「私の暴言は『正当な批判』です」そう強弁する人びとの内面
自分の言動は「正当な批判」だと考える一方で、相手のそれは「不当な誹謗中傷」だと考えているからだ。
「ヤバい人ほど自覚がない」
自らの誹謗中傷や名誉毀損的な言動を「正当な批判」と信じてやまない選りすぐりの異常者たちが跋扈(ばっこ)する、「やさしい世界」とは程遠い百鬼夜行が完成する。
「悪いのはあっちだ」「アイツは、中傷されても仕方ない!」
訴訟のリスクさえ出てくると、これまで元気に誹謗中傷を繰り返してきた人びとにとっては、突如として人生のリスクが高まる事態に・・
すると彼・彼女らは、その緊急事態に対応するため「弁解」をはじめた。すなわち「自分の言説は特別に意義のあるもので、誹謗中傷にはあたらない」「自分の強い言動には正当な理由があった」
「自分のこれまでの暴言がいかに妥当だったか(相手がいかに卑しい者だったか)」を力説し、「自分は悪人ではありません(私にこのような言動を向けられた者こそが、皆さんが本当に敵視すべき悪人です)」と周囲にアピールすることに余念がない。
「弁護士立ち会いで「アンチの心」を尋ねてみたら」
きっかけはほんの些細なことだった。たまたまタイムラインに私のツイートかあるいは記事が流れてきて、その内容が気に入らなかったから、ひと言コメントを入れたのだそうだ。
最初はまったく反応がなかったが、そうした批判コメントを数回繰り返したところ、ある日、同じく私の「アンチ」をやっているであろう別の人から「褒め」られたり「共感」されたり
するようになっていったのだという。そしてその時に、得も言われぬ嬉しさを感じたのだと彼は話した。「共通の敵をつくって、だれかと悪口を言い合うことがこんなに楽しいのだとはじめて知った」――と。
「アンチ活動でつながる絆」
中傷すると、複数の人が褒めてくれたから、それが「間違った行為だ」などとはまったく考えもしなかったという。むしろ「大勢が褒めてくれるのだからただしい」と思っていたようだ。
現実の彼は、だれからも褒められたり、共感されたり、応援されたりすることのあまりない人生を歩んできたのだそうだ。だが、SNS空間では違った。ここでは「自分のことを評価し、支持してくれる人」がたくさんいた。
その人たちの期待に応えることは楽しいし嬉しかったから、私の「アンチ」を熱心に続けたのだという。
彼にとって「四六時中言動を監視し、いつか倒さなければならない(社会的に死んでもらわなければならない)巨大な敵」に見えていたという。