加を義務付けられたSNS上で人事課長(54歳男性)がパワハラを繰り返し、
不安と絶望から精神疾患を発病した内定者の22歳男子学生が昨年2月に自殺したというものである。
パワハラ行為の言葉に次のようなものがある。
「ギアチェンジ研修は血みどろになるくらいに自己開示が強制され、4月は毎晩終電までほぼ全員が話しこむ文化がある」。
同社は業務用設備機器を販売する会社である。機器を売るために、なぜ「血みどろになるくらいの自己開示」が必要だと言うのか。
そもそも「自己開示」とは何なのか?この不気味な意味不明さは、連 合 赤 軍 事 件 の「 総 括 」を思い起こさせる。
「 総 括 」が 完 璧 な 革 命 戦 士 をつくり出そうとして 虐 殺 に 至 っ た ように、
「 自 己 開 示 」は 完 璧 な 社 畜 をつくり出そうとして 殺 人 に 至 っ た 。
ここで猛威を振るっているのは「日本社会の同調圧力」などという生易しいものではない。
年齢相応に一旦出来上がった『 人 格 』を全面的に破壊し、会社の論理を完全に内面化した『 新 し い 人 格 』に矯正する
人間性に対する『 テ ロ 行 為 』が当然のように行われている。
社会学者の内藤朝雄は、このような人間社会の在り方について、
「人間存在は深いところから集団のモノでなけらばならないという生き方が、学校と会社の日常生活のなかで細かく強制されてきた」
そこから「独特の奴隷的な心理生活を一人一人に運命として強いる」構造が生じると説明している。
そして、このような構造をつくり上げ維持することに莫大な労力が割かれていることが、
日本経済の生産性を低迷させていると指摘している。この指摘は妥当だろう。だが、「 日本的なもの 」を批判・告発する際に、
それが生産性に対する阻害要因であることを論拠として行うことには危うさがあるはずだ。
なぜなら、「 生 産 性 の 高 低 を尺度として 人 間 の 価 値 に 序 列 をつける」という「 生 産 性 至 上 主 義 」こそ、
「 新 自 由 主 義 の 中 心 的 な イ デ オ ロ ギ ー 」にほかならないからだ。
実際、生産性至上主義のイデオロギーは、いつまでも続く新自由主義の時代において、玉座へと上り詰めたように感じられる。
時代の象徴と言えそうな「津久井やまゆり園事件(16年7月)」を起こした犯人は、
一見、似ている「池田小事件」や「秋葉原事件」と根本的に異なっていた。
後者の面々は、自らの人生の敗北感・行き詰まりから凶行へと踏み出したが、
自身の行為が社会的に容認されるべきものだという意識は微塵も感じられない。
これに対して「津久井やまゆり園事件」では、衆議院議長に犯行を予告する手紙を書いているが、
その内容は国家権力による犯行への支援の要請であり、犯人の主観において障碍者殺害は「 正 義 」に適うものであったのだ。 コ ロ ナ 危 機 と 「 二 重 の 奴 隷 化 構 造 」
京都ALS嘱託殺人事件の容疑者は、自身のツイッター上で、老人を税金を食い荒らす存在として敵視する発言を繰り返していた。
「津久井やまゆり園事件」との思想的な共通性は明瞭であり、両名の「過剰さ」は際立っている。なぜなら、
彼らは彼らの考える「正義」を追求したわけだが、それは犯罪者として処罰されるという巨大なリスクを伴うものだったからだ。
実際彼らは、自分の将来、平穏な暮らしといったものを投げ捨てて犯行に踏み切ったのであり、そこには本物の情熱がある。
その正体は、生産性のためには自己犠牲も辞さないという資本主義の信仰である。生産性という神を崇拝する奴隷がここにいる。
「魂の実質的包摂」はここまで来た。
日本を苦しめてきた二重の奴隷化構造(新自由主義的包摂と天皇制の桎梏)は、コロナ危機にどのように現れているだろうか。
一方では「何が何でも経済を回せ!」という資本の至上命題が腐敗した利権構造と結びつき(GoToキャンペーン等)、
他方では新型コロナウィルスという「忖度空間の外部」と政府に招集された専門家の政権への忖度と葛藤、というかたちで現れている。
結果、この国では感染症や医療の専門家が、専門外であるはずの経済の問題に配慮するという珍風景が広がる。
コロナ危機のジレンマは「経済か健康か」として現れ、
防疫上最善の措置による経済的犠牲(犯罪や自死にまで至る深刻な犠牲)がどれほど昂進するか測り難いところにある。
