【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★12
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
>テュルク語のキルギス地方では西へトルコ人、東へ日本人になった
しかし古代テュルク語母音 y ø などは
古代関西語の上代特殊仮名遣いに若干の影響を与えたかもしれないが
東日本方言への影響は少なく
現代日本語に影響を残すこと無く日本語に同化してしまった 纒向遺跡しかない
九州説の頭の中は昭和で止まってる
倭国は九州内でのみ割拠していたという古い考え >>102
その纒向遺跡が邪馬台国の様子と異なるんだが、何故無理なこじつけを繰り返すんだろ? ヤマトの王権が飛躍するのは帯方郡の消滅後のような気がする。
環対馬海峡貿易圏から帯方郡が脱落して、対高句麗において畿内のウェイトが上がったんじゃね? >>104
倭人伝を参照しての話だが?
纒向で警備が厳重な様子が見られるか?
お前には見えるのか?
病院池。 ジンムが開いた奈良ですが 東鯷国の真ん中でさぞ心ぼそかったでしょう
故に自分達は九州倭国の分流であると主張しました
倭国からの応援の証しとして 若倭 わかちくし 大倭 おおちくし のような称号を
倭国の王から貰い縁としました
大倭が後に大和となり700年以降やまと と読まれるようになりました >>106
纒向で不十分なのは、城柵が強固であると言えないことと楼観が見つかってないことくらいだよな
その辺は発掘が進まないと何とも言えない
だが、現時点で邪馬台国の都の可能性がある唯一の遺跡であることは確か
九州説の人が吉野ヶ里の環濠集落がピッタリだと自慢してるが、あれは間違い
宮室楼観城柵は合うが、人と会わず、1000人の従者が仕えてる記述に不一致
吉野ヶ里のような環濠集落では、首長層の建物があるスペースが狭すぎて、どうやっても不可能
可能性はゼロ 其俗殺人強盗及姦皆死 盗者計贓酬物 無財者没身為奴 自餘軽重或流或杖 毎訊究獄訟 不承引者以木壓膝或張強弓以絃鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者卽手爛或置蛇瓮中取之云曲者卽螫手矣 人頗恬靜罕爭訟少盗賊
磐井が創った古代律令制度は後年タリシホコの時隋書に現れる >>108
個人的に纒向は、神社の原型じゃないかと感じる。
人が住む場所ではなくてね。 日本にしか存在しないD2系統の遺伝子(縄文系)
日本本土52%、北海道88%
言語を見ても遺伝子を見ても、渡来人は日本人として吸収されてしまったというべきな D系統の遺伝子は男のみ
よって男の渡来人が縄文女と結婚すれば失われる .
神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 神社の社殿は倭をつくった天孫降臨族が南方系故仏教伝来より以前に現在の様式が成立した
半島よりの渡来人は大利木型穴居式住宅
支配層は高床式住居 欠史8代って天皇家だけど
蘇我氏の場合も欠史5代
なぜ天皇家と蘇我氏が
欠史を共有するのか? 初代神武の妻が
半島系の鉱山関係者であったことはその名前からも理解できる
だって「たたらいずず」だもの
「たたら」は精錬技術で
「いすず」は伊勢神宮の「五十鈴川」の「いすず」 >>108
吉野ヶ里に楼閣があるが
あれは奈良県田原本町の唐子鍵遺跡からのパクリ。
柱の穴が発掘されても上部構造はどんなものか分らないからな。
ttp://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=31
>2-1建物等調査
>個々の建物を復元するために、全国の縄文〜古墳時代の遺跡で見つかった建物遺構や
>当時の人々が残した絵などの資料の調査、当時の建築技術に関する調査や建築のための
>道具の調査、さらに建築以外の関連する施設などの調査を行いました。
そこで唐子鍵遺跡から出土した土器の
楼閣の線刻画の画像を提供してもらってアレンジした捏造www
このことは唐子・鍵ミュージアムの学藝員にも確認済み >>117
半島には高床式建築がなかったんだから。
高床式建築は南方系。
マレーシア、インドネシアなど東南アジア、ミクロネシア、ポリネシアに広く分布 倭国大乱。この時代には大規模な環濠集落が形成され軍事的な緊張があったと考えられる。
紀元前3世紀から紀元後3世紀まで継続した吉野ヶ里遺跡は環濠集落の遺跡の代表である。
仲哀天皇は199年(仲哀8年)に奴国(九州)を訪問し熊襲討伐にて日向国(後の蘇我勢力)を平定
その後三韓征伐へと乗り出す (梁職貢図) 2,イ妥王“阿毎多利思北孤あまたりひほこ”今に甦る
次に、イ妥国王“阿毎多利思北孤”とその家族、そして政治状況について、『隋書』「イ妥国伝」の主要部分を論述する。2 (語尾の丸数字は筆者、インターネット上は(1).など表示)
開皇二十年(600)、イ妥王、姓は阿毎あま、字あざなは多利思北孤たりしほこ、阿輩あはいの鶏弥きみと号す。 (1).
