【邪馬台国】「死せる孔明 卑弥呼を・・・」孔明死去→仲達、公孫氏(朝鮮)征伐→卑弥呼、魏に従属★2 [しじみ★]
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三国志は2世紀後半から3世紀の中国を記した史書だ。これを基にさまざまな物語が作られた。九州国立博物館(福岡県太宰府市)の特別展「三国志」(来年1月5日まで)に原画が展示される横山光輝さんの漫画で知った人も多いのではないか。劉備玄徳に関羽雲長…。英雄たちのストーリーは魅力的だ。
一、二を争う人気者は諸葛亮孔明だろう。三国志関連の書籍を数多く出している渡邉義浩・早稲田大教授は卒業論文で孔明について原稿用紙400枚書いたそうだ。玄徳に三顧の礼で招かれた孔明は、ライバル司馬懿(しばい)仲達と対陣中の五丈原で234年に没した。「死せる孔明生ける仲達を走らす」。名場面の一つだが、孔明の死は日本の歴史にとっても重要な出来事だった。
当時、中国で最も勢いがあったのは仲達が仕えた魏。魏は西方で孔明がいた蜀と戦い、南で呉と対する。さらに「五丈原」の時は地方政権の公孫氏とも争っていた。公孫氏が支配した朝鮮半島の付け根あたりは伝統的に倭(わ)(日本)との関係も深い。ここの銅剣は、弥生時代の倭の銅剣に影響を与えたとされる。
独立しようとする公孫氏の討伐を魏は試みるが、うまくいかない。孔明死去で蜀の脅威が減り、切り札仲達を指揮官に投入した。仲達は238年に公孫氏を滅ぼし、翌239年、邪馬台国の女王・卑弥呼の使いが魏にやって来る。公孫氏滅亡がなかったら、少なくともこの年に使者が魏に来ることはなかっただろう。
魏志倭人伝は約2千字の漢字で記される。正史「三国志」にある各国伝の中で最長だ。渡邉教授によると、三国志以外の中国正史では倭の記述が最長のものはないそうだ。「邪馬台国という“大帝国”がはるばる貢ぎ物を持ってきたのは仲達の功績。だから編者の陳寿は倭人伝をいっぱいまとめなければならなかった」と渡邉教授は言う。
三国志は仲達の孫、司馬炎が建てた西晋の時代に作られる。仲達は「高祖」と追号され「王朝の創始者」になる。皇帝と同格だ。中国の皇帝はその徳を慕って異民族が貢ぎ物を持ってくるとされる。邪馬台国の遣使は、仲達が皇帝と呼ぶにもふさわしいことを証明する絶好の素材だった。仮に公孫氏を滅ぼしたのが仲達でなかったら、倭人伝は重視されず、卑弥呼は歴史に残っていないかもしない。「死せる孔明−」は「卑弥呼を残す」と締めることもできる。
「三国志」はあくまで中国の話。だが日本の古代史論争とも密接に絡み合う。そんな視点で特別展を見るのも面白い。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/548439/
前スレ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1591727003/ 三国志読むと
公孫¥とか呉から使いと貢ぎ物が来て魏を挟み撃ちにしよう
って言われて貰うもん貰って使者の首刎ねて魏に送付
魏から褒美と官位貰って二重取りした後に魏に反逆
これではチョン呼ばわりされても仕方が無い >>1
勝手なデタラメ自説を吹聴できる最近の幼稚爺さんにとっては
天国だよなw 卑弥呼は公孫氏が魏によって滅ぼされたまさにそのタイミングで魏使を送っています。
「呉の太伯の末裔」たる倭人の国、邪馬台国はそれまで呉と通好していたでしょう。
大陸情勢に通じ、国際感覚を持っていた国家こそ邪馬台国であり女王こそ卑弥呼でしょう。 なるちゃんは官軍の長なんで邪馬台国などもうどうでもいいが
京は良く知らんが百済?が築いたのははっきりさせたほうがいい・・ 自国の凄さを語るために魏志倭人伝が
存在したのなら、内容はどうでもよかった、
ウソでも問題ない、全部創作の可能性すらある。 あーこれ結構有名な話。
司馬氏の功績を大きく報じる為、倭国という大国がを遥か東方からわざわざ来た事にしている。
だから、わざと魏志倭人伝の倭国の距離が実際よりも遥か遠くになっている。
だから、倭人伝に書いてある道程を解明しようとするのは無意味。 ジンギスカンが、源義経というストーリー並みの、論文か。 >>1
ま、当時も今も、大国同士の葬儀外交は世の常。
昭和天皇の葬儀に、アメリカを始め各国の首脳が参加したが、それを「貢ぎ物を持って来た」とは言わない。 公孫氏の興亡により魏に朝貢したということは邪馬台国にとって何が必要だったかを指し示してるわな
ズバリ半島西湾岸の交易航路だろ
その後大和王権が百済と関係を深めたのも同じ理屈
