始まりは取材先から聞いたこの言葉でした。江戸時代に発生した富士山の大噴火で埋没した村のことでした。古文書だけに残された、いわば“伝説”の集落。そこを掘り起こそうというのです。背景にはあのイタリアのポンペイも。初めて行われた発掘調査に単独で密着すると、そこには300年の時を超えた教訓がありました。
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■初めての発掘調査
調査が行われたのは静岡県小山町の須走地区。かつて須走村があった場所です。発掘には考古学・火山学・建築学など、分野を超えた専門家たちが集まりました。私はこの調査に単独で密着させてもらいました。
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まずは重機を使っての発掘です。地表面から20センチほど掘ると、黒い砂利が。火山灰やマグマが発泡しながら冷えて固まったスコリアです。
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「これは300年前の“宝永噴火”で、火口から飛ばされてきたものだ」
専門家の1人が教えてくれました。目の前に現れた300年前の噴出物。
「この下には何が埋まっているんだろう?」
私の胸も高鳴りました。
■300年前の富士山“宝永噴火”
専門家が指摘した「宝永噴火」。今から300年余り前の江戸時代中期に起きました。当時の江戸のまちにも火山灰が降ってくるような、大噴火でした。
古文書によると、最も被害が大きかったとされるのが火口から10キロほど離れた須走村。富士山への登山道の入り口にある「冨士浅間神社」とその門前に広がる村です。
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古文書では高温の噴出物による火災で37棟の家屋が焼け、焼けなかった家屋も噴出物の重みやたび重なる地震で、すべて倒壊したとされています。
村は3メートルほどの厚さまで火山灰に覆われ埋没。いち早い復興を優先した当時の幕府は、火山灰を取り除くのではなく、その上に新たな町を作ることにしました。それが現在の須走地区です。
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「昔の集落が埋まっていると、言い伝えでは聞いているけど…」
今の須走地区には多くの住宅や旅館が建ち並んでいます。しかし、埋没した家屋を見たことがあると話す人は誰もいませんでした。
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