【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★12
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542779166/ >テュルク語のキルギス地方では西へトルコ人、東へ日本人になった
しかし古代テュルク語母音 y ø などは
古代関西語の上代特殊仮名遣いに若干の影響を与えたかもしれないが
東日本方言への影響は少なく
現代日本語に影響を残すこと無く日本語に同化してしまった 纒向遺跡しかない
九州説の頭の中は昭和で止まってる
倭国は九州内でのみ割拠していたという古い考え >>102
その纒向遺跡が邪馬台国の様子と異なるんだが、何故無理なこじつけを繰り返すんだろ? ヤマトの王権が飛躍するのは帯方郡の消滅後のような気がする。
環対馬海峡貿易圏から帯方郡が脱落して、対高句麗において畿内のウェイトが上がったんじゃね? >>104
倭人伝を参照しての話だが?
纒向で警備が厳重な様子が見られるか?
お前には見えるのか?
病院池。 ジンムが開いた奈良ですが 東鯷国の真ん中でさぞ心ぼそかったでしょう
故に自分達は九州倭国の分流であると主張しました
倭国からの応援の証しとして 若倭 わかちくし 大倭 おおちくし のような称号を
倭国の王から貰い縁としました
大倭が後に大和となり700年以降やまと と読まれるようになりました >>106
纒向で不十分なのは、城柵が強固であると言えないことと楼観が見つかってないことくらいだよな
その辺は発掘が進まないと何とも言えない
だが、現時点で邪馬台国の都の可能性がある唯一の遺跡であることは確か
九州説の人が吉野ヶ里の環濠集落がピッタリだと自慢してるが、あれは間違い
宮室楼観城柵は合うが、人と会わず、1000人の従者が仕えてる記述に不一致
吉野ヶ里のような環濠集落では、首長層の建物があるスペースが狭すぎて、どうやっても不可能
可能性はゼロ 其俗殺人強盗及姦皆死 盗者計贓酬物 無財者没身為奴 自餘軽重或流或杖 毎訊究獄訟 不承引者以木壓膝或張強弓以絃鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者卽手爛或置蛇瓮中取之云曲者卽螫手矣 人頗恬靜罕爭訟少盗賊
磐井が創った古代律令制度は後年タリシホコの時隋書に現れる >>108
個人的に纒向は、神社の原型じゃないかと感じる。
人が住む場所ではなくてね。 日本にしか存在しないD2系統の遺伝子(縄文系)
日本本土52%、北海道88%
言語を見ても遺伝子を見ても、渡来人は日本人として吸収されてしまったというべきな D系統の遺伝子は男のみ
よって男の渡来人が縄文女と結婚すれば失われる .
神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 神社の社殿は倭をつくった天孫降臨族が南方系故仏教伝来より以前に現在の様式が成立した
半島よりの渡来人は大利木型穴居式住宅
支配層は高床式住居 欠史8代って天皇家だけど
蘇我氏の場合も欠史5代
なぜ天皇家と蘇我氏が
欠史を共有するのか? 初代神武の妻が
半島系の鉱山関係者であったことはその名前からも理解できる
だって「たたらいずず」だもの
「たたら」は精錬技術で
「いすず」は伊勢神宮の「五十鈴川」の「いすず」 >>108
吉野ヶ里に楼閣があるが
あれは奈良県田原本町の唐子鍵遺跡からのパクリ。
柱の穴が発掘されても上部構造はどんなものか分らないからな。
ttp://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=31
>2-1建物等調査
>個々の建物を復元するために、全国の縄文〜古墳時代の遺跡で見つかった建物遺構や
>当時の人々が残した絵などの資料の調査、当時の建築技術に関する調査や建築のための
>道具の調査、さらに建築以外の関連する施設などの調査を行いました。
そこで唐子鍵遺跡から出土した土器の
楼閣の線刻画の画像を提供してもらってアレンジした捏造www
このことは唐子・鍵ミュージアムの学藝員にも確認済み >>117
半島には高床式建築がなかったんだから。
高床式建築は南方系。
マレーシア、インドネシアなど東南アジア、ミクロネシア、ポリネシアに広く分布 倭国大乱。この時代には大規模な環濠集落が形成され軍事的な緊張があったと考えられる。
紀元前3世紀から紀元後3世紀まで継続した吉野ヶ里遺跡は環濠集落の遺跡の代表である。
仲哀天皇は199年(仲哀8年)に奴国(九州)を訪問し熊襲討伐にて日向国(後の蘇我勢力)を平定
その後三韓征伐へと乗り出す (梁職貢図) 2,イ妥王“阿毎多利思北孤あまたりひほこ”今に甦る
次に、イ妥国王“阿毎多利思北孤”とその家族、そして政治状況について、『隋書』「イ妥国伝」の主要部分を論述する。2 (語尾の丸数字は筆者、インターネット上は(1).など表示)
開皇二十年(600)、イ妥王、姓は阿毎あま、字あざなは多利思北孤たりしほこ、阿輩あはいの鶏弥きみと号す。 (1).
