【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★13
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1543836090/ >>152
残念ながらそれは邪靡堆だね。
国名を書き改めているその意味を考えなきゃね。 >>151
文献においてイーブンなのは、方角が正しいか、日数が正しいかの点だけ
それ以外の記述では、圧倒的に畿内説の方が有利
九州説は倭人伝の記述に矛盾だらけ >>151
九州説は魏志倭人伝の重要な記述をことごとく嘘だとしないと成り立たない
・邪馬台国が倭国の盟主というのは嘘だ
・30ヶ国の連合は嘘だ
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸は嘘だ
・水行二十日、水行十日陸行一月は嘘だ
・一大率が刺史に例えられているのは嘘だ
・卑弥呼の宮城に1000人の従者が仕えるとあるのは嘘だ
・卑弥呼の墓が径百余歩というのは嘘だ
・倭国の産物に丹とあるのは嘘だ
ここまでくると、魏志倭人伝を根底から全否定しているようなもの
九州説なんてものは魏志倭人伝を全否定してでも、邪馬台国は九州だと言い張る珍説ということだ >>156
倭人伝の読み方の正解はなく、様々な説がある
九州説は嘘ではなく、
解釈の仕方が違うのだよ
勿論、行程部分は正確な地図等が無かった時代なので、間違いはあるでしょうが、"ありえない"間違いを想定してはいけない >>157
解釈というより詭弁でしょ
上に挙げた点を合理的な解釈で説明できる? >>158
いや、解釈です
岩元学説でもまずどうぞ
最近ならば"全解決"の本もオススメですよ >>159
それ専門外の素人による曲解やこじつけでしょ
倭人伝を謎解きや暗号解読だの言ってる人は100%インチキ
専門家に広く受け入れられてる読み方で頼むよ >>161
それでは間違いに気づかないまま、誤った解釈になる可能性があるのですよ
プロ以外の文献を研究されている人の意見を無視し、通説が正解とするのはなぜでしょうか?
プロであれば真摯に意見を受け止め、論で反論すべきと思いますが、それはまだ見当たりません
邪馬台国関連の論文や本等を読むと、「〜の訳」また「〜の解釈を引用する」と、等の文章があります
ここは〜としたい、も多いですね
解釈の正解はわかっていないという事でしょう >>162
どの解釈が正しいのか、なんて誰も言えない事だよな。
ゆえに、まず解釈を必要としない地勢や植生などの記述を重視すべきだね。 >>162
陳寿は三国志を読み手がすぐに理解できないようにするために、わざと解読不能にしたり、暗号を仕込んだのではない
倭国が南方に伸びる大きな島だと誤解していただけ
だから九州だと解釈しようとすると、上で書いたような倭人伝の記述との不一致が生じる
それだけのこと 暗号というより、記述が散失しないようにまとめて書き留めたんじゃないの。
魏略も現存していないように、当時の文書は失われやすかったと思う。
矛盾や疑問も陳寿自身も感じていたのかもしれないが一次資料としてそのままのけたのかも。
コピペの遠い祖先かもなw 日数と方角どっちが間違えやすいかといえば方角だわな >>166
方角を間違えるような奴なら旅程は記録に残って無いだろw
行ったきりで帰って来れないんだからw >>167
実際、末盧国から伊都国は方角を間違えてる >>168
末盧国から伊都国は東南ではなく東だと言うならば、出雲への方角を南と間違えるなんてあり得ないよな。 >>167
使節が勝手に向かったわけじゃなくて案内者がいるわけだけど?
だから方角が適当でも目的地につく
しかし日数は間違いようがない >>170
月と日は写す時に見間違えやすいかな
後、蛭田さんが提唱されてるが、錯簡の可能性も考える必要があるかと思うね 錯簡はいくつかの写本で相違があるか、文法上意味が通じないので訂正するしかない場合以外は考えるべきじゃない
都合が悪かったらいくらでも「本来の文」を作ることができるからな
出来る限り現存の文章が正しいと見なさなければならない >>169
>末盧国から伊都国は東南ではなく東だと言うならば
東じゃなくて北東だよ
ほぼ90度間違ってる たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間に
いくらでも方角の錯誤は起こりうるし、
実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498
次に、記録の不備の可能性も高い
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、
最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い
記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、東水行と書いた木簡が
どの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう
また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので
方角を記録していないとしても問題ない
さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、
倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる
以上、
1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない
2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する
3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる
4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
>>172
すでにおかしいからこんなに迷う事になっている
訳で
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
>>178
>遺跡も王墓もない畿内説w
遺跡いっぱいありますよ?
