高層●みなとみらいに憧れる大阪っぺ●低層 [無断転載禁止]©2ch.net

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1名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/09(火) 12:06:29.07ID:/3QmZi5D
横浜に酷いコンプレックスを燃やす大阪人
横浜の人は相手にもしていないのに、、

一方的に相手を意識して、、福岡の人みたい
2019/01/28(月) 12:21:30.54ID:uDybsmaa
DeNA・ラミレス監督、12球団最速で開幕オーダーを披露
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190121-00000546-sanspo-base

DeNAのラミレス監督が21日、新潟市内でトークショーを行った。

 壇上では今季の展望などを語り、現時点での3月29日の中日との開幕戦(横浜)の先発オーダー案を披露。
「これからキャンプやオープン戦があるので、何があるか分からないが」と前置きした上で名前を並べた。

 1右 梶谷

 2中 桑原

 3二 ソト

 4左 筒香

 5三 宮崎

 6一 ロペス

 7捕 伊藤光

 8遊 大和

 9投手

 ラミレス監督といえば8番に投手を置く独特のラインアップが“代名詞”だったが、今季からは9番・投手でいく方針だ。
また二塁のソトに関しては「(外野)の梶谷や神里の状態による。彼らの打撃を生かすにはソトを二塁に置くのがいいと思っている」と構想を語った。
リードしたまま終盤に突入した場合は、二塁に守備固めの柴田を入れ、ソトを右翼に回すという。
2019/01/29(火) 12:07:14.08ID:dIAhxiSc
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/01/31(木) 21:48:46.14ID:jLkQ6ScN
ダイエー横浜西口店が2月11日に完全閉店。
2023年完成見込みの商業施設にはイオンが入居予定
https://hamarepo.com/story.php?story_id=7069

建物の老朽化を理由に閉店。2019年4月から解体工事を行い2023年完成を目途に現在の本館部分に商業施設(イオンが入居予定)、新館部分に賃貸用住宅を建設する。
商業施設の1階部分は食料品売場を設ける予定
2019/02/05(火) 22:54:30.01ID:ylGCmXby
アフリカ開発会議の会場、パシフィコ横浜に決定
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190205-00033210-kana-l14

 8月に横浜市内で開催される「第7回アフリカ開発会議(TICAD7)」の会場が、横浜・みなとみらい21(MM21)地区のパシフィコ横浜に決まった。
2008年、13年に続き3回目で、アフリカ54カ国の元首・首脳級や国際機関の関係者らが参加予定。

 パシフィコ横浜によると、1月31日付で外務省から決定の通知を受けた。期間は8月28〜30日。
13年の第5回開催時は、約4500人が参加した。

 TICADは、アフリカの開発をテーマとした国際会議。
日本政府が主導し、国連や国連開発計画、アフリカ連合委員会、世界銀行と共同で開催している。

 1993年に日本で始まり、5年ごとのペースだったが、13年以降は3年に1度、日本とアフリカで交互に開催されている。
2019/02/05(火) 22:58:28.47ID:ylGCmXby
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/05(火) 23:01:09.47ID:ylGCmXby
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/06(水) 17:18:33.38ID:AAzBP2RY
日産のゴーン前会長を起訴
https://news.yahoo.co.jp/list?t=carlos_ghosn
被告の報酬91億円 日産計上へ経済 2/5(火) 14:53

日産社長 仏政府側と直接会談経済 2/2(土) 14:02
日産とルノー 会談定期実施へ経済 2/1(金) 8:59
ゴーン被告 日経に「策略だ」経済 1/30(水) 20:01

