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めて遣ったんですけれど、何だか、宗教に従事して、虚偽に生活してることが、今度の動機で、すっかり厭に
なって了ったとか何とかで、どうしても東京に出て来るッて言うんですよ」「東京に来て、何をするつもりな
んだ?」「文学を遣りたいと――」「文学? 文学ッて、何だ。小説を書こうと言うのか」「え、そうでしょ
う……」「馬鹿な!」 と時雄は一喝した。「本当に困って了うんですの」「貴嬢はそんなことを勧めたんじ
ゃないか」「いいえ」と烈しく首を振って、「私はそんなこと……私は今の場合困るから、せめて同志社だけ
でも卒業してくれッて、この間初めに申して来た時に達って止めて遣ったんですけれど……もうすっかり独断
でそうして了ったんですッて。今更取かえしがつかぬようになって了ったんですッて」「どうして?」「神戸
の信者で、神戸の教会の為めに、田中に学資を出してくれている神津という人があるのですの。その人に、田
中が宗教は自分には出来ぬから、将来文学で立とうと思う。どうか東京に出してくれと言って遣ったんですの
。すると大層怒って、それならもう構わぬ、勝手にしろと言われて、すっかり支度をしてしまったんですって
、本当に困って了いますの」「馬鹿な!」 と言ったが、「今一度留めて遣んなさい。小説で立とうなんて思
ったッて、とても駄目だ、全く空想だ、空想の極端だ。それに、田中が此方に出て来ていては、貴嬢の監督上
、私が非常に困る。貴嬢の世話も出来んようになるから、厳しく止めて遣んなさい!」 芳子は愈※(二の字
点、1-2-22)困ったという風で、「止めてはやりますけれど、手紙が行違いになるかも知れませんから
」「行違い? それじゃもう来るのか」 時雄は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)った。「今
来た手紙に、もう手紙をよこしてくれても行違いになるからと言ってよこしたんですから」「今来た手紙ッて
、さっきの端書の又後に来たのか」 芳子は点頭いた。「困ったね。だから若い空想家は駄目だと言うんだ」
 平和は再び攪乱さるることとなった。 一日置いて今夜の六時に新橋に着くという電報があった。電報を持
って、芳子はまごまごしていた。けれど夜ひとり若い女を出して遣る訳に行かぬので、新橋へ迎えに行くこと
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恋人が東京に居ては、仮令自分が芳子をその二階に置いて監督しても、時雄は心を安んずる暇はなかった。二
人の相逢うことを妨げることは絶対に不可能である。手紙は無論差留めることは出来ぬし、「今日ちょっと田
中に寄って参りますから、一時間遅くなります」と公然と断って行くのをどうこう言う訳には行かなかった。
またその男が訪問して来るのを非常に不快に思うけれど、今更それを謝絶することも出来なかった。時雄はい
つの間にか、この二人からその恋に対しての「温情の保護者」として認められて了った。 時雄は常に苛々し
ていた。書かなければならぬ原稿が幾種もある。書肆からも催促される。金も欲しい。けれどどうしても筆を
執って文を綴るような沈着いた心の状態にはなれなかった。強いて試みてみることがあっても、考が纒らない
。本を読んでも二頁も続けて読む気になれない。二人の恋の温かさを見る度に、胸を燃して、罪もない細君に
当り散らして酒を飲んだ。晩餐の菜が気に入らぬと云って、御膳を蹴飛した。夜は十二時過に酔って帰って来
ることもあった。芳子はこの乱暴な不調子な時雄の行為に尠なからず心を痛めて、「私がいろいろ御心配を懸
けるもんですからね、私が悪いんですよ」と詫びるように細君に言った。芳子はなるたけ手紙の往復を人に見
せぬようにし、訪問も三度に一度は学校を休んでこっそり行くようにした。時雄はそれに気が附いて一層懊悩
の度を増した。 野は秋も暮れて木枯の風が立った。裏の森の銀杏樹も黄葉して夕の空を美しく彩った。垣根
道には反かえった落葉ががさがさと転がって行く。鵙の鳴音がけたたましく聞える。若い二人の恋が愈※(二
の字点、1-2-22)人目に余るようになったのはこの頃であった。時雄は監督上見るに見かねて、芳子を
説勧めて、この一伍一什を故郷の父母に報ぜしめた。そして時雄もこの恋に関しての長い手紙を芳子の父に寄
せた。この場合にも時雄は芳子の感謝の情を十分に贏ち得るように勉めた。時雄は心を欺いて、――悲壮なる
犠牲と称して、この「恋の温情なる保護者」となった。 備中の山中から数通の手紙が来た。 その翌年の一
月には、時雄は地理の用事で、上武の境なる利根河畔に出張していた。彼は昨年の年末からこの地に来ている
ので、家のこと――芳子のことが殊に心配になる。さりとて公務を如何ともすることが出来なかった。正月に