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【急騰】今買えばいい株7426【700ルールは?】 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001山師さん 転載ダメ©2ch.net (ワッチョイ 93e6-cGUq)垢版2017/02/09(木) 13:05:18.81ID:1MAyiWJi0
株式板は 実 況 厳 禁 です!!(ローカルルール参照)
実況はコチラへ 市況1板
http://hayabusa3.2ch.net/livemarket1/

・証券コード、銘柄名を併記してください。
・判断材料をできるだけ明確にお願いします。
・注目銘柄の事実に基づいた情報共有が目的なので、単なる買い煽りや自慰行為は控えてください。

*コテハンを付ける方は投資一般板やみんかぶ、ブログやツイッターを強く推奨しています。
*ブログの宣伝行為、スレの私物化は控えてください。

避難所
http://jbbs.shitaraba.net/business/5380/

〇2ちゃんねる初心者の方は必ず使用上のお約束をお読みください。
http://info.2ch.net/guide/faq.html#B0

●次スレは原則>>700が立てること。
※スレ立ての際は1行目に !extend:on:vvvvv:1000:512 と書いて改行、2行目から>>1の本文を書くこと
※スレ番が正しいか確認してから立てること
※700がスレ立てできないことが分かった時点、或いは800以降次スレがなければ有志が立てること
 (乱立防止のためスレ立て宣言推奨)
※スレタイに特定の銘柄名をつけるのはやめましょう。トラブルの原因です。
※スレタイの先頭には【急騰】を、途中には通し番号をつけるのをお忘れなく。

●風説、店板、インサイダーなどの通報はこちら
証券取引等監視委員会 情報提供窓口 
https://www.fsa.go.jp/sesc/watch/index.html

前スレ
【急騰】今買えばいい株7425【単なる負け犬】
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/stock/1486579613/
VIPQ2_EXTDAT: default:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured
0002JR西日本(9021) 買ーいー(^o^)/ (ワッチョイ fed1-eqlU)垢版2017/02/09(木) 22:56:14.60ID:6C/cHFb30
JR西日本(9021) 買ーいー(^o^)/
0003山師さん (ワッチョイ 6332-OX3z)垢版2017/02/10(金) 14:58:38.56ID:inM5yT3c0
アエリアきたーーーーー
0010山師さん (スップ Sd72-ddTb)垢版2017/02/10(金) 14:59:07.45ID:x8AnEa6Kd
三越伊勢丹窪田製薬wwwwww
0012山師さん (ワッチョイ be32-gq7v)垢版2017/02/10(金) 14:59:16.75ID:E5cEOMd30
シャーク麗子(釈麗子) ‏@syakureiko · 1時間1時間前
メガネスーパーもアリペイ決済可能になったとのことよね。

メガネスーパー、全329店舗で「Alipay」が利用可能に
https://www.digima-news.com/20160823_6562

2017/02/10 10:00
モバイル決済「アリペイ」運営元がIPOへ 企業価値は6兆円突破
http://forbesjapan.com/articles/detail/15157/1/1/1
0018山師さん (オッペケ Srf7-CDXn)垢版2017/02/10(金) 14:59:51.74ID:bs/4skiJr
ヤマシナ 逃げてぇぇwwwww
0019山師さん (ワッチョイ d3af-oA82)垢版2017/02/10(金) 15:00:15.19ID:ijJGXAJF0
エムアップw
0020山師さん (ワッチョイ 7b8a-BaAy)垢版2017/02/10(金) 15:00:15.46ID:caG409nk0
雄三おめ!
0022山師さん (アウアウウー Sab3-EEhd)垢版2017/02/10(金) 15:00:45.22ID:YFrozmL1a
ガーラ最後落とすなよ!泣
0028山師さん (ワッチョイ 7697-oA82)垢版2017/02/10(金) 15:01:14.54ID:RtqPwgMm0
おっつー
0030山師さん (ワンミングク MM62-Znb2)垢版2017/02/10(金) 15:01:29.55ID:WVfVnS8rM
エムアップ、空売りかけた日にストップ高食らうのか。ロット多いし、マジで死ぬわ。
0032山師さん (ワッチョイ 07a8-szB2)垢版2017/02/10(金) 15:01:52.14ID:TQBvZxAk0
アエリア最後集めてた化け物いるからいけるかな
0033山師さん (ワッチョイ 3253-Kx9n)垢版2017/02/10(金) 15:02:01.20ID:Bj3wPn/r0
あじかん凄い上方修正
ごぼう茶売れまくりなんだな
0034山師さん (ワンミングク MM62-Znb2)垢版2017/02/10(金) 15:02:16.15ID:WVfVnS8rM
エムアップ900円以上で買えるってすげぇよなぁ…でもそれが正解なんだもんなぁ…はぁ…
0035山師さん (アウアウウー Sab3-EEhd)垢版2017/02/10(金) 15:02:47.03ID:TIN5SHPKa
IRが更新しない
0044山師さん (ワッチョイ 1799-ihKg)垢版2017/02/10(金) 15:08:21.87ID:53pGL7bN0
エムアップ来週暴落こないかな
0045山師さん (ワッチョイ e2e2-H6oi)垢版2017/02/10(金) 15:08:40.00ID:CHy7pzdC0
童貞マジふざけんな!
アエリアがたいした材料じゃなくてもこんな動きできてんのに、童貞の材料で今日の値動きはありえねぇだろ!
何が違うんだよ!マジむかつくわ!
理不尽なことが多すぎる!こんなクソみたいなチャートにしやがって!
もう利益出てる現物もぶん投げたるわ!
ふざけんな!!!!!!!
0046山師さん (スプッッ Sd72-szB2)垢版2017/02/10(金) 15:09:44.18ID:dEE8IDgTd
アエリアまだ時価総額250億だしドリコムぐらいいけるんじゃない
A3オリジナルだしな
0049山師さん (ワッチョイ 7697-oA82)垢版2017/02/10(金) 15:13:16.57ID:RtqPwgMm0
カッパ赤字かよ

まずいもんな。。
0050山師さん (アウアウウー Sab3-Frzy)垢版2017/02/10(金) 15:13:26.89ID:xQoJCwx3a
日本一の決算切ないね
0052山師さん (ワッチョイ b2c6-EN/z)垢版2017/02/10(金) 15:31:08.25ID:U81Y4k/d0
カッパふざけろよ
0054山師さん (ガラプー KK4b-fy4A)垢版2017/02/10(金) 17:20:43.45ID:Ojy+Jvq3K
イマジニア
0055山師さん (ガラプー KK4b-VCcS)垢版2017/02/10(金) 17:31:16.27ID:AYH9YI0+K
イマジニア上がりそうだよな
0056山師さん (ワッチョイ 9b43-1U8y)垢版2017/02/10(金) 18:22:10.68ID:g4GBqrnk0
努力もなく富を得る石油が嫌い死ね産油国
0060山師さん (ワッチョイ 93e6-cGUq)垢版2017/02/13(月) 13:51:47.76ID:6SjnWi1/0
アエリアせやから先週言うたやろ
エヌジェイとケイブパターンやって
金曜セールスランキング上げは警戒しろって
0061山師さん (ワッチョイ be32-S84b)垢版2017/02/13(月) 14:04:08.34ID:6dM6+PTB0
あげ
0064山師さん (ワッチョイ e739-GqLX)垢版2017/02/14(火) 18:41:04.62ID:U9/0QRQc0

 ち
  の
   東
    芝
     シ
      ョ
       ッ
        ク
        で
        あ
        る
0065山師さん (アウアウエー Sa4a-HhqT)垢版2017/02/15(水) 06:22:11.22ID:PapwN3Y4a
おまえらいいからコロムビアにきなさい
アイマス関連銘柄で当期利益14億
時価総額は赤字のゲーム会社並みの100億以下
0069山師さん (スッップ Sd7f-bQTg)垢版2017/02/16(木) 18:39:20.15ID:TqythuF2d
>>68
すごいね。これぐらい原資が大きいと
強いね。
俺はテオ申し込んだけど、原資を発表してないんで、入金してない。
0071山師さん (ワッチョイ 0fd2-eq+O)垢版2017/02/17(金) 10:17:19.19ID:9HEoy8tR0
         ____
       /   u \
      /  \    /\    体が、、、か。。ら・・だが求める・・・・・・・・・・・・・・・
    /  し (>)  (<)\
    | ∪    (__人__)  J |
     \  u   `⌒´   /
    ノ           \
  /´               ヽ
 |    l



         ____
       /      \
      /  rデミ    \   ナンピンという座薬を
    /     `ー′ /でン \
    |     、   .ゝ    |
     \     ヾニァ'   /
    ノ           \
  /´               ヽ
 |    l
0072山師さん (ワッチョイ 3b99-MWSA)垢版2017/02/17(金) 10:18:43.37ID:/6yElTjk0
アスクルの拠点は全国に点在してるから大きな影響はでないな
0074山師さん (ガラプー KK1f-gatp)垢版2017/02/17(金) 10:31:12.45ID:zDKyd78BK
データセクション割安だよな200だけ買った
0076山師さん (ワッチョイ db7c-Z7AI)垢版2017/02/17(金) 18:49:02.75ID:+0nuliHD0
前スレ>>959
自分もZは途中で辞めた口なんだが
今回はこれで完結するって話なのとヤマト出てくるから買うわ
波動砲打ちたい
0077山師さん (ワッチョイ fb4b-llxN)垢版2017/02/20(月) 11:15:22.90ID:7Uig4edM0
雨は降るーー
あなたはー来ない、、、
0078山師さん (アウアウカー Sa9f-6x/Q)垢版2017/02/20(月) 19:36:25.52ID:tmcG5xSPa
さくら公募辛いね
0081山師さん (ワッチョイ d382-StGu)垢版2017/04/05(水) 13:33:38.92ID:3jJOX8B10
速報:シリア北部の反体制派支配地域に化学兵器使用とみられる空爆。少なくとも58人死亡とシリア人権監視団。
0084山師さん (ラクッペ MM6f-5Mq1)垢版2017/04/14(金) 06:26:38.17ID:88qTOECGM
昨日、Twitterで自民党筋の話だとGW辺りにアメリカと北朝鮮の開戦が濃厚とかあったが、本当なのか?
よりによってGWに中国旅行予約しちまったんだが、株価よりこっちのが心配だわ
0086山師さん (ワッチョイ 5b87-aED9)垢版2017/04/27(木) 16:53:12.71ID:AELl/mpn0
システムソフト
0087山師さん (ワッチョイ 5b5d-PXQB)垢版2017/04/27(木) 16:56:40.26ID:64ipM9ch0
【7191 イントラスト】
3/9
大和リビングにて採用が決定
http://pdf.irpocket.com/C7191/o1Tt/jC9b/Blhn.pdf
3/13
三菱総合研究所と共同特許出願
http://pdf.irpocket.com/C7191/o1Tt/bhTx/R7Hl.pdf
3/24
大和ハウスグループへサービスを提供
http://pdf.irpocket.com/C7191/o1Tt/kSJ2/Rnx0.pdf
3/27
広島大学病院にて採用が決定
http://pdf.irpocket.com/C7191/SAip/gJ1A/RM77.pdf
4/4
住友不動産株式会社にて導入が決定
http://pdf.irpocket.com/C7191/SAip/e2vT/zkPa.pdf
4/7
東京女子医科大学附属八千代医療センターに導入決定
http://pdf.irpocket.com/C7191/SAip/qF2K/CaDc.pdf
4/11
鹿児島大学病院に導入決定
http://pdf.irpocket.com/C7191/SAip/SPle/s6De.pdf
4/18
日本航空(9201)が出資するJALUX(2729)と連携し、同社が大手損害保険会社と共同開発した医療費用保証商品【虹】の導入先の開拓を行うことで同意した
http://pdf.irpocket.com/C7191/SAip/DAb0/QHad.pdf
4/25
事業用向け、新たな賃料債務保証商品を開発。販売を本格始動
http://pdf.irpocket.com/C7191/wReJ/fwvA/b8nn.pdf
0088山師さん (ワントンキン MM62-cFHb)垢版2017/05/08(月) 16:53:12.28ID:dMdJBP8zM
88
0089山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/16(火) 22:10:50.06ID:1nPZrUgf0
 先生が私の家いえの経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ
先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして
遊んでいられるかを疑うたぐった。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな
露骨あらわな問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲
れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
 先生は平生からむしろ質素な服装なりをしていた。それに家内かないは小人数こにんずであった。した
がって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私
の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは贅沢ぜいたくといえないまでも、あたじけなく切り詰
めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家う
ちでも造るさ」
 この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐あぐらをかいていたが、こういい終ると、竹の杖つえの先で
地面の上へ円のようなものを描かき始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっす
ぐに立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
 先生の言葉は半分独ひとり言ごとのようであった。それですぐ後あとに尾ついて行き損なった私は、つ
い黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも
何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を他よそへ移し
た。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
 私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替かわせと共に来る簡
単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせきであったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。
その上書体も確かであった。この種の病人に見る顫ふるえが少しも筆の運はこびを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう好いいんでしょう」
「好よければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
 私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かん
だままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付
ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。

二十八

「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余
計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰もらうものはちゃんと貰っておくようにしたら
どうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
 私わたくしは先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に
限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまり
に実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ことばづかいをするのが気
に触さわったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬ
か分らないものだからね」
 先生の口気こうきは珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄弟きょうだいは何人でしたかね」と先生が聞いた。
 先生はその上に私の家族の人数にんずを聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父おじや叔母おばの様子
0090山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/16(火) 22:12:29.22ID:1nPZrUgf0
「つまり私のためなら、止よして下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭いやだからという
ご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありま
せん」
「そう理屈をいわれると困る」
 父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義
理ぐらいは知っているだろう」
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せても
なかなか敵かなうどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に
対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに
、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
 父はその夜よまた気を更かえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合の好いいも
悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折
れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の
上招待しょうだいの日取りを極きめた。
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報
知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を
経てようやく纏まとまろうとした私の卒業祝いを、塵ちりのごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかっ
た。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下を憶おもい出したりした。



 小勢こぜいな人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私わたくしは行李こうりを解い
て書物を繙ひもとき始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階
で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持
よく勉強ができた。
 私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざ枕まくらさえ出して本式に昼寝
を貪むさぼる事もあった。眼が覚めると、蝉せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、
急に八釜やかましく耳の底を掻かき乱した。私は凝じっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱い
だいた。
 私は筆を執とって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。その友達のあるものは東
京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった
。私は固もとより先生を忘れなかった。原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分とい
うようなものを題目にして書き綴つづったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ
東京にいるだろうかと疑うたぐった。先生が奥さんといっしょに宅うちを空あける場合には、五十恰好が
っこうの切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生に
あの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違え
ていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一
向いっこう音信の取とり遣やりをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁の
ない奥さんの方の親戚しんせきであった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んで
いるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あ
の切下のお婆ばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考え
た。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能よく承知していた
。ただ私は淋さびしかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はつい
に来なかった。
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜たまっ
たまま、床とこの間まの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝じっと考え込んでいる
0091山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/16(火) 22:12:38.10ID:1nPZrUgf0
ように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読よみがらをわざ
わざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
 こういう父の顔には深い掛念けねんの曇くもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ
斃たおれるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下くだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己おのれに落ちかかって来そうな危険を予感してい
るらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖こわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生き
る気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭ふいた。



 父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが
自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺なが
めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしん
でくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという
気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。
私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くら
しい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さ
んの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方
が好かったんだよ」
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それ
から一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われ
たも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
 父はその後あとをいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三
寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風の
ない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打
たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの
凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地の
なかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつ
て先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね
」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見
せるのが恥ずかしくもあった。
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有
様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面
に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている
なかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と
0092山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/16(火) 22:13:23.11ID:1nPZrUgf0
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒なおったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃあ
りませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚びっくりしますよ、変っているんで
。電車の新しい線路だけでも大変増ふえていますからね。電車が通るようになれば自然町並まちなみも変
るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝じっとしている時は、まあ二六時中にろくじちゅう一分もな
いといっていいくらいです」
 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌しゃべった。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
 病人があるので自然家いえの出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代
る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平生へいぜい疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、こ
の様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠やせていないじゃないか」などといって帰る
ものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし
始めた。
 その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父おじ
と相談して、とうとう兄と妹いもとに電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも
立つという報知しらせがあった。妹はこの前懐妊かいにんした時に流産したので、今度こそは癖にならな
いように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れな
かった。

十一

 こうした落ち付きのない間にも、私わたくしはまだ静かに坐すわる余裕をもっていた。偶たまには書物
を開けて十頁ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦いったん堅く括くくられた私の行李こう
りは、いつの間にか解かれてしまった。私は要いるに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は
東京を立つ時、心のうちで極きめた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三さんが一い
ちにも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通
り仕事の運ばない例ためしも少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭いやな気持に抑
おさえ付けられた。
 私はこの不快の裏うちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後あとの事を想像した。そ
うしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全
然異なった二人の面影を眺ながめた。
 私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出し
た。
「少し午眠ひるねでもおしよ。お前もさぞ草臥くたびれるだろう」
 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡た
んかんに礼を述べた。母はまだ室へやの入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝てお出いでだよ」と母が答えた。
 母は突然はいって来て私の傍そばに坐すわった。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
 母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし
父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺
あざむいたと同じ結果に陥った。
「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」と母がいった。
 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭いとうような私ではなかった
。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱しかられたり、母の機嫌を損
じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥はるかに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰
もらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒らちは明きませんよ。どうしても自分
で東京へ出て、じかに頼んで廻まわらなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです
0093山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/16(火) 22:15:56.11ID:1nPZrUgf0
うちに閉じ籠こもっていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調
戯からかわれました。いつ妻さいを迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君
さいくんは非常に美人だといって賞ほめるのです。私は三人連づれで日本橋へ出掛けたところを、その男
にどこかで見られたものとみえます。

十八

「私は宅うちへ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だ
ろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな風ふうにして、女から気を引いて見
られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその
時自分の考えている通りを直截ちょくせつに打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私には
もう狐疑こぎという薩張さっぱりしない塊かたまりがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、
ひょいと留とまりました。そうして話の角度を故意に少し外そらしました。
 私は肝心かんじんの自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚
について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らか
に私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと
説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分だいぶ重きを置いているらしく
見えました。極きめようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それか
らお嬢さんより外ほかに子供がないのも、容易に手離したがらない源因げんいんになっていました。嫁に
やるか、聟むこを取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
 話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は
機会を逸いっしたと同様の結果に陥おちいってしまいました。私は自分について、ついに一言いちごんも
口を開く事ができませんでした。私は好いい加減なところで話を切り上げて、自分の室へやへ帰ろうとし
ました。
 さっきまで傍そばにいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に
行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その後姿うしろすがたを見た
のです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか
、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして坐すわっていました。その戸棚の一尺しゃ
くばかり開あいている隙間すきまから、お嬢さんは何か引き出して膝ひざの上へ置いて眺ながめているら
しかったのです。私の眼はその隙間の端はじに、一昨日おととい買った反物たんものを見付け出しました
。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
 私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くの
です。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解わからないほど不意でした。それがお嬢さんを
早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然はっきりした時、私はなるべく緩ゆっくらな方がいい
だろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入いり込まなければならない事にな
りました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来きたしています。もしそ
の男が私の生活の行路こうろを横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必
要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気
が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を宅うちへ引張ひっぱって来たのです。
無論奥さんの許諾きょだくも必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです
。ところが奥さんは止よせといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せと
いう奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の善いいと思うところを強
しいて断行してしまいました。

十九

「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供こどもの時からの仲好なかよしでし
た。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは
0094山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/16(火) 23:51:21.95ID:1nPZrUgf0
と手足の運動を已やめて仰向けになったまま浪なみの上に寝た。私もその真似まねをした。青空の色がぎ
らぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
0095山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/17(水) 00:08:54.99ID:7/Y09tcf0
えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極きまりが悪くなった。「先生は?」と聞
き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘の
ような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解わかった。私が先生先生と呼び掛け
るので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。私はこ
の間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の
話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになった
のは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、ど
うしても思い出せないといった。若い私はその時暗あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまい
かと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんし
たあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は
変に一種の失望を感じた。



 私わたくしは月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は
先生と別れる時に、「これから折々お宅たくへ伺っても宜よござんすか」と聞いた。先生は単簡たんかん
にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりで
いたので、先生からもう少し濃こまやかな言葉を予期して掛かかったのである。それでこの物足りない返
事が少し私の自信を傷いためた。
 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く
気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く
気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺うごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった
。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私
は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先
生に対してだけこんな心持が起るのか解わからなかった。それが先生の亡くなった今日こんにちになって
、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の
素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったので
ある。傷いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止よせと
いう警告を与えたのである。他ひとの懐かしみに応じない先生は、他ひとを軽蔑けいべつする前に、まず
自分を軽蔑していたものとみえる。
 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数
ひかずがあるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経たつうちに、鎌倉
かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩いろどられる大都会の空気が、記憶
の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい
学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛たるみができてきた。私は何だか不足な
顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室へやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔
が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
 始めて先生の宅うちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
晴れた空が身に沁しみ込むように感ぜられる好いい日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌
いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不
満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそ
こに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内うちへはいった
。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
 私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしが
0096山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/17(水) 00:13:17.68ID:7/Y09tcf0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
0097山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/17(水) 00:16:04.53ID:7/Y09tcf0
。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて
東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていい
か分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それ
0098山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/17(水) 00:18:22.04ID:7/Y09tcf0
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。すると彼
らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅とおあさの磯近いそちかくにわいわい騒いで
いる多人数たにんずの間あいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの
頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛
茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだを拭ふいて着物を着て、さっさとどこへか行ってし
まった。
 彼らの出て行った後あと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。そ
の時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなか
った。しかしどうしてもいつどこで会った人か想おもい出せずにしまった。
 その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。それで翌日あくるひ
もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。すると西洋人は来
0099山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/17(水) 00:19:25.00ID:7/Y09tcf0
学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛たるみができてきた。私は何だか不足な
顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室へやの中を見廻みまわした。私の頭には再び先生の顔
が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
 始めて先生の宅うちを訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
晴れた空が身に沁しみ込むように感ぜられる好いい日和ひよりであった。その日も先生は留守であった。
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌
いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不
満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそ
こに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内うちへはいった
。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
0100山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/17(水) 00:19:42.96ID:7/Y09tcf0
て繰り返された。私は急に何とも応こたえられなくなった。
「私の後あとを跟つけて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中うちには判然はっ
きりいえないような一種の曇りがあった。
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰だれの墓へ参りに行ったか、妻さいがその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだ
から」
 先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解わからなかっ
た。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼ
くロギンの墓だのという傍かたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた
塔婆とうばなどが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫ほり付けた小さい墓の
前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」と
0101山師さん (ワッチョイ cf94-gwaZ)垢版2017/05/17(水) 00:23:06.67ID:7/Y09tcf0
こころ
夏目漱石
 私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けな
い。これは世間を憚はばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記
憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい
頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休
暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面
くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着い
て三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報に
は母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親た
ちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた
0102山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:12:10.44ID:7/Y09tcf0
二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。先生はそ
の日横浜よこはまを出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って
留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃ころの習慣であった。私
0103山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:12:26.42ID:7/Y09tcf0
はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九
時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起っ
た出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は
0105山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:12:58.48ID:7/Y09tcf0
 その時の私わたくしはすでに大学生であった。始めて先生の宅うちへ来た頃ころから見るとずっと成人
した気でいた。奥さんとも大分だいぶ懇意になった後のちであった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じ
0106山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:13:14.59ID:7/Y09tcf0
なかった。差向さしむかいで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで
忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと
断っておきたい事がある。
0107山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:13:30.48ID:7/Y09tcf0
 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるとい
う事は、東京へ帰って少し経たってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った
0108山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:13:46.49ID:7/Y09tcf0
 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密
切みっせつの関係をもっている私より外ほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常
に惜おしい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利きいては済まない」と答
0109山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:14:02.50ID:7/Y09tcf0
えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも
聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれを捉とらえて、ひどく無遠慮な
批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。私の精神は反抗の
0110山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:14:18.51ID:7/Y09tcf0
意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ
調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。
先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解わ
0111山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:14:34.52ID:7/Y09tcf0
からなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気
が出なかった。
 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
0112山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:14:50.58ID:7/Y09tcf0
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでし
ょう」
「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」
0113山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:15:06.51ID:7/Y09tcf0
「つまり下くだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃ
ないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
0114山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:15:22.55ID:7/Y09tcf0
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
0115山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:15:38.48ID:7/Y09tcf0
「それが解わからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わか
らないから気の毒でたまらないんです」
 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方
0116山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:15:54.54ID:7/Y09tcf0
がむしろ真面目まじめだった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したよう
にまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまった
0119山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:16:42.55ID:7/Y09tcf0
十二

 奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「
0120山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:16:58.56ID:7/Y09tcf0
本当いうと合あいの子こなんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出である
のに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶんの市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半
分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。だから奥さんがもし
0121山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:17:14.55ID:7/Y09tcf0
先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をし
た奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
 先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触
0122山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:17:30.57ID:7/Y09tcf0
れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善
意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと
慎つつしんでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限
0123山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:17:46.53ID:7/Y09tcf0
らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶つやっぽい問題にな
ると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった
。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
0124山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:18:02.64ID:7/Y09tcf0
 私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描えがき得たに過ぎなかっ
た。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見
惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる
0125山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:18:18.56ID:7/Y09tcf0
。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊して
しまった。
 私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛につ
0126山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:18:34.59ID:7/Y09tcf0
いては、先刻さっきいった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎
みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
 ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或ある時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえ
0127山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:18:50.63ID:7/Y09tcf0
のへ行った。そうしてそこで美しい一対いっついの男女なんにょを見た。彼らは睦むつまじそうに寄り添
って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙そばだてている人が沢山あ
った。
0128山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:19:06.62ID:7/Y09tcf0
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲が好よさそうですね」と私が答えた。
 先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外ほかに置くような方角へ足を向けた。それから私に
0131山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:19:54.61ID:7/Y09tcf0
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相
手を得られないという不快の声が交まじっていましょう」
0132山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:20:10.67ID:7/Y09tcf0
「そんな風ふうに聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋
は罪悪ですよ。解わかっていますか」
0134山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:20:42.63ID:7/Y09tcf0
 我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉うれしそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見
えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
0135山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:20:58.63ID:7/Y09tcf0
「恋は罪悪ですか」と私わたくしがその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
0136山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:21:14.64ID:7/Y09tcf0
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに
恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何
0137山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:21:30.65ID:7/Y09tcf0
にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
0138山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:21:46.67ID:7/Y09tcf0
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
0139山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:22:02.65ID:7/Y09tcf0
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たので
す」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
0140山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:22:18.64ID:7/Y09tcf0
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特
別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っていま
す。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし…
0141山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:22:34.73ID:7/Y09tcf0
…」
 私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだあ
0142山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:22:50.66ID:7/Y09tcf0
りません」
 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もない
0143山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:23:06.65ID:7/Y09tcf0
が、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
 私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味
は朦朧もうろうとしてよく解わからなかった。その上私は少し不愉快になった。
0144山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:23:22.66ID:7/Y09tcf0
「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで
切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらし
0145山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:23:38.77ID:7/Y09tcf0
ていたのだ。私は悪い事をした」
 先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間すきまか
ら広い庭の一部に茂る熊笹くまざさが幽邃ゆうすいに見えた。
0146山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:23:54.69ID:7/Y09tcf0
「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地に埋うまっている友人の墓へ参るのか知っていま
すか」
 先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく
0147山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:24:10.73ID:7/Y09tcf0
承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを
焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止やめましょう。とにかく恋は罪悪で
0148山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:24:26.69ID:7/Y09tcf0
すよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
 私には先生の話がますます解わからなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
0149山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:24:42.71ID:7/Y09tcf0
十四

 年の若い私わたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っ
0150山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:24:58.68ID:7/Y09tcf0
ていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思
想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもた
だ独ひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
0151山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:25:14.70ID:7/Y09tcf0
「あんまり逆上のぼせちゃいけません」と先生がいった。
「覚さめた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯う
けがってくれなかった。
0152山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:25:30.73ID:7/Y09tcf0
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭いやになります。私は今のあなたからそれほどに
思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお
苦しくなります」
0153山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:25:46.84ID:7/Y09tcf0
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
0154山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:26:02.82ID:7/Y09tcf0
 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿
つばきの花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺ながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
0155山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:26:18.85ID:7/Y09tcf0
 その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。その外ほかには何の聞こえるものもなかった。
大通りから二丁ちょうも深く折れ込んだ小路こうじは存外ぞんがい静かであった。家うちの中はいつもの
通りひっそりしていた。私は次の間まに奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さ
0156山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:26:34.74ID:7/Y09tcf0
んの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
0157山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:26:50.75ID:7/Y09tcf0
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないよう
になっているのです。自分を呪のろうより外ほかに仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
0158山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:27:06.77ID:7/Y09tcf0
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖こわくなったんで
す」
 私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。すると襖ふすまの陰で「あなた、あなた」とい
0159山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:27:22.75ID:7/Y09tcf0
う奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の
間まへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解わからなかった。それを想像する余裕を与
えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
0160山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:27:38.81ID:7/Y09tcf0
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺あざむかれた返報
に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
0161山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:27:54.76ID:7/Y09tcf0
「かつてはその人の膝ひざの前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせ
ようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥しりぞけたいと思うのです。私は今
より一層淋さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己おの
0162山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:28:10.74ID:7/Y09tcf0
れとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょ
う」
 私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。
0164山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:28:42.78ID:7/Y09tcf0
 その後ご私わたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度
に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
 奥さんの様子は満足とも不満足とも極きめようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会が
0165山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:28:58.76ID:7/Y09tcf0
なかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と
奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。
 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷た
0166山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:29:14.80ID:7/Y09tcf0
い眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐すわって考える質たちの人で
あった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか
。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石
0167山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:29:30.79ID:7/Y09tcf0
造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれど
もその思想家の纏まとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離さ
れた他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほど
0168山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:29:46.78ID:7/Y09tcf0
の事実が、畳み込まれているらしかった。
 これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯
みねのようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽おおい被かぶせた。そうしてなぜそ
0169山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:30:02.76ID:7/Y09tcf0
れが恐ろしいか私にも解わからなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震ふる
わせた。
 私は先生のこの人生観の基点に、或ある強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に
0170山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:30:18.93ID:7/Y09tcf0
起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛てがかりにもな
った。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世えんせいに近
い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の
0171山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:30:34.80ID:7/Y09tcf0
頭の上に足を載のせさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼たれかれについて用いられ
るべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
 雑司ヶ谷ぞうしがやにある誰だれだか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが
0172山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:30:50.81ID:7/Y09tcf0
先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のでき
ない私は、先生の頭の中にある生命いのちの断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども
私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命いのちの扉を開ける鍵かぎにはならな
0173山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:41:06.97ID:7/Y09tcf0
先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰もらうものは、分けて貰って置けと
いう注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試ためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死
0174山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:41:22.91ID:7/Y09tcf0
ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方
が剣呑けんのんさ」
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐ちんぷなような母の言葉を黙然もくねんと
0176山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:41:54.90ID:7/Y09tcf0
 私わたくしのために赤い飯めしを炊たいて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日
から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗あんにそれを恐れていた。私はすぐ断わっ
0177山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:42:10.90ID:7/Y09tcf0
た。
「あんまり仰山ぎょうさんな事は止よしてください」
 私は田舎いなかの客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、
0178山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:42:26.88ID:7/Y09tcf0
何か事があれば好いいといった風ふうの人ばかり揃そろっていた。私は子供の時から彼らの席に侍じする
のを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚はなはだしい
ように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた
0179山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:42:42.86ID:7/Y09tcf0
。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山仰山とおいいだが、些ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐ
らいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為しでない」
0180山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:42:58.92ID:7/Y09tcf0
 母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰もらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくっても好いいが、呼ばないとまた何とかいうから」
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期
0181山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:43:14.96ID:7/Y09tcf0
通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅うるさいからね」
 父はこうもいった。
0182山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:43:30.90ID:7/Y09tcf0
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
 私は我がを張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好いいようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、止よして下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭いやだからという
0183山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:43:47.05ID:7/Y09tcf0
ご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありま
せん」
「そう理屈をいわれると困る」
0184山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:44:02.93ID:7/Y09tcf0
 父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義
理ぐらいは知っているだろう」
0185山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:44:18.91ID:7/Y09tcf0
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せても
なかなか敵かなうどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
0186山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:44:34.91ID:7/Y09tcf0
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に
対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに
、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
0187山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:44:50.95ID:7/Y09tcf0
 父はその夜よまた気を更かえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合の好いいも
悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折
れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の
0188山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:45:06.97ID:7/Y09tcf0
上招待しょうだいの日取りを極きめた。
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報
知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を
0189山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:45:22.96ID:7/Y09tcf0
経てようやく纏まとまろうとした私の卒業祝いを、塵ちりのごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかっ
0190山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:45:38.98ID:7/Y09tcf0
た。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下を憶おもい出したりした。

0191山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:45:55.05ID:7/Y09tcf0
 小勢こぜいな人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私わたくしは行李こうりを解い
て書物を繙ひもとき始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階
0192山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:46:10.95ID:7/Y09tcf0
で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持
よく勉強ができた。
 私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざ枕まくらさえ出して本式に昼寝
0193山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:46:26.98ID:7/Y09tcf0
を貪むさぼる事もあった。眼が覚めると、蝉せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、
急に八釜やかましく耳の底を掻かき乱した。私は凝じっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱い
だいた。
0194山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:46:43.00ID:7/Y09tcf0
 私は筆を執とって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。その友達のあるものは東
京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった
。私は固もとより先生を忘れなかった。原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分とい
0195山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:46:59.02ID:7/Y09tcf0
うようなものを題目にして書き綴つづったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ
東京にいるだろうかと疑うたぐった。先生が奥さんといっしょに宅うちを空あける場合には、五十恰好が
っこうの切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生に
0196山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:47:15.00ID:7/Y09tcf0
あの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違え
ていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一
向いっこう音信の取とり遣やりをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁の
0197山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:47:31.01ID:7/Y09tcf0
ない奥さんの方の親戚しんせきであった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んで
いるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あ
の切下のお婆ばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考え
0198山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:47:47.11ID:7/Y09tcf0
た。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能よく承知していた
。ただ私は淋さびしかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はつい
に来なかった。
0199山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:48:03.00ID:7/Y09tcf0
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜たまっ
たまま、床とこの間まの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝じっと考え込んでいる
ように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読よみがらをわざ
0200山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:48:19.06ID:7/Y09tcf0
わざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
0201山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:48:35.04ID:7/Y09tcf0
「勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
 こういう父の顔には深い掛念けねんの曇くもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ
斃たおれるか分らないという心配がひらめいた。
0202山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:48:51.01ID:7/Y09tcf0
「しかし大丈夫だろう。おれのような下くだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己おのれに落ちかかって来そうな危険を予感してい
るらしかった。
0203山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:49:06.99ID:7/Y09tcf0
「お父さんは本当に病気を怖こわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生き
る気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
0204山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:49:23.04ID:7/Y09tcf0
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭ふいた。
0205山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:49:39.03ID:7/Y09tcf0


 父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが
0206山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:49:55.00ID:7/Y09tcf0
自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺なが
めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしん
でくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという
0207山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:50:11.04ID:7/Y09tcf0
気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。
私にはそうばかりとも思えなかった。
0208山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:50:27.08ID:7/Y09tcf0
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くら
しい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
0209山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:50:43.05ID:7/Y09tcf0
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さ
んの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方
が好かったんだよ」
0210山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:50:59.08ID:7/Y09tcf0
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それ
から一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われ
0211山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:51:15.09ID:7/Y09tcf0
たも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
0212山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:51:31.21ID:7/Y09tcf0
 父はその後あとをいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三
寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風の
0213山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:51:47.11ID:7/Y09tcf0
ない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打
たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの
凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地の
0214山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:52:03.14ID:7/Y09tcf0
なかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつ
て先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね
」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見
0215山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:52:19.12ID:7/Y09tcf0
せるのが恥ずかしくもあった。
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有
様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面
0216山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:52:35.11ID:7/Y09tcf0
に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている
なかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と
捲まき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯ひもまたふっと消えてしまうべき運
0217山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:52:51.18ID:7/Y09tcf0
命を、眼めの前に控えているのだとは固もとより気が付かなかった。
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執とりかけた。私はそれを十行ばかり書
いて已やめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生に宛あててそう
0218山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:53:07.20ID:7/Y09tcf0
いう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴ちょうしてみると、とても返事をくれそうになかっ
たから)。私は淋さびしかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好いいと思うので
あった。
0220山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:53:39.21ID:7/Y09tcf0
 八月の半なかばごろになって、私わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。その中に地方の
中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻
まわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好いい地方へ相談ができたの
0221山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:53:55.18ID:7/Y09tcf0
で、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻
まわしてやったら好よかろうと書いた。
0222山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:54:11.19ID:7/Y09tcf0
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだ好いい口があるだろう」
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は
0223山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:54:27.22ID:7/Y09tcf0
、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんな旨うまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さん
と私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
0224山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:54:43.20ID:7/Y09tcf0
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなた
の所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしてお出いでですかと聞かれた時に返事ができないよう
じゃ、おれも肩身が狭いから」
0225山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:54:59.18ID:7/Y09tcf0
 父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。そ
の郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ
百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業
0226山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:55:15.24ID:7/Y09tcf0
したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まる
で足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持
を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくの甚はなは
0227山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:55:31.26ID:7/Y09tcf0
だしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いいじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうより外ほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きている
0228山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:55:47.21ID:7/Y09tcf0
うちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人では
なかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
0229山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:56:03.24ID:7/Y09tcf0
「何にもしていないんです」と私が答えた。
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はた
しかにそれを記憶しているはずであった。
0230山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:56:19.24ID:7/Y09tcf0
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやって
いそうなものだがね」
 父はこういって、私を諷ふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得
0231山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:56:35.38ID:7/Y09tcf0
て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
0232山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:56:51.24ID:7/Y09tcf0
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いいからお出しな」
0234山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:57:23.27ID:7/Y09tcf0


 父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困ら
0235山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:57:39.31ID:7/Y09tcf0
す質たちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
 父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後あとのわが家いえを想像して
見るらしかった。
0236山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:57:55.26ID:7/Y09tcf0
「小供こどもに学問をさせるのも、好よし悪あしだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅う
ちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
 学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、私わたくしはまた東京に住む覚悟を
0237山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:58:11.30ID:7/Y09tcf0
固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いな
かやの中に、たった一人取り残されそうな母を描えがき出す父の想像はもとより淋さびしいに違いなかっ
た。
0238山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:58:27.32ID:7/Y09tcf0
 わが家いえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動
かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後あと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんど
うのわが家に取り残すのもまた甚はなはだしい不安であった。それだのに、東京で好いい地位を求めろと
0239山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:58:43.31ID:7/Y09tcf0
いって、私を強しいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭
かげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
 私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった
0240山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:58:59.28ID:7/Y09tcf0
。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精くわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもす
るから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また
取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。し
0241山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:59:15.31ID:7/Y09tcf0
かし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
 私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
0242山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:59:31.29ID:7/Y09tcf0
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他ひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
0243山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 12:59:47.27ID:7/Y09tcf0
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好いい口がないとも限らないんだから、
早く頼んでおくに越した事はないよ」
0244山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:00:03.41ID:7/Y09tcf0
「ええ。とにかく返事は来るに極きまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待
った。けれども私の予期はついに外はずれた。先生からは一週間経たっても何の音信たよりもなかった。
0245山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:00:19.34ID:7/Y09tcf0
「大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
 私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対す
る言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強しいても何かの事情を仮定して先生の態
0246山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:00:35.40ID:7/Y09tcf0
度を弁護しなければ不安になった。
 私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの
病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生
0248山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:01:07.43ID:7/Y09tcf0
 九月始めになって、私わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り
学資を送ってくれるようにと頼んだ。
0249山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:01:23.33ID:7/Y09tcf0
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
 私は父の希望する地位を得うるために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまでで好いいですから」ともいった。
0250山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:03:19.92ID:7/Y09tcf0
ろしく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入いったものと記憶しています。私はそれを読ん
だ時何なんとかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし
自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭
0251山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:03:36.05ID:7/Y09tcf0
いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力を
あえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどう
すれば好いいのかと思い煩わずらっていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのよ
0252山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:03:52.05ID:7/Y09tcf0
うに存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたび
にぞっとしました。馳足かけあしで絶壁の端はじまで来て、急に底の見えない谷を覗のぞき込んだ人のよ
うに。私は卑怯ひきょうでした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶はんもんしたのです。
0253山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:04:07.94ID:7/Y09tcf0
遺憾いかんながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張で
はありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口ここうの資し、そんなものは私にとって
まるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は
0254山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:04:23.94ID:7/Y09tcf0
状差じょうさしへあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅うちに相応
の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻もがき廻まわるのか
。私はむしろ苦々にがにがしい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥いちべつを与えただけでした。私
0255山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:04:39.92ID:7/Y09tcf0
は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳いいわけのためにこんな事を打ち明けるのです。あ
なたを怒らすためにわざと無躾ぶしつけな言葉を弄ろうするのではありません。私の本意は後あとをご覧
になればよく解わかる事と信じます。とにかく私は何とか挨拶あいさつすべきところを黙っていたのです
0256山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:04:55.96ID:7/Y09tcf0
から、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
 その後ご私はあなたに電報を打ちました。有体ありていにいえば、あの時私はちょっとあなたに会いた
かったのです。それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返
0257山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:05:11.95ID:7/Y09tcf0
電を掛かけて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺ながめてい
ました。あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、
あなたの出京しゅっきょうできない事情がよく解わかりました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う
0258山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:05:27.97ID:7/Y09tcf0
訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち退のけにして、何であなたが宅うちを空あけら
れるものですか。そのお父さんの生死しょうしを忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実
際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる頃ころ
0259山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:05:43.98ID:7/Y09tcf0
には、難症なんしょうだからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。私は
こういう矛盾な人間なのです。あるいは私の脳髄のうずいよりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛
盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の我がを認めています。あな
0260山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:06:00.00ID:7/Y09tcf0
たに許してもらわなくてはなりません。
 あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それ
でその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執とりかけましたが、一行も書かずに已やめました。どうせ
0261山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:06:16.02ID:7/Y09tcf0
書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたか
ら、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。
0262山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:06:32.00ID:7/Y09tcf0


「私わたくしはそれからこの手紙を書き出しました。平生へいぜい筆を持ちつけない私には、自分の思う
0263山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:06:48.01ID:7/Y09tcf0
ように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義
務を放擲ほうてきするところでした。しかしいくら止よそうと思って筆を擱おいても、何にもなりません
でした。私は一時間経たたないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行す
0264山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:07:04.02ID:7/Y09tcf0
いこうを重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否いなみません。私はあなたの
知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右
前後を見廻みまわしても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切
0265山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:07:20.02ID:7/Y09tcf0
り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭
敏えいびん過ぎて刺戟しげきに堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になっ
たのです。だから一旦いったん約束した以上、それを果たさないのは、大変厭いやな心持です。私はあな
0266山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:07:36.03ID:7/Y09tcf0
たに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
 その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だか
ら、私だけの所有といっても差支さしつかえないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいとも
0267山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:07:51.99ID:7/Y09tcf0
いわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらい
なら、私はむしろ私の経験を私の生命いのちと共に葬ほうむった方が好いいと思います。実際ここにあな
たという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはなら
0268山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:08:08.03ID:7/Y09tcf0
ないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいの
です。あなたは真面目まじめだから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったか
ら。
0269山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:08:23.99ID:7/Y09tcf0
 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗い
ものを凝じっと見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫つかみなさい。私の暗いというのは
、固もとより倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫
0270山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:08:40.01ID:7/Y09tcf0
理上の考えは、今の若い人と大分だいぶ違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私
自身のものです。間に合せに借りた損料着そんりょうぎではありません。だからこれから発達しようとい
うあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
0271山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:08:56.06ID:7/Y09tcf0
 あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対す
る態度もよく解わかっているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑けいべつまでしなかったけれども、決し
て尊敬を払い得うる程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の
0272山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:09:12.08ID:7/Y09tcf0
過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私
に見せた。その極きょくあなたは私の過去を絵巻物えまきもののように、あなたの前に展開してくれと逼
せまった。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮ぶえんりょに私の腹の中か
0273山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:09:28.00ID:7/Y09tcf0
ら、或ある生きたものを捕つらまえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流
れる血潮を啜すすろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭いやであった。それで他
日たじつを約して、あなたの要求を斥しりぞけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血を
0274山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:09:44.06ID:7/Y09tcf0
あなたの顔に浴あびせかけようとしているのです。私の鼓動こどうが停とまった時、あなたの胸に新しい
命が宿る事ができるなら満足です。
0275山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:10:00.13ID:7/Y09tcf0


