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あったなら、そういう悲劇に陥るのは当然だとしみじみ同情した。今はそのヨハンネスにさえなれぬ身だと思
って長嘆した。 さすがに「寂しき人々」をかの女に教えなかったが、ツルゲネーフの「ファースト」という
短篇を教えたことがあった。洋燈の光明かなる四畳半の書斎、かの女の若々しい心は色彩ある恋物語に憧れ渡
って、表情ある眼は更に深い深い意味を以て輝きわたった。ハイカラな庇髪、櫛、リボン、洋燈の光線がその
半身を照して、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり――
書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男の声も烈しく戦えた。「け
れど、もう駄目だ!」 と、渠は再び頭髪をむしった。 渠は名を竹中時雄と謂った。 今より三年前、三人
目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚め尽した頃であった。世の中の忙しい事業も意味がな
く、一生作に力を尽す勇気もなく、日常の生活――朝起きて、出勤して、午後四時に帰って来て、同じように
細君の顔を見て、飯を食って眠るという単調なる生活につくづく倦き果てて了った。家を引越歩いても面白く
ない、友人と語り合っても面白くない、外国小説を読み渉猟っても満足が出来ぬ。いや、庭樹の繁り、雨の点
滴、花の開落などいう自然の状態さえ、平凡なる生活をして更に平凡ならしめるような気がして、身を置くに
処は無いほど淋しかった。道を歩いて常に見る若い美しい女、出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った
。 三十四五、実際この頃には誰にでもある煩悶で、この年頃に賤しい女に戯るるものの多いのも、畢竟その
淋しさを医す為めである。世間に妻を離縁するものもこの年頃に多い。 出勤する途上に、毎朝邂逅う美しい
女教師があった。渠はその頃この女に逢うのをその日その日の唯一の楽みとして、その女に就いていろいろな
空想を逞うした。恋が成立って、神楽坂あたりの小待合に連れて行って、人目を忍んで楽しんだらどう……。
細君に知れずに、二人近郊を散歩したらどう……。いや、それどころではない、その時、細君が懐妊しておっ
たから、不図難産して死ぬ、その後にその女を入れるとしてどうであろう。……平気で後妻に入れることが出
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た手紙は、厳乎たる師としての態度であった。二度目はそれから二月ほど経った春の夜、ゆくりなく時雄が訪
問すると、芳子は白粉をつけて、美しい顔をして、火鉢の前にぽつねんとしていた。「どうしたの」と訊くと
、「お留守番ですの」「姉は何処へ行った?」「四谷へ買物に」 と言って、じっと時雄の顔を見る。いかに
も艶かしい。時雄はこの力ある一瞥に意気地なく胸を躍らした。二語三語、普通のことを語り合ったが、その
平凡なる物語が更に平凡でないことを互に思い知ったらしかった。この時、今十五分も一緒に話し合ったなら
ば、どうなったであろうか。女の表情の眼は輝き、言葉は艶めき、態度がいかにも尋常でなかった。「今夜は
大変綺麗にしてますね?」 男は態と軽く出た。「え、先程、湯に入りましたのよ」「大変に白粉が白いから
」「あらまア先生!」と言って、笑って体を斜に嬌態を呈した。 時雄はすぐ帰った。まア好いでしょうと芳
子はたって留めたが、どうしても帰ると言うので、名残惜しげに月の夜を其処まで送って来た。その白い顔に
は確かにある深い神秘が籠められてあった。 四月に入ってから、芳子は多病で蒼白い顔をして神経過敏に陥
っていた。シュウソカリを余程多量に服してもどうも眠られぬとて困っていた。絶えざる欲望と生殖の力とは
年頃の女を誘うのに躊躇しない。芳子は多く薬に親しんでいた。 四月末に帰国、九月に上京、そして今回の
事件が起った。 今回の事件とは他でも無い。芳子は恋人を得た。そして上京の途次、恋人と相携えて京都嵯
峨に遊んだ。その遊んだ二日の日数が出発と着京との時日に符合せぬので、東京と備中との間に手紙の往復が
あって、詰問した結果は恋愛、神聖なる恋愛、二人は決して罪を犯してはおらぬが、将来は如何にしてもこの
恋を遂げたいとの切なる願望。時雄は芳子の師として、この恋の証人として一面月下氷人の役目を余儀なくさ
せられたのであった。 芳子の恋人は同志社の学生、神戸教会の秀才、田中秀夫、年二十一。 芳子は師の前
にその恋の神聖なるを神懸けて誓った。故郷の親達は、学生の身で、ひそかに男と嵯峨に遊んだのは、既にそ
の精神の堕落であると云ったが、決してそんな汚れた行為はない。互に恋を自覚したのは、寧ろ京都で別れて
からで、東京に帰って来てみると、男から熱烈なる手紙が来ていた。それで始めて将来の約束をしたような次