【以下、『ぼくらの祖国』から引用】

西暦1997年、平成九年、日本のオリジナル・カレンダーである皇紀では2657年の大晦日付で、共同通信を去り
翌日の元旦付で、三菱総研に入社した。

そのとき45歳だった。記者を天職と考えていた。
それを辞めるのだから、「以下、余生なり」と思い定めた。

ぼくが重症肺炎で死に直面し、がんの告知と手術を受け、そのあとの腸閉塞で、より間近に死に近づいたとき、
こころ騒ぐことなく約束の履行に集中したのは、今を余生と決めていたことが
ほんとうは深く影響していた。
決めた生き方は変えない。

それにイラク戦争でイラク兵に逮捕されて殺害されようとしたことをはじめ、ぼくのささやかな死生観は
現場でごく自然に、淡々と、切磋琢磨されてきた。

武士道といふは死ぬことと見つけたり。