「私が両親を亡なくしたのは、まだ私の廿歳はたちにならない時分でした。いつか妻さいがあなたに話し
0276山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:10:16.05ID:7/Y09tcf0
ていたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた
通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき腸
ちょう窒扶斯チフスでした。それが傍そばにいて看護をした母に伝染したのです。
0277山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:10:32.09ID:7/Y09tcf0
 私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。宅うちには相当の財産があったので、むしろ鷹揚お
うように育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも
父か母かどっちか、片方で好いいから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事
0278山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:10:48.03ID:7/Y09tcf0
ができたろうにと思います。
 私は二人の後あとに茫然ぼうぜんとして取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別
もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ
0279山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:11:04.09ID:7/Y09tcf0
事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを覚さとっていたか、または傍はたのもののいうごとく、
実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ叔父おじに万事を頼ん
でいました。そこに居合いあわせた私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分なにぶん」といいまし
0280山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:11:20.10ID:7/Y09tcf0
た。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいう
つもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後あとを引き取って、
「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。母は強い熱に堪え得うる体質の女なんでしたろうか
0281山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:11:36.13ID:7/Y09tcf0
、叔父は「確しっかりしたものだ」といって、私に向って母の事を褒ほめていました。しかしこれがはた
して母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の罹かかった病気の恐るべ
き名前を知っていたのです。そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自
0282山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:11:52.24ID:7/Y09tcf0
分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでも
あるだろうと思われるのです。その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかな
ものにせよ、一向いっこう記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから
0283山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:12:08.07ID:7/Y09tcf0
……しかしそんな事は問題ではありません。ただこういう風ふうに物を解きほどいてみたり、またぐるぐ
る廻まわして眺ながめたりする癖くせは、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それ
はあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に
0284山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:12:24.14ID:7/Y09tcf0
大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。あなたの方でもまあそのつも
りで読んでください。この性分しょうぶんが倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来こうら
いますます他ひとの徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶はんもんや苦悩に
0285山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:12:40.13ID:7/Y09tcf0
向って、積極的に大きな力を添えているのは慥たしかですから覚えていて下さい。
 話が本筋ほんすじをはずれると、分り悪にくくなりますからまたあとへ引き返しましょう。これでも私
はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他ほかの人と比べたら、あるいは多少落ち付いてい
0286山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:12:56.22ID:7/Y09tcf0
やしないかと思っているのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響ひびきももう途絶とだえました
。雨戸の外にはいつの間にか憐あわれな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で微
かすかに鳴いています。何も知らない妻さいは次の室へやで無邪気にすやすや寝入ねいっています。私が
0287山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:13:12.13ID:7/Y09tcf0
筆を執とると、一字一劃かくができあがりつつペンの先で鳴っています。私はむしろ落ち付いた気分で紙
に向っているのです。不馴ふなれのためにペンが横へ外それるかも知れませんが、頭が悩乱のうらんして
筆がしどろに走るのではないように思います。
0289山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:13:44.14ID:7/Y09tcf0
「とにかくたった一人取り残された私わたくしは、母のいい付け通り、この叔父おじを頼るより外ほかに
途みちはなかったのです。叔父はまた一切いっさいを引き受けて凡すべての世話をしてくれました。そう
して私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
0290山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:14:00.17ID:7/Y09tcf0
 私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐さつばつで粗
野でした。私の知ったものに、夜中よる職人と喧嘩けんかをして、相手の頭へ下駄げたで傷を負わせたの
がありました。それが酒を飲んだ揚句あげくの事なので、夢中に擲なぐり合いをしている間あいだに、学
0291山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:14:16.15ID:7/Y09tcf0
校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃ
んと、菱形ひしがたの白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少し
で警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰おもてざたに
0292山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:14:32.16ID:7/Y09tcf0
せずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞か
せたら、定めて馬鹿馬鹿ばかばかしい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼ら
は今の学生にない一種質朴しつぼくな点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から貰もらっ
0293山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:14:48.16ID:7/Y09tcf0
ていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると遥はるかに少ないものでした。(無
論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生の
うちで、経済の点にかけては、決して人を羨うらやましがる憐あわれな境遇にいた訳ではないのです。今
0294山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:15:04.11ID:7/Y09tcf0
から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々極きまった送金
の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から
請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
0295山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:15:20.17ID:7/Y09tcf0
 何も知らない私は、叔父おじを信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいも
ののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありま
しょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格か
0296山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:15:36.17ID:7/Y09tcf0
らいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に
守って行く篤実一方とくじついっぽうの男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩
集などを読む事も好きでした。書画骨董しょがこっとうといった風ふうのものにも、多くの趣味をもって
0297山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:15:52.20ID:7/Y09tcf0
いる様子でした。家は田舎いなかにありましたけれども、二里りばかり隔たった市し、――その市には叔
父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物かけものだの、香炉こうろだのを持って、わざ
わざ父に見せに来ました。父は一口ひとくちにいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好いい
0298山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:16:08.18ID:7/Y09tcf0
のでしょう。比較的上品な嗜好しこうをもった田舎紳士だったのです。だから気性きしょうからいうと、
闊達かったつな叔父とはよほどの懸隔けんかくがありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったの
です。父はよく叔父を評して、自分よりも遥はるかに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自
0299山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:16:24.18ID:7/Y09tcf0
分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹さいかんが鈍にぶる、つまり世の中と
闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父
はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが好いい」
0300山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:16:40.16ID:7/Y09tcf0
と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父か
ら信用されたり、褒ほめられたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただで
さえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には
0302山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:17:12.17ID:7/Y09tcf0
「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居すまいには、新しい主人として
、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残
0303山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:17:28.18ID:7/Y09tcf0
された私が家にいない以上、そうでもするより外ほかに仕方がなかったのです。
 叔父はその頃ころ市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの居宅
きょたくに寝起ねおきする方が、二里りも隔へだたった私の家に移るより遥かに便利だといって笑いまし
0304山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:17:44.19ID:7/Y09tcf0
た。これは私の父母が亡くなった後あと、どう邸やしきを始末して、私が東京へ出るかという相談の時、
叔父の口を洩もれた言葉であります。私の家は旧ふるい歴史をもっているので、少しはその界隈かいわい
で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒ゆいしょのある家
0305山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:18:00.25ID:7/Y09tcf0
を、相続人があるのに壊こわしたり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思
いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家うちはそのままにして置かなければなら
ず、はなはだ所置しょちに苦しんだのです。
0306山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:18:16.24ID:7/Y09tcf0
 叔父おじは仕方なしに私の空家あきやへはいる事を承諾してくれました。しかし市しの方にある住居す
まいもそのままにしておいて、両方の間を往いったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといい
ました。私に[#「私に」は底本では「私は」]固もとより異議のありようはずがありません。私はどん
0307山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:18:32.25ID:7/Y09tcf0
な条件でも東京へ出られれば好いいくらいに考えていたのです。
 子供らしい私は、故郷ふるさとを離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固
よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人たびびとの心で望んでいたのです。休みが来れば帰
0308山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:18:48.29ID:7/Y09tcf0
らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は
熱心に勉強し、愉快に遊んだ後あと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
 私の留守の間、叔父はどんな風ふうに両方の間を往ゆき来していたか知りません。私の着いた時は、家
0309山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:19:04.39ID:7/Y09tcf0
族のものが、みんな一ひとつ家いえの内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生へいぜいおそら
く市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎いなかへ遊び半分といった格かくで引き取られて
いました。
0310山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:19:20.25ID:7/Y09tcf0
 みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑にぎやかで陽気になった家
の様子を見て嬉うれしがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間ひとまを占領している一番目の
男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数かずも少なくないのだから、私はほかの部屋で構
0311山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:19:36.25ID:7/Y09tcf0
わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅うちだからといって、聞きませんでした。
 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外ほかに、何の不愉快もなく、その一夏ひとなつを叔父の家
族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影
0312山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:19:52.25ID:7/Y09tcf0
を投げたのは、叔父夫婦が口を揃そろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。
それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。
二度目には判然はっきり断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなく
0313山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:20:08.26ID:7/Y09tcf0
なりました。彼らの主意は単簡たんかんでした。早く嫁よめを貰もらってここの家へ帰って来て、亡くな
った父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇やすみになって帰りさえすれば、それでいいものと
私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰もらう、両方とも理屈としては一通
0314山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:20:24.26ID:7/Y09tcf0
ひととおり聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解わかります。私も絶対にそれを嫌
ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡とおめがねで物を
見るように、遥はるか先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた
0316山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:20:56.27ID:7/Y09tcf0
「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲ぐるりを取り捲まいている青年の顔を見ると、
世帯染しょたいじみたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉ことごとく単独らしく思われ
0317山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:21:12.25ID:7/Y09tcf0
たのです。こういう気楽な人の中うちにも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされ
て、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした
。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺あたりに気兼きがねをして、なるべくは書生
0318山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:21:28.26ID:7/Y09tcf0
に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後あとから考えると、私自身がすでに
その組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
 学年の終りに、私はまた行李こうりを絡からげて、親の墓のある田舎いなかへ帰って来ました。そうし
0319山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:21:44.28ID:7/Y09tcf0
て去年と同じように、父母ちちははのいたわが家いえの中で、また叔父おじ夫婦とその子供の変らない顔
を見ました。私は再びそこで故郷ふるさとの匂においを嗅かぎました。その匂いは私に取って依然として
懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
0320山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:22:00.39ID:7/Y09tcf0
 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き
付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。た
だこの前勧すすめられた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心かんじんの当人を捕
0321山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:22:16.24ID:7/Y09tcf0
つらまえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹いと
こに当る女でした。その女を貰もらってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中ぞんしょうち
ゅうそんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそ
0322山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:22:32.34ID:7/Y09tcf0
ういう風ふうな話をしたというのもあり得うべき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始
めて気が付いたので、いわれない前から、覚さとっていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。
驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解わかりました。私は迂闊うかつ
0323山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:22:48.31ID:7/Y09tcf0
なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着むとんじゃくであった
のが、おもな源因げんいんになっているのでしょう。私は小供こどものうちから市しにいる叔父の家うち
へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時
0324山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:23:04.34ID:7/Y09tcf0
分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹きょうだいの間に恋の成立した例ためしのない
のを。私はこの公認された事実を勝手に布衍ふえんしているかも知れないが、始終接触して親しくなり過
ぎた男女なんにょの間には、恋に必要な刺戟しげきの起る清新な感じが失われてしまうように考えていま
0325山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:23:20.34ID:7/Y09tcf0
す。香こうをかぎ得うるのは、香を焚たき出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹
那せつなにあるごとく、恋の衝動にもこういう際きわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われ
ないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴なれれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経は
0326山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:23:36.36ID:7/Y09tcf0
だんだん麻痺まひして来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹いとこを妻にする気にはなれませ
んでした。
 叔父おじはもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急
0327山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:23:52.34ID:7/Y09tcf0
げという諺ことわざもあるから、できるなら今のうちに祝言しゅうげんの盃さかずきだけは済ませておき
たいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父
は厭いやな顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し
0328山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:24:08.35ID:7/Y09tcf0
込みを拒絶されたのが、女として辛つらかったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛
していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
0329山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:24:24.35ID:7/Y09tcf0


「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経たった夏の取付とっつきでした。私はいつでも学年試
0330山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:24:40.35ID:7/Y09tcf0
験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷ふるさとがそれほど懐かしかったからです。あな
たにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂においも格別です、父や母の記憶
も濃こまやかに漂ただよっています。一年のうちで、七、八の二月ふたつきをその中に包くるまれて、穴
0331山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:24:56.34ID:7/Y09tcf0
に入った蛇へびのように凝じっとしているのは、私に取って何よりも温かい好いい心持だったのです。
 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断
る、断ってさえしまえば後あとには何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに
0332山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:25:12.35ID:7/Y09tcf0
意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托
くったくした覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好いい顔をして私を自分の懐ふところに
0333山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:25:28.37ID:7/Y09tcf0
抱だこうとしません。それでも鷹揚おうように育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました
。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母おば
も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、
0334山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:25:44.37ID:7/Y09tcf0
手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
 私の性分しょうぶんとして考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう
。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍にぶい私の眼を洗って、急に世
0335山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:26:00.49ID:7/Y09tcf0
の中が判然はっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくな
った後あとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっ
ともその頃ころでも私は決して理に暗い質たちではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊
0336山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:26:16.32ID:7/Y09tcf0
かたまりも、強い力で私の血の中に潜ひそんでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪ひざまずきました。半なかばは哀悼あいとうの意味、半
は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ
0337山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:26:32.35ID:7/Y09tcf0
握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私
も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
 私の世界は掌たなごころを翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかっ
0338山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:26:48.41ID:7/Y09tcf0
たのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には
、一度にはっと驚きました。何遍なんべんも自分の眼を疑うたぐって、何遍も自分の眼を擦こすりました
。そうして心の中うちでああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気いろ
0339山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:27:04.37ID:7/Y09tcf0
けの付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができた
のです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目めくらの眼が忽たちまち開あいた
のです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
0340山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:27:20.42ID:7/Y09tcf0
 私が叔父おじの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然がぜんとして心づいたのです
。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私
の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先ゆくさきがどうな
0342山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:27:52.54ID:7/Y09tcf0
「私は今まで叔父任まかせにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母ちちは
はに対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体からだだと自称するごとく、毎晩同じ所
0343山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:28:08.44ID:7/Y09tcf0
に寝泊ねとまりはしていませんでした。二日家うちへ帰ると三日は市しの方で暮らすといった風ふうに、
両方の間を往来ゆききして、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいとい
う言葉を口癖くちくせのように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っ
0344山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:28:24.43ID:7/Y09tcf0
ていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。け
れども財産の事について、時間の掛かかる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見る
と、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕つらまえる機
0345山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:28:40.43ID:7/Y09tcf0
会を得ませんでした。
 私は叔父が市の方に妾めかけをもっているという噂うわさを聞きました。私はその噂を昔中学の同級生
であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪あやしむに足らな
0346山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:28:56.45ID:7/Y09tcf0
いのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚おぼえのない私は驚きました。友達はそ
の外ほかにも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他ひと
から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私
0347山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:29:12.44ID:7/Y09tcf0
の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
 私はとうとう叔父おじと談判を開きました。談判というのは少し不穏当ふおんとうかも知れませんが、
話の成行なりゆきからいうと、そんな言葉で形容するより外に途みちのないところへ、自然の調子が落ち
0348山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:29:28.43ID:7/Y09tcf0
て来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔
父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
 遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいま
0349山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:29:44.43ID:7/Y09tcf0
す。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこ
へ辿たどりつきたがっているのを、漸やっとの事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話
す機会を永久に失った私は、筆を執とる術すべに慣れないばかりでなく、貴たっとい時間を惜おしむとい
0350山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:30:00.40ID:7/Y09tcf0
う意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではない
といった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を
0351山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:30:16.56ID:7/Y09tcf0
。あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人
に変化するのかと尋ねました。私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私は
あなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を
0352山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:30:32.47ID:7/Y09tcf0
考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在
し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き
進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。
0353山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:30:48.41ID:7/Y09tcf0
けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭
で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体
たいが動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事
0355山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:36:40.31ID:7/Y09tcf0
私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を
考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在
し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き
0356山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:36:56.34ID:7/Y09tcf0
進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。
けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷ひややかな頭
で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体
0357山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:37:12.29ID:7/Y09tcf0
たいが動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事
ができるからです。
0358山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:37:28.33ID:7/Y09tcf0


「一口ひとくちでいうと、叔父は私わたくしの財産を胡魔化ごまかしたのです。事は私が東京へ出ている
0359山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:37:44.34ID:7/Y09tcf0
三年の間に容易たやすく行われたのです。すべてを叔父任まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば
本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊たっとい男とでもいえましょうか
。私はその時の己おのれを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
0360山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:38:00.35ID:7/Y09tcf0
口惜くやしくって堪たまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰っ
て生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵ちりに汚れた後あ
との私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう
0361山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:38:16.33ID:7/Y09tcf0

 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでした
ろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
0362山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:38:32.36ID:7/Y09tcf0
好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたの
です。私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それ
を断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょう
0363山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:38:48.34ID:7/Y09tcf0
けれども、載のせられ方からいえば、従妹を貰もらわない方が、向うの思い通りにならないという点から
見て、少しは私の我がが通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細さ
さいな事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。
0364山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:39:04.37ID:7/Y09tcf0
 私と叔父の間に他たの親戚しんせきのものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していま
せんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺あざむいたと覚さと
ると共に、他ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞ほめ抜いていた
0365山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:39:20.42ID:7/Y09tcf0
叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。
 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものを纏まとめてくれました。それは金
額に見積ると、私の予期より遥はるかに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなけ
0366山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:39:36.37ID:7/Y09tcf0
れば叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤いきどおり
ました。また迷いました。訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。私は修
業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の
0367山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:39:52.39ID:7/Y09tcf0
結果、市しにおる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形かたちに変えようとしまし
た。旧友は止よした方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷こき
ょうを離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
0368山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:40:08.37ID:7/Y09tcf0
 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永
久に見る機会も来ないでしょう。
 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経た
0369山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:40:24.39ID:7/Y09tcf0
った後のちの事です。田舎いなかで畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとな
ると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないもの
でした。自白すると、私の財産は自分が懐ふところにして家を出た若干の公債と、後あとからこの友人に
0370山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:40:40.41ID:7/Y09tcf0
送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固もとより非常に減っていたに相違ありません。しか
も私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそ
れで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学
0372山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:41:12.42ID:7/Y09tcf0
「金に不自由のない私わたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気
になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆ばあさんの必要
0373山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:41:28.41ID:7/Y09tcf0
も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅うちを留守にしても大丈夫なものでなければ
心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はま
あ宅うちだけでも探してみようかというそぞろ心ごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下
0374山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:41:44.45ID:7/Y09tcf0
りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐに伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になっ
てから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃ころは左手が砲兵工廠ほうへいこうし
ょうの土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその
0375山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:42:00.41ID:7/Y09tcf0
草の中に立って、何心なにごころなく向うの崖がけを眺ながめました。今でも悪い景色ではありませんが
、その頃はまたずっとあの西側の趣おもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだ
けでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅うちはないだろうかと思いました。それで直す
0376山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:42:16.44ID:7/Y09tcf0
ぐ草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好いい町になり切れないで
、がたぴししているあの辺へんの家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした
。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうを曲まがったり、ぐるぐる歩き廻まわりました。しまいに駄
0377山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:42:32.45ID:7/Y09tcf0
菓子屋だがしやの上かみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さ
んは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かし家やはちょいと……」と全
く思い当らない風ふうでした。私は望のぞみのないものと諦あきらめて帰り掛けました。すると上さんが
0378山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:42:48.42ID:7/Y09tcf0
また、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静
かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえって家うちを持つ面倒がなくって結構だろうと考
え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
0379山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:43:04.56ID:7/Y09tcf0
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清にっしん
戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがやの士官しかん
学校の傍そばとかに住んでいたのだが、厩うまやなどがあって、邸やしきが広過ぎるので、そこを売り払
0380山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:43:20.47ID:7/Y09tcf0
って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんで淋さむしくって困るから相当の人があったら世話を
してくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げ
じょより外ほかにいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極しごく好かろうと心の中うちに思
0381山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:43:36.44ID:7/Y09tcf0
いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れ
ない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。私は止よそ
うかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。それから
0382山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:43:52.44ID:7/Y09tcf0
大学の制帽を被かぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれど
もその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子
に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなし
0383山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:44:08.46ID:7/Y09tcf0
にその軍人の遺族の家うちを訪ねました。
 私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらにつ
いて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも
0384山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:44:24.49ID:7/Y09tcf0
引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつを即坐そくざに与えてくれました。未亡人は正し
い人でした、また判然はっきりした人でした。私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものか
と思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性きしょうでどこが淋さむしいのだろう
0386山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:44:56.47ID:7/Y09tcf0
「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。
そこは宅中うちじゅうで一番好いい室へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といった風ふうの家が
0387山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:45:12.49ID:7/Y09tcf0
ぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間まの様子を心得ていました
。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過
ぎるくらいに思われたのです。
0388山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:45:28.51ID:7/Y09tcf0
 室の広さは八畳でした。床とこの横に違ちがい棚だながあって、縁えんと反対の側には一間いっけんの
押入おしいれが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日
がよく差しました。
0389山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:45:44.49ID:7/Y09tcf0
 私は移った日に、その室の床とこに活いけられた花と、その横に立て懸かけられた琴ことを見ました。
どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶せんちゃを嗜たしなむ父の傍そばで育ったので、
唐からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶な
0390山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:46:00.51ID:7/Y09tcf0
まめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。
 私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃに
されてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かって
0391山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:46:16.49ID:7/Y09tcf0
もらいました。それからその中うちで面白そうなものを四、五幅ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来
ました。私は移るや否いなや、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いっ
た琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後あとから聞いて始めてこの花が
0392山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:46:32.51ID:7/Y09tcf0
私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも
琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあった
のでしょう。
0393山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:46:48.66ID:7/Y09tcf0
 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠かすめて通るでしょう。移った私にも、
移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を
損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのお嬢じょうさんに会っ
0394山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:47:04.80ID:7/Y09tcf0
た時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
 私はそれまで未亡人びぼうじんの風采ふうさいや態度から推おして、このお嬢さんのすべてを想像して
いたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君さ
0395山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:47:20.55ID:7/Y09tcf0
いくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行
きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉ことごとく打ち消されました。そうして
私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂においが新しく入って来ました。私はそれから床の正面
0396山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:47:36.67ID:7/Y09tcf0
に活いけてある花が厭いやでなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 その花はまた規則正しく凋しおれる頃ころになると活け更かえられるのです。琴も度々たびたび鍵かぎ
の手に折れ曲がった筋違すじかいの室へやに運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづ
0397山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:47:52.53ID:7/Y09tcf0
えを突きながら、その琴の音ねを聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解わからな
いのです。けれども余り込み入った手を弾ひかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました
。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
0398山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:48:08.56ID:7/Y09tcf0
旨うまい方ではなかったのです。
 それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方いけかたはいつ見ても
同じ事でした。それから花瓶かへいもついぞ変った例ためしがありませんでした。しかし片方の音楽にな
0399山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:48:24.55ID:7/Y09tcf0
ると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。
唄うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないの
です。しかも叱しかられると全く出なくなるのです。
0401山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:48:56.57ID:7/Y09tcf0
「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。他ひとは頼りにならないものだと
いう観念が、その時骨の中まで染しみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじ
0402山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:49:12.56ID:7/Y09tcf0
だの叔母おばだの、その他たの親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽
車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもする
と、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛を呑のんだように重苦しくな
0403山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:49:28.56ID:7/Y09tcf0
る事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖とがってしまったのです。
 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。
金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私
0405山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:54:13.92ID:7/Y09tcf0
三十二