https://i.imgur.com/9j6LLzE.jpg
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)より引用
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
そして、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・箸墓古墳は
間違いなく王墓級
>>178がもの知らずの情弱なだけ >>180
>時代錯誤w
どこが時代錯誤なのか具体的に指摘してみて
>>179は「大和弥生社会」だから、全て弥生時代の遺跡だよ >>181
それら王墓から金印でも出てきたのか?w
物証皆無な畿内説w >>182
>それら王墓から金印でも出てきたのか?w
単に畿内大和の王墓級で埋葬主体が発掘されたものがないだけだよ
>物証皆無な畿内説w
100メートル級の古墳自体が否定しようのない物証なんだが?
九州には径100歩の墓の候補すらないのにww そもそも「卑弥呼が古墳に埋葬された」というのは何処の情報?
しかも「100m級の古墳に埋葬、、、」だなんて。 >>195
>そもそも「卑弥呼が古墳に埋葬された」というのは何処の情報?
>しかも「100m級の古墳に埋葬、、、」だなんて。
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。
径百歩は魏晋尺で135メートル
まあ百餘歩は丸めた数字でそこまで正確でもないと思うが、
倭の通常の墓を圧する巨大な墓だから特記されたのだろう
135メートルからは欠けるが、100メートル級の倭国最大の墓であれば要件は満たす 殉死者百余人も一緒に埋葬、宝飾品も多数埋葬、、、とは魏志倭人伝には著されていない。
豪華絢爛な古墳を夢想し勝ちだけど後世には残らないような只の広大な「塚」だったかもよw >>187
>只の広大な「塚」だったかもよw
広大な塚で王の墓なら後世まで残るだろ? >>188
でもね魏志には
「棺はあるがソトバコはなく」とかを「土を封じて塚を造る」
の記述あり。
もちろん、これは一般的な邪馬台国の死者の葬り方で王の埋葬方法とは違うのかも、
だけど基本は地面掘って埋めるんじゃなく棺桶に入れてその上に土を盛るだけの仕様。 で、径百歩になるほど、大いに土を盛ったら後世まで残るだろ?ww 日本全国何千って古墳があるんだぞ。それこそ、知らなきゃただの塚だよ。円墳だと特にね。街中にある公園、神社、ただの雑木林とかが、結構古墳だったりする。
卑弥呼の墓は、かなりの確率で残ってると思うよ。しかし、たくさんありすぎて、どれか分からんし、。 そりゃ、削平されたりしてる可能性はあるけど、50〜100m級の古墳は、かなり残ってるよ。
その規模の塚に道を通すのは普通に大変だから、よっぽどの主要道路じゃない限り、迂回して作られてる。現代の工事なら、技術的にも難しくないが、工事前に発掘調査される。 ここ百年、二百年の事じゃなくて文化財保護の意識皆無の中世、古代人なら尚さら。
つい数十年前も遺跡らしいモノが見つかっても届け出もせず突貫工事してたケースは多々ある。
土建屋天国とも言われた田中角栄(日本列島改造論)の時代は特に酷かったから。 だーかーらー
100m級の塚をわざわざ壊して道作るなんて難工事、現代になるまで、殆どされてないから。 だーかーらー
小高い山を更地にして分譲住宅にして売ったりしてるよって言ってんの。
人口が増えて中心街からソー遠く無い所を住宅地にしてんの。
城を作ったらその周辺は必然的に城下町だ。
武家屋敷が出来、更に商人の町へと自然景観は消滅して逝く。
現在、地名に「〜〜塚」が付いてたり、、、