倭の外交政略は大和王権共にある意味一貫している
地域が違うなら違っていてもいいはずなんだけどね >>20
朝貢ではないだろう。
対等外交だからな。 >>15
その昔、若かりし孔明と徐庶が日本に来て少女時代の卑弥呼と冒険をする小説があってだな >>7
まず、この遠征で魏軍は大量の戦死者と病死者を出して城はなんとか落としたものの、京観といって死体の山を作っているところを見ると異常に追撃を恐れている。
つまり公孫氏を取り逃した可能性が高い。
そうなると仲達は失脚の危機があったわけで、本物かどうかわからなくても、漢の時代にやってきたという倭国の使者を迎えることができたというのはものすごくポイントの高いイベントな訳です。
貢物は人口という奴隷ですが、倭国からつれてくる必要はなく、途中の遼東あたりの中国人や朝鮮半島で捕まえたやつでいいわけです。
公孫氏はもうこの世にいないことの間接証明になるわけですから。 土産物がしょぼい割に大歓迎されるのは使者も困るわな。
人口にされた奴らは戦死者への生け贄にされた可能性が高い。
世渡り上手の仲達なら必ずそうする。 公孫氏側には、倭国に関する記録が多数あったんだろうな >>4
違う、思考を変えろ。
韓国人こそが公孫淵の末裔なんだ! >>2 >>4
隷属じゃなくて同盟だろ
>>9
葵祭の斎王が「いつきの ヒメミコ」
と呼ばれているように姫御子が訛ったものだ
斎王は処女でないといけないので「年已に長大なるも夫婿なく・・・」と記述されている。 >>23
公孫淵の首を取って魏の都で晒したと書いてるだろう。
公孫淵討伐の遠征距離が四千里と魏志明帝紀に書いてある
魏の都から遼東の襄平まで四千里を郡から邪馬台国までの万二千里にあてはめたら
邪馬台国は今のミクロネシア連邦辺りにあったはずだ。 遼東半島を呉が侵略しようとしたが 倭国水軍に阻止された 其れを魏が大いに感謝して莫大な土産を持たせたという 面白い話の可能性もある
呉の侵出への備えが吉野ケ里遺跡とは周知の事実でもある 250年呉の滅亡により防衛施設としての機能を終えた 人工地震の歴史
://twitter.com/fkmild2011/status/1287172809886593025?s=20
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人
赤道直下 マーシャル群島 椰子(ヤシ)の木陰で テクテク踊る
いかりや長介 https://www.youtube.com/watch?v=iylUGObF-Uc
酋長の娘 勝丸 //www.youtube.com/watch?v=0xdBMhUHBqM
邪馬臺国はマーシャル群島にあった
椰子の「邪」
馬紹爾(マーシャル)群島の「馬」
マーシャル諸島共和国
1920年 国際連盟から日本のマーシャルを含めたミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。
1954年 第5福竜丸がビキニ環礁において米国による水爆実験で被爆。 魏の正史に乗るくらいだから、帯方の海の向こうの最高尊厳と思われていたのだろう。 魏が、敵対する呉に味方する勢力を減らすため、呉の「東方海上」に強大な同盟国の倭があると、中国人お得意のハッタリな誇大宣伝をしたことは間違いない。
だから、倭の記述では、方位や距離などの位置関係、人口などの国の規模が誇張されていると考えるべき。
ただし、魏の使者が何度か卑弥呼の住む場所(邪馬台国)や埋葬場所(これもおそらく邪馬台国内か?)へ行ったらしい。
その時に使者が見た倭国は――
刺青して素潜りで貝や魚を捕る地域から始まり、大きな市(いち)があるなど次第に地域の文明化が進み、ついに城柵や楼閣のある首都へたどり着いている。
性格は淫らでなく、盗人も少なく、訴訟のような争いごとも少ない。上品で治安の良い、民度の高い民族なのだ。
この国は、大昔から銅鐸など青銅器の製造が巧みで、少なくとも首都の兵士は主に青銅製の武器(鉄のヤジリはあった)で武装している。
鉄器より脆弱ではあるものの、侮れる相手ではない。
馬はおらず(騎馬兵はいない)、山や木々が深いので車両(馬車や荷車や古代の戦車)が適さない土地柄だ。
しかし、経済的には、中国の痩せた地域よりも、はるかに豊かに米を産する(壱岐を除く)。
兵糧も豊富なわけで、やはり、侮れる相手ではない。
こうした国情や軍事情報が使者(実際は偵察)から報告されているのだ。
倭国は野蛮な弱小部族で、政治的理由から誇大に記録されただけと思うのは、歴史オンチ。 >>37
馬鹿発見。
倭王武の上表文も知らんのか?
