中野君はちょっと会話をやめた。左の方に鼻眼鏡はなめがねをかけて揉上もみあげを容赦ようしゃなく、耳の上で剃そり落した男が帳面を出してしきりに何か書いている。
「ありゃ、音楽の批評でもする男かな」と今度は高柳君が聞いた。
「どれ、――あの男か、あの黒服を着た。なあに、あれはね。画工えかきだよ。いつでも来る男だがね、来るたんびに写生帖を持って来て、人の顔を写している」
「断わりなしにか」
「まあ、そうだろう」
「泥棒だね。顔泥棒だ」
 中野君は小さい声でくくと笑った。休憩時間は十分ぷんである。廊下へ出るもの、喫煙に行くもの、用を足たして帰るもの、が高柳君の眼に写る。女は小供の時見た、豊国とよくにの田舎源氏いなかげんじを一枚一枚はぐって行く時の心持である。男は芳年よしとしの書いた討ち入り当夜の義士が動いてるようだ。ただ自分が彼らの眼にどう写るであろうかと思うと、早く帰りたくなる。自分の左右前後は活動している。うつくしく活動している。しかし衣食のために活動しているのではない。娯楽のために活動している。胡蝶こちょうの花に戯たわむるるがごとく、浮藻うきもの漣さざなみに靡なびくがごとく、実用以上の活動を示している。この堂に入るものは実用以上に余裕のある人でなくてはならぬ。