日産 トップ会談で溝埋まるか経済 1/30(水) 15:22

報酬巡り日産を調査 米証取委経済 1/28(月) 14:31

菅氏 ゴーン被告の捜査は適切経済 1/28(月) 13:04

ゴーン被告の退職金 仏けん制経済 1/28(月) 9:57

仏大統領 新会長が日産会長も経済 1/27(日) 7:49

日産など3社連合トップ会談へ経済 1/26(土) 9:27

日産社長 ルノーと連携を確認経済 1/25(金) 12:57

ゴーン被告辞任に高額補償金?経済 1/25(金) 7:24

ゴーン被告辞任に高額保証金?経済 1/25(金) 2:55

ルノー新経営陣 日産も期待感経済 1/24(木) 23:49

ルノー会長にミシュランCEO経済 1/24(木) 21:58

ゴーン被告「追放」 波乱含み経済 1/24(木) 20:45

ルノー ゴーン会長兼CEO退任経済 1/24(木) 16:17

ゴーンCEOが辞意 仏紙報道経済 1/23(水) 0:33

ルノー 会長とCEOに2氏検討経済 1/22(火) 20:31

ゴーン被告の保釈 再び認めず経済 1/22(火) 12:31

送金の正当性 日産側「ウソ」経済 1/22(火) 8:13

ルノーと統合案 駆け引き激化経済 1/21(月) 21:17

ゴーン被告 声明で保釈訴える経済 1/21(月) 9:38

日産ルノー統合案 仏閣僚否定経済 1/21(月) 5:26

ルノー統合案 日産は不快感経済 1/20(日) 22:38

長期勾留 人権団体が調査検討国内 1/20(日) 19:34

仏 ルノーと日産の統合を要求経済 1/20(日) 11:00

日産三菱BV非開示報酬が目的経済 1/18(金) 23:03

ゴーン被告に10億円不正報酬経済 1/18(金) 15:53

ゴーン被告 2回目の保釈請求経済 1/18(金) 10:59
2019/02/06(水) 17:24:41.13ID:AAzBP2RY
アフリカ開発会議の会場、パシフィコ横浜に決定
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190205-00033210-kana-l14

8月に横浜市内で開催される「第7回アフリカ開発会議(TICAD7)」の会場が、横浜・みなとみらい21(MM21)地区のパシフィコ横浜に決まった。

2008年、13年に続き3回目で、アフリカ54カ国の元首・首脳級や国際機関の関係者らが参加予定。

 パシフィコ横浜によると、1月31日付で外務省から決定の通知を受けた。
期間は8月28〜30日。
13年の第5回開催時は、約4500人が参加した。

 TICADは、アフリカの開発をテーマとした国際会議。
日本政府が主導し、国連や国連開発計画、アフリカ連合委員会、世界銀行と共同で開催している。

 1993年に日本で始まり、5年ごとのペースだったが、13年以降は3年に1度、日本とアフリカで交互に開催されている。
2019/02/07(木) 13:39:40.26ID:tGmqQSUM
大坂なおみモデル「GT―R」が完売 ゴーン会長ショックの日産に明るい話題
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190128-00000072-spnannex-spo

女子テニスの全豪オープンで初優勝した大坂なおみ(21)の名前が付いた日産自動車のスポーツカー「GT―R」の特別モデルに予約が殺到している。
大坂が同社アンバサダーに就任した際に造られた「大坂なおみ選手 日産ブランドアンバサダー就任記念モデル」で、昨年末に受け付けを開始。
同社によると、既に予約が販売予定の50台を上回り、キャンセル待ちの状態という。
予約は2月中旬まで受け付けている。

ボディーカラーは、白と黒、ミッドナイトオパールの3色。
内装などに、大坂の意見を取り入れて設計された。価格は約1260万円。
26日まで本社ギャラリー(横浜市)に展示され、多くの人が詰め掛けた。
訪れた人によると「大坂さんのモデルと館内放送されると、たくさんの人が集まってカメラのシャッターを一斉に切っていた」という。

 実は大坂は、幼い頃から日産車との縁が深い。
昨年9月に行われたアンバサダー就任式では「私の父がずっと日産車を運転していた」と明かした。
おっとりした語り口とは対照的に?スポーツカー好き。
好きな車について「GT―Rの白」と発言し、その場で同社専務の星野朝子氏が「GT―R、差し上げましょう」と約束した。

 後日、メタルシルバーの「GT―R NISMO」(約1900万円)をプレゼントされ大喜び。
同じ型式のGT―Rは、本社と東京・銀座の同社ギャラリーで展示されている。GT―Rに見入っていた40代男性は「大坂さんのようにパワフルで強い女性が乗ると、より格好良く見える」と話した。

 全米に続く4大大会連覇の実績に加え、面白発言や愛らしい性格も相まって大坂人気は急上昇。
前会長のカルロス・ゴーン被告(64)の逮捕など、暗いイメージを吹き飛ばしたい日産にとって“大坂モデル人気”は願ってもない明るい話題だ。
2019/02/07(木) 13:51:44.21ID:9pb7w8ps
関内ホールで「ヨコハマ映画祭」授賞式 役所広司さん、東出昌大さん、松坂桃李さんらが登壇 /神奈川
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190205-00000062-minkei-l14