王の妻、鶏弥きみと号す。後宮に女六・七百人有り。太子を名づけて利と為す。歌弥多弗かみたふの利なり (2).
内官に十二等有り(詳細は後述)。(3).
大業三年(607)、其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」、と。其の国書に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙つつが無しや云云」と (4).
帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書無礼なる者有り、復また以て聞ぶんする勿なかれ」と。明年、文林郎裴清ぶんりんろうはいせいを遣わしてイ妥王に使せしむ (5).
とあり、これらを語尾の数字に従い解説する。
(1).「開皇二十年」の記事について論証すると、
「イ妥たい」は「大倭たいゐ」の卑字。「姓は阿毎あま」は、「天あま・あめ」であり「天照大神あまてらすおおみかみの天」、神話に頻出している「天の何がしの命」で、天族(海人族・あまぞく)の天である。
通説論者は、天皇家には「姓」がないため、そこから多利思北孤を姓のある蘇我馬子に比定したりするのである。字あざなは多利思北孤たりしほこ、通説の「北」は「比」の誤りとして、
大和王家に数多く見られる名前「帯彦たらしひこ」に合わせて“多利思比孤たりしひこ”と原文改定している。「阿輩鶏弥」は、」「吾が君」の意。
(2).「王の妻、鶏弥きみと号す」 ーーイ妥王には鶏弥と言う妻がいると記している。多利思北孤は「男帝」であり、時の大和の大王おおきみは女性の推古天皇である。
使節(裴世清)が王に会って、女性を男性に見間違えるはずはないので、そこで中国に対して女帝では失礼だから、聖徳太子を大王に仕立てたとか、或いは、聖徳太子は初めから大王であったとか、
または蘇我馬子が大王だったとしてしまうのである。
「太子を名付けて利となす。歌弥多弗かみたふの利なり。」
「歌弥多弗」は「上塔かみたふ」であり、博多の字地名(旧、九州大学の地帯)にある「上塔かみとう」「下塔しもとう」と関連する在所名と考えられ、「利」は中国風一字名称と思われる。
いずれにしても、王の名「多利思北孤」、王后の名「鶏弥」(君か)、皇太子の名「歌弥多弗の利」など、大和関連の史書には、一切現れない名前である。つまり、
それは大和には全く関係のない人物であったことを意味している。 倭国と奈良を同一視する誤認が多いようだ
倭国は九州で700年迄続いた政権
奈良は其の後の政権
700年以降奈良が外交を始めた >>125
九州倭国は7世紀初旬までで7世紀半ばから機内日本国じゃないの?
転機は600年代だよ。 自らを竹斯という チクシ 国名が倭 読みは 倭と書いてちくし
奈良を大和というが いつからやまとと呼ぶようになったのか信者なら解答できるはず
紀元前からかね 白村江の敗戦が662年 此処が転機であなたのいうとおり
きりよく700年とした
710年がなんとでもある 隋書にあるのかどうだったか。
天、大王、太陽の序列が天照大神を始祖と仰ぐ系統にそぐわない気はする。 >>100
>「倭国に阿蘇あり」
倭国に、であって、邪馬台国に、とは書いてないよな?