王の妻、鶏弥きみと号す。後宮に女六・七百人有り。太子を名づけて利と為す。歌弥多弗かみたふの利なり (2).
内官に十二等有り(詳細は後述)。(3).
大業三年(607)、其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」、と。其の国書に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙つつが無しや云云」と (4).
帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書無礼なる者有り、復また以て聞ぶんする勿なかれ」と。明年、文林郎裴清ぶんりんろうはいせいを遣わしてイ妥王に使せしむ (5).
とあり、これらを語尾の数字に従い解説する。
(1).「開皇二十年」の記事について論証すると、
「イ妥たい」は「大倭たいゐ」の卑字。「姓は阿毎あま」は、「天あま・あめ」であり「天照大神あまてらすおおみかみの天」、神話に頻出している「天の何がしの命」で、天族(海人族・あまぞく)の天である。
通説論者は、天皇家には「姓」がないため、そこから多利思北孤を姓のある蘇我馬子に比定したりするのである。字あざなは多利思北孤たりしほこ、通説の「北」は「比」の誤りとして、
大和王家に数多く見られる名前「帯彦たらしひこ」に合わせて“多利思比孤たりしひこ”と原文改定している。「阿輩鶏弥」は、」「吾が君」の意。
(2).「王の妻、鶏弥きみと号す」 ーーイ妥王には鶏弥と言う妻がいると記している。多利思北孤は「男帝」であり、時の大和の大王おおきみは女性の推古天皇である。
使節(裴世清)が王に会って、女性を男性に見間違えるはずはないので、そこで中国に対して女帝では失礼だから、聖徳太子を大王に仕立てたとか、或いは、聖徳太子は初めから大王であったとか、
または蘇我馬子が大王だったとしてしまうのである。
「太子を名付けて利となす。歌弥多弗かみたふの利なり。」
「歌弥多弗」は「上塔かみたふ」であり、博多の字地名(旧、九州大学の地帯)にある「上塔かみとう」「下塔しもとう」と関連する在所名と考えられ、「利」は中国風一字名称と思われる。
いずれにしても、王の名「多利思北孤」、王后の名「鶏弥」(君か)、皇太子の名「歌弥多弗の利」など、大和関連の史書には、一切現れない名前である。つまり、
それは大和には全く関係のない人物であったことを意味している。 倭国と奈良を同一視する誤認が多いようだ
倭国は九州で700年迄続いた政権
奈良は其の後の政権
700年以降奈良が外交を始めた >>125
九州倭国は7世紀初旬までで7世紀半ばから機内日本国じゃないの?
転機は600年代だよ。 自らを竹斯という チクシ 国名が倭 読みは 倭と書いてちくし
奈良を大和というが いつからやまとと呼ぶようになったのか信者なら解答できるはず
紀元前からかね 白村江の敗戦が662年 此処が転機であなたのいうとおり
きりよく700年とした
710年がなんとでもある 隋書にあるのかどうだったか。
天、大王、太陽の序列が天照大神を始祖と仰ぐ系統にそぐわない気はする。 >>100
>「倭国に阿蘇あり」
倭国に、であって、邪馬台国に、とは書いてないよな?