だが、パンデミック発生から半年余りが経過し、諸国の経験も畜先された今、解決策の方向性はおおよそはっきりしてきたはずだ。
その際、大規模な補償も必要となる。「経済と防疫」のバランスを見出し決断を下すのは政治の仕事であり、
医療系専門家の仕事ではない。
ジレンマを前にして右往左往する間にも第二波による感染者増加は急ピッチで進行し、医療崩壊の可能性は急速に高まっている。
地方自治体首長と政権中枢との齟齬は深まり、対立も露わになってきている。政権は国会開催の要求から逃げて迷走している。
しかし、重大な問題は、政権の命運ではなく、これを支えてきたものからいかにして脱却するかというところにある。
(「人命」より「経済」を優先する政治への根源的批判 資本主義への「包摂」とコロナ危機・白井聡:サンデー毎日2020年8月30日号) 弱 肉 強 食 が 去 り 「 社 会 」 が 蘇 る COMMON ,AN WIPE OUT NEOLIBS
新 自 由 主 義 =@ コ ロ ナ 禍 が も た ら し た 新 自 由 主 義 の 挫 折
グ ロ ー バ ル な 「 わ れ わ れ の コ モ ン 」 を 考 え る 必 要 性
今回新型コロナウィルスのパンデミック(世界的大流行)は、1980年代以来、小さな政府と市場の自由、
個人の選択と自己責任を強調して世界を席巻してきた新自由主義に、二重の意味で大きな変更を迫っている。
1つは、感染症拡大を防ぐために国家の役割が重要になったと言うことだ。
例えばボリス・ジョンソン英首相が新型コロナ感染症に罹患し、生還しながら、
「社会と言うものはある(“there really is such a thing as society”)」 「NHS(イギリスの医療制度)に命を救われた」
と述べたことは象徴的だ。ジョンソンは、80年代に新自由主義を開始したマーガレット・サッチャーの有名な台詞
「“There is no such thing as society.”(社会なるものは存在しない)」
をもじってサッチャーの「 新 自 由 主 義 」を引っ繰り返し、
「 福 祉 国 家 」イギリスの象徴NHSを賞賛することで、「 福 祉 シ フ ト 」とでも呼べる姿勢を表明したのだ。
だが、それまでのジョンソンと彼の保守党の政治を知る者はこれを聞いて鼻白んだ。
ここ10年間「緊縮政策」とう名の福祉カット製作を堅持してNHSを骨抜きにしてきたのは他ならぬ保守党だったのだから。
同じ傾向は日本の政治家にも見出せる。
東京都の小池知事は、国に先んじて休業補償を打ち出したあたりから人気を回復し、7月の都知事選で二選を果たした。
元大阪市長の橋下徹は、自らが「 改 革 を 断 行 」して「 疲 弊 さ せ た 」医療現場について、
「見直しをよろしくお願いします」などとSNSで発信した。
新自由主義路線で鳴らした政治家たちが、突然の福祉シフトを行っている。
これらの政治家がポピュリストとして正しく世相を嗅ぎ取っているのかもしれない。
コロナ禍で国家と福祉の役割が急拡大したのは事実である。その限りにおいて福祉シフトは確かに必要なのだ。 福 祉 国 家 へ の 回 帰 は 困 難
「新自由主義」はもう一つの意味でも変更を迫られている。それは「グローバリゼーション」の国レベルでの応答である。
人と財の国境に縛られない流通、国の規制にとらわれない金融活動を本体とする「グローバリゼーション」は、
各国レベルでの「規制緩和」を必要とし、推進してきた。
ところが今回のパンデミックは、「グローバリゼーション」の要である人と財の流通を決定的に阻害してしまった。
それに対応する新自由主義もまた、これまでどおりではいられないだろう。
実際、欧州では自然寡占的な事業に新自由主義はそぐわないという反省があり、既に「再公営化」の潮流が起きていた。
(例えば水道については『水道、再び公営化!』〔岸本聡子・著 集英社〕参照)全世界と日本に波及することは間違いない。
例えば経営難に陥った航空会社に公的資金が投入され再公営化されるなどは十分あり得る。
では、国民国家を単位とする福祉国家に回帰すればそれでいいのか。問題はそう簡単ではない。
2008年の金融危機において、アメリカ政府が持ち家を失った人々ではなく、「破綻させるには大きすぎる」
金融機関を救済したように、政府は持てる者のみを救い、「新自由主義」の秩序を延命させようとするかもしれない。
