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で物置にしておいた二階の三畳と六畳、これを綺麗に掃除して、芳子の住居とした。久しく物置――子供の遊
び場にしておいたので、塵埃が山のように積っていたが、箒をかけ雑巾をかけ、雨のしみの附いた破れた障子
を貼り更えると、こうも変るものかと思われるほど明るくなって、裏の酒井の墓塋の大樹の繁茂が心地よき空
翠をその一室に漲らした。隣家の葡萄棚、打捨てて手を入れようともせぬ庭の雑草の中に美人草の美しく交っ
て咲いているのも今更に目につく。時雄はさる画家の描いた朝顔の幅を選んで床に懸け、懸花瓶には後れ咲の
薔薇の花を※(「插」のつくりの縦棒が下に突き抜ける、第4水準2-13-28)した。午頃に荷物が着い
て、大きな支那鞄、柳行李、信玄袋、本箱、机、夜具、これを二階に運ぶのには中々骨が折れる。時雄はこの
手伝いに一日社を休むべく余儀なくされたのである。 机を南の窓の下、本箱をその左に、上に鏡やら紅皿や
ら罎やらを順序よく並べた。押入の一方には支那鞄、柳行李、更紗の蒲団夜具の一組を他の一方に入れようと
した時、女の移香が鼻を撲ったので、時雄は変な気になった。 午後二時頃には一室が一先ず整頓した。「ど
うです、此処も居心は悪くないでしょう」時雄は得意そうに笑って、「此処に居て、まア緩くり勉強するです
。本当に実際問題に触れてつまらなく苦労したって為方がないですからねえ」「え……」と芳子は頭を垂れた
。「後で詳しく聞きましょうが、今の中は二人共じっとして勉強していなくては、為方がないですからね」「
え……」と言って、芳子は顔を挙げて、「それで先生、私達もそう思って、今はお互に勉強して、将来に希望
を持って、親の許諾をも得たいと存じておりますの!」「それが好いです。今、余り騒ぐと、人にも親にも誤
解されて了って、折角の真面目な希望も遂げられなくなりますから」「ですから、ね、先生、私は一心になっ
て勉強しようと思いますの。田中もそう申しておりました。それから、先生に是非お目にかかってお礼を申上
げなければ済まないと申しておりましたけれど……よく申上げてくれッて……」「いや……」 時雄は芳子の
言葉の中に、「私共」と複数を遣うのと、もう公然許嫁の約束でもしたかのように言うのとを不快に思った。
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を見ぬ振をしてはおかれん。田川(姉の家の姓)に預けておいても不安心だから、今日、行って、早かったら
、芳子を家に連れて来る。二階を掃除しておけ」「家に置くんですか、また……」「勿論」 細君は容易に帯
と着物とを出そうともせぬので、「よし、よし、着物を出さんのなら、これで好い」と、白地の単衣に唐縮緬
の汚れたへこ帯、帽子も被らずに、そのままに急いで戸外へ出た。「今出しますから……本当に困って了う」
という細君の声が後に聞えた。 夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来の酒井の森には烏の声が喧しく聞える。
どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい鰌髭
の紳士が庇髪の若い細君を伴れて、神楽坂に散歩に出懸けるのにも幾組か邂逅した。時雄は激昂した心と泥酔
した身体とに烈しく漂わされて、四辺に見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動く
よう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上に蔽い冠さるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、無闇
にぐいぐいと呷ったので、一時に酔が発したのであろう。ふと露西亜の賤民の酒に酔って路傍に倒れて寝てい
るのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだから豪い、惑溺するなら飽まで惑溺せんければ駄
目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。 中根坂
を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣がぞろぞろ
と通る。煙草屋の前に若い細君が出ている。氷屋の暖簾が涼しそうに夕風に靡く。時雄はこの夏の夜景を朧げ
に眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い溝に落ちて膝頭をついたり、職工体の男に、「
酔漢奴! しっかり歩け!」と罵られたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて、市ヶ谷
八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞としていた。大きい古い欅の樹と松の樹とが蔽い冠さって
、左の隅に珊瑚樹の大きいのが繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦
しいので、突如その珊瑚樹の蔭に身を躱して、その根本の地上に身を横えた。興奮した心の状態、奔放な情と
悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を