>>860
と思いましたよ。堕落書生と同じですからね。それゃうわべが似ているだけで、心はそんなことはないでしょ
うけれど、何だか変ですよ」「そんなことはどうでも好い。それでどうした?」「お鶴(下女)が行って上げ
ると言うのに、好いと言って、御自分で出かけて、餅菓子と焼芋を買って来て、御馳走してよ。……お鶴も笑
っていましたよ。お湯をさしに上ると、二人でお旨しそうにおさつを食べているところでしたッて……」 時
雄も笑わざるを得なかった。 細君は猶語り続いだ。「そして随分長く高い声で話していましたよ。議論みた
いなことも言って、芳子さんもなかなか負けない様子でした」「そしていつ帰った?」「もう少し以前」「芳
子は居るか」「いいえ、路が分からないから、一緒に其処まで送って行って来るッて出懸けて行ったんですよ
」 時雄は顔を曇らせた。 夕飯を食っていると、裏口から芳子が帰って来た。急いで走って来たと覚しく、
せいせい息を切っている。「何処まで行らしった?」 と細君が問うと、「神楽坂まで」と答えたが、いつも
する「おかえりなさいまし」を時雄に向って言って、そのままばたばたと二階へ上った。すぐ下りて来るかと
思うに、なかなか下りて来ない。「芳子さん、芳子さん」と三度ほど細君が呼ぶと、「はアーい」という長い
返事が聞えて、矢張下りて来ない。お鶴が迎いに行って漸く二階を下りて来たが、準備した夕飯の膳を他所に
、柱に近く、斜に坐った。「御飯は?」「もう食べたくないの、腹が一杯で」「余りおさつを召上った故でし
ょう」「あら、まア、酷い奥さん。いいわ、奥さん」 と睨む真似をする。 細君は笑って、「芳子さん、何
だか変ね」「何故?」と長く引張る。「何故も無いわ」「いいことよ、奥さん」 と又睨んだ。 時雄は黙っ
てこの嬌態に対していた。胸の騒ぐのは無論である。不快の情はひしと押し寄せて来た。芳子はちらと時雄の
顔を覗ったが、その不機嫌なのが一目で解った。で、すぐ態度を改めて、「先生、今日田中が参りましてね」
「そうだってね」「お目にかかってお礼を申上げなければならんのですけれども、又改めて上がりますからッ
て……よろしく申上げて……」「そうか」 と言ったが、そのままふいと立って書斎に入って了った。 その
d016c92d50
君は手紙を読終って巻きかえしながら、「出て来たのですね」「うむ」「ずっと東京に居るんでしょうか」「
手紙に書いてあるじゃないか、すぐ帰すッて……」「帰るでしょうか」「そんなこと誰が知るものか」 夫の
語気が烈しいので、細君は口を噤んで了った。少時経ってから、「だから、本当に厭さ、若い娘の身で、小説
家になるなんぞッて、望む本人も本人なら、よこす親達も親達ですからね」「でも、お前は安心したろう」と
言おうとしたが、それは止して、「まア、そんなことはどうでも好いさ、どうせお前達には解らんのだから…
…それよりも酌でもしたらどうだ」 温順な細君は徳利を取上げて、京焼の盃に波々と注ぐ。 時雄は頻りに
酒を呷った。酒でなければこの鬱を遣るに堪えぬといわぬばかりに。三本目に、妻は心配して、「この頃はど
うか為ましたね」「何故?」「酔ってばかりいるじゃありませんか」「酔うということがどうかしたのか」「
そうでしょう、何か気に懸ることがあるからでしょう。芳子さんのことなどはどうでも好いじゃありませんか
」「馬鹿!」 と時雄は一喝した。 細君はそれにも懲りずに、「だって、余り飲んでは毒ですよ、もう好い
加減になさい、また手水場にでも入って寝ると、貴郎は大きいから、私と、お鶴(下女)の手ぐらいではどう
にもなりやしませんからさ」「まア、好いからもう一本」 で、もう一本を半分位飲んだ。もう酔は余程廻っ
たらしい。顔の色は赤銅色に染って眼が少しく据っていた。急に立上って、「おい、帯を出せ!」「何処へい
らっしゃる」「三番町まで行って来る」「姉の処?」「うむ」「およしなさいよ、危ないから」「何アに大丈
夫だ、人の娘を預って監督せずに投遣にしてはおかれん。男がこの東京に来て一緒に歩いたり何かしているの
を見ぬ振をしてはおかれん。田川(姉の家の姓)に預けておいても不安心だから、今日、行って、早かったら
、芳子を家に連れて来る。二階を掃除しておけ」「家に置くんですか、また……」「勿論」 細君は容易に帯
と着物とを出そうともせぬので、「よし、よし、着物を出さんのなら、これで好い」と、白地の単衣に唐縮緬
の汚れたへこ帯、帽子も被らずに、そのままに急いで戸外へ出た。「今出しますから……本当に困って了う」
という細君の声が後に聞えた。 夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来の酒井の森には烏の声が喧しく聞える。