仮に現在「長塚夢タウン」みたいな名前の所に卑弥呼が眠ってたかもねw この問題は卑弥呼が関西弁だったか九州弁だったかと考えるとイメージが沸きやすい 九州説はでかい墓がないのをごまかそうと必死だな
径百歩、100メートル級ならなんだかんだ残るよ
纒向石塚古墳も削平されて埋葬主体は残っていないが、ちゃんと古墳として認識されてる >>200
邪馬台国だ、女王卑弥呼だって事で期待に胸膨らませるのはよいが勝手にハードル上げんなよ。
そんな、ご立派なものなら倭人伝にも具体的に書いただろう。
が「大」 >>202
>たったコレだけ。
そう、たったそれだけで九州説は撃沈だww そう九州、畿内、蝦夷地、、、現存してないかもな。
全滅ですw 畿内が邪馬台国として広さはどんなもんだったんだろう。
記紀に言う歴代天皇の皇居をすべて内包するんだろうか。
現在の纏向が卑弥呼の宮殿なら、
陳寿はなぜ「まきむく」国と倭人条に記さなかったんだろう。 「邪馬台国」が即ち倭国そのものことだったんじゃないかと考える。
これなら卑弥呼が畿内だろうが九州だろうが何処に居住していても構わない。 >>206
どこまでの範囲を倭国と呼んでいたかによるのでは? 畿内に邪馬台国があっても構わないが、纒向の大型建築群並みの遺構が九州や出雲にない理由、不均衡な発達状況を解明する必要はあるんじゃないだろうか。 >>205
まきむく が国名ではなく、都市名または、宮名だったのでは。邪馬台国内の都市まきむくにある宮殿。
点在する邑を街道が結ぶ、点と線のネットワーク社会だから、"面的な広さ"と考えない方が間違いが少ないかも。 >>205
>畿内が邪馬台国として広さはどんなもんだったんだろう。
畿内説が想定する邪馬台国七万戸の範囲は、畿内第V様式土器を共通に使っていた範囲で
概ね「大和+河内〜環大阪湾」の範囲だよ
志賀高穴穂宮とか一部を除けば、天皇の宮はこの範囲に収まる >>206
守山の伊勢遺跡で、円周上に配列された祭祀を思わせる複数の大型建物が出ている。
1人の強大な人物というより、複数の集落の共同祭祀(政治)の場である印象を与える。
これは邪馬台国より前の遺跡だが、つまりは2世紀中には、すでに密接な地域連携が形作られていき、
連合共同でより大きな施設を造営する力を蓄えて行ったのではないだろうか。
2世紀末に、日本海側の集落の多くが衰退している。
この時期の気候変動(寒冷)と海岸線の変化が影響している可能性が指摘されている。
これが、結果的に、畿内有利に働いた可能性が高い。 >>206
そうだね、
邪馬台国は7万戸だそう
並立で書かれてる投馬国は入らない
ヤマトとは常に広域の意味を示してきたのだろうね >>213
>ヤマトとは常に広域の意味を示してきたのだろうね
畿内第V様式土器を共通に使っていた範囲で
概ね「大和+河内〜環大阪湾」の範囲
これで十分広域だと思うけれど? 卑弥呼を奉りあげて結成した連合国を邪馬台国と称したのか
敵対する勢力も含め中国が言うところの倭国を指す
のかは微妙。 >>215
おまえも最近は1行糞レスだけになってきたなw
効いてる効いてる >>217
相変わらず畿内説ってお前独りしかいないんだなwww >>216
>卑弥呼を奉りあげて結成した連合国を邪馬台国と称したのか
いや、もともと共立前の卑弥呼の本国がヤマト国でそれが音訳で邪馬台国だろ
奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸が並列だから、邪馬台国が
連合国の名称ということはないよ
>敵対する勢力も含め中国が言うところの倭国を指す
>のかは微妙。
「倭国という国」があるという認識だったかは微妙だと思う
金印も倭国王ではなく倭王だし
倭人の国くらいの意味で倭国という言葉を使っているように思う
敵対勢力でも少なくとも狗奴国は倭国の中の扱い >>219
だから、その辺が倭人と中国の使者との会話で微妙なズレが生じてるんではないかな?