 私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り
0406山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:54:29.79ID:7/Y09tcf0
及第した。卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。式場にな
らぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない厚羅紗あつラシャの下に密封さ
れた自分の身体からだを持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょにな
0407山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:54:45.85ID:7/Y09tcf0
った。
 私は式が済むとすぐ帰って裸体はだかになった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡とおめがねのように
ぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放
0408山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:55:01.77ID:7/Y09tcf0
り出した。そうして大の字なりになって、室へやの真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた
。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意
味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
0409山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:55:17.82ID:7/Y09tcf0
 私はその晩先生の家へ御馳走ごちそうに招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐ばんさん
はよそで喰くわずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
 食卓は約束通り座敷の縁えん近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊のりの硬こわい卓布
0410山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:55:33.81ID:7/Y09tcf0
テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。先生のうちで飯めしを食うと、
きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸はしや茶碗ちゃわんが置かれた。そうしてそ
れが必ず洗濯したての真白まっしろなものに限られていた。
0411山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:55:49.94ID:7/Y09tcf0
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層いっそ始はじめから色の着いたものを使
うが好いい。白ければ純白でなくっちゃ」
 こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然きちりと片付いていた。無頓
0412山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:56:05.84ID:7/Y09tcf0
着むとんじゃくな私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は癇性かんしょうですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気に
しないようですよ」と答えた事があった。それを傍そばに聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神
0413山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:56:21.84ID:7/Y09tcf0
的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿ばかばかしい性分しょうぶんだ」と
いって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという
意味か、私には解わからなかった。奥さんにも能よく通じないらしかった。
0414山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:56:37.98ID:7/Y09tcf0
 その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布たくふの前に坐すわった。奥さんは二人を左右に置いて、
独ひとり庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために杯さかずきを上げてくれた。私はこの盃さかずきに対してそ
0415山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:56:53.87ID:7/Y09tcf0
れほど嬉うれしい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをも
っていなかったのが、一つの源因げんいんであった。けれども先生のいい方も決して私の嬉うれしさを唆
そそる浮々うきうきした調子を帯びていなかった。先生は笑って杯さかずきを上げた。私はその笑いのう
0416山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:57:09.89ID:7/Y09tcf0
ちに、些ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も汲くみ取る事がで
きなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語
っていた。
0417山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:57:25.84ID:7/Y09tcf0
 奥さんは私に「結構ね。さぞお父とうさんやお母かあさんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突
然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
0418山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:57:41.87ID:7/Y09tcf0
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
 卒業証書の在処ありどころは二人ともよく知らなかった。
0420山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:58:13.89ID:7/Y09tcf0
 飯めしになった時、奥さんは傍そばに坐すわっている下女げじょを次へ立たせて、自分で給仕きゅうじ
の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来しきたりらしかった。始めの一、二回は私
わたくしも窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗ちゃわんを奥さんの前へ出すのが、何でもなくな
0421山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:58:29.83ID:7/Y09tcf0
った。
「お茶? ご飯はん? ずいぶんよく食べるのね」
 奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そ
0422山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:58:45.84ID:7/Y09tcf0
んなに調戯からかわれるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた近頃ちかごろ大変小食しょうしょくになったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
0423山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:59:01.90ID:7/Y09tcf0
 奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子みずがしを運ばせた。
「これは宅うちで拵こしらえたのよ」
 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふるまうだけの余裕があると見えた。私はそれ
0424山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:59:17.91ID:7/Y09tcf0
を二杯更かえてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をず
らして、敷居際しきいぎわで背中を障子しょうじに靠もたせていた。
0425山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:59:33.92ID:7/Y09tcf0
 私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的あてもなかった。返事に
ためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお
役人やくにん?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
0426山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 13:59:49.86ID:7/Y09tcf0
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくら
いなんですから。だいちどれが善いいか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解わからないんだ
から、選択に困る訳だと思います」
0427山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:00:05.92ID:7/Y09tcf0
「それもそうね。けれどもあなたは必竟ひっきょう財産があるからそんな呑気のんきな事をいっていられ
るのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
 私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事
0428山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:00:21.90ID:7/Y09tcf0
実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「碌ろくなかぶれ方をして下さらないのね」
0429山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:00:37.93ID:7/Y09tcf0
 先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分け
てもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
0430山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:02:08.70ID:7/Y09tcf0
も急場の間に合うように、おいそ
れと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしてい
る私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を放ほうり出して、休み前に帰って来たという
0431山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:02:24.74ID:7/Y09tcf0
事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだか
らいけない」
0432山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:02:40.78ID:7/Y09tcf0
 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床とこを上げさせて、いつものよ
うな元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」
0433山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:02:56.76ID:7/Y09tcf0
 私のこの注意を父は愉快そうにしかし極きわめて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」
 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった
0434山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:03:12.79ID:7/Y09tcf0
。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格
別それを気に留めなかった。
 私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待って
0435山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:03:28.79ID:7/Y09tcf0
くれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈
も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞を
附つけ加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
0436山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:03:44.89ID:7/Y09tcf0
 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂うわさ
などをしながら、遥はるかに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」
0437山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:04:00.79ID:7/Y09tcf0
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「旨うまくはないが、別に嫌きらいな人もないだろう」
 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
0438山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:04:16.78ID:7/Y09tcf0
 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、
驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一
本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なか
0439山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:04:32.80ID:7/Y09tcf0
ったが。
 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない
事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰もらっていない。その一通は
0440山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:04:48.81ID:7/Y09tcf0
今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛あてで書いた大変長いものである。
 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは
出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、
0441山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:05:04.75ID:7/Y09tcf0
私が引き添うように傍そばに付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑っ
て応じなかった。
0442山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:05:20.76ID:7/Y09tcf0
二十三

 私わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。二人とも無精な性質たちなの
0443山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:05:36.83ID:7/Y09tcf0
で、炬燵こたつにあたったまま、盤を櫓やぐらの上へ載のせて、駒こまを動かすたびに、わざわざ手を掛
蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。時々持駒もちごまを失なくして、次の勝負の来るまで双方
とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしで挟はさみ上げるという
0444山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:05:52.92ID:7/Y09tcf0
滑稽こっけいもあった。
「碁ごだと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好
いいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
0445山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:06:08.83ID:7/Y09tcf0
 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要す
るに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、こ
の隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経たつに伴つれて、若い私の気力
0446山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:06:24.85ID:7/Y09tcf0
はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。私は金きんや香車きょうしゃを握った拳こぶしを頭の
上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
 私は東京の事を考えた。そうして漲みなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを
0447山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:06:40.85ID:7/Y09tcf0
聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分
0448山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:06:56.85ID:7/Y09tcf0
らないほど大人おとなしい男であった。他ひとに認められるという点からいえばどっちも零れいであった
。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊
興のために往来ゆききをした覚おぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に
0449山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:07:12.85ID:7/Y09tcf0
影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷ひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなか
に先生の力が喰くい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私に
は少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの
0450山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:07:28.79ID:7/Y09tcf0
他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのご
とくに驚いた。
 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。
0451山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:07:44.87ID:7/Y09tcf0
これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも
置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろ
そろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがち
0452山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:08:00.84ID:7/Y09tcf0
になるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解わか
らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンの臭にお
いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。
0453山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:08:16.89ID:7/Y09tcf0
けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留とまった。
私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠く
0454山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:08:32.89ID:7/Y09tcf0
から相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められ
なかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も
母も反対した。
0455山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:08:48.88ID:7/Y09tcf0
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
 私は自分の極きめた出立しゅったつの日を動かさなかった。
0457山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:09:20.90ID:7/Y09tcf0
 東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを
見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
 私わたくしは早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。例の椎茸しいたけもついでに持って行った
0458山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:09:36.91ID:7/Y09tcf0
。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置
いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次の間まへ立つ時、そ
の折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし」と聞いた。奥さんは懇意にな
0459山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:09:52.99ID:7/Y09tcf0
ると、こんなところに極きわめて淡泊たんぱくな小供こどもらしい心を見せた。
 二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった
0460山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:10:08.86ID:7/Y09tcf0
「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気を
つけないといけません」
 先生は腎臓じんぞうの病やまいについて私の知らない事を多く知っていた。
0461山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:10:24.90ID:7/Y09tcf0
「自分で病気に罹かかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある
士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全く嘘うそのような死に方をしたんですよ。何しろ傍そばに
寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいとい
0462山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:10:40.93ID:7/Y09tcf0
って、細君を起したぎり、翌あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思っ
てたんだっていうんだから」
 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
0463山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:10:57.03ID:7/Y09tcf0
「私の父おやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
0464山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:11:12.91ID:7/Y09tcf0
「それじゃ好いいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかも
それがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
 私はやや安心した。私の変化を凝じっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
0465山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:11:28.93ID:7/Y09tcf0
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆もろいものですね。いつどんな事でどんな死に
ようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお出いでですか」
0466山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:11:44.92ID:7/Y09tcf0
「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」
 先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間まに死ぬ人もあるでしょ
0467山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:12:00.94ID:7/Y09tcf0
う。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解わからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
0468山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:12:17.05ID:7/Y09tcf0
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭かげですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬ
0469山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:12:32.95ID:7/Y09tcf0
とか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後あとは何らのこだ
わりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文
を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
0471山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:13:04.97ID:7/Y09tcf0
 その年の六月に卒業するはずの私わたくしは、ぜひともこの論文を成規通せいきどおり四月いっぱいに
書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し
自分の度胸を疑うたぐった。他ほかのものはよほど前から材料を蒐あつめたり、ノートを溜ためたりして
0472山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:13:20.91ID:7/Y09tcf0
、余所目よそめにも忙いそがしそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年
が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽たちまち動
けなくなった。今まで大きな問題を空くうに描えがいて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考え
0473山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:13:36.96ID:7/Y09tcf0
ていた私は、頭を抑おさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思
想を系統的に纏まとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょ
っと付け加える事にした。
0474山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:13:52.94ID:7/Y09tcf0
 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を
尋ねた時、先生は好いいでしょうといった。狼狽ろうばいした気味の私は、早速さっそく先生の所へ出掛
けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与え
0475山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:14:08.95ID:7/Y09tcf0
てくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について毫ごうも私を指導
する任に当ろうとしなかった。
「近頃ちかごろはあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好い
0476山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:16:51.50ID:7/Y09tcf0
つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
0477山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:17:07.41ID:7/Y09tcf0
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上のぼる楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たので
0478山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:17:23.40ID:7/Y09tcf0
す」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特
0479山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:17:39.41ID:7/Y09tcf0
別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っていま
す。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし…
…」
0480山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:17:55.44ID:7/Y09tcf0
 私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだあ
りません」
0481山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:18:11.38ID:7/Y09tcf0
 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もない
が、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
0482山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:18:27.44ID:7/Y09tcf0
 私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味
は朦朧もうろうとしてよく解わからなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで
0483山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:18:43.57ID:7/Y09tcf0
切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらし
ていたのだ。私は悪い事をした」
0484山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:18:59.43ID:7/Y09tcf0
 先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間すきまか
ら広い庭の一部に茂る熊笹くまざさが幽邃ゆうすいに見えた。
「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地に埋うまっている友人の墓へ参るのか知っていま
0485山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:19:15.45ID:7/Y09tcf0
すか」
 先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく
承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
0486山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:19:31.44ID:7/Y09tcf0
「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを
焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止やめましょう。とにかく恋は罪悪で
すよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
0488山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:20:03.86ID:7/Y09tcf0
 年の若い私わたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っ
ていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思
0489山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:20:19.58ID:7/Y09tcf0
想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもた
だ独ひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上のぼせちゃいけません」と先生がいった。
0490山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:20:35.47ID:7/Y09tcf0
「覚さめた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯う
けがってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭いやになります。私は今のあなたからそれほどに
0491山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:20:51.49ID:7/Y09tcf0
思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお
苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
0492山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:21:07.48ID:7/Y09tcf0
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿
0493山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:21:23.60ID:7/Y09tcf0
つばきの花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺ながめる癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
 その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。その外ほかには何の聞こえるものもなかった。
0494山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:21:39.49ID:7/Y09tcf0
大通りから二丁ちょうも深く折れ込んだ小路こうじは存外ぞんがい静かであった。家うちの中はいつもの
通りひっそりしていた。私は次の間まに奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さ
んの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
0495山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:21:55.50ID:7/Y09tcf0
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないよう
0496山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:22:11.61ID:7/Y09tcf0
になっているのです。自分を呪のろうより外ほかに仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖こわくなったんで
0497山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:22:27.55ID:7/Y09tcf0
す」
 私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。すると襖ふすまの陰で「あなた、あなた」とい
う奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の
0498山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:22:43.47ID:7/Y09tcf0
間まへ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解わからなかった。それを想像する余裕を与
えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺あざむかれた返報
0499山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:22:59.52ID:7/Y09tcf0
に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝ひざの前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載のせさせ
0500山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:23:15.51ID:7/Y09tcf0
ようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥しりぞけたいと思うのです。私は今
より一層淋さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己おの
れとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょ
0502山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:23:47.53ID:7/Y09tcf0
十五

 その後ご私わたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度
0503山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:24:03.53ID:7/Y09tcf0
に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
 奥さんの様子は満足とも不満足とも極きめようがなかった。私はそれほど近く奥さんに接触する機会が
なかったから。それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。最後に先生のいる席でなければ私と
0504山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:24:19.56ID:7/Y09tcf0
奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。
 私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷た
い眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐すわって考える質たちの人で
0505山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:24:35.56ID:7/Y09tcf0
あった。先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか
。私にはそうばかりとは思えなかった。先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石
造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれど
0506山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:24:51.55ID:7/Y09tcf0
もその思想家の纏まとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離さ
れた他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほど
の事実が、畳み込まれているらしかった。
0507山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:25:07.57ID:7/Y09tcf0
 これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯
みねのようであった。私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽おおい被かぶせた。そうしてなぜそ
れが恐ろしいか私にも解わからなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに私の神経を震ふる
0508山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:25:23.58ID:7/Y09tcf0
わせた。
 私は先生のこの人生観の基点に、或ある強烈な恋愛事件を仮定してみた。(無論先生と奥さんとの間に
起った)。先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛てがかりにもな
0509山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:25:39.55ID:7/Y09tcf0
った。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると二人の恋からこんな厭世えんせいに近
い覚悟が出ようはずがなかった。「かつてはその人の前に跪ひざまずいたという記憶が、今度はその人の
頭の上に足を載のせさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の誰彼たれかれについて用いられ
0510山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:25:55.58ID:7/Y09tcf0
るべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
 雑司ヶ谷ぞうしがやにある誰だれだか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが
先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のでき
0511山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:26:11.57ID:7/Y09tcf0
ない私は、先生の頭の中にある生命いのちの断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども
私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命いのちの扉を開ける鍵かぎにはならな
かった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
0512山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:26:27.57ID:7/Y09tcf0
 そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その頃こ
ろは日の詰つまって行くせわしない秋に、誰も注意を惹ひかれる肌寒はださむの季節であった。先生の附
近ふきんで盗難に罹かかったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを
0513山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:26:43.58ID:7/Y09tcf0
持って行かれた家うちはほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。奥さんは気味
をわるくした。そこへ先生がある晩家を空あけなければならない事情ができてきた。先生と同郷の友人で
地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外ほかの二、三名と共に、ある所でその友人に飯
0514山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:26:59.60ID:7/Y09tcf0
めしを食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私
はすぐ引き受けた。
0515山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:27:15.72ID:7/Y09tcf0
十六

 私わたくしの行ったのはまだ灯ひの点つくか点かない暮れ方であったが、几帳面きちょうめんな先生は
0516山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:27:31.61ID:7/Y09tcf0
もう宅うちにいなかった。「時間に後おくれると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さん
は、私を先生の書斎へ案内した。
 書斎には洋机テーブルと椅子いすの外ほかに、沢山の書物が美しい背皮せがわを並べて、硝子越ガラス
0517山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:27:47.72ID:7/Y09tcf0
ごしに電燈でんとうの光で照らされていた。奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団ざぶとんの上へ私を坐すわ
らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰
りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は畏かしこまったまま烟草タバコを飲んでいた。奥
0518山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:28:03.61ID:7/Y09tcf0
さんが茶の間で何か下女げじょに話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った
角かどにあるので、棟むねの位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領りょうしていた
。ひとしきりで奥さんの話し声が已やむと、後あとはしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、
0519山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:28:19.73ID:7/Y09tcf0
凝じっとしながら気をどこかに配った。
 三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私
に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪しかつめらしく控えている私をおかしそうに見た。
0521山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:28:51.63ID:7/Y09tcf0
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
 奥さんは手に紅茶茶碗こうちゃぢゃわんを持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするには好よくありませんね」と私がいった。
0522山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:29:07.75ID:7/Y09tcf0
「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴ちょうだい。ご退屈たいくつだろうと思って、お茶を入れて
持って来たんですが、茶の間で宜よろしければあちらで上げますから」
 私は奥さんの後あとに尾ついて書斎を出た。茶の間には綺麗きれいな長火鉢ながひばちに鉄瓶てつびん
0523山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:29:23.66ID:7/Y09tcf0
が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご馳走ちそうになった。奥さんは寝ねられないといけないといって
、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛でかけになるんですか」
0524山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:29:39.64ID:7/Y09tcf0
「いいえ滅多めったに出た事はありません。近頃ちかごろは段々人の顔を見るのが嫌きらいになるようで
す」
 こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風ふうも見えなかったので、私はつい大胆になっ
0526山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:30:11.64ID:7/Y09tcf0
「そりゃ嘘うそです」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
0527山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:30:27.65ID:7/Y09tcf0
「あなたは学問をする方かただけあって、なかなかお上手じょうずね。空からっぽな理屈を使いこなす事
が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同お
んなじ理屈で」
0528山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:30:43.69ID:7/Y09tcf0
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空からの盃さかずきでよくああ飽きず
に献酬けんしゅうができると思いますわ」
0529山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:30:59.67ID:7/Y09tcf0
 奥さんの言葉は少し手痛てひどかった。しかしその言葉の耳障みみざわりからいうと、決して猛烈なも
のではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出みいだすほどに奥さ
んは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
0531山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:35:10.11ID:7/Y09tcf0
ったの
だから、たといいくら余ろうと、余った分は自分の所得と見傚みなして差支さしつかえない。しかし宗助
の邸宅を売って儲もうけたと云われては心持が悪いから、これは小六の名義で保管して置いて、小六の財
0532山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:35:26.10ID:7/Y09tcf0
産にしてやる。宗助はあんな事をして廃嫡はいちゃくにまでされかかった奴だから、一文いちもんだって
取る権利はない。
「宗さん怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの云った通りを話すんだから」と叔母が断った。宗助は黙
0533山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:35:42.20ID:7/Y09tcf0
ってあとを聞いていた。
 小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑にぎやかな表通りの家屋
に変形した。そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。小六には始めから話してな
0534山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:35:58.14ID:7/Y09tcf0
い事だから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。
「そう云う訳でね、まことに宗さんにも、御気の毒だけれども、何しろ取って返しのつかない事だから仕
方がない。運だと思って諦あきらめて下さい。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるん
0535山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:36:14.27ID:7/Y09tcf0
でしょうさ。小六一人ぐらいそりゃ訳はありますまいよ。よしんば、叔父さんがいなさらない、今にした
って、こっちの都合さえ好ければ、焼けた家うちと同じだけのものを、小六に返すか、それでなくっても
、当人の卒業するまでぐらいは、どうにかして世話もできるんですけれども」と云って叔母はまたほかの
0536山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:36:30.15ID:7/Y09tcf0
内幕話をして聞かせた。それは安之助の職業についてであった。
 安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。家庭で暖かに育った上に、同級の
学生ぐらいよりほかに交際のない男だから、世の中の事にはむしろ迂濶うかつと云ってもいいが、その迂
0537山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:36:46.16ID:7/Y09tcf0
濶なところにどこか鷹揚おうような趣おもむきを具そなえて実社会へ顔を出したのである。専門は工科の
器械学だから、企業熱の下火になった今日こんにちといえども、日本中にたくさんある会社に、相応の口
の一つや二つあるのは、もちろんであるが、親譲おやゆずりの山気やまぎがどこかに潜ひそんでいるもの
0538山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:37:02.17ID:7/Y09tcf0
と見えて、自分で自分の仕事をして見たくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場
こうばを月島辺へんに建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談
の上、自分も幾分かの資本を注つぎ込んで、いっしょに仕事をしてみようという考になった。叔母の内幕
0539山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:37:18.18ID:7/Y09tcf0
話と云ったのはそこである。
「でね、少しあった株をみんなその方へ廻す事にしたもんだから、今じゃ本当に一文いちもんなし同然な
仕儀しぎでいるんですよ。それは世間から見ると、人数は少なし、家邸いえやしきは持っているし、楽に
0540山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:37:34.17ID:7/Y09tcf0
見えるのも無理のないところでしょうさ。この間も原の御母おっかさんが来て、まああなたほど気楽な方
はない、いつ来て見ても万年青おもとの葉ばかり丹念に洗っているってね。真逆まさかそうでも無いんで
すけれども」と叔母が云った。
0541山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:37:50.18ID:7/Y09tcf0
 宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。心のなかで、これは
神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭が失なくなった証拠しょうこだろう
と自覚した。叔母は自分の云う通りが、宗助に本当と受けられないのを気にするように、安之助から持ち
0542山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:38:06.22ID:7/Y09tcf0
出した資本の高まで話した。それは五千円ほどであった。安之助は当分の間、わずかな月給と、この五千
円に対する利益配当とで暮らさなければならないのだそうである。
「その配当だって、まだどうなるか分りゃしないんでさあね。旨うまく行ったところで、一割か一割五分
0543山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:38:22.18ID:7/Y09tcf0
ぐらいなものでしょうし、また一つ間違えばまるで煙けむにならないとも限らないんですから」と叔母が
つけ加えた。
 宗助は叔母の仕打に、これと云う目立った阿漕あこぎなところも見えないので、心の中うちでは少なか
0544山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:38:38.18ID:7/Y09tcf0
らず困ったが、小六の将来について一口の掛合かけあいもせずに帰るのはいかにも馬鹿馬鹿しい気がした
。そこで今までの問題はそこに据すえっきりにして置いて、自分が当時小六の学資として叔父に預けて行
った千円の所置を聞き糺ただして見ると、叔母は、
0545山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:38:54.36ID:7/Y09tcf0
「宗さん、あれこそ本当に小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へ這入はいってからでも、もう
かれこれ七百円は掛かっているんですもの」と答えた。
 宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や骨董品こっとうひんの成行なりゆきを
0546山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:39:10.29ID:7/Y09tcf0
確かめて見た。すると、叔母は、
「ありあとんだ馬鹿な目に逢って」と云いかけたが、宗助の様子を見て、
「宗さん、何ですか、あの事はまだ御話をしなかったんでしたかね」と聞いた。宗助がいいえと答えると
0547山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:39:26.34ID:7/Y09tcf0