まあ、原文はいきなり「有阿蘇山」とあるだけだから、「倭国に」とも書いてないんだが
阿蘇山のある九州も倭国の中央政権、大和朝廷の豪族のいる地域だから、
畿内説で何も問題にもならない >>107
>東鯷国の真ん中で
東鯷国には、台湾を当てるのが多数説だと思ったが? >>114
>神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
いわゆる春秋年(二倍年暦)なら、夫の死後3年目で出産でおかしくないんだよ
ヒトの妊娠期間は285日だから
仲哀崩御 1年目
二年目 (半年)182日間
3年目出産
でおかしくない >>127
>自らを竹斯という チクシ 国名が倭 読みは 倭と書いてちくし
「倭と書いてちくし 」
この捏造をいい加減に止めれって言うのにww
「倭と書いてちくし 」と読む例は、古今東西一例もない 「7世紀まで存続の九州王朝」説が通ると思っているところがトンデモ論者のすごいところ >>134
隋書琉球国伝において、捕虜になった琉球人の服装について倭国の使者に尋ねる場面がある。
そして倭国の使者がそれは屋久島のだと答えてるんだよ。
畿内からの使者が本当に屋久島の事を把握していたのかという疑問。
この頃も九州人が朝貢していたのではないかという話もある。 邪馬台国はヤマトだと、中国人が認めてるんだが。
隋書倭国伝より。
俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王
夷人不知里數但計以日
其國境東西五月行南北三月行各至於海
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
東西五月、南北三月、つまり、西日本全域を治める国の都を邪靡堆と言い、
魏志倭人伝の邪馬臺のことだと言ってる。
そして、帶方郡から一萬二千里の距離であると認識している。
中国人がこのように、邪馬台国を大和国だと認識してる以上、九州説は根本的に成り立たない。 九州王朝さんは、九州が中国と通じてたというなら、
隋書倭国伝の内容を確認して「邪馬台国=ヤマト」に対して、すぐに抗議し修正できたはずだ。
後の時代でもな。
九州王朝さんは、言ってることが支離滅裂なんだよ。 歴史学考古学でメシ食ってるひとたちは
畿内説となえてないと食いっぱぐれるからなあ
メシ食うために果てしなく虚構を構築し続ける >>139
>歴史学考古学でメシ食ってるひとたちは
>畿内説となえてないと食いっぱぐれるからなあ
九州説の人はすぐこれを言い出すけれど、研究者って偏屈な人も多いし、
基本独立独歩で、可能性があるなら穴狙いで通説の逆を唱える人も一定数出るのが普通
でも、九州説を唱える現役の研究者は事実上一人もいない
どうしてだろうね 北朝鮮政府当局者:委員長同志に異議を唱える者は事実上一人もいない
ある畿内説主義者:九州説を唱える現役の研究者は事実上一人もいない >>140
>九州説を唱える現役の研究者は事実上一人もいない
このひとことが出る時点で日本の歴史学&考古学は壊滅しているんだよ
廃墟の中でひとりよがりの勝利宣言して何が楽しいのかね? 歴史を多数決で決めてきたのが従来の日本 其の挙句が皇国史観での原爆2発 >>143
>このひとことが出る時点で日本の歴史学&考古学は壊滅しているんだよ
>廃墟の中でひとりよがりの勝利宣言して何が楽しいのかね?
