>>808
終末思想にはどうしてもそういう面があるんで、同時に「そこから逃れる手段」を提示するのが
一般的な宗教というものじゃよ

例えば、釈尊の時代、仏教団の中で不浄観が大流行したことがあった
これは釈尊が、王子として暮らしていた城から抜け出す折、寝穢く眠りこけている昼間は美しい
女達の姿を見て、外見がいくら美しかろうが人間は死ねばただの糞が詰まった肉の袋に過ぎない
と認識したことから始まったとも言われる瞑想法の一つ

人が死に、その死体が腐っていく様を目の当たりに思い浮かべていくことで、肉体というものの
虚しさを知り、それに対する執着を断つことを目的とする
これを行じた出家者達は、みな厭世的な気持ちとなり、自分の肉体を嫌悪するようになった
それにつけ込み、「私がその肉体から開放(殺して)やろう」と言い、出家者を殺して回った者がいた

そのため釈尊は、この殺人者を教団から追放した後、不浄観だけを単独で行ずることを戒め、
不浄観を行じた後、必ず数息観を行って精神を安定させるよう促したという
数息観とは、その文字通り座禅を組んで己の息の出入りを数えていくもので、「安楽の法門」と
言われる通り、心と体を落ち着けるものニダ