「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」と云いながら、その顛末てんまつを語って聞か
した。
0548山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:39:42.47ID:7/Y09tcf0
 宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方うりさばきかたを真田さなだとかいう懇意の男に依頼
した。この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入する
そうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某だれそれがしが何を欲しいと云うから、ちょっ
0549山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:39:58.30ID:7/Y09tcf0
と拝見とか、何々氏がこう云う物を希望だから、見せましょうとか号ごうして、品物を持って行ったぎり
、返して来ない。催促すると、まだ先方から戻って参りませんからとか何とか言訳をするだけでかつて埒
らちの明いた試ためしがなかったが、とうとう持ち切れなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまっ
0550山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:40:14.34ID:7/Y09tcf0
た。
「でもね、まだ屏風びょうぶが一つ残っていますよ。この間引越の時に、気がついて、こりゃ宗さんのだ
から、今度こんだついでがあったら届けて上げたらいいだろうって、安がそう云っていましたっけ」
0551山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:40:30.34ID:7/Y09tcf0
 叔母は宗助の預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような、ものの云い方をした。宗助も今
日きょうまで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味を有もち得なかったので、少しも良心に
悩まされている気色けしきのない叔母の様子を見ても、別に腹は立たなかった。それでも、叔母が、
0552山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:40:46.36ID:7/Y09tcf0
「宗さん、どうせ家うちじゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃
はああいうものが、大変価ねが出たと云う話じゃありませんか」と云ったときは、実際それを持って帰る
気になった。
0553山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:41:02.36ID:7/Y09tcf0
 納戸なんどから取り出して貰って、明るい所で眺ながめると、たしかに見覚みおぼえのある二枚折であ
った。下に萩はぎ、桔梗ききょう、芒すすき、葛くず、女郎花おみなえしを隙間すきまなく描かいた上に
、真丸な月を銀で出して、その横の空あいた所へ、野路のじや空月の中なる女郎花、其一きいちと題して
0554山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:41:18.36ID:7/Y09tcf0
ある。宗助は膝ひざを突いて銀の色の黒く焦こげた辺あたりから、葛の葉の風に裏を返している色の乾い
た様から、大福だいふくほどな大きな丸い朱の輪廓りんかくの中に、抱一ほういつと行書で書いた落款ら
っかんをつくづくと見て、父の生きている当時を憶おもい起さずにはいられなかった。
0555山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:41:34.37ID:7/Y09tcf0
 父は正月になると、きっとこの屏風びょうぶを薄暗い蔵くらの中から出して、玄関の仕切りに立てて、
その前へ紫檀したんの角かくな名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云う
ので、客間の床とこには必ず虎の双幅そうふくを懸かけた。これは岸駒がんくじゃない岸岱がんたいだと
0556山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:41:50.48ID:7/Y09tcf0
父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画えには墨が着いてい
た。虎が舌を出して谷の水を呑のんでいる鼻柱が少し汚けがされたのを、父は苛ひどく気にして、宗助を
見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯いたずらだぞと云
0557山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:42:06.39ID:7/Y09tcf0
って、おかしいような恨うらめしいような一種の表情をした。
 宗助は屏風びょうぶの前に畏かしこまって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」と云った。
0558山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:42:22.38ID:7/Y09tcf0
「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」と叔母は好意から申し添えた。
 宗助は然しかるべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。晩食ばんめしの後のち御米とい
っしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣ゆかたを並べて、涼みながら、画の話をした。
0559山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:42:38.40ID:7/Y09tcf0
「安さんには、御逢いなさらなかったの」と御米が聞いた。
「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで、工場にいるんだそうだ」
「随分骨が折れるでしょうね」
0560山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:42:54.35ID:7/Y09tcf0
 御米はそう云ったなり、叔父や叔母の処置については、一言ひとことの批評も加えなかった。
「小六の事はどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
「そうね」と云うだけであった。
0561山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:43:10.40ID:7/Y09tcf0
「理窟りくつを云えば、こっちにも云い分はあるが、云い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかり
だから、証拠しょうこも何もなければ勝てる訳のものじゃなし」と宗助が極端を予想すると、
「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」と御米がすぐ云ったので、宗助は苦笑してやめた。
0562山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:43:26.42ID:7/Y09tcf0
「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの」
 夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇ひさしの下から覗のぞいて見て、明日あしたの天気を語り
0563山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:43:42.38ID:7/Y09tcf0
合って蚊帳かやに這入はいった。
 次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の云った通りを残らず話して聞かせて、
「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急な御前の性質を知ってるせいか、それともまだ
0564山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:43:58.38ID:7/Y09tcf0
小供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにも分らないが、何しろ事実は今云った通りなん
だよ」と教えた。
 小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。ただ、
0565山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:44:14.44ID:7/Y09tcf0
「そうですか」と云ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。
「仕方がないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い料簡りょうけんはないんだから」
「そりゃ、分っています」と弟は峻けわしい物の云い方をした。
0566山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:44:30.44ID:7/Y09tcf0
「じゃおれが悪いって云うんだろう。おれは無論悪いよ。昔から今日こんにちまで悪いところだらけな男
だもの」
 宗助は横になって煙草たばこを吹かしながら、これより以上は何とも語らなかった。小六も黙って、座
0567山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:44:46.46ID:7/Y09tcf0
敷の隅すみに立ててあった二枚折の抱一の屏風びょうぶを眺ながめていた。
「御前あの屏風を覚えているかい」とやがて兄が聞いた。
「ええ」と小六が答えた。
0568山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:45:02.40ID:7/Y09tcf0
「一昨日おととい佐伯から届けてくれた。御父さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこ
れだけだ。これが御前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、剥はげた屏風一枚で大学を卒業する訳に
も行かずな」と宗助が云った。そうして苦笑しながら、
0569山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:45:18.42ID:7/Y09tcf0
「この暑いのに、こんなものを立てて置くのは、気狂きちがいじみているが、入れておく所がないから、
仕方がない」と云う述懐じゅっかいをした。
 小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とは余りに懸かけ隔へだたっている兄を、いつも物足り
0570山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:45:34.44ID:7/Y09tcf0
なくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩けんかはし得なかった。この時も急に癇癪かんしゃ
くの角つのを折られた気味で、
「屏風はどうでも好いが、これから先さき僕はどうしたもんでしょう」と聞き出した。
0571山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:45:50.45ID:7/Y09tcf0
「それは問題だ。何しろことしいっぱいにきまれば好い事だから、まあよく考えるさ。おれも考えて置こ
う」と宗助が云った。
 弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿は嫌きらいである、学校へ出ても落ちついて稽古けいこも
0572山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:46:06.58ID:7/Y09tcf0
できず、下調も手につかないような境遇は、とうてい自分には堪たえられないと云う訴うったえを切にや
り出したが、宗助の態度は依然として変らなかった。小六があまり癇かんの高い不平を並べると、
「そのくらいな事でそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっ
0573山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:46:22.47ID:7/Y09tcf0
こう差支さしつかえない。御前の方がおれよりよっぽどえらいよ」と兄が云ったので、話はそれぎり頓挫
とんざして、小六はとうとう本郷へ帰って行った。
 宗助はそれから湯を浴びて、晩食ばんめしを済まして、夜は近所の縁日へ御米といっしょに出掛けた。
0574山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:46:38.47ID:7/Y09tcf0
そうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つずつ持って帰って来た。夜露にあてた方がよかろうと云
うので、崖下がけしたの雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。
 蚊帳かやの中へ這入はいった時、御米は、
0575山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:46:54.47ID:7/Y09tcf0
「小六さんの事はどうなって」と夫に聞くと、
「まだどうもならないさ」と宗助は答えたが、十分ばかりの後のち夫婦ともすやすや寝入ねいった。
 翌日眼が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六の事を考える暇を有もたなかった。家うちへ帰
0576山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:47:10.48ID:7/Y09tcf0
って、のっそりしている時ですら、この問題を確的はっきり眼の前に描えがいて明らかにそれを眺ながめ
る事を憚はばかった。髪の毛の中に包んである彼の脳は、その煩わずらわしさに堪たえなかった。昔は数
学が好きで、随分込み入った幾何きかの問題を、頭の中で明暸めいりょうな図にして見るだけの根気があ
0577山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:47:26.46ID:7/Y09tcf0
った事を憶おもい出すと、時日の割には非常に烈はげしく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。
 それでも日に一度ぐらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いて来る事があって、その時だけは、あいつ
の将来も何とか考えておかなくっちゃならないと云う気も起った。しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及
0578山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:47:42.51ID:7/Y09tcf0
ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。そうして、胸の筋きんが一本鉤かぎに引っ掛
ったような心を抱いだいて、日を暮らしていた。
 そのうち九月も末になって、毎晩天あまの河がわが濃く見えるある宵よいの事、空から降ったように安
0579山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:47:58.49ID:7/Y09tcf0
之助がやって来た。宗助にも御米にも思い掛けないほど稀たまな客なので、二人とも何か用があっての訪
問だろうと推すいしたが、はたして小六に関する件であった。
 この間月島の工場へひょっくり小六がやって来て云うには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞
0580山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:48:14.61ID:7/Y09tcf0
いたが、自分も今まで学問をやって来て、とうとう大学へ這入はいれずじまいになるのはいかにも残念だ
から、借金でも何でもして、行けるところまで行きたいが、何か好い工夫はあるまいかと相談をかけるの
で、安之助はよく宗さんにも話して見ようと答えると、小六はたちまちそれを遮さえぎって、兄はとうて
0581山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:48:30.51ID:7/Y09tcf0
い相談になってくれる人じゃない。自分が大学を卒業しないから、他ひとも中途でやめるのは当然だぐら
いに考えている。元来今度の事も元を糺ただせば兄が責任者であるのに、あの通りいっこう平気なもので
、他が何を云っても取り合ってくれない。だから、ただ頼りにするのは君だけだ。叔母さんに正式に断わ
0582山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:48:46.51ID:7/Y09tcf0
られながら、また君に依頼するのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分るだろうと思って来
たと云って、なかなか動きそうもなかったそうである。
 安之助は、そんな事はない、宗さんも君の事ではだいぶ心配して、近いうちまた家うちへ相談に来るは
0583山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:49:02.61ID:7/Y09tcf0
ずになっているんだからと慰めて、小六を帰したんだと云う。帰るときに、小六は袂たもとから半紙を何
枚も出して、欠席届が入用にゅうようだからこれに判を押してくれと請求して、僕は退学か在学か片がつ
くまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだと云ったそうである。
0584山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:49:18.51ID:7/Y09tcf0
 安之助は忙がしいとかで、一時間足らず話して帰って行ったが、小六の所置については、両人の間に具
体的の案は別に出なかった。いずれ緩ゆっくりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席する
が好かろうというのが別れる時の言葉であった。二人になったとき、御米は宗助に、
0585山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:49:34.51ID:7/Y09tcf0
「何を考えていらっしゃるの」と聞いた。宗助は両手を兵児帯へこおびの間に挟はさんで、心持肩を高く
したなり、
「おれももう一返小六みたようになって見たい」と云った。「こっちじゃ、向むこうがおれのような運命
0586山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:49:50.64ID:7/Y09tcf0
に陥おちいるだろうと思って心配しているのに、向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」
 御米は茶器を引いて台所へ出た。夫婦はそれぎり話を切り上げて、また床とこを延べて寝ねた。夢の上
に高い銀河あまのがわが涼しく懸かかった。
0587山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:50:06.65ID:7/Y09tcf0
 次の週間には、小六も来ず、佐伯からの音信たよりもなく、宗助の家庭はまた平日の無事に帰った。夫
婦は毎朝露に光る頃起きて、美しい日を廂ひさしの上に見た。夜は煤竹すすだけの台を着けた洋灯ランプ
の両側に、長い影を描えがいて坐っていた。話が途切れた時はひそりとして、柱時計の振子の音だけが聞
0588山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:50:22.55ID:7/Y09tcf0
える事も稀まれではなかった。
 それでも夫婦はこの間に小六の事を相談した。小六がもしどうしても学問を続ける気なら無論の事、そ
うでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ
0589山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:50:38.54ID:7/Y09tcf0
帰るか、あるいは宗助の所へ置くよりほかに途みちはない。佐伯ではいったんああ云い出したようなもの
の、頼んで見たら、当分宅うちへ置くぐらいの事は、好意上してくれまいものでもない。が、その上修業
をさせるとなると、月謝小遣その他は宗助の方で担任たんにんしなければ義理が悪い。ところがそれは家
0590山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:50:54.59ID:7/Y09tcf0
計上宗助の堪たえるところでなかった。月々の収支を事細かに計算して見た両人ふたりは、
「とうてい駄目だね」
「どうしたって無理ですわ」と云った。
0591山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:51:10.59ID:7/Y09tcf0
 夫婦の坐すわっている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間ひとまある。下女を
入れて三人の小人数こにんずだから、この六畳には余り必要を感じない御米は、東向の窓側にいつも自分
の鏡台を置いた。宗助も朝起きて顔を洗って、飯を済ますと、ここへ来て着物を脱ぬぎ更かえた。
0592山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:51:26.61ID:7/Y09tcf0
「それよりか、あの六畳を空あけて、あすこへ来ちゃいけなくって」と御米が云い出した。御米の考えで
は、こうして自分の方で部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯から助すけて貰も
らったら、小六の望み通り大学卒業までやって行かれようと云うのである。
0593山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:51:42.62ID:7/Y09tcf0
「着物は安さんの古いのや、あなたのを直して上げたら、どうかなるでしょう」と御米が云い添えた。実
は宗助にもこんな考が、多少頭に浮かんでいた。ただ御米に遠慮がある上に、それほど気が進まなかった
ので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう反対あべこべに相談を掛けられて見ると、固もと
0594山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:51:58.65ID:7/Y09tcf0
よりそれを拒こばむだけの勇気はなかった。
 小六にその通りを通知して、御前さえそれで差支さしつかえなければ、おれがもう一遍佐伯へ行って掛
合って見るがと、手紙で問い合せると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を、傘からかさに音を立
0595山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:52:14.75ID:7/Y09tcf0
ててやって来て、もう学資ができでもしたように嬉うれしがった。
「何、叔母さんの方じゃ、こっちでいつまでもあなたの事を放り出したまんま、構わずにおくもんだから
、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんだって、もう少し都合が好ければ、疾とうにもどうにかしたん
0596山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:52:30.65ID:7/Y09tcf0
ですけれども、御存じの通りだから実際やむを得なかったんですわ。しかしこっちからこう云って行けば
、叔母さんだって、安さんだって、それでも否いやだとは云われないわ。きっとできるから安心していら
っしゃい。私わたし受合うわ」
0597山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:52:46.67ID:7/Y09tcf0
 御米にこう受合って貰った小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。しかし中一日置
いて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。また三日ばかり過ぎてから、今度は叔母さんの所へ
行って聞いたら、兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くように勧すすめてくれと催促して行
0598山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:53:02.78ID:7/Y09tcf0
った。
 宗助が行く行くと云って、日を暮らしているうちに世の中はようやく秋になった。その朗らかな或日曜
の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのが後おくれるので、この要件を手紙に認したためて番町へ相談した
0600山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:53:34.76ID:7/Y09tcf0
 佐伯さえきの叔母の尋ねて来たのは、土曜の午後の二時過であった。その日は例になく朝から雲が出て
、突然と風が北に変ったように寒かった。叔母は竹で編んだ丸い火桶ひおけの上へ手を翳かざして、
0601山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:53:50.70ID:7/Y09tcf0
「何ですね、御米およねさん。この御部屋は夏は涼しそうで結構だが、これからはちと寒うござんすね」
と云った。叔母は癖のある髪を、奇麗きれいに髷まげに結いって、古風な丸打の羽織の紐ひもを、胸の所
で結んでいた。酒の好きな質たちで、今でも少しずつは晩酌をやるせいか、色沢いろつやもよく、でっぷ
0602山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:54:06.67ID:7/Y09tcf0
り肥ふとっているから、年よりはよほど若く見える。御米は叔母が来るたんびに、叔母さんは若いのねと
、後あとでよく宗助そうすけに話した。すると宗助がいつでも、若いはずだ、あの年になるまで、子供を
たった一人しか生まないんだからと説明した。御米は実際そうかも知れないと思った。そうしてこう云わ
0603山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:54:22.68ID:7/Y09tcf0
れた後では、折々そっと六畳へ這入はいって、自分の顔を鏡に映して見た。その時は何だか自分の頬ほお
が見るたびに瘠こけて行くような気がした。御米には自分と子供とを連想して考えるほど辛つらい事はな
かったのである。裏の家主の宅うちに、小さい子供が大勢いて、それが崖がけの上の庭へ出て、ブランコ
0604山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:54:38.72ID:7/Y09tcf0
へ乗ったり、鬼ごっこをやったりして騒ぐ声が、よく聞えると、御米はいつでも、はかないような恨うら
めしいような心持になった。今自分の前に坐っている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その男の子
が順当に育って、立派な学士になったればこそ、叔父が死んだ今日こんにちでも、何不足のない顔をして
0605山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:54:54.71ID:7/Y09tcf0
、腮あごなどは二重ふたえに見えるくらいに豊ゆたかなのである。御母さんは肥っているから剣呑けんの
んだ、気をつけないと卒中でやられるかも知れないと、安之助やすのすけが始終しじゅう心配するそうだ
けれども、御米から云わせると、心配する安之助も、心配される叔母も、共に幸福を享うけ合っているも
0606山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:55:10.68ID:7/Y09tcf0
のとしか思われなかった。
「安さんは」と御米が聞いた。
「ええようやくね、あなた。一昨日おとといの晩帰りましてね。それでついつい御返事も後おくれちまっ
0607山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:55:26.74ID:7/Y09tcf0
て、まことに済みませんような訳で」と云ったが、返事の方はそれなりにして、話はまた安之助へ戻って
来た。
「あれもね、御蔭おかげさまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事のところで、心配で
0608山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:55:42.74ID:7/Y09tcf0
ございます。――それでもこの九月から、月島の工場の方へ出る事になりまして、まあさいわいとこの分
で勉強さえして行ってくれれば、この末ともに、そう悪い事も無かろうかと思ってるんですけれども、ま
あ若いものの事ですから、これから先どう変化へんげるか分りゃしませんよ」
0609山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:55:58.84ID:7/Y09tcf0
 御米はただ結構でございますとか、おめでとうございますとか云う言葉を、間々あいだあいだに挟はさ
んでいた。
「神戸へ参ったのも、全くその方の用向なので。石油発動機とか何とか云うものを鰹船かつおぶねへ据す
0610山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:56:14.74ID:7/Y09tcf0
え付けるんだとかってねあなた」
 御米にはまるで意味が分らなかった。分らないながらただへええと受けていると、叔母はすぐ後あとを
話した。
0611山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:56:30.73ID:7/Y09tcf0
「私にも何のこったか、ちっとも分らなかったんですが、安之助の講釈を聞いて始めて、おやそうかいと
云うような訳でしてね。――もっとも石油発動機は今もって分らないんですけれども」と云いながら、大
きな声を出して笑った。「何でも石油を焚たいて、それで船を自由にする器械なんだそうですが、聞いて
0612山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:56:46.72ID:7/Y09tcf0
見るとよほど重宝なものらしいんですよ。それさえ付ければ、舟を漕こぐ手間てまがまるで省けるとかで
ね。五里も十里も沖へ出るのに、大変楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹船の数ったら
、それこそ大したものでしょう。その鰹船が一つずつこの器械を具そなえ付けるようになったら、莫大ば
0613山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:57:02.76ID:7/Y09tcf0
くだいな利益だって云うんで、この頃は夢中になってその方ばっかりに掛かかっているようですよ。莫大
な利益はありがたいが、そう凝こって身体からだでも悪くしちゃつまらないじゃないかって、この間も笑
ったくらいで」
0614山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:57:18.73ID:7/Y09tcf0
 叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。そうして大変得意のように見えたが、小六の事はなかなか云
い出さなかった。もう疾とうに帰るはずの宗助もどうしたか帰って来なかった。
 彼はその日役所の帰りがけに駿河台下するがだいしたまで来て、電車を下りて、酸すいものを頬張ほお
0615山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 14:57:34.76ID:7/Y09tcf0
ばったような口を穿すぼめて一二町歩いた後のち、ある歯医者の門かどを潜くぐったのである。三四日前
彼は御米と差向いで、夕飯の膳ぜんに着いて、話しながら箸はしを取っている際に、どうした拍子か、前
歯を逆にぎりりと噛かんでから、それが急に痛み出した。指で揺うごかすと、根がぐらぐらする。食事の
0616山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:32:37.42ID:7/Y09tcf0
ました。そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き合いました。何にも知らないお嬢さんは私を見て驚いたら
しかったのです。私が帽子を脱とって「今お帰り」と尋ねると、向うではもう病気は癒なおったのかと不
思議そうに聞くのです。私は「ええ癒りました、癒りました」と答えて、ずんずん水道橋すいどうばしの
0617山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:32:52.62ID:7/Y09tcf0
るだけの余裕がなかったので
しょう。私は腋わきの下から出る気味のわるい汗が襯衣シャツに滲しみ透とおるのを凝じっと我慢して動
かずにいました。Kはその間あいだいつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明け
0618山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:33:08.65ID:7/Y09tcf0
てゆきます。私は苦しくって堪たまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の
顔の上に判然はっきりした字で貼はり付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気の
付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に一切いっさいを集中しているから、私の表情な
0619山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:33:24.67ID:7/Y09tcf0
どに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くて
鈍のろい代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白
を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えず掻かき乱されていましたから、細こまか
0620山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:33:40.69ID:7/Y09tcf0
い点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響
きました。そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったの
です。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌きざし始めたのです。
0621山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:33:56.71ID:7/Y09tcf0
 Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白を
したものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたの
ではありません。ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。
0622山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:34:12.83ID:7/Y09tcf0
 午食ひるめしの時、Kと私は向い合せに席を占めました。下女げじょに給仕をしてもらって、私はいつ
にない不味まずい飯めしを済ませました。二人は食事中もほとんど口を利ききませんでした。奥さんとお
嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。
0624山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:34:44.70ID:7/Y09tcf0
「二人は各自めいめいの室へやに引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでし
た。私わたくしも凝じっと考え込んでいました。
 私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が後おくれてし
0625山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:35:00.69ID:7/Y09tcf0
まったという気も起りました。なぜ先刻さっきKの言葉を遮さえぎって、こっちから逆襲しなかったのか
、そこが非常な手落てぬかりのように見えて来ました。せめてKの後あとに続いて、自分は自分の思う通
りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。Kの自白に一段落が付いた今とな
0626山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:35:16.74ID:7/Y09tcf0
って、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法
を知らなかったのです。私の頭は悔恨に揺ゆられてぐらぐらしました。
 私はKが再び仕切しきりの襖ふすまを開あけて向うから突進してきてくれれば好いいと思いました。私
0627山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:35:32.83ID:7/Y09tcf0
にいわせれば、先刻はまるで不意撃ふいうちに会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかっ
たのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心したごころを持っていました。それで
時々眼を上げて、襖を眺ながめました。しかしその襖はいつまで経たっても開あきません。そうしてKは
0628山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:35:49.24ID:7/Y09tcf0
永久に静かなのです。
 その内うち私の頭は段々この静かさに掻かき乱されるようになって来ました。Kは今襖の向うで何を考
えているだろうと思うと、それが気になって堪たまらないのです。不断もこんな風ふうにお互いが仕切一
0629山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:36:04.84ID:7/Y09tcf0
枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を
忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりま
せん。それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。一旦いったんいいそびれた
0630山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:36:20.75ID:7/Y09tcf0
私は、また向うから働き掛けられる時機を待つより外ほかに仕方がなかったのです。
 しまいに私は凝じっとしておられなくなりました。無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくな
るのです。私は仕方なしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶て
0631山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:36:36.74ID:7/Y09tcf0
つびんの湯を湯呑ゆのみに注ついで一杯呑みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの室を回避
するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出みいだしたのです。私には無論どこへ行くという的
あてもありません。ただ凝じっとしていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、
0632山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:36:52.87ID:7/Y09tcf0
むやみに歩き廻まわったのです。私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。私もKを
振ふるい落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼そしゃくしながら
うろついていたのです。
0633山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:37:08.73ID:7/Y09tcf0
 私には第一に彼が解かいしがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか
、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募つのって来たのか、そうして平生の彼は
どこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知っていま
0634山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:37:24.76ID:7/Y09tcf0
した。また彼の真面目まじめな事を知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼に
ついて聞かなければならない多くをもっていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変
に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室に凝じっと坐すわっている彼の容貌
0635山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:37:40.77ID:7/Y09tcf0
ようぼうを始終眼の前に描えがき出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないの
だという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は
永久彼に祟たたられたのではなかろうかという気さえしました。
0637山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:38:12.78ID:7/Y09tcf0
「私が家へはいると間もなく俥くるまの音が聞こえました。今のように護謨輪ゴムわのない時分でしたか
ら、がらがらいう厭いやな響ひびきがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました
0638山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:38:28.81ID:7/Y09tcf0

