まず魏志倭人伝により「邪馬台国に北部九州が含まれていた」ことだけは明らかです。


その上で,「日本出土の朝鮮半島系土器の再検討 −弥生時代を中心に−」 によると

P254「北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,
弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。」

畿内が古墳出現前後,(
邪馬台国に含まれていた)北部九州を飲み込んだ状況を示しています。

P255「また弥生時代中期と,本稿の対象とする古墳出現前後の時期とは,土器移動のパターンは異なると予測した。」

P261「北九州型」:布留0式甕を主体として,布留0式期以降の畿内系土器群を顕著に含む遣跡を広範囲かつ高い密度でもつ地域」
「庄内甕を近畿地方中心部(中河内)タイプと周辺部(大和・西播磨)タイプとに分類し
...北部九州へは中心部タイプの甕の搬入は極めて稀で,主に周辺部タイプに関する情報がもたらされた
…中河内と吉備の間ではこの時期,頻繁な相互交流があったのに対し,北部九州と中河内相互の土器の移動は極めて稀であったことがわかっている。」
「古墳出現前後の時期に方形4本柱竪穴住居が北部九州に徐々に浸透する過程を詳細に辿った
…方形4本柱竪穴住居は豊前・筑豊の東部地域で弥生時代後期中段階にいち早く出現し,
続いて庄内式併行期には筑前・筑後の西部地域でも現れ東部から西部に,豊前→筑豊→筑前→筑後と徐々に広がってゆくことを明らかにした。
西部地域では,そのような新しい竪穴住居は出現期(庄内式併行期)→受容期(布留式古・中段階)→普及期(布留式新段階)の3段階の緩やかな変遷過程を経ることも確認した。
これは,畿内から北部九州にほぼダイレクトに伝わる布留式土器様式や前方後円墳の採用の過程とは対照的である」

この「庄内式土器および方形4本柱竪穴住居の段階的な北部九州拡大」は「畿内文化の北部九州への浸透」を表している。
対して「畿内から北部九州にほぼダイレクトに伝わる布留式土器様式や前方後円墳」は「畿内が北部九州を飲み込んだ(北部九州が降伏した)」ことを示しています。

さらに
P274「豊前石塚山に葬られた首長を介して三角縁神獣鏡がヤマト王権からもたらされた可能性も考えられよう。」

報告書は三角縁神獣鏡が畿内のヤマト王権がもたらされた(魏の鏡ではない)ことを示唆しています。