エッカーマン著 「ゲーテとの対話」

 私は、モリエールの作品を毎年いくつか読んでいる。
それは私が偉大なイタリアの巨匠たちの銅版画をときどき眺めるのと同じことだ。
われわれのような小粒の人間は、こういうものの偉大さを、心の中にしまっておくことなどできないからな。
そこでときどきそこへ帰って行って、その印象を心に蘇らせることが大事なのだ。

生まれが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要はない。何世紀も不変の価値、不変の名声を保ってきた作品を持つ過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ。
こんなことをいわなくても、現にすぐれた天分に恵まれた人なら、心の中でその必要を感じるだろうし、逆に偉大な先人と交わりたいという欲求こそ、高度な素質のある証拠なのだ。
モリエールに学ぶのもいい。シェークスピアに学ぶのもいい。けれども、何よりもまず、古代ギリシャ人に、一にも二にもギリシャ人に学ぶべきだよ。

われわれがもうほとんど希望を失ってしまったときにかぎって、われわれにとって良いことが準備されるのだよ。

われわれの状態は、あまりにも人工的で複雑すぎるよ。われわれの食物や生活方法は、本当の意味で自然さがないし、われわれの人間付き合いには、まことの愛情も善意もない始末だ。
猫も杓子も垢抜けして、丁重だが、誰一人として、勇気をもって、温かみと誠実さを表わそうともしない。
だから、素朴な性分や心情を持った正直な人は、じつにまずい立場に置かれている。たった一度でいいから、嘘いつわりのない人間らしい生活を純粋に味わうために、南洋の島あたりのいわゆる野蛮人にでも生れてみたい気がすることがよくあるね。

世の中というものは、われわれの考えたり望んでいるほどには、早く目的に到達しないものだ。いつも、悪魔がそこいらでぐずぐずしていて、至るところで割りこんで来ては邪魔をする。
だから、全体としてはたしかに進歩しているのだが、それは、とてもゆっくりなのだ。