道也の三たび去ったのは、好んで自から窮地に陥おちいるためではない。罪もない妻に苦労を掛けるためではなおさらない。世間が己おのれを容れぬから仕方がないのである。世が容れぬならなぜこちらから世に容れられようとはせぬ? 世に容れられようとする刹那せつなに道也は奇麗きれいに消滅してしまうからである。道也は人格において流俗りゅうぞくより高いと自信している。流俗より高ければ高いほど、低いものの手を引いて、高い方へ導いてやるのが責任である。高いと知りながらも低きにつくのは、自から多年の教育を受けながら、この教育の結果がもたらした財宝を床下ゆかしたに埋うずむるようなものである。自分の人格を他に及ぼさぬ以上は、せっかくに築き上げた人格は、築きあげぬ昔と同じく無功力で、築き上げた労力だけを徒費した訳になる。英語を教え、歴史を教え、ある時は倫理さえ教えたのは、人格の修養に附随して蓄たくわえられた、芸を教えたのである。