 私が夕飯ゆうめしに呼び出されたのは、それから三十分ばかり経たった後あとの事でしたが、まだ奥さ
んとお嬢さんの晴着はれぎが脱ぎ棄すてられたまま、次の室を乱雑に彩いろどっていました。二人は遅く
0639山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:38:44.76ID:7/Y09tcf0
なると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。しか
し奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しが
る人のように、素気そっけない挨拶あいさつばかりしていました。Kは私よりもなお寡言かげんでした。
0640山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:39:00.91ID:7/Y09tcf0
たまに親子連おやこづれで外出した女二人の気分が、また平生へいぜいよりは勝すぐれて晴れやかだった
ので、我々の態度はなおの事眼に付きます。奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。私は少し心持が
悪いと答えました。実際私は心持が悪かったのです。すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました
0641山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:39:16.80ID:7/Y09tcf0
。Kは私のように心持が悪いとは答えません。ただ口が利ききたくないからだといいました。お嬢さんは
なぜ口が利きたくないのかと追窮ついきゅうしました。私はその時ふと重たい瞼まぶたを上げてKの顔を
見ました。私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少し顫ふる
0642山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:39:32.81ID:7/Y09tcf0
えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さ
んは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。Kの顔は心持薄赤くなりまし
た。
0643山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:39:48.80ID:7/Y09tcf0
 その晩私はいつもより早く床とこへ入りました。私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さ
んは十時頃蕎麦湯そばゆを持って来てくれました。しかし私の室へやはもう真暗まっくらでした。奥さん
はおやおやといって、仕切りの襖ふすまを細目に開けました。洋燈ランプの光がKの机から斜ななめにぼ
0644山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:40:04.83ID:7/Y09tcf0
んやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きていたものとみえます。奥さんは枕元まくらもとに坐っ
て、大方おおかた風邪かぜを引いたのだろうから身体からだを暖あっためるがいいといって、湯呑ゆのみ
を顔の傍そばへ突き付けるのです。私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みま
0645山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:40:20.81ID:7/Y09tcf0
した。
 私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転かいてんさせるだけで、外
ほかに何の効力もなかったのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私
0646山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:40:36.80ID:7/Y09tcf0
は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたので
す。私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶あいさつがありました。何を
しているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。その代り五、六分経ったと思う頃
0647山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:40:52.83ID:7/Y09tcf0
に、押入おしいれをがらりと開けて、床とこを延べる音が手に取るように聞こえました。私はもう何時な
んじかとまた尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがて洋燈ランプをふっと吹き消す音がして
、家中うちじゅうが真暗なうちに、しんと静まりました。
0648山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:41:08.94ID:7/Y09tcf0
 しかし私の眼はその暗いなかでいよいよ冴さえて来るばかりです。私はまた半ば無意識な状態で、おい
とKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝けさ彼から聞いた事
について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は
0649山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:41:24.83ID:7/Y09tcf0
無論襖越ふすまごしにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と
考えたのです。ところがKは先刻さっきから二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直すなおな
調子で、今度は応じません。そうだなあと低い声で渋っています。私はまたはっと思わせられました。
0651山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:41:56.90ID:7/Y09tcf0
「Kの生返事なまへんじは翌日よくじつになっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていま
した。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色けしきを決して見せませんでした。もっとも機
会もなかったのです。奥さんとお嬢さんが揃そろって一日宅うちを空あけでもしなければ、二人はゆっく
0652山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:42:12.87ID:7/Y09tcf0
り落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。私わたくしはそれをよく心得ていまし
た。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、暗あ
んに用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。
0653山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:42:28.87ID:7/Y09tcf0
 同時に私は黙って家うちのものの様子を観察して見ました。しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振そ
ぶりにも、別に平生へいぜいと変った点はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動
にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心かんじんの本人にも
0654山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:42:44.84ID:7/Y09tcf0
、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは慥たしかでした。そう考えた時私は少し安心し
ました。それで無理に機会を拵こしらえて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるもの
を取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事
0655山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:43:00.93ID:7/Y09tcf0
にしました。
 こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮しおの満干みちひと同じよう
に、色々の高低たかびくがあったのです。私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加
0656山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:43:16.89ID:7/Y09tcf0
えました。奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだ
ろうかと疑うたがってもみました。そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように
、明瞭めいりょうに偽いつわりなく、盤上ばんじょうの数字を指し得うるものだろうかと考えました。要
0657山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:43:32.87ID:7/Y09tcf0
するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句あげく、漸ようやくここに落ち付いたものと思って
下さい。更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのか
も知れません。
0658山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:43:48.89ID:7/Y09tcf0
 その内うち学校がまた始まりました。私たちは時間の同じ日には連れ立って宅うちを出ます。都合がよ
ければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。外部から見たKと私は、何にも前と違ったところがない
ように親しくなったのです。けれども腹の中では、各自てんでんに各自てんでんの事を勝手に考えていた
0659山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:44:04.88ID:7/Y09tcf0
に違いありません。ある日私は突然往来でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私
だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取
るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で極きめなければならないと、私は思ったのです。すると
0660山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:44:20.99ID:7/Y09tcf0
彼は外ほかの人にはまだ誰だれにも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだった
ので、内心嬉うれしがりました。私はKの私より横着なのをよく知っていました。彼の度胸にも敵かなわ
ないという自覚があったのです。けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資の事で養家ようか
0661山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:44:36.88ID:7/Y09tcf0
を三年も欺あざむいていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。私
はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹
の中で否定する気は起りようがなかったのです。
0662山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:44:52.91ID:7/Y09tcf0
 私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか
、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになる
と、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に隠かくし立てをしてくれるな、すべて
0663山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:45:08.92ID:7/Y09tcf0
思った通りを話してくれと頼みました。彼は何も私に隠す必要はないと判然はっきり断言しました。しか
し私の知ろうとする点には、一言いちごんの返事も与えないのです。私も往来だからわざわざ立ち留まっ
て底そこまで突き留める訳にいきません。ついそれなりにしてしまいました。
0665山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:45:40.93ID:7/Y09tcf0
「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けな
がら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引ひっ繰くり返して見ていました。私は担任教師から専攻の学
科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか
0666山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:45:56.92ID:7/Y09tcf0
見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分
に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声
で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を
0667山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:46:13.04ID:7/Y09tcf0
机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。ご承知の通り図書館では他ほかの人の邪魔
になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作しょさは誰でもやる普通の事な
のですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。
0668山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:46:28.93ID:7/Y09tcf0
 Kは低い声で勉強かと聞きました。私はちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだ
その顔を私から放しません。同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。私は少し待ってい
ればしてもいいと答えました。彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。す
0669山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:46:44.95ID:7/Y09tcf0
ると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。何だかKの胸に一物いちもつがあって、談判でもし
に来られたように思われて仕方がないのです。私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうと
しました。Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返す
0670山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:47:00.94ID:7/Y09tcf0
と共に、Kと図書館を出ました。
 二人は別に行く所もなかったので、竜岡町たつおかちょうから池いけの端はたへ出て、上野うえのの公
園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を綜合そ
0671山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:47:16.93ID:7/Y09tcf0
うごうして考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引ひっ張ぱり出だしたらしいのです。けれども
彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向って、ただ漠然と、ど
う思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵ふちに陥おちいった彼を、どんな眼で私が
0672山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:47:33.07ID:7/Y09tcf0
眺ながめるかという質問なのです。一言いちごんでいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めた
いようなのです。そこに私は彼の平生へいぜいと異なる点を確かに認める事ができたと思いました。たび
たび繰り返すようですが、彼の天性は他ひとの思わくを憚はばかるほど弱くでき上ってはいなかったので
0673山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:47:49.07ID:7/Y09tcf0
す。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家ようか事件
でその特色を強く胸の裏うちに彫ほり付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の
結果なのです。
0674山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:48:05.05ID:7/Y09tcf0
 私がKに向って、この際何なんで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然しょう
ぜんとした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自
分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外ほかに仕方がないといいました
0675山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:48:20.98ID:7/Y09tcf0
。私は隙すかさず迷うという意味を聞き糺ただしました。彼は進んでいいか退しりぞいていいか、それに
迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きま
した。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。実際彼の表
0676山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:48:37.07ID:7/Y09tcf0
情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどん
なに彼に都合のいい返事を、その渇かわき切った顔の上に慈雨じうの如く注そそいでやったか分りません
。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は
0678山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:49:08.97ID:7/Y09tcf0
「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の
身体からだ、すべて私という名の付くものを五分ぶの隙間すきまもないように用意して、Kに向ったので
0679山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:49:25.10ID:7/Y09tcf0
す。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼
自身の手から、彼の保管している要塞ようさいの地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺なが
める事ができたも同じでした。
0680山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:49:41.11ID:7/Y09tcf0
 Kが理想と現実の間に彷徨ほうこうしてふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ひとうちで彼を
倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚きょに付け込んだのです。
私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応するく
0681山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:49:57.00ID:7/Y09tcf0
らいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽こっけいだの羞恥しゅうちだのを感ずる余裕はあり
ませんでした。私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿ばかだ」といい放ちました。これは二人で房
州ぼうしゅうを旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じよう
0682山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:50:12.99ID:7/Y09tcf0
な口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ふくしゅうではありません。私は復讐以上に残
酷な意味をもっていたという事を自白します。私はその一言いちごんでKの前に横たわる恋の行手ゆくて
を塞ふさごうとしたのです。
0683山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:50:29.01ID:7/Y09tcf0
 Kは真宗寺しんしゅうでらに生れた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨しゅう
しに近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは
承知していますが、私はただ男女なんにょに関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔か
0684山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:50:45.00ID:7/Y09tcf0
ら精進しょうじんという言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲きんよくという意味も籠こもって
いるのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれ
ているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なので
0685山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:51:01.05ID:7/Y09tcf0
すから、摂欲せつよくや禁欲きんよくは無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害さまたげになる
のです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃ころか
らお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると
0686山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:51:17.04ID:7/Y09tcf0
、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑ぶべつの方が余計に現われていまし
た。
 こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという
0687山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:51:33.07ID:7/Y09tcf0
言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角せ
っかく積み上げた過去を蹴散けちらしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行
かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活
0688山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:51:49.08ID:7/Y09tcf0
の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でし
た。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
0689山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:52:05.11ID:7/Y09tcf0
 私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていまし
た。
「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」
0690山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:52:21.10ID:7/Y09tcf0
 Kはぴたりとそこへ立ち留どまったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。私は思わずぎょ
っとしました。私にはKがその刹那せつなに居直いなおり強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれに
しては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。私は彼の眼遣めづかいを参考にしたかっ
0691山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:52:37.13ID:7/Y09tcf0
たのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、徐々そろそろとまた歩き出しました。

四十二
0692山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:52:53.13ID:7/Y09tcf0
「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗あんに待ち受けました。あるい
は待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。その時の私はたといKを騙だまし打ちにしても構わな
0693山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:53:09.25ID:7/Y09tcf0
いくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私の傍そばへ来て
、お前は卑怯ひきょうだと一言ひとこと私語ささやいてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっ
と我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょ
0694山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:53:25.16ID:7/Y09tcf0
う。ただKは私を窘たしなめるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったので
す。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用し
て彼を打ち倒そうとしたのです。
0695山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:53:41.14ID:7/Y09tcf0
 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。すると
Kも留まりました。私はその時やっとKの眼を真向まむきに見る事ができたのです。Kは私より背せいの
高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、狼お
0696山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:53:57.15ID:7/Y09tcf0
おかみのごとき心を罪のない羊に向けたのです。
「もうその話は止やめよう」と彼がいいました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました
。私はちょっと挨拶あいさつができなかったのです。するとKは、「止やめてくれ」と今度は頼むように
0697山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:54:13.18ID:7/Y09tcf0
いい直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。狼おおかみが隙すきを見て羊の咽喉笛
のどぶえへ食くらい付くように。
「止やめてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし
0698山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:54:29.17ID:7/Y09tcf0
君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだ
けの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
 私がこういった時、背せいの高い彼は自然と私の前に萎縮いしゅくして小さくなるような感じがしまし
0699山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:54:45.19ID:7/Y09tcf0
た。彼はいつも話す通り頗すこぶる強情ごうじょうな男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者で
したから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質たちだったのです。
私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は卒然そつぜん「覚悟?」と聞きました。そうして
0700山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:55:01.19ID:7/Y09tcf0
私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は独言ひ
とりごとのようでした。また夢の中の言葉のようでした。
 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川こいしかわの宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな
0701山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:55:17.19ID:7/Y09tcf0
日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋さびしいものでした。ことに霜に打たれて蒼
味あおみを失った杉の木立こだちの茶褐色ちゃかっしょくが、薄黒い空の中に、梢こずえを並べて聳そび
えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ噛かじり付いたような心持がしました。我々は夕暮の本
0702山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:55:33.17ID:7/Y09tcf0
郷台ほんごうだいを急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの岡おかへ上のぼるべく小石川の谷へ下りた
のです。私はその頃ころになって、ようやく外套がいとうの下に体たいの温味あたたかみを感じ出したぐ
らいです。
0703山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:55:49.17ID:7/Y09tcf0
 急いだためでもありましょうが、我々は帰り路みちにはほとんど口を聞きませんでした。宅うちへ帰っ
て食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野うえのへ行っ
たと答えました。奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があった
0704山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:56:05.21ID:7/Y09tcf0
のかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生へいぜ
いから無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、碌ろ
くな挨拶あいさつはしませんでした。それから飯めしを呑のみ込むように掻かき込んで、私がまだ席を立
0706山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:56:37.21ID:7/Y09tcf0
「その頃ころは覚醒かくせいとか新しい生活とかいう文字もんじのまだない時分でした。しかしKが古い
自分をさらりと投げ出して、一意いちいに新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠け
0707山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:56:53.21ID:7/Y09tcf0
ていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊たっとい過去があったからです。彼はそ
のために今日こんにちまで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に
向って猛進しないといって、決してその愛の生温なまぬるい事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾
0708山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:57:09.23ID:7/Y09tcf0
烈しれつな感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼
に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留とどまって自分の過去を振り返らなければならなかった
のです。そうすると過去が指し示す路みちを今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には
0709山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:57:25.20ID:7/Y09tcf0
現代人のもたない強情ごうじょうと我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いて
いたつもりなのです。
 上野うえのから帰った晩は、私に取って比較的安静な夜よでした。私はKが室へやへ引き上げたあとを
0710山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:57:41.21ID:7/Y09tcf0
追い懸けて、彼の机の傍そばに坐すわり込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向け
ました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意
の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳かざした後あと、自分の室に帰りました。外
0711山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:57:57.24ID:7/Y09tcf0
ほかの事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に
対してもっていたのです。
 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間
0712山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:58:13.32ID:7/Y09tcf0
の襖ふすまが二尺しゃくばかり開あいて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵よい
の通りまだ燈火あかりが点ついているのです。急に世界の変った私は、少しの間あいだ口を利きく事もで
きずに、ぼうっとして、その光景を眺ながめていました。
0713山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:58:29.34ID:7/Y09tcf0
 その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師か
げぼうしのようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、ま
だ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは洋燈ランプの灯ひ
0714山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:58:45.29ID:7/Y09tcf0
を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よ
りもかえって落ち付いていたくらいでした。
 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇くらやみに帰りました。私はそ
0715山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:59:01.27ID:7/Y09tcf0
の暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝よくあさ
になって、昨夕ゆうべの事を考えてみると、何だか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではな
いかと思いました。それで飯めしを食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと
0716山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:59:17.24ID:7/Y09tcf0
いいます。なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然はっきりした返事もしません。調子の抜けた頃
になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました。
 その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに宅うちを出
0717山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:59:33.25ID:7/Y09tcf0
ました。今朝けさから昨夕の事が気に掛かかっている私は、途中でまたKを追窮ついきゅうしました。け
れどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなか
ったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子でいい切りました。昨日きのう上野で「そ
0718山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 20:59:49.27ID:7/Y09tcf0
の話はもう止やめよう」といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点に掛け
て鋭い自尊心をもった男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想
し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を抑おさえ始めたのです
0720山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:00:21.26ID:7/Y09tcf0
「Kの果断に富んだ性格は私わたくしによく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔ゆうじゅう
な訳も私にはちゃんと呑のみ込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫
0721山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:00:37.29ID:7/Y09tcf0
つらまえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍なんべんも
咀嚼そしゃくしているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺うごき始めるよう
になりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべ
0722山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:00:53.31ID:7/Y09tcf0
ての疑惑、煩悶はんもん、懊悩おうのう、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳たたみ込ん
でいるのではなかろうかと疑うたぐり始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺ながめ返してみ
た私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返いっぺん彼の口にした覚悟の
0723山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:01:09.42ID:7/Y09tcf0
内容を公平に見廻みまわしたらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼めっかちでした。
私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格
が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図いちずに思い込んでしまったのです。
0724山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:01:25.52ID:7/Y09tcf0
 私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起
しました。私はKより先に、しかもKの知らない間まに、事を運ばなくてはならないと覚悟を極きめまし
た。私は黙って機会を覘ねらっていました。しかし二日経たっても三日経っても、私はそれを捕つらまえ
0725山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:01:41.31ID:7/Y09tcf0
る事ができません。私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考え
たのです。しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風ふうの日ばかり続いて、どうしても「
今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。
0726山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:01:57.31ID:7/Y09tcf0
 一週間の後のち私はとうとう堪え切れなくなって仮病けびょうを遣つかいました。奥さんからもお嬢さ
んからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事なまへんじをしただけで、十時頃ごろ
まで蒲団ふとんを被かぶって寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の内なかがひっそり静
0727山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:02:13.30ID:7/Y09tcf0
まった頃を見計みはからって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。
食物たべものは枕元まくらもとへ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。
身体からだに異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつもの通り茶の間で飯めしを
0728山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:02:29.32ID:7/Y09tcf0
食いました。その時奥さんは長火鉢ながひばちの向側むこうがわから給仕をしてくれたのです。私は朝飯
あさめしとも午飯ひるめしとも片付かない茶椀ちゃわんを手に持ったまま、どんな風に問題を切り出した
ものだろうかと、そればかりに屈托くったくしていたから、外観からは実際気分の好よくない病人らしく
0729山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:02:45.32ID:7/Y09tcf0
見えただろうと思います。
 私は飯を終しまって烟草タバコを吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の傍そばを離れる
訳にゆきません。下女げじょを呼んで膳ぜんを下げさせた上、鉄瓶てつびんに水を注さしたり、火鉢の縁
0730山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:03:01.34ID:7/Y09tcf0
ふちを拭ふいたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました
。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい
事があるのだといいました。奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の
0731山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:03:17.32ID:7/Y09tcf0
気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
 私は仕方なしに言葉の上で、好いい加減にうろつき廻まわった末、Kが近頃ちかごろ何かいいはしなか
ったかと奥さんに聞いてみました。奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」とまた反問して
0732山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:03:33.44ID:7/Y09tcf0
来ました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」とかえって向うで聞くの
です。
0733山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:03:49.47ID:7/Y09tcf0
四十五