「句麗無道」と言う夢イなフレーズも知らんのか?
朝鮮半島の勢力は、日本と中国との国交を邪魔したのだよ。
こいつらがいなければ、日本の文明化はもっと早く進んでいた。 死んだと思ったら〜
生ける仲達が走ってました〜
チクショー! #まいにちチクショー >渡邉義浩・早稲田大教授は卒業論文で孔明について原稿用紙400枚書いたそうだ
結局、朝鮮人「李」が妄想の果て描いたファンタジーですた >>1
>だから編者の陳寿は倭人伝をいっぱいまとめなければならなかった」と渡邉教授は言う。
陳寿は「魏略」のコピペを多用したッて知らないのかw 実際の日本民族ルーツの歴史事実
馬鹿チョン→新モンゴロイドのツングース系シベリアエベンキオロチョン族
言葉→エベンキ語
中国人→新モンゴロイドのツングース系シベリアエベンキ
言葉→エベンキ語
日本人→旧モンゴロイド系トルコ北部の遊牧民アイヌ
言葉→ヘブライ語
縄文人アイヌ=弥生人南ユダ王国のユダ部族と北イスラエル王国の部族
キリスト十二支族ヘブライ人
紀元前711年に南ユダ王国の生まれたヒゼキア王の息子インヌマエル王子の神武天皇がイザヤと共に海ルートで船で沖縄へ渡来
紀元前660年51歳で近畿に大和王権を建国
イワレピコ初代ヘブライ人の天皇スメラノミコトのインヌマエル王子の神武天皇
ダビデの血筋こそ正当な天皇の血筋
北イスラエル王国の部族は国が崩壊後メソポタミアへ逃れた北イスラエル王国の部族達が中国東北部に移り住み
秦の建国し崩壊後北イスラエル王国の部族達が日本へ渡来
そして高句麗が崩壊後北イスラエル王国の部族達の応神天皇達が馬鹿チョン半島を経て日本へ渡来
三度のヘブライ人達の渡来があるが
秦や高句麗からの北イスラエル王国の部族達の応神天皇達は
南ユダ王国のダビデの血筋の部族でない為正当な天皇家の血筋ではない 本来の馬鹿チョン民族ルーツの歴史全て馬鹿チョン達の全て嘘で塗り固めた妄想歴史がここにwwwww
馬鹿チョン達の妄想歴史文化とは異なり馬鹿チョンエベンキオロチョン族のエベンキ語文化
トーテニズムのトーテンポールやオロチョン族の祈祷文化
何より馬鹿チョン達の言葉が全てエベンキ語訛りでハングルも日本語も英語も可笑しな発音に
馬鹿チョン達が誤魔化す高句麗から日本へ逃げてきた応神天皇達は北イスラエル部族のヘブライ人達
しかも馬鹿チョン達が百済の王が天皇家の血筋とかほざいている
桓武天皇の母親が百済の武寧王の子孫とか言ってるが
実際武寧王は北イスラエル部族のヘブライ人
桓武天皇も同じ北イスラエル部族のヘブライ人
同じ部族同士の血筋で馬鹿チョンエベンキオロチョンルーツとは何の関係も無い
そもそも馬鹿チョン達の妄想民族歴史は全て妄想嘘民族歴史で事実歴史など全く無い有様
馬鹿チョン妄想のハングル大王こと世宗大王がハングルを発明wとか
実際馬鹿チョン達は19世紀に日本政府に勧められて公用語にwwwww
現実は馬鹿チョン達が19世紀まで文字文化が無くエベンキオロチョン語だったため困り果てて
明治政府が百済や新羅の簡単なハングル文字のハングルを勧め公用語に
名前だけだった馬鹿チョン達は苗字も無く苗字を名乗らせたのも19世紀の明治政府
長文で誤魔化しの馬鹿チョンの妄想歴史とは異なり
馬鹿チョン達の民族歴史の事実は簡単にまとめられるwwwww
馬鹿チョン半島を乗っ取ってからの属国国家としての全ての歴史ここにwwwww