九州説の人は、本当に現実が見えないんだなw
「法律という強制力があっても犯罪はなくならない」のに
「畿内説を支持しろという強制力もないのに九州説を唱える研究者はいない」
これが現状 倭国大乱。この時代には大規模な環濠集落が形成され軍事的な緊張があったと考えられる。
紀元前3世紀から紀元後3世紀まで継続した吉野ヶ里遺跡は環濠集落の遺跡の代表である。
仲哀天皇は199年(仲哀8年)に奴国(九州)を訪問し熊襲討伐にて日向国(後の蘇我勢力)を平定
その後三韓征伐へと乗り出す (梁職貢図)
九州はないな 仲哀天皇云々の日本書紀与太話では 真実には近づけない どうしたもんか 膏肓かな 天皇は讃珍済興武までは遡れる
そして武は第21代雄略ですな
とすれば倭の五王は虚構であるところの第20代武烈を除いて
第16代から讃珍済興武に至ることができる
そこまでは欠史に等しい 面白い論文だわ。
邪馬台国なんてどうでもよいんだが、秦=徐福集団部族=沖縄=旧大和が結びつく手がかりが、また増えたわ。
倭人は海南島文化とにている?
file:///C:/Users/%E5%B7%9D%E6%9D%91/Downloads/ACS39_09Hasunuma.pdf
魏志の著者は陳寿は沖縄・奄美航路を倭国と勘違いしていた。
会稽の海外に、東鯷人あり。分かれて二十余国を為す。
鯷壑の東、鯷人は海中の洲、鼇波に居る。倶に海にあり。
「鼇波」という鯷人の根拠地が朝鮮半島の南端部
鯷人沖縄・奄美の貿易者達=徐福ら冒険家=秦の東征の部族=扶桑国
卑弥呼は伊都国の王女
陳寿は南に向かったという記録に欺かれて、邪馬台国は南方に位置する国であるという幻を
見てしまったが中国では東=南
陳寿は邪馬台国の女王が壹與であることを知悉していたと推定
晋の武帝に使節を派遣した倭女王は卑弥呼ではなくて次の女王である壹與。
邪馬台国は幻。 >>145
これまでずっと新聞読んでなかったの?
米は2種の原爆による人体実験をやりたいばっかりに、日本からの攻撃を傍受で事前に知ってたのに、反撃の口実にするためにそのままやらせた 島根は歴史が古いよな
約10万年前の遺跡が発見されてるし >>149
そいつら、たぶん天皇家と関係ないんとちゃうやろか。 『新羅本記』に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」と記されており、日本から朝鮮半島へ1千余人が渡ったとされる
2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落
瀬戸内海周辺で2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっている
同時期にあったとされる倭国大乱
瀬戸内海が中心であった可能性が高い
3世紀に邪馬台国と魏の間で外交使節の行き来があり、国書の交換があった 第20代武烈まで欠史、か
第26代継体からか、天皇家は 九州 倭国の五王は半島での高句麗との戦いに明け暮れていた 勿論 鉄の安定供給の為 >>146
ムラ社会の不文律は法律などよりはるかに強力な強制力を持つ
おまえがいちばん分かっているのではないか?w 【速報】朝日新聞社を罵倒した『日本国紀』、よりにもよってその朝日から無断転載
http://rondan.net/6323 教科書から畿内説が消えない理由
明治以降の洗脳
天皇制に寄生する人物の多い事 所のような俗物
真実から目を背け安住できる場所がある
総体的に知性に乏しいこと 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 今年の紅白歌合戦で決めたらどうだ
白が勝てば奈良で赤が勝てば九州だ 資料1】
=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
邪馬一国時代のすずり5個出土
交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
邪馬一国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、
柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、
まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。
弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、
「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、
古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。
5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。