関内ホール(横浜市中区住吉町4)で2月3日、「第40回ヨコハマ映画祭」が開催され、主演男優賞を受賞した役所広司さんや東出昌大さんをはじめとする俳優たちや映画関係者らが登壇した。(ヨコハマ経済新聞)


受賞式には、主演男優賞の役所広司さん(「孤狼の血」)や東出昌大さん(「寝ても覚めても」「菊とギロチン」「OVER DRIVE」)、
最優秀新人賞の唐田えりかさん(「寝ても覚めても」)、木竜麻生さん(「菊とギロチン」「鈴木家の嘘」)、特別大賞の山崎努さん(「モリのいる場所」)らが出席。

 「寝ても覚めても」「鈴木家の嘘」「孤狼の血」の3作品の上映に加え、各賞受賞者や映画評論家をゲストに招いた表彰式を実施し、
昨年リニューアルした関内ホールの大ホール1階、2階の赤い座席が映画ファンで埋め尽くされた。

 作品「孤狼の血」で型破り、かつ人間味あふれる刑事役を熱演し、同映画祭史上初となる3度目の主演男優賞に輝いた役所さんは、
「ヨコハマ映画祭の賞は、我々映画を作っている者にとっては特別な賞。
映画を撮っているときは賞のことを誰も考えていないが、撮り終わり上映が終わってまたご褒美をいただけるのは本当に励みになる」と語り、
今回演じた大上役について「魅力的な男で演じるのが楽しかった」と振り返った。

 同映画祭実行委員長の北見秋満さんは「1年1年が勝負の映画祭だが、アンテナを張りここに来てくれる皆さんがヨコハマ映画祭の本当のサポーターだと思っている。
今回は、山崎努さんが特別大賞を受賞されたときのスタンディングオベーションをはじめ、4人の男優によるバトンタッチなどいろいろなアイデアを実現した。来年もおもしろい映画祭にするのでぜひ足を運んでほしい」とあいさつ。
映画祭終了後も、熱気さめやらぬ会場には「第40回ヨコハマ映画祭」の横断幕をカメラに収めるファンの姿が見られた。