946年→白頭山噴火の影響で朝鮮半島からシベリアに掛けて無人地帯に
シベリアから朝鮮半島にエベンキオロチョンわい族が移動し住み始める
1170年〜1259年→武臣政権 倭人の百済や倭人の新羅がなくなってエベンキオロチョンの乗っ取り部落国家
1259年→元寇襲来で降伏属国に
1356年〜1392年→高麗 モンゴルの属国
1392年〜1910年→李氏朝鮮時代 元寇が去り中国の属国
1910年〜1945年→日本統治
1948年〜現在→南北朝鮮 南朝鮮は日本やアメリカの支援北朝鮮は中国ソ連の支援
馬鹿チョン達は1170年〜1259年頃の武臣政権からが実際馬鹿チョン達の民族歴史になってくるわけで
1259年に元寇襲来で降伏属国になってる為
1356年〜1392年の高麗の建国は元寇襲来の後のことで
民族的にこの頃から馬鹿チョン達のモンゴル民族のシムル相撲などが入ってきて
元寇襲来は高麗のオロチョンは船は作れず船を操ることすら出来て無い有様
馬鹿チョン達の民族歴史は全て嘘で塗り固めた歴史で事実歴史など全く無いwwwww 古代の日本民族歴史事実は
南ユダ王国のユダ族のダビデの血筋が正当なスメラノミコトの天皇の血筋
紀元前711年に南ユダ王国で生まれたヒゼキア王の息子インヌマエル王子の神武天皇がイザヤと共に沖縄へ渡来
紀元前660年の51歳で大和王権を建国
インヌマエルの神武天皇こそダビデの血筋を引く正当なスメラノミコトの天皇
秦や高句麗から渡来してる応神天皇達は北イスラエル王国の血筋の部族達
ダビデの血筋の南ユダ王国のユダ族の血筋でない為に全く天皇家の血筋ではない
その争いが日本民族歴史の争いに繋がってるわけで
南朝の南ユダ王国のユダ族の血筋
北朝の北イスラエル王国の部族の血筋
京都平家の南ユダ王国のユダヤ族の血筋
鎌倉源氏の北イスラエル王国の部族の血筋
全てが南と北の部族間の争いに そもそも邪馬台国論争は馬鹿チョン達都合の馬鹿チョン関連にしたいが為の誤魔化し
最早日本はおろか世界でも全く見てめられない主張
何故ならユダヤ人達がいるからで
邪馬台国はヘブライ語でマタイの国
マタイはヘブライ語でキリスト十二支族の人々の国だからこそ
当たり前だがヘブライ語のわかるユダヤ人達がいる限り誤魔化しようがない
だからこそアメリカGHQが戦後の日本調査で邪馬台国のあった四国剣山を発掘
既に邪馬台国はアメリカGHQが戦後の仁徳天皇陵と四国剣山の日本調査で遺跡や遺物を発掘調査しアメリカ博物館へ収納
アメリカ公文書館に実録資料としても残ってるのが実態
馬鹿チョン達の嘘で塗り固めた馬鹿チョン都合のコメントは既に明らか
今更誤魔化したところ何の意味も無い 九州説を連呼してる馬鹿チョン関連は
東亜のスレでボロが出て
無理矢理邪馬台国を馬鹿チョン半島と関連付けてることがわかった
九州を九州韓国説とかあり得ない例えを馬鹿チョン都合でコメントしてるホラ吹き
今まで全くロクな九州説の説明もせずただ単に他の説を否定しては九州説連呼の馬鹿チョン
邪馬台国の九州説は明らかに嘘 匈奴、月氏、東湖ら三国志以外の東弓異民族らが日本へ来たのは間違いない。
卑弥呼ら海洋民族から、地上戦へと物語が変わる時期でもある。 まぁ要するに
馬鹿チョン達が言いたいのは
現天皇家は本来なら南ユダ王国のユダ族のダビデの血筋のインヌマエル王子の神武天皇の血筋ではないということだろ