「魏志倭人伝」において。
中国の使者の言う「倭国(ワコク)」と倭人接待者の言う「倭国(ヤマトコク)」
「ワコク」は広い意味での倭人の国で、、、
説明した倭人の「ヤマト(国)」や「ヤマタイコク」を正しく理解し倭人伝を書いたんだろうか? >>220
横レスするけど、自分もその考えに近いなぁ。
魏志では、倭にあり交流できる30ばかりの国のうち、敵対している狗奴国と遠方の黒歯国とか以外は、女王国に属すとされる。
属すというと服属している印象を受けるけど、実際にはそればかりではなく、
緩やかな連合・同盟も含めての、協調的な国々がこれらなのだろう。
実際、邪馬台国出現以前から、各地活発に交易していたわけで、覇権的に隷属させるばかりとは思えないからね。
これら「女王の境界」の内とされる、20余りの協調的立場にある国々が、
統合されていく過程にあって、その関係性は流動的。
魏志の言う"邪馬台国"は、女王直轄地にあたる限られた範囲であることは確実だけど、
おそらくその範囲も流動的なモノであって、当の日本人が考える女王国の範囲が、
魏志と一致しているかどうかは微妙だよね。 >>216
>卑弥呼を奉りあげて結成した連合国を邪馬台国と称したのか
いや、もともと共立前の卑弥呼の本国がヤマト国でそれが音訳で邪馬台国だろ
奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸が並列だから、邪馬台国が
連合国の名称ということはないよ
>敵対する勢力も含め中国が言うところの倭国を指す
>のかは微妙。
「倭国という国」があるという認識だったかは微妙だと思う
金印も倭国王ではなく倭王だし
倭人の国くらいの意味で倭国という言葉を使っているように思う
敵対勢力でも少なくとも狗奴国は倭国の中の扱い 認識があるもナニも魏志倭人伝に実際「倭国」とハッキリ書いてるとこ有るじゃん。
それを「やまとこく」と読んで解釈しろとでも言いたいのか?
倭人伝に出てくる
「倭国」「邪馬台国」「女王国」、、、
それぞれに意味(に違い)が有って使い分けているとでも?
適当に用語を採用して書いてるとしか思えない。
書いた人にも違いが分かって無かったと思うけど。 >>79
日ユ同祖論は妄想www
>ヤーパンから繋がり英語でジャパンと訳されたに過ぎない
日本は唐末五代北宋シナ語の面影を残す広東語でヤップン
上古音〜唐代漢音の面影を残す閩(門構えの中に虫)南語ビンナム語=厦門方言でジップン
アラビア語でヤバーニ >>189
九州説は耶馬ト国と卑弥呼の墓所を特定しろよ
具体論無しで邪馬臺国は北九州というムードで押し切ろうとしてるじゃないか 同時代の倭と魏や蜀の総戸数を比べてみろw
九州に収まるような小国では決してないw >>3
神の手な!
結局、犯人は今どうしてるんだ? >>234
畿内説は耶馬ト国と卑弥呼の墓所を特定しろよ
具体論無しで邪馬臺国は畿内というムードで押し切ろうとしてるじゃないか >>224
倭国って倭人の国ってだけで統一国家じゃないよね。
女王国は広義は邪馬台国連合全体、狭義では邪馬台国そのものの2パターンある。 >>231
しかも卑弥呼は奴国や伊都国、、、などの(各小国の)国王と言うワケでもなかったろう。
あくまで連合国により選ばれし盟主(女王)なんだろうね。
自分は魏の使いが卑弥呼に印授したのは九州ではないか?と思ってる。
魏の使者が当時の倭、最大都市(たぶん畿内)に実際に行ったのならもう少し書きようが有ったハズ。
行ってないから具体的な道程が書けない伝聞だけでまとめた、、、
魏志倭人伝の記述からそう読み取れる。 もともと大和と書いてもヤマトとは読まない。
和って和魂(ニギタマとかニギミタマ)のニギでしょ。
大和=大ニギなんですよ。
で、大=意富
だから、もともと伊都なんでしょ。
彦渚ウガヤフキアエズの代まで筑紫城にいたっていうのはそのままのことなのよ。 狗奴国は遠江の久努国!