まあ、原文はいきなり「有阿蘇山」とあるだけだから、「倭国に」とも書いてないんだが
阿蘇山のある九州も倭国の中央政権、大和朝廷の豪族のいる地域だから、
畿内説で何も問題にもならない >>107
>東鯷国の真ん中で
東鯷国には、台湾を当てるのが多数説だと思ったが? >>114
>神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
いわゆる春秋年(二倍年暦)なら、夫の死後3年目で出産でおかしくないんだよ
ヒトの妊娠期間は285日だから
仲哀崩御 1年目
二年目 (半年)182日間
3年目出産
でおかしくない >>127
>自らを竹斯という チクシ 国名が倭 読みは 倭と書いてちくし
「倭と書いてちくし 」
この捏造をいい加減に止めれって言うのにww
「倭と書いてちくし 」と読む例は、古今東西一例もない 「7世紀まで存続の九州王朝」説が通ると思っているところがトンデモ論者のすごいところ >>134
隋書琉球国伝において、捕虜になった琉球人の服装について倭国の使者に尋ねる場面がある。
そして倭国の使者がそれは屋久島のだと答えてるんだよ。
畿内からの使者が本当に屋久島の事を把握していたのかという疑問。
この頃も九州人が朝貢していたのではないかという話もある。 邪馬台国はヤマトだと、中国人が認めてるんだが。
隋書倭国伝より。
俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王
夷人不知里數但計以日
其國境東西五月行南北三月行各至於海
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
東西五月、南北三月、つまり、西日本全域を治める国の都を邪靡堆と言い、
魏志倭人伝の邪馬臺のことだと言ってる。
そして、帶方郡から一萬二千里の距離であると認識している。
中国人がこのように、邪馬台国を大和国だと認識してる以上、九州説は根本的に成り立たない。 九州王朝さんは、九州が中国と通じてたというなら、
隋書倭国伝の内容を確認して「邪馬台国=ヤマト」に対して、すぐに抗議し修正できたはずだ。
後の時代でもな。
九州王朝さんは、言ってることが支離滅裂なんだよ。 歴史学考古学でメシ食ってるひとたちは
畿内説となえてないと食いっぱぐれるからなあ
メシ食うために果てしなく虚構を構築し続ける >>139
>歴史学考古学でメシ食ってるひとたちは
>畿内説となえてないと食いっぱぐれるからなあ
九州説の人はすぐこれを言い出すけれど、研究者って偏屈な人も多いし、
基本独立独歩で、可能性があるなら穴狙いで通説の逆を唱える人も一定数出るのが普通
でも、九州説を唱える現役の研究者は事実上一人もいない
どうしてだろうね 北朝鮮政府当局者:委員長同志に異議を唱える者は事実上一人もいない
ある畿内説主義者:九州説を唱える現役の研究者は事実上一人もいない >>140
>九州説を唱える現役の研究者は事実上一人もいない
このひとことが出る時点で日本の歴史学&考古学は壊滅しているんだよ
廃墟の中でひとりよがりの勝利宣言して何が楽しいのかね? 歴史を多数決で決めてきたのが従来の日本 其の挙句が皇国史観での原爆2発 >>143
>このひとことが出る時点で日本の歴史学&考古学は壊滅しているんだよ
>廃墟の中でひとりよがりの勝利宣言して何が楽しいのかね?
九州説の人は、本当に現実が見えないんだなw
「法律という強制力があっても犯罪はなくならない」のに
「畿内説を支持しろという強制力もないのに九州説を唱える研究者はいない」
これが現状 倭国大乱。この時代には大規模な環濠集落が形成され軍事的な緊張があったと考えられる。
紀元前3世紀から紀元後3世紀まで継続した吉野ヶ里遺跡は環濠集落の遺跡の代表である。
仲哀天皇は199年(仲哀8年)に奴国(九州)を訪問し熊襲討伐にて日向国(後の蘇我勢力)を平定
その後三韓征伐へと乗り出す (梁職貢図)
九州はないな 仲哀天皇云々の日本書紀与太話では 真実には近づけない どうしたもんか 膏肓かな 天皇は讃珍済興武までは遡れる
そして武は第21代雄略ですな
とすれば倭の五王は虚構であるところの第20代武烈を除いて
第16代から讃珍済興武に至ることができる
そこまでは欠史に等しい 面白い論文だわ。
邪馬台国なんてどうでもよいんだが、秦=徐福集団部族=沖縄=旧大和が結びつく手がかりが、また増えたわ。
倭人は海南島文化とにている?
file:///C:/Users/%E5%B7%9D%E6%9D%91/Downloads/ACS39_09Hasunuma.pdf
魏志の著者は陳寿は沖縄・奄美航路を倭国と勘違いしていた。
会稽の海外に、東鯷人あり。分かれて二十余国を為す。
鯷壑の東、鯷人は海中の洲、鼇波に居る。倶に海にあり。
「鼇波」という鯷人の根拠地が朝鮮半島の南端部
鯷人沖縄・奄美の貿易者達=徐福ら冒険家=秦の東征の部族=扶桑国
卑弥呼は伊都国の王女
陳寿は南に向かったという記録に欺かれて、邪馬台国は南方に位置する国であるという幻を
見てしまったが中国では東=南
陳寿は邪馬台国の女王が壹與であることを知悉していたと推定
晋の武帝に使節を派遣した倭女王は卑弥呼ではなくて次の女王である壹與。
邪馬台国は幻。 >>145
これまでずっと新聞読んでなかったの?