そもそも大体馬鹿チョン達が明治での伊藤博文の部下の大室寅之祐が明治天皇に即位したのであれば
偽ってる可能性があるのであれば
現在の天皇家血筋はスメラノミコトのイワレピコの南ユダ王国のダビデの血筋のインヌマエル王子の神武天皇の血筋ではない
明治天皇入れ替えで南ユダ族の血筋の宮家の血筋全て潰して子供の頃に殺して北イスラエルの血筋を引く宮家の血筋のみ残したのが
今の天皇家
その証拠が近年の宮家の血筋が馬鹿チョン半島に起源があると口走った宮家がいる
あれは完全に中国九夷のヘブライ人達の神功 応神 継体 天智 天武のヘブライ人達北イスラエルの部族のことを言ってる
完全に今の天皇家は本来のダビデの血筋の天皇家ではないということに
だからこそ男系継承を無理矢理女系継承の天皇家を主張することが何よりの証拠
だから在日馬鹿チョン達は8世紀からの天皇家のことしか認めようとしないホラ吹き詐欺師
日本民族とは全く関係ないよそ者馬鹿チョンエベンキオロチョン族の血筋に用はない 結局馬鹿チョン達が言いたいのは
現天皇家が南ユダ王国のユダ族のダビデの血筋の神武天皇じゃなく
中国九夷のヘブライ人達の神功 応神 継体 天智 天武が北イスラエルの部族のヘブライ人達の末裔で
応神天皇達が高句麗から日本へ逃げて来てることから
馬鹿チョン民族ルーツを誤魔化す絶好の筋書きで利用しようとしてるだけだろw
明治天皇入れ替え説であからさまになった天皇家の血筋
南朝と北朝の争いを馬鹿チョン民族ルーツの誤魔化に利用する気満々の在日馬鹿チョン達のコメント
本来ダビデの血筋でのダビデの誓いを裏切れば災いがあると言われてることから
明治天皇入れ替え説は明らかに事実の可能性が高い
馬鹿チョン達に乗っ取られた日本
馬鹿チョン独立の為に利用され戦争戦争また戦争とロシアや中国やアメリカと戦争
関東大震災の被害を考えれば
明らかなダビデの誓いの報い
天皇家の血筋が途絶えそうな今
現天皇家を滅ぼすのもありかと思う 現天皇家が完全に馬鹿チョン達の血筋に入れ替わってるのであれば
恐らく完全に暗殺される
それだけは間違いない
世界中に馬鹿チョン達の天皇家乗っ取りがバレる
何故なら世界中にユダヤ人がいるから馬鹿チョン達がスメラノミコトの天皇家の血筋でないことは鼻から知ってるわけだから 最早世界中にユダヤ人がいる限り
馬鹿チョン達が天皇家の血筋とは絶対ユダヤ人達は認めない
何故なら馬鹿チョン達がヘブライ人の血筋でないことは鼻から知ってるからで
何故ならロシアが馬鹿チョン達の民族ルーツのエベンキオロチョン族の血筋であることを一番知ってるからで
ロシアは現アシュケナージの故郷だからこそロシアのユダヤ人はイスラエルへ移住を今もしてる
馬鹿チョン達の誤魔化しなど通用しない どー頑張っても無理w
日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
チンギスハーンも三河出身
秦の始皇帝も三河出身
ナポレオンも三河出身
ブッダも三河出身
イエスキリストも三河出身
ユダヤ人も三河が起源 >>58
水稲の発見が歴史的快挙だったんだろうな。 日本の縄文文明は世界最古!なんと1万5千年前までさかのぼる土器を使って稲作をしていた、世界最古と言われてるメソポタミア文明ですら9千年前、中国の黄河文明なんか7千年前だから稲作は逆で、日本から中国に伝わったのが事実 >>53
天皇は、世界で唯一のエンペラー!
