少し書き変えました。

>>981
『古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究』
(P262)「(古墳代開始時期に)福岡・早良・糸島平野で外来(この場合は畿内)の土器が在地で大々的に模倣製作されている現象を既に看破しているのである。」
(P264)「中河内と吉備の間ではこの時期,頻繁な相互交流があったのに対し,北部九州と中河内相互の土器の移動は極めて稀であったことがわかっている。」
(P264)
「方形4本柱竪穴住居は豊前・筑豊の東部地域で弥生時代後期中段階にいち早く出現し,
続いて庄内式併行期には筑前・筑後の西部地域でも現れ東部から西部に,豊前→筑豊→筑前→筑後と徐々に広がってゆくことを明らかにした。
これは,畿内から北部九州にほぼダイレクトに伝わる布留式土器様式や前方後円墳の採用の過程とは対照的であるとした点は極めて重要である。」

どれもが私の説を裏付けているように思えますけど。

・邪馬台国側に北部九州だけは含まれている。
・もともと本州と北部九州には付き合いがあり,倭国大乱後卑弥呼が擁立されても続いた。
・畿内側が北部九州を敵とみなしたのは外国の大国「魏」の手下になった時期から。
・畿内側は巻向に対策本部を作って北部九州への対応を開始した。
・北部九州が畿内側に飲み込まれた時がすなわち邪馬台国消滅の時期であり古墳時代の開始である。

当然,古墳出現期には北部九州で(それまでとは違い)畿内の土器が作られるようになりますし,
庄内式併行期は「交流」の中で広がるのに対し,
布留式土器様式や前方後円墳は「北部九州併呑後にダイレクトに伝わる」わけです。

もちろん古墳開始時に卑弥呼はいません。
台与はもしかしてまだ生かされていたかもしれませんが。