長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10.4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0.5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4.4〜5.4センチ。
3個には朱を使った跡があるという。
西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。
柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している >>167
白:奈良、赤:九州の必然性が分からないから、
来年のJ2リーグのアビスパ福岡・V・ファーレン長崎・大分トリニータ・徳島ヴォルティスの直接対決と、
JFLの奈良クラブ・ヴェルスパ大分・テゲバジャーロ宮崎の直接対決で決めよう。
J2とJFLの違いは大分トリニータ=ヴェルスパ大分と考えて
勝ち点が何%上回ってたとかで決めればよい。 >>133
「倭と書いてちくし 」なんて
強引過ぎるw >>162
>教科書から畿内説が消えない理由
それが現時点で最も妥当だと考えられるからだよ
まあ、学説は一つの発見でがらっと変わることもあるからがんばれ
例えば記紀神話で出雲が重要視されていたのは単なる伝説だと思われていたのが
加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡の発見で、実際に弥生時代に栄えた国があったことが立証されたりしてるし 文献資料で残ってた出雲大社の巨大神殿の話でも誇大と思われてたが事実だったしね。 >>162
九州説が教科書から消えるから、それでいいのでは? 教科書は1度にまとめて変わるのではなく、少しずつ数年かけて変わっていく
聖徳太子から厩戸王(聖徳太子)への変更も1回で行われたのではなく、段階的に変わっていった
かつては、聖徳太子が超人的な活躍をしたかのような記述だったが、
現在は推古天皇と蘇我馬子と強調して政治を行ったような記述になってる
有名な肖像画ももう載せてない
邪馬台国の記述も同じようなことになると思うけどな
畿内説か九州説かで、教科書が中立の立場を崩した1回目だから、まだ控えめな表現に留まってるが、
今後は改訂のたびに、畿内説寄りの表現を強めていくと思うわ >>175
>巨大神殿、復元する予定とかあったりするんかな?
池上曽根遺跡は巨大神殿、復元して「いずみの高殿」って名前まで付けてる
結局、所在地自治体の財力次第なんだよな
安土町にお金がないから安土城は再建されないけれど、
名古屋市は本丸御殿に続いて名古屋城天守閣も木造で再建することにしたよ >>181
11mか。結構高いな。
高さ約48mと言われる出雲の木造神殿を見てみたいが、
作っても大きな地震あったら倒れてしまうんやろな。
何十年に一度近くを通過する超大型台風とかでも倒れるかもしれんしな。 >>178
チョセン、チョセンとパカにするなアルカニダ >>154
そんな朝鮮の12世紀のウリナラ歴史小説を根拠にするのは頭が可笑しいわ そろそろ本気で邪馬台国とか卑弥呼とかいう
日本を蔑む表記をやめさせたほうがよい。
邪悪の邪。卑しいの卑。いずれも大陸から日本を蔑視した表記である。
ヤマト国。そして、日の皇子(日出処の天子)である。 >>184
遺跡発掘
2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落
瀬戸内海周辺で2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっている
同時期にあったとされる倭国大乱
瀬戸内海が中心であった可能性が高い
倭人伝
3世紀に邪馬台国と魏の間で外交使節の行き来があり、国書の交換があった 既存の情報だけで仮説立てるから矛盾だらけになる、当時の日本列島に現在は名も残ってないような大国がまだ複数個あってもおかしくないはず。 >>185
そもそもその考えを根本から改めた方がいい、邪馬台国がヤマト王権の基板とは限らないしまったくの別系統という可能性すらある。 >>187
>当時の日本列島に現在は名も残ってないような大国がまだ複数個あってもおかしくないはず。
「はず」を言い出したら、何でもありにしかならないから、確認できる情報を基礎として
考えていくしかない
それに、昔も今も住みやすいところは変わらず平野部だし、開発時に遺跡が出たら
報告が義務付けられているから、「まだ見ぬ大遺跡」というのは可能性としてはかなり低い
みやま市周辺には大遺跡はないよ 畿内説の人の論理円展開の仕方は強引すぎる。
なら江戸時代に福岡で発見された金印についてドー言う見解なの?
論法が朝鮮人的で相撲もソメイヨシノも全て朝鮮半島が起源、、、と言うのと同じじゃね? >>190
ホンマそれ。
仮定に基づいた希望的観測による推測を述べた後に、それが考古学的事実ですとか言うとるw
何の事実かわらんやんw >>191
>畿内説の人の論理円展開の仕方は強引すぎる。
どこが?
具体的に指摘してくださいな
>なら江戸時代に福岡で発見された金印についてドー言う見解なの?