あのローマ法皇や、エリザベス女王ですら先に挨拶して上座を譲る存在、世界一長く続く皇室って事を日本人はあまり知らないよな >>60
現時点で発見されてる最古の農耕はシリア・パレスチナ地方なんじゃなかったっけ? >>60
土器だけでどうやって稲作やるんや? 畔の補強か?
実際のとこ、稲作伝搬は日本海流〜対馬海流なんやろな。
経由地が呉越地方であると言われても自然だが、何故朝鮮半島からという説がまことしやかに騒がれるのか?
佛儒の経典は確かに百済新羅経由だろうが、灌漑は結局何時頃何処からなんかねえ...?
卑弥呼と言えば30年くらい前のAV...を知ってる奴はおっさん >>65
まず最古の水田跡が唐津平野にあるんじゃ、朝鮮半島からの可能性の方が高いかな。
呉越の方から来るのは比較的高いリスクを覚悟の上の航海になるので、
それをしなければ死ぬことが確定してるような場合でないとなかなかできんだろうから、
そのタイミングは呉越が滅んだときとかになれば最古の水田跡より後になるし。
最古の水田跡が長崎か有明海沿岸とかにあるなら、呉越から直接伝わった可能性が増すが。
呉越の物がほとんど日本に伝わってないというのが本当なら、
呉越から来ていたとしても農耕技術の秘伝を持っていた者達少人数のみの到着で、
既に日本側に農耕の下地はあったものと考えられるかな。 三国志と日本との関係は、
245年に魏が卑弥呼の将軍難升米に韓制圧戦への参戦の檄を送った事。
卑弥呼はこれに応えていない。
陳寿の倭=女王国と言う設定や位置特定の里程がおかしいのも
魏との関係は良好とは言えなかったからだと考えられる。
倭人は呉の太白の後、と言うのも、魏の要請に応えない非従属国、での言い訳か?
軍師を招いていたどころかw 字を知らない倭人が、史記など、知るわけが無い。
記紀が、万世一系の創作でデタラメなように、
中国史は皇帝のメンツで煙に巻かれた表現になる事も多い。 >>66
最古の水田跡なんて今後の発掘によって覆される儚いものw >>67
三国志という書物と日本という国を同列に並べる
お前の思考回路が狂ってるのは確かだ。
字を知らない倭人が何故、どのようにして漢に朝貢したのか。
音声言語としての倭人語=漢語と言いたいのかw 邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
>>2
単純な隷属者に金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は与えられないと思われ 中国の史書 三国志 旧唐書 などが無ければ 日本の歴史は暗黒だった
歴史のあらすじ
石器時代は黒曜石の産地を中心とした社会が成立した 隠岐の島の出雲へ朝鮮半島から漂着して出雲族を構成 西日本 博多周辺までを支配した
銅器時代も同じ構造 鉄器時代になり半島での鉄獲得の為南方海洋民族の天孫族が請け負うが いち早く鉄を獲得し強力な武力海洋集団となった天孫族は博多を強奪し 支配地を広め倭国を形成した 紀元頃神武は糸島を発ち奈良へ侵出し倭国の分流の祖となる 倭国ではヒミカ 五王 磐井 タリシホコなどを輩出する 魏の末裔が滅び隋へ代わるが隋の琉球侵略などで関係は悪化し 唐になり白村江で戦うが敗戦し倭国は滅亡する 一方分流奈良は出雲族の後ろ盾の呉の滅亡で崇神が近畿圏へ侵出する 出雲族の末裔継体の時 奈良で後継者争いが発生し其の混乱に乗じた継体が権力を握る 其の勢いで倭国へ応援軍として進入し突如磐井を暗殺するが 息子カツコにより追い払われその後殺される この後白村江の戦いまで面従腹背を続け 唐と内通し 倭国滅亡を待ち 日本と称して倭国を併合する >>72
日田からみつかったとされるあの鏡のグレード、
漢から魏にかけての皇帝未満、皇后以上のランクだとな。
そんなすごいものが5世紀の平凡な古墳から出土するという不自然さ。 >>74
吉野みたいに戦で危なくなったら逃げこむ場所みたいなとこやったんちゃう? >>69
それ言いだしたら、すべての考古学的物証も同じになるから、現時点では尊重せんとな。
別の可能性が消えたわけじゃないというだけ。 >>20