日本人に字で書かせると、和の国(ニギの国の意味)
それを中国人は倭の国とした。 >>234
国名に「大」という漢字を前置きするのは
唐代(キリスト教暦618年 - 907年)の風習 【邪馬台国九州説】倉本一宏氏「3世紀に統一政権前提、おかしい」「天皇家につながっていると言いたい人たちに利用される危険」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1548249849/ >>89
唐古・鍵でも環濠に時代遅れになった土器が埋められてる 魏の使いはどんな船で倭国に来たのだろうか。倭国内の移動にもその船を使ったのかな。
それとも伊都国からは国内便を使ったんだろうか。
停泊できるところがないと船では移動できないんじゃないかな。
たびたび批判されてるけど、南に水行二十日の起点は帯方郡でもいいのでは。
邪馬台国は帯方郡からまず南と方角はあってる。投馬国を対海国と対馬と見た場合どうなんだろう。 >>239
>邪馬台国は帯方郡からまず南と方角はあってる
合ってない
最初に東南って書かれてる
南と南を合わせたらやっぱり南
一方が東南で、もう一方が南では矛盾 当たり前じゃないか。
伊能忠敬の精密な日本地図が在ったワケじゃなし。
中世の日本地図をして現代人の目からしたらイイ加減なもの。
真っ直ぐな道、真っ直ぐな川など無い時代の「南」だ。
出だしが南方向ってだけで後は北へ進んだり西へ進んだり、、、参考にもならない記述だよ。 >>242
バカですか?
実際の方角と合ってるかどうかではない
同一文献内で、倭は「東南」という記述と「南」という記述が並んでたら
読み手は混乱するだろが
どっちの記述が正しいんだ?って訳わからんことになる
もう少し頭を使え
南に水行二十日の起点が帯方郡という解釈は誤り >>242
>出だしが南方向ってだけで後は北へ進んだり西へ進んだり、、、参考にもならない記述だよ。
では、出だしが南方向ってだけで、あとは東に行けばめでたく畿内到着ってことで決着だなww >>243
東南は大海を指すのでは?
倭人の住む所、だから日本が東西に長いの知ってそうだね
ある範囲が倭国で、渡海した東からは倭種がいると説明
女王国が九州なら、帯方群から南でも良さそう >>245
倭は東南の大海の中にあると書かれてるにもかかわらず、
南の方角にあると思ってるのかw
東シナ海で好きなだけ探せば? >>246
詳しくは倭種を含む、倭人が住む所だよね
倭国はその一部
それが九州だとしたら、大まかに南でいいんじゃね?
対馬→壹岐は「南」だし
帯方郡→九州も「南」でもよさそうじゃん >>247
九州説らしい幼稚な屁理屈だなw
「倭は東南」と書かれているのは、何の情報もなく、国名も分からない、
国の大きささえも分からない領域のことだとさw
ちっこい島かもしれない
侏儒国や黒歯国と同列でおまけみたいなものだけどな
東南を「倭国の中心領域」でないと強弁するのは筋が通らない >>248
文献的には倭人在だよ
倭国ではなく、倭人がいる所の説明でしかない
ただそれだけなんだよ
倭国の中心なんて記載は無い >>250
ほんと幼稚な言い訳繰り返すな
首都が置かれたところが倭国の中心領域だろ
邪馬台国連合でもいい
倭種が居るらしいところは大きさも不明、戸数も不明、国名も不明
数人の倭種が住んでただけの、小さい島だったかもしれない
そんな情報がない領域を指して、「倭は東南」とは書かない
邪馬台国連合や首都があった中心領域を無視して書かれていると言い張るのは不合理 >>251
だから、倭人をなぜ"倭"と解する?
在だけの記述でしかないのが事実
中心などというのは思い込みと言わざるおえないが、仮に中心という感覚で記述したのであれば"倭人"が住んでいる範囲の中心になる
それに倭国が九州だったら"南"で妥当なのも事実
対馬〜壹岐が南と記載されているからね
問題は何も無いが? この時代について一つ疑問が有るんだが
当時は朝鮮半島にも倭人が生息していた、、、
いったい中国人は「倭人」とナニを以て分別していたんだろーか?
「黥面文身す」とあるくらいだから顔や身体の刺青、
または倭人、特有の言語(倭語)で会話、
そして広範囲(朝鮮半島〜西日本)に渡って通用する統一の倭語が存在していたんだろーか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています