その胸にある現在の事実は不思議にも何等の動揺をも受けなかった。「矛盾でもなんでも為方がない、その矛
盾、その無節操、これが事実だから為方がない、事実! 事実!」 と時雄は胸の中に繰返した。 時雄は堪
え難い自然の力の圧迫に圧せられたもののように、再び傍のロハ台に長い身を横えた。ふと見ると、赤銅のよ
うな色をした光芒の無い大きな月が、お濠の松の上に音も無く昇っていた。その色、その状、その姿がいかに
も侘しい。その侘しさがその身の今の侘しさによく適っていると時雄は思って、また堪え難い哀愁がその胸に
漲り渡った。 酔は既に醒めた。夜露は置始めた。 土手三番町の家の前に来た。 覗いてみたが、芳子の室
に燈火の光が見えぬ。まだ帰って来ぬとみえる。時雄の胸はまた燃えた。この夜、この暗い夜に恋しい男と二
人! 何をしているか解らぬ。こういう常識を欠いた行為を敢てして、神聖なる恋とは何事? 汚れたる行為
の無いのを弁明するとは何事? すぐ家に入ろうとしたが、まだ当人が帰っておらぬのに上っても為方が無い
と思って、その前を真直に通り抜けた。女と摩違う度に、芳子ではないかと顔を覗きつつ歩いた。土手の上、
松の木蔭、街道の曲り角、往来の人に怪まるるまで彼方此方を徘徊した。もう九時、十時に近い。いかに夏の
夜であるからと言って、そう遅くまで出歩いている筈が無い。もう帰ったに相違ないと思って、引返して姉の
家に行ったが、矢張りまだ帰っていない。 時雄は家に入った。 奥の六畳に通るや否、「芳さんはどうしま
した?」 その答より何より、姉は時雄の着物に夥しく泥の着いているのに驚いて、「まア、どうしたんです
、時雄さん」 明かな洋燈の光で見ると、なるほど、白地の浴衣に、肩、膝、腰の嫌いなく、夥しい泥痕!「
何アに、其処でちょっと転んだものだから」「だッて、肩まで粘いているじゃありませんか。また、酔ッぱら
ったんでしょう」「何アに……」 と時雄は強いて笑ってまぎらした。 さて時を移さず、「芳さん、何処に
行ったんです」「今朝、ちょっと中野の方にお友達と散歩に行って来ると行って出たきりですがね、もう帰っ
て来るでしょう。何か用?」「え、少し……」と言って、「昨日は帰りは遅かったですか」「いいえ、お友達
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か、けれど手紙にも解らぬのは恋のまことの消息であった。 一カ月は過ぎた。 ところが、ある日、時雄は
芳子に宛てた一通の端書を受取った。英語で書いてある端書であった。何気なく読むと、一月ほどの生活費は
準備して行く、あとは東京で衣食の職業が見附かるかどうかという意味、京都田中としてあった。時雄は胸を
轟かした。平和は一時にして破れた。 晩餐後、芳子はその事を問われたのである。 芳子は困ったという風
で、「先生、本当に困って了ったんですの。田中が東京に出て来ると云うのですもの、私は二度、三度まで止
めて遣ったんですけれど、何だか、宗教に従事して、虚偽に生活してることが、今度の動機で、すっかり厭に
なって了ったとか何とかで、どうしても東京に出て来るッて言うんですよ」「東京に来て、何をするつもりな
んだ?」「文学を遣りたいと――」「文学? 文学ッて、何だ。小説を書こうと言うのか」「え、そうでしょ
う……」「馬鹿な!」 と時雄は一喝した。「本当に困って了うんですの」「貴嬢はそんなことを勧めたんじ
ゃないか」「いいえ」と烈しく首を振って、「私はそんなこと……私は今の場合困るから、せめて同志社だけ
でも卒業してくれッて、この間初めに申して来た時に達って止めて遣ったんですけれど……もうすっかり独断
でそうして了ったんですッて。今更取かえしがつかぬようになって了ったんですッて」「どうして?」「神戸
の信者で、神戸の教会の為めに、田中に学資を出してくれている神津という人があるのですの。その人に、田
中が宗教は自分には出来ぬから、将来文学で立とうと思う。どうか東京に出してくれと言って遣ったんですの
。すると大層怒って、それならもう構わぬ、勝手にしろと言われて、すっかり支度をしてしまったんですって
、本当に困って了いますの」「馬鹿な!」 と言ったが、「今一度留めて遣んなさい。小説で立とうなんて思
ったッて、とても駄目だ、全く空想だ、空想の極端だ。それに、田中が此方に出て来ていては、貴嬢の監督上
、私が非常に困る。貴嬢の世話も出来んようになるから、厳しく止めて遣んなさい!」 芳子は愈※(二の字
点、1-2-22)困ったという風で、「止めてはやりますけれど、手紙が行違いになるかも知れませんから
」「行違い? それじゃもう来るのか」 時雄は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)った。「今
Slot >>135
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