「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」といってしまった後で
0734山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:04:05.33ID:7/Y09tcf0
、すぐ自分の嘘うそを快こころよからず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覚えはないのだ
から、Kに関する用件ではないのだといい直しました。奥さんは「そうですか」といって、後あとを待っ
ています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下
0735山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:04:21.36ID:7/Y09tcf0
さい」といいました。奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでも少
時しばらく返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔を眺ながめていました。一度いい出した私は
、いくら顔を見られても、それに頓着とんじゃくなどはしていられません。「下さい、ぜひ下さい」とい
0736山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:04:37.37ID:7/Y09tcf0
いました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと
落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急に貰も
らいたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私
0737山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:04:53.37ID:7/Y09tcf0
はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。
 それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のように判然はきは
きしたところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。「宜
0738山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:05:09.37ID:7/Y09tcf0
よござんす、差し上げましょう」といいました。「差し上げるなんて威張いばった口の利きける境遇では
ありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のない憐あわれな子です」と後あとでは向うから頼
みました。
0739山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:05:25.36ID:7/Y09tcf0
 話は簡単でかつ明瞭めいりょうに片付いてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とは掛
かからなかったでしょう。奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後
から断ればそれで沢山だといいました。本人の意嚮いこうさえたしかめるに及ばないと明言しました。そ
0740山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:05:41.38ID:7/Y09tcf0
んな点になると、学問をした私の方が、かえって形式に拘泥こうでいするくらいに思われたのです。親類
はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得うるのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈
夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」といいました。
0741山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:05:57.40ID:7/Y09tcf0
 自分の室へやへ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりまし
た。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底に這はい込んで来たくらいです。け
れども大体の上において、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにし
0742山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:06:13.42ID:7/Y09tcf0
ました。
 私は午頃ひるごろまた茶の間へ出掛けて行って、奥さんに、今朝けさの話をお嬢さんに何時いつ通じて
くれるつもりかと尋ねました。奥さんは、自分さえ承知していれば、いつ話しても構わなかろうというよ
0743山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:06:29.38ID:7/Y09tcf0
うな事をいうのです。こうなると何だか私よりも相手の方が男みたようなので、私はそれぎり引き込もう
としました。すると奥さんが私を引き留めて、もし早い方が希望ならば、今日でもいい、稽古けいこから
帰って来たら、すぐ話そうというのです。私はそうしてもらう方が都合が好いいと答えてまた自分の室に
0744山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:06:45.51ID:7/Y09tcf0
帰りました。しかし黙って自分の机の前に坐すわって、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像
してみると、何だか落ち付いていられないような気もするのです。私はとうとう帽子を被かぶって表へ出
ました。そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き合いました。何にも知らないお嬢さんは私を見て驚いたら
0745山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:07:01.39ID:7/Y09tcf0
しかったのです。私が帽子を脱とって「今お帰り」と尋ねると、向うではもう病気は癒なおったのかと不
思議そうに聞くのです。私は「ええ癒りました、癒りました」と答えて、ずんずん水道橋すいどうばしの
方へ曲ってしまいました。
0747山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:07:33.41ID:7/Y09tcf0
「私は猿楽町さるがくちょうから神保町じんぼうちょうの通りへ出て、小川町おがわまちの方へ曲りまし
た。私がこの界隈かいわいを歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手摺てずれ
のした書物などを眺ながめる気が、どうしても起らないのです。私は歩きながら絶えず宅うちの事を考え
0748山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:07:49.53ID:7/Y09tcf0
ていました。私には先刻さっきの奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんが宅へ帰ってからの想像
がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。その上私は時々往来の真
中で我知らずふと立ち留まりました。そうして今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろ
0749山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:08:05.40ID:7/Y09tcf0
うなどと考えました。また或ある時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。
 私はとうとう万世橋まんせいばしを渡って、明神みょうじんの坂を上がって、本郷台ほんごうだいへ来
て、それからまた菊坂きくざかを下りて、しまいに小石川こいしかわの谷へ下りたのです。私の歩いた距
0750山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:08:21.51ID:7/Y09tcf0
離はこの三区に跨またがって、いびつな円を描えがいたともいわれるでしょうが、私はこの長い散歩の間
ほとんどKの事を考えなかったのです。今その時の私を回顧して、なぜだと自分に聞いてみても一向いっ
こう分りません。ただ不思議に思うだけです。私の心がKを忘れ得うるくらい、一方に緊張していたとみ
0751山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:08:37.37ID:7/Y09tcf0
ればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。
 Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子こうしを開けて、玄関から坐敷ざしきへ通る時、す
なわち例のごとく彼の室へやを抜けようとした瞬間でした。彼はいつもの通り机に向って書見をしていま
0752山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:08:53.56ID:7/Y09tcf0
した。彼はいつもの通り書物から眼を放して、私を見ました。しかし彼はいつもの通り今帰ったのかとは
いいませんでした。彼は「病気はもう癒いいのか、医者へでも行ったのか」と聞きました。私はその刹那
せつなに、彼の前に手を突いて、詫あやまりたくなったのです。しかも私の受けたその時の衝動は決して
0753山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:09:09.46ID:7/Y09tcf0
弱いものではなかったのです。もしKと私がたった二人曠野こうやの真中にでも立っていたならば、私は
きっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然
はすぐそこで食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。
0754山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:09:25.46ID:7/Y09tcf0
 夕飯ゆうめしの時Kと私はまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑
い深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんはいつもより嬉うれしそうでした。私だけがすべてを
知っていたのです。私は鉛のような飯を食いました。その時お嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓
0755山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:09:41.53ID:7/Y09tcf0
に並びませんでした。奥さんが催促すると、次の室で只今ただいまと答えるだけでした。それをKは不思
議そうに聞いていました。しまいにどうしたのかと奥さんに尋ねました。奥さんは大方おおかた極きまり
が悪いのだろうといって、ちょっと私の顔を見ました。Kはなお不思議そうに、なんで極りが悪いのかと
0756山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:09:57.46ID:7/Y09tcf0
追窮ついきゅうしに掛かかりました。奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。
 私は食卓に着いた初めから、奥さんの顔付かおつきで、事の成行なりゆきをほぼ推察していました。し
かしKに説明を与えるために、私のいる前で、それを悉ことごとく話されては堪たまらないと考えました
0757山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:10:13.46ID:7/Y09tcf0
。奥さんはまたそのくらいの事を平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。幸いにKはまた
元の沈黙に帰りました。平生へいぜいより多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私の恐れを抱いだいて
いる点までは話を進めずにしまいました。私はほっと一息ひといきして室へ帰りました。しかし私がこれ
0758山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:10:29.46ID:7/Y09tcf0
から先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。
私は色々の弁護を自分の胸で拵こしらえてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りま
せんでした、卑怯ひきょうな私はついに自分で自分をKに説明するのが厭いやになったのです。
0760山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:11:01.48ID:7/Y09tcf0
「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしてい
たのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上
奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟しげきするのですから、私はなお辛つ
0761山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:11:17.60ID:7/Y09tcf0
らかったのです。どこか男らしい気性を具そなえた奥さんは、いつ私の事を食卓でKに素すっぱ抜かない
とも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作きょしどうさも、K
の心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立っ
0762山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:11:33.51ID:7/Y09tcf0
た新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、
自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。
 私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論私のいない
0763山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:11:49.49ID:7/Y09tcf0
時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目めんぼくのないのに
変りはありません。といって、拵こしらえ事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問きつ
もんされるに極きまっています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分
0764山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:12:05.60ID:7/Y09tcf0
の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝さらけ出さなければなりません。真面目まじめな私には、それが
私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一
分ぶ一厘りんでも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
0765山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:12:21.50ID:7/Y09tcf0
 要するに私は正直な路みちを歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾こうかつ
な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しか
し立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければな
0766山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:12:37.62ID:7/Y09tcf0
らない窮境きゅうきょうに陥おちいったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、ど
うしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟はさまってまた立たち竦すくみました。
 五、六日経たった後のち、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話
0767山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:12:53.51ID:7/Y09tcf0
さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私を詰なじるのです。私はこの問いの前に固
くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
「道理で妾わたしが話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生へいぜ
0768山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:13:09.50ID:7/Y09tcf0
いあんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」
 私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にもいわないと答えま
した。しかし私は進んでもっと細こまかい事を尋ねずにはいられませんでした。奥さんは固もとより何も
0769山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:13:25.54ID:7/Y09tcf0
隠す訳がありません。大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。
 奥さんのいうところを綜合そうごうして考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きを
もって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですか
0770山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:13:41.55ID:7/Y09tcf0
とただ一口ひとくちいっただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時
、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩もらしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立
ったそうです。そうして茶の間の障子しょうじを開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつで
0771山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:13:57.57ID:7/Y09tcf0
すか」と聞いたそうです。それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません
」といったそうです。奥さんの前に坐すわっていた私は、その話を聞いて胸が塞ふさがるような苦しさを
覚えました。
0773山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:14:29.66ID:7/Y09tcf0
「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前
と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はた
とい外観だけにもせよ、敬服に値あたいすべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼
0774山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:14:45.56ID:7/Y09tcf0
の方が遥はるかに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私
の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが軽蔑けいべつしている事だろうと思って、一人で顔を赧
あからめました。しかし今更Kの前に出て、恥を掻かかせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛で
0775山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:15:01.66ID:7/Y09tcf0
した。
 私が進もうか止よそうかと考えて、ともかくも翌日あくるひまで待とうと決心したのは土曜の晩でした
。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すと慄然ぞっと
0776山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:15:17.53ID:7/Y09tcf0
します。いつも東枕ひがしまくらで寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床とこを敷いたのも、何かの
因縁いんねんかも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも
立て切ってあるKと私の室へやとの仕切しきりの襖ふすまが、この間の晩と同じくらい開あいています。
0777山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:15:33.55ID:7/Y09tcf0
けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上
に肱ひじを突いて起き上がりながら、屹きっとKの室を覗のぞきました。洋燈ランプが暗く点ともってい
るのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団かけぶとんは跳返はねかえされたように裾すその
0778山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:15:49.56ID:7/Y09tcf0
方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突つッ伏ぷしているのです。
 私はおいといって声を掛けました。しかし何の答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを
呼びました。それでもKの身体からだは些ちっとも動きません。私はすぐ起き上って、敷居際しきいぎわ
0779山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:16:05.56ID:7/Y09tcf0
まで行きました。そこから彼の室の様子を、暗い洋燈ランプの光で見廻みまわしてみました。
 その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼
は彼の室の中を一目ひとめ見るや否いなや、あたかも硝子ガラスで作った義眼のように、動く能力を失い
0780山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:16:21.59ID:7/Y09tcf0
ました。私は棒立ぼうだちに立たち竦すくみました。それが疾風しっぷうのごとく私を通過したあとで、
私はまたああ失策しまったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、
一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄ものすごく照らしました。そうして私はがたがた顫ふるえ出した
0781山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:16:37.58ID:7/Y09tcf0
のです。
 それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けま
した。それは予期通り私の名宛なあてになっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の
0782山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:16:53.70ID:7/Y09tcf0
予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛つらい文句がその中に書
き列つらねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、ど
んなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私はちょっと眼を通しただけで、まず助かっ
0783山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:17:09.61ID:7/Y09tcf0
たと思いました。(固もとより世間体せけんていの上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、
私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
 手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行はくしじゃっこうで到底行先
0784山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:17:25.60ID:7/Y09tcf0
ゆくさきの望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごく
あっさりとした文句でその後あとに付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方かたづけかたも頼
みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜よろしく詫わびをしてくれという句
0785山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:17:41.63ID:7/Y09tcf0
もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口ひと
くちずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわ
ざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨すみの余
0786山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:17:57.62ID:7/Y09tcf0
りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文
句でした。
 私は顫ふるえる手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆みんなの眼に
0787山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:18:13.60ID:7/Y09tcf0
着くように、元の通り机の上に置きました。そうして振り返って、襖ふすまに迸ほとばしっている血潮を
始めて見たのです。
0788山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:18:29.61ID:7/Y09tcf0
四十九

「私は突然Kの頭を抱かかえるように両手で少し持ち上げました。私はKの死顔しにがおが一目ひとめ見
0789山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:18:45.71ID:7/Y09tcf0
たかったのです。しかし俯伏うつぶしになっている彼の顔を、こうして下から覗のぞき込んだ時、私はす
ぐその手を放してしまいました。慄ぞっとしたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられた
のです。私は上から今触さわった冷たい耳と、平生へいぜいに変らない五分刈ごぶがりの濃い髪の毛を少
0790山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:19:01.63ID:7/Y09tcf0
時しばらく眺ながめていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです
。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺激しげきして起る単調な恐ろしさばかりではありま
せん。私は忽然こつぜんと冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです
0791山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:19:17.75ID:7/Y09tcf0

 私は何の分別ふんべつもなくまた私の室へやに帰りました。そうして八畳の中をぐるぐる廻まわり始め
ました。私の頭は無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。私はどうかしなければなら
0792山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:19:33.75ID:7/Y09tcf0
ないと思いました。同時にもうどうする事もできないのだと思いました。座敷の中をぐるぐる廻らなけれ
ばいられなくなったのです。檻おりの中へ入れられた熊くまのような態度で。
 私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪
0793山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:19:49.62ID:7/Y09tcf0
いという心持がすぐ私を遮さえぎります。奥さんはとにかく、お嬢さんを驚かす事は、とてもできないと
いう強い意志が私を抑おさえつけます。私はまたぐるぐる廻り始めるのです。
 私はその間に自分の室の洋燈ランプを点つけました。それから時計を折々見ました。その時の時計ほど
0794山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:20:05.76ID:7/Y09tcf0
埒らちの明あかない遅いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、
もう夜明よあけに間まもなかった事だけは明らかです。ぐるぐる廻まわりながら、その夜明を待ち焦こが
れた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。
0795山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:20:21.63ID:7/Y09tcf0
 我々は七時前に起きる習慣でした。学校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わな
いのです。下女げじょはその関係で六時頃に起きる訳になっていました。しかしその日私が下女を起しに
行ったのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だといって注意してくれました。奥さんは私の
0796山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:20:37.75ID:7/Y09tcf0
足音で眼を覚ましたのです。私は奥さんに眼が覚めているなら、ちょっと私の室へやまで来てくれと頼み
ました。奥さんは寝巻の上へ不断着ふだんぎの羽織を引ひっ掛かけて、私の後あとに跟ついて来ました。
私は室へはいるや否いなや、今まで開あいていた仕切りの襖ふすまをすぐ立て切りました。そうして奥さ
0797山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:20:53.77ID:7/Y09tcf0
んに飛んだ事ができたと小声で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は顋あごで隣の室を指すよう
にして、「驚いちゃいけません」といいました。奥さんは蒼あおい顔をしました。「奥さん、Kは自殺し
ました」と私がまたいいました。奥さんはそこに居竦いすくまったように、私の顔を見て黙っていました
0798山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:21:09.67ID:7/Y09tcf0
。その時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「済みません。私が悪かったのです。あなた
にもお嬢さんにも済まない事になりました」と詫あやまりました。私は奥さんと向い合うまで、そんな言
葉を口にする気はまるでなかったのです。しかし奥さんの顔を見た時不意に我とも知らずそういってしま
0799山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:21:25.68ID:7/Y09tcf0
ったのです。Kに詫まる事のできない私は、こうして奥さんとお嬢さんに詫わびなければいられなくなっ
たのだと思って下さい。つまり私の自然が平生へいぜいの私を出し抜いてふらふらと懺悔ざんげの口を開
かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釈しなかったのは私にとって幸いでした。蒼い
0800山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:21:41.67ID:7/Y09tcf0
顔をしながら、「不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか」と慰めるようにいってくれました。し
かしその顔には驚きと怖おそれとが、彫ほり付けられたように、硬かたく筋肉を攫つかんでいました。
0801山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:21:58.05ID:7/Y09tcf0
五十

「私は奥さんに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙からかみを開けました。その時
0802山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:22:13.68ID:7/Y09tcf0
Kの洋燈ランプに油が尽きたと見えて、室へやの中はほとんど真暗まっくらでした。私は引き返して自分
の洋燈を手に持ったまま、入口に立って奥さんを顧みました。奥さんは私の後ろから隠れるようにして、
四畳の中を覗のぞき込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開
0803山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:22:29.70ID:7/Y09tcf0
けてくれと私にいいました。
 それから後あとの奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人びぼうじんだけあって要領を得ていました。
私は医者の所へも行きました。また警察へも行きました。しかしみんな奥さんに命令されて行ったのです
0804山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:22:45.79ID:7/Y09tcf0
。奥さんはそうした手続てつづきの済むまで、誰もKの部屋へは入いれませんでした。
 Kは小さなナイフで頸動脈けいどうみゃくを切って一息ひといきに死んでしまったのです。外ほかに創
きずらしいものは何にもありませんでした。私が夢のような薄暗い灯ひで見た唐紙の血潮は、彼の頸筋く
0805山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:23:01.71ID:7/Y09tcf0
びすじから一度に迸ほとばしったものと知れました。私は日中にっちゅうの光で明らかにその迹あとを再
び眺ながめました。そうして人間の血の勢いきおいというものの劇はげしいのに驚きました。
 奥さんと私はできるだけの手際てぎわと工夫を用いて、Kの室へやを掃除しました。彼の血潮の大部分
0806山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:23:17.82ID:7/Y09tcf0
は、幸い彼の蒲団ふとんに吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末は
[#「後始末は」は底本では「後始未は」]まだ楽でした。二人は彼の死骸しがいを私の室に入れて、不
断の通り寝ている体ていに横にしました。私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。
0807山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:23:33.70ID:7/Y09tcf0
 私が帰った時は、Kの枕元まくらもとにもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭ほとけ
くさい烟けむりで鼻を撲うたれた私は、その烟の中に坐すわっている女二人を認めました。私がお嬢さん
の顔を見たのは、昨夜来さくやらいこの時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤
0808山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:23:49.69ID:7/Y09tcf0
くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘わ
れる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛くつろいだか知れません。苦痛と恐
怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴いってきの潤うるおいを与えてくれたものは、その時の悲しさ
0809山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:24:05.74ID:7/Y09tcf0
でした。
 私は黙って二人の傍そばに坐っていました。奥さんは私にも線香を上げてやれといいます。私は線香を
上げてまた黙って坐っていました。お嬢さんは私には何ともいいません。たまに奥さんと一口ひとくち二
0810山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:24:21.74ID:7/Y09tcf0
口ふたくち言葉を換かわす事がありましたが、それは当座の用事についてのみでした。お嬢さんにはKの
生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。私はそれでも昨夜ゆうべの物凄ものすごい有
様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折
0811山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:24:37.85ID:7/Y09tcf0
角せっかくの美しさが、そのために破壊されてしまいそうで私は怖こわかったのです。私の恐ろしさが私
の髪の毛の末端まで来た時ですら、私はその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。私には
綺麗きれいな花を罪もないのに妄みだりに鞭むちうつと同じような不快がそのうちに籠こもっていたので
0812山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:24:53.72ID:7/Y09tcf0
す。
 国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨をどこへ埋うめるかについて自分の意見を述べました
。私は彼の生前に雑司ヶ谷ぞうしがや近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気
0813山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:25:09.73ID:7/Y09tcf0
に入っていたのです。それで私は笑談じょうだん半分はんぶんに、そんなに好きなら死んだらここへ埋め
てやろうと約束した覚えがあるのです。私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ほうむったところで、どの
くらいの功徳くどくになるものかとは思いました。けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前に跪ひ
0814山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:25:25.85ID:7/Y09tcf0
ざまずいて月々私の懺悔ざんげを新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、私が万事世話
をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。
0815山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:25:41.75ID:7/Y09tcf0
五十一

「Kの葬式の帰り路みちに、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受け
0816山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:25:58.27ID:7/Y09tcf0
ました。事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも
、国から出て来たKの父兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない新聞記者までも、必ず同
様の質問を私に掛けない事はなかったのです。私の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました
0817山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:26:13.72ID:7/Y09tcf0
。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。
 私の答えは誰に対しても同じでした。私はただ彼の私宛あてで書き残した手紙を繰り返すだけで、外ほ
かに一口ひとくちも附け加える事はしませんでした。葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たK
0818山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:26:29.72ID:7/Y09tcf0
の友人は、懐ふところから一枚の新聞を出して私に見せました。私は歩きながらその友人によって指し示
された箇所を読みました。それにはKが父兄から勘当された結果厭世的えんせいてきな考えを起して自殺
したと書いてあるのです。私は何にもいわずに、その新聞を畳たたんで友人の手に帰しました。友人はこ
0820山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:27:11.84ID:7/Y09tcf0
三十六

 私わたくしはその翌日よくじつも暑さを冒おかして、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受
0821山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:27:27.79ID:7/Y09tcf0
けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫おっくうに感ぜられた。私は電車の中
で汗を拭ふきながら、他ひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者いなかものを
憎らしく思った。
0822山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:27:43.74ID:7/Y09tcf0
 私はこの一夏ひとなつを無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらか
じめ作っておいたので、それを履行りこうするに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日
を丸善まるぜんの二階で潰つぶす覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から
0823山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:27:59.82ID:7/Y09tcf0
隅まで一冊ずつ点検して行った。
 買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟はんえりであった。小僧にいうと、いくらでも出してはく
れるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上価あたいが極き
0824山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:28:15.80ID:7/Y09tcf0
わめて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると
、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付
かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩わずらわさなか
0825山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:28:31.80ID:7/Y09tcf0
ったかを悔いた。
 私は鞄かばんを買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしてい
るので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。
0826山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:28:47.96ID:7/Y09tcf0
卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさいの土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわ
ざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡りょうけんが解わか
らないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。
0827山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:29:03.79ID:7/Y09tcf0
 私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った
。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にあ
りながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想
0828山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:29:19.77ID:7/Y09tcf0
像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟してい
たに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底とても故もとのような健康体に
なる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一
0829山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:29:35.80ID:7/Y09tcf0
度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定さだめて心細
いだろう、我々も子として遺憾いかんの至いたりであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際
心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
0830山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:29:51.87ID:7/Y09tcf0
 私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののよう
に思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を想おもい浮べた。ことに二、三日前晩食
ばんめしに呼ばれた時の会話を憶おもい出した。
0831山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:30:07.94ID:7/Y09tcf0
「どっちが先へ死ぬだろう」
 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰
も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然はっきり分っていたな
0832山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:30:23.80ID:7/Y09tcf0
らば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外
ほかに仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事も
できないように)。私は人間を果敢はかないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽
0836山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:31:27.86ID:7/Y09tcf0
 宅うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来る
0837山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:31:43.86ID:7/Y09tcf0
から」
 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽むぎわらぼうの後ろへ、日除ひよけのために括
くくり付けた薄汚うすぎたないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻まわって行った
0838山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:31:59.82ID:7/Y09tcf0

 学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私わたくしは、それを予期以上に喜んで
くれる父の前に恐縮した。
0839山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:32:15.91ID:7/Y09tcf0
「卒業ができてまあ結構だ」
 父はこの言葉を何遍なんべんも繰り返した。私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の
家うちの食卓で、「お目出とう」といわれた時の先生の顔付かおつきとを比較した。私には口で祝ってく
0840山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:32:31.85ID:7/Y09tcf0
れながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉うれしがる父よりも
、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いなかくさいところに不快を感じ出した
0841山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:32:47.95ID:7/Y09tcf0
「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
 私はついにこんな口の利ききようをした。すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう
0842山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:33:03.89ID:7/Y09tcf0
少し意味があるんだ。それがお前に解わかっていてくれさえすれば、……」
 私は父からその後あとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会
0843山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:33:19.83ID:7/Y09tcf0
った時、ことによるともう三月みつきか四月よつきぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどうい
う仕合しあわせか、今日までこうしている。起居たちいに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業し
てくれた。だから嬉うれしいのさ。せっかく丹精たんせいした息子が、自分のいなくなった後あとで卒業
0844山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:33:35.95ID:7/Y09tcf0
してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉うれしいだろうじゃないか。大
きな考えをもっているお前から見たら、高たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは
余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に
0845山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:33:52.02ID:7/Y09tcf0
取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
 私は一言いちごんもなかった。詫あやまる以上に恐縮して俯向うつむいていた。父は平気なうちに自分
の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その
0846山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:34:07.93ID:7/Y09tcf0
卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚おろかものであった。私は鞄かばんの中から
卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧おし潰つぶされて、元の形を
失っていた。父はそれを鄭寧ていねいに伸のした。
0847山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:34:23.93ID:7/Y09tcf0
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心しんでも入れると好よかったのに」と母も傍かたわらから注意した。
 父はしばらくそれを眺ながめた後あと、起たって床とこの間の所へ行って、誰だれの目にもすぐはいる
0848山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:34:39.91ID:7/Y09tcf0
ような正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生へ
いぜいと違っていた。父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。私はだまって父の為なすがままに
任せておいた。一旦いったん癖のついた鳥とりの子紙こがみの証書は、なかなか父の自由にならなかった
0850山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:35:12.03ID:7/Y09tcf0
 私わたくしは母を蔭かげへ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
0851山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:35:27.93ID:7/Y09tcf0
「もう何ともないようだよ。大方おおかた好くおなりなんだろう」
 母は案外平気であった。都会から懸かけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう
事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんな
0852山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:35:43.93ID:7/Y09tcf0
に心配したものを、と私は心のうちで独り異いな感じを抱いだいた。
「でも医者はあの時到底とてもむずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体からだほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重ておもくいった
0853山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:35:59.95ID:7/Y09tcf0
ものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさな
いようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情ごうじょうでねえ
。自分が好いいと思い込んだら、なかなか私わたしのいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね
0854山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:36:15.96ID:7/Y09tcf0

