不寛容時代の今、アニメ『セントールの悩み』は視聴者とアニメ制作の現場に多様さを問いかける
この数年、海外のみならず国内のニュースを見ていて気になるのは、「この問題、突き詰めると多様性への不寛容に原因の多くがあるんじゃないのか」と感じることがあまりに増えてきた。
日々、それらの話題に複雑な気分を抱えつつ、なんとなくニュースを見つめ、そして深夜に気分転換にアニメを見始める。現実のそんな重さから逃れるように見始める深夜アニメ。今期の新作TVアニメはどんなものか?と毎晩何本か見ていたのだが、最近、同好の友人に会うと自分がまず真っ先に話題に挙げている作品があることにある日気がついた。
『セントールの悩み』だ。
村山慶が月刊COMICリュウ(徳間書店)で連載しているコミックのアニメ化で、タイトルの「セントール(Centaur)」とはギリシア神話に登場する半人半獣のケンタウロスのこと。
僕は原作コミックを未読であったので、どんな作品なのか全く知らないままアニメ版を視聴した。第1話はいったいどういう作品でどういう世界なのか?が何の説明も無く始まる。ビジュアルからこれが“普通の世界”ではないことがすぐにわかるため、この意図的に全く説明をしないことに戸惑いを感じつつも気になってしまった。
どのように“普通の世界”ではないのかというと、登場人物が男女ともに全員、頭に角が生えていたり、コウモリや鳥のような羽が生えていたり。さらに下半身が馬の女の子もいる。この女の子・姫乃が主人公で、タイトルのセントールは彼女のこの容姿からきているのだろう。
彼女らの日常が描かれ、高校で演劇の出し物をすることになるのが、冒頭のストーリーだ。ただ、この演劇についても見ていて不思議な箇所がある。王子様役をやるはずだった男の子が不正をはたらいたことがバレて降板。代わりに王子様をやることになるのはボーイッシュな女の子。しかし皆、キスシーンがあることには年頃らしい反応を見せるのだが、そもそも「女の子が王子様役になった」ことには誰も何も突っ込まない。
ドタバタ風の中で演劇は終わって後半が始まり、そこで世界観が大雑把に説明された。
この作品の世界は「四肢哺乳類が僕らのような人類に進化をしなかった、全く別の進化体系を経た世界」だったのだ。別の生物がそれぞれの進化をし、それが、下半身が馬の「人馬」であったり、角がある「角人」や翼のある「翼人」。さらに人魚や、ヘビのような外見をした「南極人」などがおり、それら全ての形態を総称して“人類”となっている。
原作を知らなかったために、この異形のヒロインたちを見た時点では数年前にあった『モンスター娘のいる日常』のような作品なのか?と思っていた。実際、基本であるのはこの多種多様な登場人物らの織りなす“日常もの”だ。彼女らの学校や私生活での様子がコミカルさをメインに描かれている。
が、見ていると、セリフの端々に作品世界を覆っている不穏さがあることに気づかされる。
現在の多様な形態の人間がいる世界に対し、「もし四肢生物が人間になっていたら、髪の色や肌の色が違うだけで深刻な差別問題は起こらなかったはず」。ここで語られる“もし”は、つまりは僕らの世界だ。言い換えるとこの作品世界は多様さにあふれているが、しかしそれは多様であることを皆が受け入れている世界なのではなく、形態間の差別は存在し、どうやら薄氷の上に成立しているようであることが含められている。それぞれの形態に対しても同様で、ヘビに似た南極人は「南極蛇人」と呼ぶ人もいるが、この言い方は蔑称であること。人馬の背中に乗ることは重度の差別行為であることがわかってくる。
主人公たちの暮らす国は日本だが、その細部も僕らのこの国とはいろいろと異なっている。この世界の日本では、こうした形態間差別が起こらないように徹底した道徳や思想の教育がなされており、それを侵害したものは思想矯正所と呼ばれる矯正施設に送られてしまう。
そこで気がついた。
冒頭のクラスの演劇で、女の子が王子様役になったことにはナゼ誰も何も突っ込まなかったのか。あれはつまり、形態間の差別だけではなく、ジェンダー差別も思想教育で起こらないようにされているということなんだろう。彼ら・彼女らにとって同性間の恋愛感情は特異なものでも何でもなかったのだ。
https://otocoto.jp/news/okano017/
この数年、海外のみならず国内のニュースを見ていて気になるのは、「この問題、突き詰めると多様性への不寛容に原因の多くがあるんじゃないのか」と感じることがあまりに増えてきた。
日々、それらの話題に複雑な気分を抱えつつ、なんとなくニュースを見つめ、そして深夜に気分転換にアニメを見始める。現実のそんな重さから逃れるように見始める深夜アニメ。今期の新作TVアニメはどんなものか?と毎晩何本か見ていたのだが、最近、同好の友人に会うと自分がまず真っ先に話題に挙げている作品があることにある日気がついた。
『セントールの悩み』だ。
村山慶が月刊COMICリュウ(徳間書店)で連載しているコミックのアニメ化で、タイトルの「セントール(Centaur)」とはギリシア神話に登場する半人半獣のケンタウロスのこと。
僕は原作コミックを未読であったので、どんな作品なのか全く知らないままアニメ版を視聴した。第1話はいったいどういう作品でどういう世界なのか?が何の説明も無く始まる。ビジュアルからこれが“普通の世界”ではないことがすぐにわかるため、この意図的に全く説明をしないことに戸惑いを感じつつも気になってしまった。
どのように“普通の世界”ではないのかというと、登場人物が男女ともに全員、頭に角が生えていたり、コウモリや鳥のような羽が生えていたり。さらに下半身が馬の女の子もいる。この女の子・姫乃が主人公で、タイトルのセントールは彼女のこの容姿からきているのだろう。
彼女らの日常が描かれ、高校で演劇の出し物をすることになるのが、冒頭のストーリーだ。ただ、この演劇についても見ていて不思議な箇所がある。王子様役をやるはずだった男の子が不正をはたらいたことがバレて降板。代わりに王子様をやることになるのはボーイッシュな女の子。しかし皆、キスシーンがあることには年頃らしい反応を見せるのだが、そもそも「女の子が王子様役になった」ことには誰も何も突っ込まない。
ドタバタ風の中で演劇は終わって後半が始まり、そこで世界観が大雑把に説明された。
この作品の世界は「四肢哺乳類が僕らのような人類に進化をしなかった、全く別の進化体系を経た世界」だったのだ。別の生物がそれぞれの進化をし、それが、下半身が馬の「人馬」であったり、角がある「角人」や翼のある「翼人」。さらに人魚や、ヘビのような外見をした「南極人」などがおり、それら全ての形態を総称して“人類”となっている。
原作を知らなかったために、この異形のヒロインたちを見た時点では数年前にあった『モンスター娘のいる日常』のような作品なのか?と思っていた。実際、基本であるのはこの多種多様な登場人物らの織りなす“日常もの”だ。彼女らの学校や私生活での様子がコミカルさをメインに描かれている。
が、見ていると、セリフの端々に作品世界を覆っている不穏さがあることに気づかされる。
現在の多様な形態の人間がいる世界に対し、「もし四肢生物が人間になっていたら、髪の色や肌の色が違うだけで深刻な差別問題は起こらなかったはず」。ここで語られる“もし”は、つまりは僕らの世界だ。言い換えるとこの作品世界は多様さにあふれているが、しかしそれは多様であることを皆が受け入れている世界なのではなく、形態間の差別は存在し、どうやら薄氷の上に成立しているようであることが含められている。それぞれの形態に対しても同様で、ヘビに似た南極人は「南極蛇人」と呼ぶ人もいるが、この言い方は蔑称であること。人馬の背中に乗ることは重度の差別行為であることがわかってくる。
主人公たちの暮らす国は日本だが、その細部も僕らのこの国とはいろいろと異なっている。この世界の日本では、こうした形態間差別が起こらないように徹底した道徳や思想の教育がなされており、それを侵害したものは思想矯正所と呼ばれる矯正施設に送られてしまう。
そこで気がついた。
冒頭のクラスの演劇で、女の子が王子様役になったことにはナゼ誰も何も突っ込まなかったのか。あれはつまり、形態間の差別だけではなく、ジェンダー差別も思想教育で起こらないようにされているということなんだろう。彼ら・彼女らにとって同性間の恋愛感情は特異なものでも何でもなかったのだ。
https://otocoto.jp/news/okano017/