交易航路として最難関は
九州〜五島列島〜壱岐〜対馬〜狗邪韓国だわ。
対馬海流に逆らってどう渡りきるか
万葉時代にも九州から対馬へ米を運ぶのに
いつもと違う船頭が難破したエピソードが載っている。 >77
万葉集巻16
3860
[題詞]筑前國志賀白水郎歌十首
[原文]王之 不遣尓 情進尓 行之荒雄良 奥尓袖振
[訓読]大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄(あらを)ら沖に袖振る
3861
[原文]荒雄良乎 将来可不来可等 飯盛而 門尓出立 雖待来不座
[訓読]荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず
[仮名],あらをらを,こむかこじかと,いひもりて,かどにいでたち,まてどきまさず
来むか来じかと飯盛りて=影膳すえて 玄関先に立って待っていたが 帰って来なかった
3863
原文]荒雄良我 去尓之日従 志賀乃安麻乃 大浦田沼者 不樂有哉
[訓読]荒雄らが 行きにし日より 志賀の海人の 大浦田沼は 寂しくもあるか
[仮名],あらをらが,ゆきにしひより,しかのあまの,おほうらたぬは,さぶしくもあるか
3864
[原文]官許曽 指弖毛遣米 情出尓 行之荒雄良 波尓袖振
[訓読]官こそ さしても遣らめ さかしらに 行きし荒雄ら 波に袖振る
[仮名],つかさこそ,さしてもやらめ,さかしらに,ゆきしあらをら,なみにそでふる 3865
[題詞]筑前國志賀白水郎歌十首
[原文]荒雄良者 妻子之産業乎波 不念呂 年之八歳乎 将騰来不座
[訓読]荒雄らは 妻子の業をば 思はずろ 年の八年を 待てど来まさず
[仮名],あらをらは,めこのなりをば,おもはずろ,としのやとせを,まてどきまさず
3866
[原文]奥鳥 鴨云船之 還来者 也良乃<埼>守 早告【許】曽
[訓読]沖つ鳥鴨とふ船の帰り来ば也良の崎守早く告げこそ
[仮名],おきつとり,かもとふふねの,かへりこば,やらのさきもり,はやくつげこそ
【許】北京官話=Mandarinで xūシュ IPA=所謂発音記号ɕy˥
呉語:蘇州方言 文語読み=科挙試験用 ɕy: 口語音 hᴇ
厦門(アモイ)方言 文語読み=科挙試験用 hu: 口語音 kʰɔ
3867
[原文]奥鳥 鴨云舟者 也良乃<埼> 多未弖榜来跡 所<聞>許奴可聞
[訓読]沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻みて漕ぎ来と 聞こえ来ぬかも
[仮名],おきつとり,かもとふふねは,やらのさき,たみてこぎくと,きこえこぬかも
3868
[原文]奥去哉 赤羅小船尓 L遣者 若人見而 解披見鴨
[訓読]沖行くや 赤ら小舟に つと遣らば けだし人見て 開き見むかも
[仮名],おきゆくや,あからをぶねに,つとやらば,けだしひとみて,ひらきみむかも
3869
[原文]大船尓 小船引副 可豆久登毛 志賀乃荒雄尓 潜将相八方
[訓読]大船に 小舟引き添へ 潜くとも 志賀の荒雄に 潜き逢はめやも
[仮名],おほぶねに,をぶねひきそへ,かづくとも,しかのあらをに,かづきあはめやも
解説
//repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2506/1/0010_161_001.pdf >>74
疎開させてただけだろ
筑紫平野は物騒だからな >>74
だから外国人に与えるものとしては最高クラスのものだってことだな
卑弥呼の鏡で間違いない >>20
白村江の戦いに敗れるまで日本は一貫して朝鮮半島南部に
自国領ないし友好国を置いて対馬海峡のシーレーンを守る国策だよね。 >>65
日本海流と書いてるオマエは日本の小中高で勉強してないな
半島人が日本入る玄関口に住まいする半島人か >>72
アマテラスが岩戸隠れをしたときに
香久山の鉄で鏡を作ったなんて記紀に書いてある。 博多は日本の玄関
古代と現代でも変わらぬ地形 最近西村が博多を日本の金融都市として 機能させると発言
した 理由はアジア諸国の玄関口という これは2千年前も同様 故に倭国の隆盛があり
