>>730
可かぬ。先生を頼りにして出京したのではあるが、そう聞けば、なるほど御尤である。監督上都合の悪いとい
うのもよく解りました。けれど今更帰れませぬから、自分で如何ようにしても自活の道を求めて目的地に進む
より他はないとまで言ったそうだ。時雄は不快を感じた。 時雄は一時は勝手にしろと思った。放っておけと
も思った。けれど圏内の一員たるかれにどうして全く風馬牛たることを得ようぞ。芳子はその後二三日訪問し
た形跡もなく、学校の時間には正確に帰って来るが、学校に行くと称して恋人の許に寄りはせぬかと思うと、
胸は疑惑と嫉妬とに燃えた。 時雄は懊悩した。その心は日に幾遍となく変った。ある時は全く犠牲になって
二人の為めに尽そうと思った。ある時はこの一伍一什を国に報じて一挙に破壊して了おうかと思った。けれど
この何れをも敢てすることの出来ぬのが今の心の状態であった。 細君が、ふと、時雄に耳語した。「あなた
、二階では、これよ」と針で着物を縫う真似をして、小声で、「きっと……上げるんでしょう。紺絣の書生羽
織! 白い木綿の長い紐も買ってありますよ」「本当か?」「え」 と細君は笑った。 時雄は笑うどころで
はなかった。 芳子が今日は先生少し遅くなりますからと顔を赧くして言った。「彼処に行くのか」と問うと
、「いいえ! 一寸友達の処に用があって寄って来ますから」 その夕暮、時雄は思切って、芳子の恋人の下
宿を訪問した。「まことに、先生にはよう申訳がありまえんのやけれど……」長い演説調の雄弁で、形式的の
申訳をした後、田中という中脊の、少し肥えた、色の白い男が祈祷をする時のような眼色をして、さも同情を
求めるように言った。 時雄は熱していた。「然し、君、解ったら、そうしたら好いじゃありませんか、僕は
君等の将来を思って言うのです。芳子は僕の弟子です。僕の責任として、芳子に廃学させるには忍びん。君が
東京にどうしてもいると言うなら、芳子を国に帰すか、この関係を父母に打明けて許可を乞うか、二つの中一
つを選ばんければならん。君は君の愛する女を君の為めに山の中に埋もらせるほどエゴイスチックな人間じゃ
ありますまい。君は宗教に従事することが今度の事件の為めに厭になったと謂うが、それは一種の考えで、君
d3be83b1b7
恋を遂げたいとの切なる願望。時雄は芳子の師として、この恋の証人として一面月下氷人の役目を余儀なくさ
せられたのであった。 芳子の恋人は同志社の学生、神戸教会の秀才、田中秀夫、年二十一。 芳子は師の前
にその恋の神聖なるを神懸けて誓った。故郷の親達は、学生の身で、ひそかに男と嵯峨に遊んだのは、既にそ
の精神の堕落であると云ったが、決してそんな汚れた行為はない。互に恋を自覚したのは、寧ろ京都で別れて
からで、東京に帰って来てみると、男から熱烈なる手紙が来ていた。それで始めて将来の約束をしたような次
第で、決して罪を犯したようなことは無いと女は涙を流して言った。時雄は胸に至大の犠牲を感じながらも、
その二人の所謂神聖なる恋の為めに力を尽すべく余儀なくされた。 時雄は悶えざるを得なかった。わが愛す
るものを奪われたということは甚だしくその心を暗くした。元より進んでその女弟子を自分の恋人にする考は
無い。そういう明らかな定った考があれば前に既に二度までも近寄って来た機会を攫むに於て敢て躊躇すると
ころは無い筈だ。けれどその愛する女弟子、淋しい生活に美しい色彩を添え、限りなき力を添えてくれた芳子
を、突然人の奪い去るに任すに忍びようか。機会を二度まで攫むことは躊躇したが、三度来る機会、四度来る
機会を待って、新なる運命と新なる生活を作りたいとはかれの心の底の底の微かなる願であった。時雄は悶え
た、思い乱れた。妬みと惜しみと悔恨との念が一緒になって旋風のように頭脳の中を回転した。師としての道
義の念もこれに交って、益※(二の字点、1-2-22)炎を熾んにした。わが愛する女の幸福の為めという
犠牲の念も加わった。で、夕暮の膳の上の酒は夥しく量を加えて、泥鴨の如く酔って寝た。 あくる日は日曜
日の雨、裏の森にざんざん降って、時雄の為めには一倍に侘しい。欅の古樹に降りかかる雨の脚、それが実に
長く、限りない空から限りなく降っているとしか思われない。時雄は読書する勇気も無い、筆を執る勇気もな
い。もう秋で冷々と背中の冷たい籐椅子に身を横えつつ、雨の長い脚を見ながら、今回の事件からその身の半
生のことを考えた。かれの経験にはこういう経験が幾度もあった。一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来
ずに、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶、その苦しい味をかれは常に味った。文学の側でもそうだ、社会