漢委奴國王の印だろ?
本物の、後漢書にも記録のある西暦57年の光武帝への朝貢のときのものだよ
卑弥呼の遣使の約200年前
紀元前から2世紀初頭までは、北部九州が大陸との交流の中心だった
それが倭国乱を経て、3世紀の卑弥呼の遣使の頃にはすっかり倭国内での
相対的地位が下がっていて、従属的な役割しか担えなくなっている
何も問題ないよ
そして北部九州の代表的な国が、伊都国であり、奴国である以上、
北部九州に邪馬台国七万戸が入る余地はない >>191
>仮定に基づいた希望的観測による推測を述べた後に、それが考古学的事実ですとか言うとるw
順序が逆
畿内様式土器が列島の広い範囲で共通に作られるようになって、同じ範囲で共通規格の
前方後円墳を作るようになる
これが考古学的事実であり、この秩序の中心が畿内にあることは間違いない
この時期の編年が3世紀前半から、となれば、魏志倭人伝に書かれた倭国の中心も
畿内ということになる
この部分が推定
考古学的事実が先で、そこから推定してるんだよ >>192
僕は、古墳こそある時期に始まった開拓時に
作られる物だったんじゃないかと思ってるから、
畿内にある数多くの巨大古墳は古墳時代の始まりにおいて
それだけ未開の地があったことを意味するんじゃないかと思われるので、
その頃はまだ九州北部の方が国力が高かったと思うんだけどな。 >>190
金印は黒田藩の殿様か家老が贋作を命じて捏造したという説がある。 >>195
ID:KpujqOKwは自分で全く気付かない頭おかしい奴やから何言うても無駄やで。 纏向遺跡は桃の種の年代が合致しただけ。
文献に記述された邪馬台国と考え得るような出土品も無く、大規模な住居跡も無い宗教施設。
出土した土器類からすると、九州や大陸と交易していた形跡も無い。
福岡で発掘された硯のように、文書をやり取りしていた痕跡も無い。
箸墓古墳はそもそも内部調査をしたこともなく、文献に記述されている
殉葬者100名を伴う様子も無く、前例も無い。
畿内説はまず、話になるものを発掘しろよ。
話はそれからだろ? >>201
それも一つの手やな。
古代出雲歴史博物館にでも誰か進言しといて。 >>203 の続き
設備的にはこんな感じかな。
>>200
おまえ、ここまで嘘を並べて何をしたいんだ?
嘘を書き続ければ否定できるとでも思ってるのか? >>205
ずいぶんと横暴な言いがかりだな。
>>200に関する学者の見解を説明してみろよ。
「鉄が出ない→鉄は錆びて溶けました」
なんて子供の言い訳みたいなのは無しでよろしく。 本当に、九州説カルトのインチキでたらめの訂正を入れていくのは大変なんだよ >>207
そんなに画力を褒めてもらって、照れるな。
ついでに、いくつかのスレに書かれてたこと読んで考えた
古墳時代前期の今のところの持論についても描いとく。
これだけ、纏向調査して
まともな証拠が出ないんじゃ
むしろ、「纏向は違うよな」って話になるよな >>211
お前の固執ポイントが畿内説とズレとんのが笑えるわ。
たまには人間社会と接しなアカンで。 スレタイに「最有力!」って書いてあって
根拠が桃の種じゃ、大抵の国民は
「なんじゃ、そりゃ!?」としか思わんだろ?
いや、畿内説の人間ですら
内心、そう思ってるからこそ、必死こいて
「最有力!」を押し通そうとしてるような状況であらめ?
