畿内の大和地方は当時はまだヤマトとは呼ばれてなかった。
ヤマトと呼ばれたのは古墳代以降のことで,邪馬台がヤマトだから畿内だという説はそもそも成り立たない。

とはいえ北部九州の邪馬台国が畿内,吉備,出雲,讃岐,毛野等の連合王権に敗れたと考えているので,邪馬台国の東遷だとはみていない。
出雲の国譲り同様,恨みを残さないため最大限の譲歩をするとしたら,それは「邪馬台(と魏が当て字した本来の読み)の名を残すこと」ではなかったかと考えている。