米は2種の原爆による人体実験をやりたいばっかりに、日本からの攻撃を傍受で事前に知ってたのに、反撃の口実にするためにそのままやらせた 島根は歴史が古いよな
約10万年前の遺跡が発見されてるし >>149
そいつら、たぶん天皇家と関係ないんとちゃうやろか。 『新羅本記』に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」と記されており、日本から朝鮮半島へ1千余人が渡ったとされる
2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落
瀬戸内海周辺で2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっている
同時期にあったとされる倭国大乱
瀬戸内海が中心であった可能性が高い
3世紀に邪馬台国と魏の間で外交使節の行き来があり、国書の交換があった 第20代武烈まで欠史、か
第26代継体からか、天皇家は 九州 倭国の五王は半島での高句麗との戦いに明け暮れていた 勿論 鉄の安定供給の為 >>146
ムラ社会の不文律は法律などよりはるかに強力な強制力を持つ
おまえがいちばん分かっているのではないか?w 【速報】朝日新聞社を罵倒した『日本国紀』、よりにもよってその朝日から無断転載
http://rondan.net/6323 教科書から畿内説が消えない理由
明治以降の洗脳
天皇制に寄生する人物の多い事 所のような俗物
真実から目を背け安住できる場所がある
総体的に知性に乏しいこと 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 今年の紅白歌合戦で決めたらどうだ
白が勝てば奈良で赤が勝てば九州だ 資料1】
=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
邪馬一国時代のすずり5個出土
交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
邪馬一国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、
柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、
まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。
弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、
「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、
古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。
5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。
長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10.4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0.5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4.4〜5.4センチ。
3個には朱を使った跡があるという。
西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。
柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している >>167
白:奈良、赤:九州の必然性が分からないから、
来年のJ2リーグのアビスパ福岡・V・ファーレン長崎・大分トリニータ・徳島ヴォルティスの直接対決と、
JFLの奈良クラブ・ヴェルスパ大分・テゲバジャーロ宮崎の直接対決で決めよう。
J2とJFLの違いは大分トリニータ=ヴェルスパ大分と考えて
勝ち点が何%上回ってたとかで決めればよい。 >>133
「倭と書いてちくし 」なんて
強引過ぎるw >>162
>教科書から畿内説が消えない理由
それが現時点で最も妥当だと考えられるからだよ
まあ、学説は一つの発見でがらっと変わることもあるからがんばれ
例えば記紀神話で出雲が重要視されていたのは単なる伝説だと思われていたのが
加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡の発見で、実際に弥生時代に栄えた国があったことが立証されたりしてるし 文献資料で残ってた出雲大社の巨大神殿の話でも誇大と思われてたが事実だったしね。 >>162
九州説が教科書から消えるから、それでいいのでは? 教科書は1度にまとめて変わるのではなく、少しずつ数年かけて変わっていく
聖徳太子から厩戸王(聖徳太子)への変更も1回で行われたのではなく、段階的に変わっていった
かつては、聖徳太子が超人的な活躍をしたかのような記述だったが、
現在は推古天皇と蘇我馬子と強調して政治を行ったような記述になってる
有名な肖像画ももう載せてない
邪馬台国の記述も同じようなことになると思うけどな
畿内説か九州説かで、教科書が中立の立場を崩した1回目だから、まだ控えめな表現に留まってるが、
今後は改訂のたびに、畿内説寄りの表現を強めていくと思うわ >>175
>巨大神殿、復元する予定とかあったりするんかな?