 ヨコハマ映画祭は、スポンサーや自治体からの支援を受けず、学生や会社員など日本映画ファンがボランティアで主催する映画祭として知られる。
審査員を務めるのは映画評論家や映画ライターなどの映画関係者と一般映画ファンらで、今年度は38人が審査にあたった。
2019/02/07(木) 13:59:29.10ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 13:59:56.19ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:00:19.54ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:00:46.02ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:01:50.73ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:02:22.82ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:02:48.33ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:03:07.06ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
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華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:03:27.01ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:03:49.07ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:04:08.65ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:04:31.61ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:04:54.34ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:05:16.04ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:05:39.25ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:06:03.38ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:06:25.50ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:06:48.02ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:07:11.00ID:r83XMpwh
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:08:55.62ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
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 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:09:28.72ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
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華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:09:53.25ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:10:15.17ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:10:38.39ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:10:58.43ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:11:22.28ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:11:53.49ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:12:14.72ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:12:37.86ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:13:07.23ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:13:28.40ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:13:54.26ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:14:59.56ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:15:31.90ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:15:59.40ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:16:25.18ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:16:51.69ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:17:14.49ID:PqBcXX4z
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:18:55.43ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:19:29.16ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
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 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:19:59.89ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:20:25.25ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:20:54.69ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:21:17.91ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:21:37.95ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:22:02.22ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:22:37.38ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:22:58.41ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:23:25.69ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:23:47.64ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:24:08.09ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:24:30.02ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:25:01.21ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:25:24.39ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:25:50.52ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:26:19.78ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:26:55.93ID:Bto1qu2E
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:31:22.04ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:31:46.90ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:32:31.19ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:32:56.88ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:33:21.88ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:34:03.25ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:34:33.78ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:35:00.37ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:35:23.62ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
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 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:35:52.13ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:36:23.92ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:36:43.42ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:37:03.67ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:37:23.53ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:37:41.70ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:38:17.01ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:38:42.29ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:39:04.85ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:39:29.24ID:x18p6AK9
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:53:41.36ID:UD4n53wv
外国人から献金の辻元清美氏 抗議殺到も立民公式ツイッターは“既読スルー”
窮地の辻元氏
 立憲民主党の辻元清美国会対策委員長(58)が2013年に外国人の男性から1万円の寄付を受けていた問題で、同党の公式ツイッターに抗議が殺到している。
 辻元氏は寄付金を返金したとし、国対委員長の辞任を否定した。
 立民のツイッターは説明を求める声を“既読スルー”。
 唯一、反応したのは、「拡散希望」の文字を添えて「これは『寄付した側のミス』です。
辻元側にはなんらの瑕疵はありません」と訴えたネット上のつぶやきで、これをリツイート。同党は辻元氏をかばった格好だ。
 フォロワーからは、説明責任を果たさない同党の姿勢に厳しい声が相次いでいる。
「立民としてはこちらの拡散希望をリツイして終了? 何の見解も発せずに? 公式アカウントが?」
「公式がこれReTweetしててこれで終了ですみたいな態度でいるところが恐ろしい」
「公式アカウントがReTweetで終わらせたらダメ! この主張に賛成するなら、他にも同様な違法献金を受けている立民議員がいるかもしれないと自戒して、自ら調査、公開してほしい。
それが、まっとうだと思います。結局、中の人、古いタイプの永田町の住民かな?」
 身内に甘いと、いざ与党を追及したい時にブーメランが返ってくる事例は多数ある。フォロワーの心配の声をどう受け止めるのか。
安田純平氏 政府批判を否定も「事実関係は明らかにする」
ジャーナリストの安田純平氏(44)が6日、ツイッターを更新。突然の連続投稿の真意を明かした。
安田氏は4日からツイッター上でシリアからの解放について、自身の考えや本音など踏み込んだ発言を連発した。
 心身衰弱からの健在ぶりを大いにアピールした形だが、ネット上では一部の表現への戸惑いから批判が巻き起こった。
 安田氏は「シリアで自分が人質になった件について外務省や政府を批判する気はないし含むところもない、
と外務省の担当者には2018年10月24日の本人確認後の第一声から言っている」と自身のスタンスに変化がないことを強調。
「ただし事実関係は明らかにしなければならないから日本政府の対応についても言及はしなければならない」とツイートの狙いは別にあるとして理解を求めた。
 安田氏は政府からの生存確認がなかったことを強調し、政府または近隣諸国から身代金が支払われたとする情報を否定。
人質になったのは今回が初めてとし、複数回あったとするフェイクニュースも却下した。
 また、自己責任論については「自己責任=応じる必要はない=政府は何もしなくてよい、というのが原点」と自身の考えのベースを主張した。
信友直子監督インタビュー。
月数回しか家に帰れない激務。
子宮手術、列車事故、乳がんと試練が続いて
自身の両親を撮影したドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』が大ヒット上映中の信友直子監督のロングインタビュー、第4回目。(第1回目、第2回目、3回目)

 24時間、仕事とプライベートの境目がないほど、ドキュメンタリー制作に没頭する生活を送ってきた信友監督。「毎月1本くらいのペースでドキュメンタリー作品を作っていて。今ならブラック職場と言われそうなくらい忙しかったけど、すごく毎日楽しかった」と。

 しかし、ついに、43歳から立て続けに3年間、病気、事故に見舞われる。

 それでもなお、好きな仕事はやめられない。

 しかし、死に直面して、考え直したこと、生活を改めたこととは。

 そして、気持ちの変化、今までの仕事の視点が違ってきて。

―― ドキュメンタリーを撮るという仕事もドラマチックなんですが、ご自身の人生も試練が起きるじゃないですか。

信友 乳がんのことですか。

―― そうですね。子宮のご病気もされて、インドの列車事故で重傷という。これは、いったい。

信友 これはほんとに笑い話でしかないんですけど、休暇になる度に1人でふらっと旅に出てたんです。
―― これ、休暇中の話なんですか。
信友 休暇です。
全然仕事じゃない。「何でインドなんですか」ってよく聞かれるんだけど、別にたまたまその時インドにいただけで。
―― インドの誰かを取材しようとしたわけじゃなく。
信友 全然、全然。
ほんとに自分の気持ちの赴くままに旅をするタイプなので、何も決めないで。
ある日、夜行列車に乗って何かの遺跡を見に行こうと思ったんですよ。

  👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:f70dfdc711a7c6ae6accccb939f27fbf)
2019/02/07(木) 14:54:32.47ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:54:58.67ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:55:23.61ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:55:58.42ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:56:17.65ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:56:41.57ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
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 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:57:06.22ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:57:27.04ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:57:51.84ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている
2019/02/07(木) 14:58:16.26ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:58:39.46ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:59:03.89ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
2019/02/07(木) 14:59:27.99ID:UD4n53wv
平成と横浜・みなとみらい 「モノクロの世界がカラーに」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190122-00032881-kana-bus_all

 「平成」が幕を開けた1989年。横浜・みなとみらい21(MM21)地区に立った少年は、そのまぶしさに心躍らせていた。
色彩豊かな街並み、初めて目にする技術の数々。
目に飛び込む全てが新しい。
光り輝く未来を思い描き、自身の明るい将来を重ねた。

 MM21地区のお披露目を兼ねて、191日間にわたって開催された「横浜博覧会(YES'89)」。
時はバブル景気真っ盛り。
華々しく開幕した3月25日を境に、異国情緒あふれ夜霧が似合う港町から、流行の先端を走る未来都市へと変貌を遂げようとしていた。

 博覧会のテーマは「宇宙と子供たち」。
横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念して催された。
企業や自治体が33館のパビリオンを出展し、20カ国・地域が参加。
開幕直後から市民らが大挙として詰めかけ、入場者数は国際博覧会並みの1333万7千人を記録した。

 三菱グループが立体映像を上映したパビリオン「三菱未来館」の入場を待つ長い列で、少年は期待に胸をふくらませていた。
当時中学3年生の小山慶和さん(44)=横浜市磯子区=は、宇宙へと飛び出してゆく迫力あるコンピューター・グラフィックスの画面に言葉を失った。

 JR桜木町駅から会場までは、当時珍しかった「動く歩道」が新たに整備された。
小山さんは大勢の人に前後を挟まれながら「会場に向かうまでのアトラクションとして乗っていた」。

 それまでの桜木町は三菱重工業の造船所で働く「労働者の街」という印象が強く、小山さんには近寄りがたい雰囲気があった。
それだけに、色とりどりのパビリオンが並ぶ横浜博の会場で見た最新技術に胸が高鳴り、「モノクロだった世界が突然、カラーになったような感覚」。
ものづくりの素晴らしさに触れて、高揚感を覚えた。

 横浜博終了後、MM21地区の大規模開発が始まった。
臨海部では港や海を彷彿(ほうふつ)させる斬新なデザインの建築物や街路が整備され、都市型観光地として華やいだ雰囲気に包まれていった。

 長らく米軍に接収されていた新港ふ頭だったが、横浜冷蔵倉庫(中区新港町)が94年に返還。
臨海部の開発が加速し、戦後横浜に色濃く残っていた「フェンスの向こうのアメリカ」のイメージは薄れていった。

 昭和から平成へと移る激動の時代。小山さんは造船所から横浜博、そしてビジネス都市へと街が生まれ変わる場面に立ち会うことになる。

 小山さんは横浜博の開幕と同じ89年に完成した横浜ベイブリッジに感激し、巨大な構造物を作りたいと三菱重工業横浜製作所(横製)に入社した。
念願かなって横浜ベイブリッジ下層の国道357号部分の構造に関わる製作に携わり、その後、社内報を担当。
資料調査や関係者への取材を通して造船所の歩みを調べ、記録していった。

 印象に残る出来事は、MM21地区のみなとみらいセンタービル建設現場で2008年、造船所で建造された「山汐(やましお)丸」のいかりが発掘されたことだ。
高層ビルが林立する中、造船所時代の記憶を呼び起こす「タイムカプセル」のようだった。
国の重要文化財として保存されている2基のドックなど、地区内に残る造船所時代の面影を社内報で分かりやすく紹介した。

 その後、火力発電などを担う事業会社「三菱日立パワーシステムズ」に転籍し、
18年4月からは、横浜ランドマークタワーや横浜美術館に隣接する三菱重工横浜ビルで広報を担う。
くしくも造船所の跡地に建てられた高層ビル。眼下には、中学生時代に胸躍らせたMM21地区が広がる。

 横製時代に先輩とともに手掛けた社内報は宝物だ。
「薄れゆく造船所時代の記憶と思い出が記録できてよかった。新たな時代になっても、この街の物語を伝え続けたい」 

 ◆六大事業とMM21事業 六大事業とは
(1)横浜都心部強化
(2)港北ニュータウン建設
(3)金沢地先埋め立て事業
(4)高速鉄道(地下鉄)建設
(5)高速道路網建設
(6)ベイブリッジ建設−の各事業。(1)の中核的プロジェクトであるMM21事業は、横浜の自立性の強化▽港湾機能の質的転換▽首都圏の業務機能の分担を目的とし、「24時間活動する国際文化都市」などの都市像を掲げている。
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