中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する邪馬台国は、女王卑弥呼(ひみこ)の存在とともに多くの歴史ファンを魅了してきた。しかし、「邪馬台国がどこにあったのか」という最大の謎については、江戸時代以来、論争が続く。大きくは九州説と近畿(畿内)説の二つに分かれる中、近年になって相次いでいるのが九州説を唱える書籍の出版だ。考古学界では近畿説が圧倒的優位に立つ中、なぜ九州説の「逆襲」ともいえる状況が生まれているのか。【西部学芸グループ・上村里花】

 「『九州説ですか』と聞かれた時は『7割は九州説、3割が近畿説』と答えている」。昨年12月に「続・邪馬台国論争の新視点」(雄山閣)を出版した福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長の片岡宏二さん(考古学)は、邪馬台国の所在地についてそう語る。では、その「3割」とは何か。片岡さんが挙げるのが、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡を中心とした遺跡、遺物の多さだ。

 そもそも纒向遺跡が邪馬台国の最有力候補に躍り出たのは、卑弥呼が活躍したとされる3世紀前半の大型建物跡が2009年に見つかったのがきっかけだ。同時代の建物跡としては国内では最大級で、佐賀県の吉野ケ里遺跡で最も大きな「主祭殿」の約1・5倍となる。3棟の大型建物群が東西に一直線に並ぶ計画的な配置に「これこそ卑弥呼の宮殿」とヒートアップ。18年には建物群の近くで出土したモモの種が、放射性炭素(C14)年代測定で、卑弥呼の活動時期(190年ごろ女王となり、248年ごろ没)に一部重なる分析結果(135〜230年)が出たことから「近畿説で決まり」といった論調まで飛び出した。

 その後も、祭祀(さいし)に使ったとみられる多量のモモの種や、各地から献上されたらしい多数の動物や魚の骨など、同遺跡の勢力範囲の広大さを示す遺物が確認されてきた。

 一方、片岡さんはこの「纒向遺跡の立派さ」こそが、逆に「邪馬台国らしくない」と指摘する。

 倭人伝によれば、2世紀ごろ、倭国が乱れ、戦乱が続いた。そこで、クニグニが一人の女子を王に立てた。それが卑弥呼であり「卑弥呼が都する」所が、約30のクニで構成される連合国の一つ、邪馬台国となる。片岡さんは「纒向遺跡には次のヤマト政権につながっていく強力な権力の集中が見られる。一方、九州には突出した遺跡はなく、小さなクニグニが連立していたさまが見てとれる。これは『魏志倭人伝』に書かれたクニグニが連立する倭国の状況により近い」と主張する。

 片岡さんは、卑弥呼の性格や死後の状況からも九州説を取る。

 倭人伝で晩年の卑弥呼は、1000人の侍女をはべらせ、常に警護がつくなど、強大な力を持った姿で描かれる。しかし、それは半世紀近くの治世の間に生まれた権力で、当初はクニグニに「共立」された弱い存在に過ぎなかった。さらに卑弥呼の死後、倭国は再び戦乱に陥り、卑弥呼の親族の女性である台与(とよ)を共立することになる。

 片岡さんは「卑弥呼の時代に纒向的な強大な中央集権的政権が生まれていたのであれば、こうした乱は起きなかったはず。卑弥呼の死後、再び女王が共立されたことこそが、突出した権力が生まれていなかった当時の北部九州の状況に当てはまる」と指摘する。

続きはソースで

https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/07/21/20200721k0000m040055000p/9.jpg
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/07/21/20200721k0000m040054000p/9.jpg
https://img.guideme.jp/i/pGnVrrwbm06yKMgX1JNl2vjbR06p9wiP7ZnmKtAd8D7Hgm4F+4VBw3H3BkrNHImAP+IHqShs+pIK7ZzPAt9M3Mhe8Ft36Mxqi/0jKzpangJAwXjRBpJlC+w1+TErt5tR.jpg

https://mainichi.jp/articles/20200721/k00/00m/040/051000c
前スレ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1595813618/