池上曽根遺跡は巨大神殿、復元して「いずみの高殿」って名前まで付けてる
結局、所在地自治体の財力次第なんだよな
安土町にお金がないから安土城は再建されないけれど、
名古屋市は本丸御殿に続いて名古屋城天守閣も木造で再建することにしたよ >>181
11mか。結構高いな。
高さ約48mと言われる出雲の木造神殿を見てみたいが、
作っても大きな地震あったら倒れてしまうんやろな。
何十年に一度近くを通過する超大型台風とかでも倒れるかもしれんしな。 >>178
チョセン、チョセンとパカにするなアルカニダ >>154
そんな朝鮮の12世紀のウリナラ歴史小説を根拠にするのは頭が可笑しいわ そろそろ本気で邪馬台国とか卑弥呼とかいう
日本を蔑む表記をやめさせたほうがよい。
邪悪の邪。卑しいの卑。いずれも大陸から日本を蔑視した表記である。
ヤマト国。そして、日の皇子(日出処の天子)である。 >>184
遺跡発掘
2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落
瀬戸内海周辺で2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっている
同時期にあったとされる倭国大乱
瀬戸内海が中心であった可能性が高い
倭人伝
3世紀に邪馬台国と魏の間で外交使節の行き来があり、国書の交換があった 既存の情報だけで仮説立てるから矛盾だらけになる、当時の日本列島に現在は名も残ってないような大国がまだ複数個あってもおかしくないはず。 >>185
そもそもその考えを根本から改めた方がいい、邪馬台国がヤマト王権の基板とは限らないしまったくの別系統という可能性すらある。 >>187
>当時の日本列島に現在は名も残ってないような大国がまだ複数個あってもおかしくないはず。
「はず」を言い出したら、何でもありにしかならないから、確認できる情報を基礎として
考えていくしかない
それに、昔も今も住みやすいところは変わらず平野部だし、開発時に遺跡が出たら
報告が義務付けられているから、「まだ見ぬ大遺跡」というのは可能性としてはかなり低い
みやま市周辺には大遺跡はないよ 畿内説の人の論理円展開の仕方は強引すぎる。
なら江戸時代に福岡で発見された金印についてドー言う見解なの?
論法が朝鮮人的で相撲もソメイヨシノも全て朝鮮半島が起源、、、と言うのと同じじゃね? >>190
ホンマそれ。
仮定に基づいた希望的観測による推測を述べた後に、それが考古学的事実ですとか言うとるw
何の事実かわらんやんw >>191
>畿内説の人の論理円展開の仕方は強引すぎる。
どこが?
具体的に指摘してくださいな
>なら江戸時代に福岡で発見された金印についてドー言う見解なの?
漢委奴國王の印だろ?
本物の、後漢書にも記録のある西暦57年の光武帝への朝貢のときのものだよ
卑弥呼の遣使の約200年前
紀元前から2世紀初頭までは、北部九州が大陸との交流の中心だった
それが倭国乱を経て、3世紀の卑弥呼の遣使の頃にはすっかり倭国内での
相対的地位が下がっていて、従属的な役割しか担えなくなっている
何も問題ないよ
そして北部九州の代表的な国が、伊都国であり、奴国である以上、
北部九州に邪馬台国七万戸が入る余地はない >>191
>仮定に基づいた希望的観測による推測を述べた後に、それが考古学的事実ですとか言うとるw
順序が逆
畿内様式土器が列島の広い範囲で共通に作られるようになって、同じ範囲で共通規格の
前方後円墳を作るようになる
これが考古学的事実であり、この秩序の中心が畿内にあることは間違いない
この時期の編年が3世紀前半から、となれば、魏志倭人伝に書かれた倭国の中心も
畿内ということになる
この部分が推定
考古学的事実が先で、そこから推定してるんだよ >>192
僕は、古墳こそある時期に始まった開拓時に
作られる物だったんじゃないかと思ってるから、
畿内にある数多くの巨大古墳は古墳時代の始まりにおいて
それだけ未開の地があったことを意味するんじゃないかと思われるので、
その頃はまだ九州北部の方が国力が高かったと思うんだけどな。 >>190
金印は黒田藩の殿様か家老が贋作を命じて捏造したという説がある。 >>195
ID:KpujqOKwは自分で全く気付かない頭おかしい奴やから何言うても無駄やで。 纏向遺跡は桃の種の年代が合致しただけ。
文献に記述された邪馬台国と考え得るような出土品も無く、大規模な住居跡も無い宗教施設。
出土した土器類からすると、九州や大陸と交易していた形跡も無い。
福岡で発掘された硯のように、文書をやり取りしていた痕跡も無い。
箸墓古墳はそもそも内部調査をしたこともなく、文献に記述されている
殉葬者100名を伴う様子も無く、前例も無い。
畿内説はまず、話になるものを発掘しろよ。
話はそれからだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています