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処へいらっしゃるんです? と細君は気が気でなくその後を追って行ったが、それにも関わず、蒲団を着たま
ま、厠の中に入ろうとした。細君は慌てて、「貴郎、貴郎、酔っぱらってはいやですよ。そこは手水場ですよ
」 突如蒲団を後から引いたので、蒲団は厠の入口で細君の手に残った。時雄はふらふらと危く小便をしてい
たが、それがすむと、突如※(「革+堂」、第3水準1-93-80)と厠の中に横に寝てしまった。細君が
汚がって頻りに揺ったり何かしたが、時雄は動こうとも立とうとも為ない。そうかと云って眠ったのではなく
、赤土のような顔に大きい鋭い目を明いて、戸外に降り頻る雨をじっと見ていた。 時雄は例刻をてくてくと
牛込矢来町の自宅に帰って来た。 渠は三日間、その苦悶と戦った。渠は性として惑溺することが出来ぬ或る
一種の力を有っている。この力の為めに支配されるのを常に口惜しく思っているのではあるが、それでもいつ
か負けて了う。征服されて了う。これが為め渠はいつも運命の圏外に立って苦しい味を嘗めさせられるが、世
間からは正しい人、信頼するに足る人と信じられている。三日間の苦しい煩悶、これでとにかく渠はその前途
を見た。二人の間の関係は一段落を告げた。これからは、師としての責任を尽して、わが愛する女の幸福の為
めを謀るばかりだ。これはつらい、けれどつらいのが人生だ! と思いながら帰って来た。 門をあけて入る
と、細君が迎えに出た。残暑の日はまだ暑く、洋服の下襦袢がびっしょり汗にぬれている。それを糊のついた
白地の単衣に着替えて、茶の間の火鉢の前に坐ると、細君はふと思い附いたように、箪笥の上の一封の手紙を
取出し、「芳子さんから」 と言って渡した。 急いで封を切った。巻紙の厚いのを見ても、その事件に関し
ての用事に相違ない。時雄は熱心に読下した。 言文一致で、すらすらとこの上ない達筆。先生――実は御相
談に上りたいと存じましたが、余り急でしたものでしたから、独断で実行致しました。昨日四時に田中から電
報が参りまして、六時に新橋の停車場に着くとのことですもの、私はどんなに驚きましたか知れません。何事
も無いのに出て来るような、そんな軽率な男でないと信じておりますだけに、一層甚しく気を揉みました。先
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から、一つ家に置いて、十分監督してみようと思うんです」「それが好いですよ。本当に、芳子さんにもね…
…何処と悪いことのない、発明な、利口な、今の世には珍らしい方ですけれど、一つ悪いことがあってね、男
の友達と平気で夜歩いたりなんかするんですからね。それさえ止すと好いんだけれどとよく言うのですの。す
ると芳子さんはまた小母さんの旧弊が始まったって、笑っているんだもの。いつかなぞも余り男と一緒に歩い
たり何かするものだから、角の交番でね、不審にしてね、角袖巡査が家の前に立っていたことがあったと云い
ますよ。それはそんなことは無いんだから、構いはしませんけどもね……」「それはいつのことです?」「昨
年の暮でしたかね」「どうもハイカラ過ぎて困る」と時雄は言ったが、時計の針の既に十時半の処を指すのを
見て、「それにしてもどうしたんだろう。若い身空で、こう遅くまで一人で出て歩くと言うのは?」「もう帰
って来ますよ」「こんなことは幾度もあるんですか」「いいえ、滅多にありはしませんよ。夏の夜だから、ま
だ宵の口位に思って歩いているんですよ」 姉は話しながら裁縫の針を止めぬのである。前に鴨脚の大きい裁
物板が据えられて、彩絹の裁片や糸や鋏やが順序なく四面に乱れている。女物の美しい色に、洋燈の光が明か
に照り渡った。九月中旬の夜は更けて、稍々肌寒く、裏の土手下を甲武の貨物汽車がすさまじい地響を立てて
通る。 下駄の音がする度に、今度こそは! 今度こそは! と待渡ったが、十一時が打って間もなく、小き
ざみな、軽い後歯の音が静かな夜を遠く響いて来た。「今度のこそ、芳子さんですよ」 と姉は言った。 果
してその足音が家の入口の前に留って、がらがらと格子が開く。「芳子さん?」「ええ」 と艶やかな声がす
る。 玄関から丈の高い庇髪の美しい姿がすっと入って来たが、「あら、まア、先生!」 と声を立てた。そ
の声には驚愕と当惑の調子が十分に籠っていた。「大変遅くなって……」と言って、座敷と居間との間の閾の
処に来て、半ば坐って、ちらりと電光のように時雄の顔色を窺ったが、すぐ紫の袱紗に何か包んだものを出し
て、黙って姉の方に押遣った。「何ですか……お土産? いつもお気の毒ね?」「いいえ、私も召上るんです
もの」 と芳子は快活に言った。そして次の間へ行こうとしたのを、無理に洋燈の明るい眩しい居間の一隅に