博多を巡り権力の争いが続いて来た 今後も同様だろう >>71
違う違うw
なぜ大和が大宰府を重視したかというと、畿内からの距離もあるよ
直接支配できなかったから鎮西府としての重要な役割があった(実際に反乱が起きてたしw)
あと博多自体も(他の地方と比べて)断トツに繁栄してたのは
国内最大の権勢を誇っていた女王国である伊都国が、倭国大乱で(後の)大和王権に敗北する以前だよね^^
それ以降は、畿内や急速に発展した東国と比べても重要度は低くなってしまった
(前方後円墳も多少はあるけど、畿内はおろか東国の権力者よりも小規模なモノしか作られなかった)
くだんの大宰府そのものは平安期まであったけど、元寇のとき以外はあんまり重視されてないしな ^^;
×くだんの大宰府そのものは平安期まであったけど、元寇のとき以外はあんまり重視されてないしな
○くだんの大宰府そのものは平安期まであったけど、「その後は」元寇のとき以外はあんまり重視されてないしな その頃の日本は日本と朝鮮半島南部を支配していた大国 邪馬台国は大和大国に中国が蛮族につける邪悪な名前。 邪馬台国は間違いなく奈良。
どう考えても大和大国だよ。その後も奈良を中心に政治がおこなわれているし。
九州にあったならもっと発展してるだろw ちなみに「倭」の呼称については弥生時代、大和王権の勃興期以前に
中国が日本列島の中心国と考えていた委奴国(=伊都国)から
委の字に人偏を付けて倭とした、という説が有力視されている。
金印についても「漢の倭(彫字は委)の奴の国王印」ではなく
おそらく「漢の委奴の国王印」ということになる。
まぁ実際、奴国は(現在は博多の中心地ではあるが)当時は伊都より小国なこともあって
後漢が2番目の小国にワザワザ金印を授けるというのは疑問が残るしな >>88
小競り合いでは勝てるけど大戦では勝てない人
赤壁の勝利は地の利と周瑜ら呉のおかげ、北伐は笑うしかない
古来より説かれる天下三分の計を魯粛に推されて実行したのはいいが、
発展に乏しい内陸を拠点としたせいで人材や農作物や海の恩恵を得られず、
無価値な土地を奥へ奥へと広げたところで蜀の国力は三国の中で圧倒的最弱 >>95
>委奴国(=伊都国)
これは大間違い
魏晋の時代に「奴」をドとかトなんて読まない
漢字音の時代考証が出来てない。
博多湾はかつて那/奴津(なのつ)と呼ばれていた。
「奴」をドと呼んだのは隋を滅ぼして長安に都した唐の時代で
唐代後半から濁音が清音に変わりトと発音されるようになった。
「奴婢」はドヒやトヒと読まないだろ。
委奴=伊都なら「狗奴國」はコド/コト國としなければ首尾一貫しない。 >>97
音を根拠にある説を違うと主張する人が割と多いんだけど
当時の日中の発音について学術的な研究はどの程度されているものなの?
(在野の研究者による根拠に乏しい「主張」は除く)
ここで述べている後漢、あるいは前漢の頃については確定しているのか?
糸島には紀元前1世紀の墳墓があるし、前漢に朝貢していたというのは伊都国だろう。
魏志の頃には伊都の表記になってるのは確かだが
その頃には大和王権に従属しており、既に都ではなく一大卒でしかない
(女王国としては残っていたようだが) >>96
赤壁之戰時,周瑜提出讓諸葛亮在十日之內趕製十萬支箭的要求
赤壁の合戦の時周瑜が10日以内に10万本の矢を用意するよう孔明に要求した
孔明以快船、布幔、束草等物,利用夜晚大霧曹軍不敢迎戰的心理,
孔明は快速船、幔幕(まんまく=緞帳のような丈夫な幕で矢を防ぐ)、
束ねた草を使って夜霧に包まれたのに乗じて曹操の軍を攻撃し
得到曹軍弓弩手亂射的箭十萬餘枝
曹操の軍がむやみやたらと発射した矢を草の束で
受け止めて10万本余りの矢を手に入れた。
「草船借箭=草船で矢を借る」とか「孔明借箭=孔明が矢を借る」という中国の四文字熟語は
日本で言う「人のふんどしで相撲を取る」という謎の解を
導き出す謎掛け言葉として使われる。 >>98
漢音と呉音の違い
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