>>532
人の相逢うことを妨げることは絶対に不可能である。手紙は無論差留めることは出来ぬし、「今日ちょっと田
中に寄って参りますから、一時間遅くなります」と公然と断って行くのをどうこう言う訳には行かなかった。
またその男が訪問して来るのを非常に不快に思うけれど、今更それを謝絶することも出来なかった。時雄はい
つの間にか、この二人からその恋に対しての「温情の保護者」として認められて了った。 時雄は常に苛々し
ていた。書かなければならぬ原稿が幾種もある。書肆からも催促される。金も欲しい。けれどどうしても筆を
執って文を綴るような沈着いた心の状態にはなれなかった。強いて試みてみることがあっても、考が纒らない
。本を読んでも二頁も続けて読む気になれない。二人の恋の温かさを見る度に、胸を燃して、罪もない細君に
当り散らして酒を飲んだ。晩餐の菜が気に入らぬと云って、御膳を蹴飛した。夜は十二時過に酔って帰って来
ることもあった。芳子はこの乱暴な不調子な時雄の行為に尠なからず心を痛めて、「私がいろいろ御心配を懸
けるもんですからね、私が悪いんですよ」と詫びるように細君に言った。芳子はなるたけ手紙の往復を人に見
せぬようにし、訪問も三度に一度は学校を休んでこっそり行くようにした。時雄はそれに気が附いて一層懊悩
の度を増した。 野は秋も暮れて木枯の風が立った。裏の森の銀杏樹も黄葉して夕の空を美しく彩った。垣根
道には反かえった落葉ががさがさと転がって行く。鵙の鳴音がけたたましく聞える。若い二人の恋が愈※(二
の字点、1-2-22)人目に余るようになったのはこの頃であった。時雄は監督上見るに見かねて、芳子を
説勧めて、この一伍一什を故郷の父母に報ぜしめた。そして時雄もこの恋に関しての長い手紙を芳子の父に寄
せた。この場合にも時雄は芳子の感謝の情を十分に贏ち得るように勉めた。時雄は心を欺いて、――悲壮なる
犠牲と称して、この「恋の温情なる保護者」となった。 備中の山中から数通の手紙が来た。 その翌年の一
月には、時雄は地理の用事で、上武の境なる利根河畔に出張していた。彼は昨年の年末からこの地に来ている
ので、家のこと――芳子のことが殊に心配になる。さりとて公務を如何ともすることが出来なかった。正月に
2992e68990
。 三十四五、実際この頃には誰にでもある煩悶で、この年頃に賤しい女に戯るるものの多いのも、畢竟その
淋しさを医す為めである。世間に妻を離縁するものもこの年頃に多い。 出勤する途上に、毎朝邂逅う美しい
女教師があった。渠はその頃この女に逢うのをその日その日の唯一の楽みとして、その女に就いていろいろな
空想を逞うした。恋が成立って、神楽坂あたりの小待合に連れて行って、人目を忍んで楽しんだらどう……。
細君に知れずに、二人近郊を散歩したらどう……。いや、それどころではない、その時、細君が懐妊しておっ
たから、不図難産して死ぬ、その後にその女を入れるとしてどうであろう。……平気で後妻に入れることが出
来るだろうかどうかなどと考えて歩いた。 神戸の女学院の生徒で、生れは備中の新見町で、渠の著作の崇拝
者で、名を横山芳子という女から崇拝の情を以て充された一通の手紙を受取ったのはその頃であった。竹中古
城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれま
でにも随分多かった。やれ文章を直してくれの、弟子にしてくれのと一々取合ってはいられなかった。だから
その女の手紙を受取っても、別に返事を出そうとまでその好奇心は募らなかった。けれど同じ人の熱心なる手
紙を三通まで貰っては、さすがの時雄も注意をせずにはいられなかった。年は十九だそうだが、手紙の文句か
ら推して、その表情の巧みなのは驚くべきほどで、いかなることがあっても先生の門下生になって、一生文学
に従事したいとの切なる願望。文字は走り書のすらすらした字で、余程ハイカラの女らしい。返事を書いたの
は、例の工場の二階の室で、その日は毎日の課業の地理を二枚書いて止して、長い数尺に余る手紙を芳子に送
った。その手紙には女の身として文学に携わることの不心得、女は生理的に母たるの義務を尽さなければなら
ぬ理由、処女にして文学者たるの危険などを縷々として説いて、幾らか罵倒的の文辞をも陳べて、これならも
う愛想をつかして断念めて了うであろうと時雄は思って微笑した。そして本箱の中から岡山県の地図を捜して
、阿哲郡新見町の所在を研究した。山陽線から高梁川の谷を遡って奥十数里、こんな山の中にもこんなハイカ
ラの女があるかと思うと、それでも何となくなつかしく、時雄はその附近の地形やら山やら川やらを仔細に見