このように、国家は、「新自由主義」を推進するための装置に成り果ててしまった。
福祉シフトや再公営化は、確かに必要なものではある。
だが、個人の選択と競争を強調し、小さな政府を唱えてきた「新自由主義」は、
国民国家という共同体を単位として社会や公共性を考える回路を蝕んできた。
私たちがコロナ以後を生きるためには、そういった想像の回路を根本から作り替えるという挑戦が待ち受けているのだ。
国 家 よ り 大 き な 「 社 会 」
その挑戦に当たって、「公共性」と「コモン」との区別が役に立つと考えている。
「パブリック ≒ 公共的なもの」は、言語やメディアを媒介にした非物質的な空間と言うニュアンスが強いに対して、
「コモン」にはより物質的な、生存のために人間が共有するもの、という含意がある。
ただし「パブリック」と「コモン」には、重なり合う部分もある。
国民国家は新聞などのメディアを介した国民の想像を基盤としている。それはここでいう「パブリック」なものである。
ただしその一方で、国民国家は「共有(コモン)」の物質的資源を効率よく維持管理していくための共同体でもあるだろう。
問題はどこに力点を置き、どのような共同体を共有のための単位とするか、ということだ。
現在、医療や食品販売などの「エッセンシャル・ワーク(不可欠な労働)」が耳目を集めている。
私たちの生活がいかなる「共有(コモン)」の物質や労働に支えられているかが、改めて浮き彫りになったのだ。
そして、言語を基礎とする「パブリック」なものに対して、「コモン」は言語(そして国民国家)の枠には必ずしもとどまらない。
その「コモン」とは例えば自然環境だ。
新型コロナの出所はまだ確定していないが、2000年代以降繰り返している豚インフルエンザや鳥インフルエンザは、
工業化されて伝染病に大して脆弱な集産畜産業を原因としていると専門家は指摘する。
アレクサンドリア・オカシオコルテス米下院議員らが提唱するグリーン・ニューディールは
環境と福祉を同時に解決しようとする意味で、中・長期的な「コロナ対策」たり得る。
しかし、その政策はアメリカ一国の枠を超え出る必要がある。
環境に働き掛ける第一次産業の在り方とパンデミックの頻発に深い関係があるとすれば、
その解決は、産業と自然環境が、グローバルな水準で「われわれのコモン」であるという認識からしか生じ得ないだろう。
その場合の「われわれ」は、特定の国民ではなくグローバルな市民と言うしかない共同体である。
私たちは「福祉国家」ではなくグローバルな共同体/社会の福祉を創造し直さねばならない。
社会は(いまだ)存在しない ―― ジョンソンの台詞とは裏腹に、私たちの出発点はそこなのである。
(新自由主義 コロナ禍がもたらした新自由主義の挫折:ニューズウィーク日本版2020年9月1日号) >>124
意味不明の長文乱発。
おまえ、大丈夫か? 障害者とは、人間にもなれなかった出来損ない。その“不良品”を処分するのは当然だろ?
それともその“不良品”に何か使い途が残ってるとしたら正常な部分の臓器の再利用(それさえも使い物になるか知らんけど)ぐらいしか浮かばんな。 「 や ま ゆ り 園 」 事 件 7 年 献 花
障 害 者 排 除 し な い 社 会 願 う 相 模 原
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害された事件から7年となる26日、
同園に元職員や障害のある人らが訪れ、施設内に設置された「鎮魂のモニュメント」に献花しました。
「事件を忘れてはいけない」と手を合わせていました。
「事件を止められなかったこと、
そして今も障害者を排除する動きが止まったわけではないことに情けなさを感じている」
「命の尊さを胸に留め、一人の存在も見捨てない社会になってほしい」
「誰もが安心して暮らせる社会にするには、人権が尊重される制度づくりが大切。日本は制度を整えていない」
「障害者差別の問題は、社会全体の問題。日常で障害者ともっと当たり前に接することができる社会づくりが必要だ」
(「やまゆり園」事件7年 献花 2023.07.27 しんぶん赤旗 ttps://www.jcp.or.jp) 嘘松は死刑判決出てるんだっけ?
確かそんなニュース見たことあるような気がす
無駄に生かしておいてもしゃーないし早いとこ執行せんといかんやろ