 私はこの前帰った時、無理に床とこを上げさして、髭ひげを剃そった父の様子と態度とを思い出した。
「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山ぎょうさん過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考
0855山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:36:32.09ID:7/Y09tcf0
えてみると、満更まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍はたでも少しは注意しなくっ
ちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病やまいの性質につい
て、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料
0856山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:36:48.09ID:7/Y09tcf0
に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同おんなじ病気でね。お
気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方かたは」などと聞いた。
 私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目ま
0857山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:37:03.98ID:7/Y09tcf0
じめに聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己おれの身体からだは必竟ひっきょ
う己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能よく心得ているはずだから
ね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
0858山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:37:19.96ID:7/Y09tcf0
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大
変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに
免状を持って来たから、それが嬉うれしいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
0859山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:37:35.97ID:7/Y09tcf0
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹なかのなかではまだ大丈夫だと思ってお出いで
のだよ」
「そうでしょうか」
0860山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:37:51.92ID:7/Y09tcf0
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだ
がね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家うち
にいる気かなんて」
0861山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:38:07.97ID:7/Y09tcf0
 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家いなかやを想像して見た。この
家いえから父一人を引き去った後あとは、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何
というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母
0862山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:38:23.99ID:7/Y09tcf0
を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰もらうものは、分けて貰って置けと
いう注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試ためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死
0863山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:38:39.99ID:7/Y09tcf0
ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方
が剣呑けんのんさ」
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐ちんぷなような母の言葉を黙然もくねんと
0865山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:39:12.03ID:7/Y09tcf0
 私わたくしのために赤い飯めしを炊たいて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日
から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗あんにそれを恐れていた。私はすぐ断わっ
0866山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:39:28.00ID:7/Y09tcf0
た。
「あんまり仰山ぎょうさんな事は止よしてください」
 私は田舎いなかの客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、
0867山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:39:44.12ID:7/Y09tcf0
何か事があれば好いいといった風ふうの人ばかり揃そろっていた。私は子供の時から彼らの席に侍じする
のを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚はなはだしい
ように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた
0868山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:40:00.02ID:7/Y09tcf0
。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「仰山仰山とおいいだが、些ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐ
らいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為しでない」
0869山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:40:16.11ID:7/Y09tcf0
 母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰もらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくっても好いいが、呼ばないとまた何とかいうから」
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期
0870山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:40:32.03ID:7/Y09tcf0
通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅うるさいからね」
 父はこうもいった。
0871山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:40:48.04ID:7/Y09tcf0
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
 私は我がを張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好いいようにしたらと思い出した。
「つまり私のためなら、止よして下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭いやだからという
0872山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:41:04.02ID:7/Y09tcf0
ご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありま
せん」
「そう理屈をいわれると困る」
0873山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:41:20.04ID:7/Y09tcf0
 父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義
理ぐらいは知っているだろう」
0874山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:41:36.00ID:7/Y09tcf0
 母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せても
なかなか敵かなうどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
0875山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:41:52.04ID:7/Y09tcf0
 父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に
対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに
、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
0876山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:42:08.04ID:7/Y09tcf0
 父はその夜よまた気を更かえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。都合の好いいも
悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折
れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。私は父と相談の
0877山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:42:24.04ID:7/Y09tcf0
上招待しょうだいの日取りを極きめた。
 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報
知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を
0878山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:42:40.04ID:7/Y09tcf0
経てようやく纏まとまろうとした私の卒業祝いを、塵ちりのごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかっ
0879山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:42:56.06ID:7/Y09tcf0
た。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下を憶おもい出したりした。

0880山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:43:12.08ID:7/Y09tcf0
 小勢こぜいな人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私わたくしは行李こうりを解い
て書物を繙ひもとき始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階
0881山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:43:28.07ID:7/Y09tcf0
で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持
よく勉強ができた。
 私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。時にはわざわざ枕まくらさえ出して本式に昼寝
0882山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:43:44.07ID:7/Y09tcf0
を貪むさぼる事もあった。眼が覚めると、蝉せみの声を聞いた。うつつから続いているようなその声は、
急に八釜やかましく耳の底を掻かき乱した。私は凝じっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱い
だいた。
0883山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:44:00.09ID:7/Y09tcf0
 私は筆を執とって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。その友達のあるものは東
京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった
。私は固もとより先生を忘れなかった。原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分とい
0884山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:44:16.17ID:7/Y09tcf0
うようなものを題目にして書き綴つづったのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ
東京にいるだろうかと疑うたぐった。先生が奥さんといっしょに宅うちを空あける場合には、五十恰好が
っこうの切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生に
0885山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:44:32.27ID:7/Y09tcf0
あの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違え
ていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一
向いっこう音信の取とり遣やりをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁の
0886山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:44:48.08ID:7/Y09tcf0
ない奥さんの方の親戚しんせきであった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んで
いるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あ
の切下のお婆ばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考え
0887山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:45:04.11ID:7/Y09tcf0
た。そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能よく承知していた
。ただ私は淋さびしかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はつい
に来なかった。
0888山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:45:20.20ID:7/Y09tcf0
 父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。将棋盤はほこりの溜たまっ
たまま、床とこの間まの隅に片寄せられてあった。ことに陛下のご病気以後父は凝じっと考え込んでいる
ように見えた。毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。それからその読よみがらをわざ
0889山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:45:36.25ID:7/Y09tcf0
わざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
 父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
0890山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:45:52.21ID:7/Y09tcf0
「勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
 こういう父の顔には深い掛念けねんの曇くもりがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ
斃たおれるか分らないという心配がひらめいた。
0891山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:46:08.11ID:7/Y09tcf0
「しかし大丈夫だろう。おれのような下くだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己おのれに落ちかかって来そうな危険を予感してい
るらしかった。
0892山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:46:24.26ID:7/Y09tcf0
「お父さんは本当に病気を怖こわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生き
る気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
0893山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:46:40.09ID:7/Y09tcf0
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭ふいた。
0894山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:46:56.12ID:7/Y09tcf0


 父の元気は次第に衰えて行った。私わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが
0895山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:47:12.17ID:7/Y09tcf0
自然と閑却かんきゃくされるようになった。私は黒い煤すすけた棚の上に載のっているその帽子を眺なが
めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎つつしん
でくれたらと心配した。父が凝じっと坐すわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという
0896山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:47:28.16ID:7/Y09tcf0
気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病やまいと父の病とを結び付けて考えていた。
私にはそうばかりとも思えなかった。
0897山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:47:44.13ID:7/Y09tcf0
「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くら
しい」
 私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
0898山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:48:00.29ID:7/Y09tcf0
「今年の夏はお前も詰つまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さ
んの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方
が好かったんだよ」
0899山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:48:16.18ID:7/Y09tcf0
 私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それ
から一週間後ごであった。そうしていよいよと極きめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、お蔭かげで好もしくない社交上の苦痛から救われ
0900山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:48:32.18ID:7/Y09tcf0
たも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
 崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己おれも……」
0901山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:48:48.20ID:7/Y09tcf0
 父はその後あとをいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿はたざおの球たまを包んで、それで旗竿の先へ三
寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風の
0902山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:49:04.19ID:7/Y09tcf0
ない空気のなかにだらりと下がった。私の宅うちの古い門の屋根は藁わらで葺ふいてあった。雨や風に打
たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころの
凸凹でこぼこさえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地じと、地の
0903山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:49:20.17ID:7/Y09tcf0
なかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。私はかつ
て先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね
」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見
0904山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:49:36.20ID:7/Y09tcf0
せるのが恥ずかしくもあった。
 私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有
様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面
0905山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:49:52.19ID:7/Y09tcf0
に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている
なかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦うずの中に、自然と
捲まき込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯ひもまたふっと消えてしまうべき運
0906山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:50:08.21ID:7/Y09tcf0
命を、眼めの前に控えているのだとは固もとより気が付かなかった。
 私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執とりかけた。私はそれを十行ばかり書
いて已やめた。書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。(先生に宛あててそう
0907山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:50:24.23ID:7/Y09tcf0
いう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴ちょうしてみると、とても返事をくれそうになかっ
たから)。私は淋さびしかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好いいと思うので
あった。
0909山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:50:56.33ID:7/Y09tcf0
 八月の半なかばごろになって、私わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。その中に地方の
中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻
まわる男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好いい地方へ相談ができたの
0910山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:51:12.29ID:7/Y09tcf0
で、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。私はすぐ返事を出して断った。
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻
まわしてやったら好よかろうと書いた。
0911山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:51:28.26ID:7/Y09tcf0
 私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かないでも、まだ好いい口があるだろう」
 こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊うかつな父や母は
0912山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:51:44.28ID:7/Y09tcf0
、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんな旨うまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さん
と私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
0913山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:52:00.29ID:7/Y09tcf0
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなた
の所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしてお出いでですかと聞かれた時に返事ができないよう
じゃ、おれも肩身が狭いから」
0914山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:52:16.33ID:7/Y09tcf0
 父は渋面しゅうめんをつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。そ
の郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ
百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業
0915山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:52:32.33ID:7/Y09tcf0
したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まる
で足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持
を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくの甚はなは
0916山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:52:48.47ID:7/Y09tcf0
だしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いいじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうより外ほかに先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きている
0917山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:53:04.31ID:7/Y09tcf0
うちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人では
なかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
0918山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:53:20.44ID:7/Y09tcf0
「何にもしていないんです」と私が答えた。
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はた
しかにそれを記憶しているはずであった。
0919山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:53:36.34ID:7/Y09tcf0
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやって
いそうなものだがね」
 父はこういって、私を諷ふうした。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得
0920山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:53:52.37ID:7/Y09tcf0
て働いている。必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
0921山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:54:08.38ID:7/Y09tcf0
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いいからお出しな」
0923山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:54:40.49ID:7/Y09tcf0


 父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困ら
0924山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:54:56.49ID:7/Y09tcf0
す質たちでもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
 父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後あとのわが家いえを想像して
見るらしかった。
0925山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:55:12.40ID:7/Y09tcf0
「小供こどもに学問をさせるのも、好よし悪あしだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅う
ちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
 学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。教育を受けた因果で、私わたくしはまた東京に住む覚悟を
0926山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:55:28.40ID:7/Y09tcf0
固くした。こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家いな
かやの中に、たった一人取り残されそうな母を描えがき出す父の想像はもとより淋さびしいに違いなかっ
た。
0927山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:55:44.34ID:7/Y09tcf0
 わが家いえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動
かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後あと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんど
うのわが家に取り残すのもまた甚はなはだしい不安であった。それだのに、東京で好いい地位を求めろと
0928山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:56:00.40ID:7/Y09tcf0
いって、私を強しいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭
かげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
 私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった
0929山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:56:16.42ID:7/Y09tcf0
。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精くわしく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもす
るから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また
取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。し
0930山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:56:32.45ID:7/Y09tcf0
かし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
 私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
0931山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:56:48.43ID:7/Y09tcf0
 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他ひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
 母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。
0932山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:57:04.54ID:7/Y09tcf0
「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好いい口がないとも限らないんだから、
早く頼んでおくに越した事はないよ」
0933山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:57:20.54ID:7/Y09tcf0
「ええ。とにかく返事は来るに極きまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
 私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。私は先生の返事の来るのを心待ちに待
った。けれども私の予期はついに外はずれた。先生からは一週間経たっても何の音信たよりもなかった。
0934山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:57:36.46ID:7/Y09tcf0
「大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
 私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。そうしてその言葉は母に対す
る言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。私は強しいても何かの事情を仮定して先生の態
0935山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:57:52.48ID:7/Y09tcf0
度を弁護しなければ不安になった。
 私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの
病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生
0937山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:58:24.44ID:7/Y09tcf0
 九月始めになって、私わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り
学資を送ってくれるようにと頼んだ。
0938山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:58:40.52ID:7/Y09tcf0
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
 私は父の希望する地位を得うるために東京へ行くような事をいった。
「無論口の見付かるまでで好いいですから」ともいった。
0939山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:58:56.57ID:7/Y09tcf0
 私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はま
たあくまでもその反対を信じていた。
「そりゃ僅わずかの間あいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相
0940山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:59:12.56ID:7/Y09tcf0
当の地位を得え次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他ひとの世話になんぞな
るものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていない
ようだね」
0941山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 21:59:28.47ID:7/Y09tcf0
 父はこの外ほかにもまだ色々の小言こごとをいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったの
に、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。
 小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には
0943山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:00:00.58ID:7/Y09tcf0
 その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなか
を出ようとした。父はまた私を引ひき留とめた。
「お前が東京へ行くと宅うちはまた淋さみしくなる。何しろ己おれとお母さんだけなんだからね。そのお
0944山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:00:16.61ID:7/Y09tcf0
れも身体からださえ達者なら好いいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐すわっ
て、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。私はその時また蝉せみの声を聞い
0945山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:00:32.46ID:7/Y09tcf0
た。その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。私は夏郷里に
帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝じっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった
。私の哀愁はいつもこの虫の烈はげしい音ねと共に、心の底に沁しみ込むように感ぜられた。私はそんな
0946山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:00:48.44ID:7/Y09tcf0
時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに
、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。私は淋さ
0947山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:01:04.50ID:7/Y09tcf0
びしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶おもい
浮べた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっ
しょに私の頭に上のぼりやすかった。
0948山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:01:20.88ID:7/Y09tcf0
 私はほとんど父のすべても知り尽つくしていた。もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子
の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解わかっていなかった。話すと約束されたその人の
過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越し
0949山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:01:36.60ID:7/Y09tcf0
て、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であっ
た。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを極きめた。
0950山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:01:52.51ID:7/Y09tcf0


 私わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父
0951山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:02:08.52ID:7/Y09tcf0
はまた突然引ひっ繰くり返かえった。私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。父は風
呂ふろへ入ったところであった。父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。私は裸体は
だかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。それでも座敷へ伴つれて戻った時、父はもう大丈夫だと
0952山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:02:24.51ID:7/Y09tcf0
いった。念のために枕元まくらもとに坐すわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭を冷ひやしていた私は、
九時頃ごろになってようやく形かたばかりの夜食を済ました。
 翌日よくじつになると父は思ったより元気が好よかった。留とめるのも聞かずに歩いて便所へ行ったり
0953山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:02:40.51ID:7/Y09tcf0
した。
「もう大丈夫」
 父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいっ
0954山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:02:56.62ID:7/Y09tcf0
た通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心
が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。私は不安のために
、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
0955山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:03:12.54ID:7/Y09tcf0
「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。
「そうしておくれ」と母が頼んだ。
 母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起
0956山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:03:28.56ID:7/Y09tcf0
るとまた必要以上に心配したり気を揉もんだりした。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。
0957山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:03:44.57ID:7/Y09tcf0
「おれのためにかい」と父が聞き返した。
 私はちょっと躊躇ちゅうちょした。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであっ
た。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
0958山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:04:00.55ID:7/Y09tcf0
「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。
 私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支さしつか
えないように、堅く括くくられたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考え
0959山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:04:16.54ID:7/Y09tcf0
た。
 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒
した。医者は絶対に安臥あんがを命じた。
0960山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:04:32.58ID:7/Y09tcf0
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そ
うであった。私は兄と妹いもとに電報を打つ用意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くも
んもなかった。話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。その上食欲
0961山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:04:48.58ID:7/Y09tcf0
は不断よりも進んだ。傍はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、旨うまいものでも食って死ななくっちゃ」
 私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。父は旨いものを口に入れ
0962山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:05:04.84ID:7/Y09tcf0
られる都には住んでいなかったのである。夜よに入いってかき餅もちなどを焼いてもらってぼりぼり噛か
んだ。
「どうしてこう渇かわくのかね。やっぱり心しんに丈夫の所があるのかも知れないよ」
0963山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:05:20.57ID:7/Y09tcf0
 母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の
言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
 伯父おじが見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。淋さむしいからもっといてくれ
0964山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:05:36.57ID:7/Y09tcf0
というのが重おもな理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも
、その目的の一つであったらしい。
0965山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:05:52.64ID:7/Y09tcf0


 父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私わたくしはその間に長い手紙を九州にいる兄宛あ
0966山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:06:08.67ID:7/Y09tcf0
てで出した。妹いもとへは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる
最後の音信たよりだろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという
意味を書き込めた。
0967山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:06:24.61ID:7/Y09tcf0
 兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼せまらないうちに呼び寄せる
自由は利きかなかった。といって、折角都合して来たには来たが、間まに合わなかったといわれるのも辛
つらかった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
0968山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:06:40.60ID:7/Y09tcf0
「そう判然はっきりした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは
承知していて下さい」
 停車場ステーションのある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で
0969山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:06:56.59ID:7/Y09tcf0
、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元まくらもとへ来て挨拶あいさつする白い服を着た女
を見て変な顔をした。
 父は死病に罹かかっている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのもの
0970山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:07:12.61ID:7/Y09tcf0
には気が付かなかった。
「今に癒なおったらもう一返いっぺん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何
でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
0971山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:07:28.63ID:7/Y09tcf0
 母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴つれて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
 時とするとまた非常に淋さみしがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
0972山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:07:44.62ID:7/Y09tcf0
 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向
かって何遍なんべんもそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑わらいを帯びた
先生の顔と、縁喜えんぎでもないと耳を塞ふさいだ奥さんの様子とを憶おもい出した。あの時の「おれが
0973山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:08:00.70ID:7/Y09tcf0
死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する
奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒なおったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃあ
0974山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:08:16.59ID:7/Y09tcf0
りませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚びっくりしますよ、変っているんで
。電車の新しい線路だけでも大変増ふえていますからね。電車が通るようになれば自然町並まちなみも変
るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝じっとしている時は、まあ二六時中にろくじちゅう一分もな
0975山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:08:32.71ID:7/Y09tcf0
いといっていいくらいです」
 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌しゃべった。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
 病人があるので自然家いえの出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代
0976山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:08:48.59ID:7/Y09tcf0
る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平生へいぜい疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、こ
の様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠やせていないじゃないか」などといって帰る
ものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし
0977山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:09:04.65ID:7/Y09tcf0
始めた。
 その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父おじ
と相談して、とうとう兄と妹いもとに電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも
0978山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:09:20.63ID:7/Y09tcf0
立つという報知しらせがあった。妹はこの前懐妊かいにんした時に流産したので、今度こそは癖にならな
いように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れな
かった。
0980山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:09:52.65ID:7/Y09tcf0
 こうした落ち付きのない間にも、私わたくしはまだ静かに坐すわる余裕をもっていた。偶たまには書物
を開けて十頁ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦いったん堅く括くくられた私の行李こう
りは、いつの間にか解かれてしまった。私は要いるに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は
0981山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:10:08.67ID:7/Y09tcf0
東京を立つ時、心のうちで極きめた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三さんが一い
ちにも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通
り仕事の運ばない例ためしも少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭いやな気持に抑
0982山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:10:24.77ID:7/Y09tcf0
おさえ付けられた。
 私はこの不快の裏うちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後あとの事を想像した。そ
うしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全
0983山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:10:40.66ID:7/Y09tcf0
然異なった二人の面影を眺ながめた。
 私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出し
た。
0984山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:11:12.76ID:7/Y09tcf0
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝てお出いでだよ」と母が答えた。
 母は突然はいって来て私の傍そばに坐すわった。
0985山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:11:28.69ID:7/Y09tcf0
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
 母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし
父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺
0986山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:11:44.78ID:7/Y09tcf0
あざむいたと同じ結果に陥った。
「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」と母がいった。
 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭いとうような私ではなかった
0987山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:12:00.77ID:7/Y09tcf0
。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱しかられたり、母の機嫌を損
じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥はるかに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰
もらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
0988山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:12:16.71ID:7/Y09tcf0
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒らちは明きませんよ。どうしても自分
で東京へ出て、じかに頼んで廻まわらなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
0989山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:12:32.71ID:7/Y09tcf0
「だから出やしません。癒なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです

「そりゃ解わかり切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ほうちらかしておいて、誰が勝手に
0990山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:12:48.71ID:7/Y09tcf0
東京へなんか行けるものかね」
 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐あわれんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした
際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあ
0991山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:13:04.73ID:7/Y09tcf0
るごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外ほかの事を考えるだけ、胸に空地すきまがあるのかしらと疑
うたぐった。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出いでのうちに、お前の口が極きまったらさぞ安心なさるだろうと思うんだが
0992山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:13:20.78ID:7/Y09tcf0
ね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥た
しかなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
 憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
0994山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:13:52.72ID:7/Y09tcf0
 兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生へいぜいから何を措おいても新聞だけに
は眼を通す習慣であったが、床とこについてからは、退屈のため猶更なおさらそれを読みたがった。母も
私わたくしも強しいては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
0995山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:14:09.11ID:7/Y09tcf0
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いいようじゃありませんか」
 兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑にぎやか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえ
た。それでも父の前を外はずして私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
0996山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:14:24.83ID:7/Y09tcf0
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
「私わたしもそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
 兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく解わかるのかな」といった。兄は父の理解力が病気
0997山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:14:40.85ID:7/Y09tcf0
のために、平生よりはよっぽど鈍にぶっているように観察したらしい。
「そりゃ慥たしかです。私わたしはさっき二十分ばかり枕元まくらもとに坐すわって色々話してみたが、
調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
0998山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:14:56.74ID:7/Y09tcf0
 兄と前後して着いた妹いもとの夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の
事をあれこれと尋ねていた。「身体からだが身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺ゆれない方が好い
。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治った
0999山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:15:12.76ID:7/Y09tcf0
ら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支さしつかえない」ともいっていた。
 乃木大将のぎだいしょうの死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
1000山師さん (ワッチョイ cf94-pPum)垢版2017/05/17(水) 22:15:28.75ID:7/Y09tcf0
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私わたしも
実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
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