誰もが納得できるほどの証拠だったなら
こんながんばんなくていいはずだ 好太王碑
由来朝貢
而倭以辛卯年
来渡海
破百残新羅
以為臣民
倭国の武王のとき半島へ攻め込み新羅と百済を臣民とした と高句麗の金石文 漢は金印を倭国にのみ授けた
半島にはやっていない
東夷の代表として九州倭国へ授けたこと
当然半島も倭国の支配するところ 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した 崇神天皇のときに殉葬が初めて行われ、次の垂仁天皇のときに廃止された
箸墓が百襲姫の墓なら殉葬はされている
ただし、その殉葬は結構エグい
宮内庁としては箸墓は特に発掘を許さないと思う >>177
君の知性が普通になることを祈念する 頑張れ >>214の考える、>>211の固執ポイントってどこなんだい?
具体的に指摘してくれよw 九州説は、文句を言うにしても「具体的な指摘」をせずに
ごまかして逃げるから、議論が進まない >>225
初めて来たような顔すんなや。
バレバレじゃどアホ。 魏志倭人伝で邪馬台国の位置が特定できる情報は基本的には4つしかない
・帯方郡からの行程
・7万戸
・卑弥呼の墓
・邪馬台という地名
この中で一番まぎれが少ないのが卑弥呼の墓
約150mの古墳で殉葬100人
殉葬は発掘しないとわからないため、約150mの古墳があるところが候補の最低条件
さぁ、みんな探せ >>223 >>225
関連学会を牛耳り
自称査読によって九州説を徹底的に排除し続けるという
学者研究者にあるまじき下劣な態度でのぞんできたにもかかわらず
なぜそれほどまでに焦りマル出しなのか興味深い
総力をあげて無視してその存在自体を抹殺しようとしていた九州王朝説が
色々いわれつつもベストセラーとなった日本国記において言及されてしまい
その存在が周知されてしまったことが効いてる効いてるwなのだろうか!? いや〜俺は九州説信者ってワケではないから。
只、畿内(関西)から卑弥呼や邪馬台国と同じ時代の遺跡が発掘される度「畿内で決まり!」と
ばかり宣う畿内説の主張が理解できないだけ。
もちろん畿内の可能性もあると思うけど現段階で断定するには未だ早すぎるんじゃないの? >>229
そうそう畿内の可能性も無いではないが
畿内説論者が支離滅裂な事を言うから
だんだん九州寄りになってくる >>200
吉野ヶ里も楼観、望楼が出土してないのに
唐古鍵出土の土器の絵をパクって復元してるwww 太宰府が倭国の首都の機能を発揮しだしたのはヒミカ以降です
其の後700年まで続きます
その間コウゴイシで有名な太宰府を取り巻く防衛の為の城が造られました
太宰府の首都機能の証明はトトクフ跡の都府楼です
又 正倉院の倍近くある蔵もありました 礎石が証明しています
タリシホコの像も持ち去られ法隆寺に現存します >>227
九州北部の古墳状況は良く知らないが、魏の役人が直接確認しなかったため、
倭人が歩を歩幅と勘違いしてたとか、周りの長さを伝えたのに径だと誤解したとか、
いろいろ考えられるので、これで畿内説の方角間違えたのとイーブンと言ったとこだろう。
そして、7万戸も候補をかなり絞れる情報だと思う。
これを可能にできる平野があるのは、おそらく九州、畿内、中京だと思えるが、
畿内は以後の古墳出現からまだ未開の地が多くそこまで達してたとは思えず、
中京もそこまで開拓が進んでたとは思えない。
消去法的に残るのが九州かな。 出雲大社って高すぎると思っていましたが
国分寺跡にしても高さは40m前後はあったらしくて
柱も40センチくらいで
であれば
出雲大社の高さもあり得ると思いました 畿内は大人しく魏史ではなく記紀の検証をやったらよろしい
その方が結果的に成果が大きいはず >>236
吸収派はまだ出土してない楼観、楼閣を発掘しなさい。
楼観、楼閣のない弥生遺跡は邪馬臺國じゃないからw そうやって予断を以て断定してしまうところが畿内説のダメなところだ。
論理に飛躍があるんだよ。
それがドー卑弥呼や邪馬台国と結び付くと言うのか?
現状ではプレヤマト王権の痕跡でしかないだろうに。 根底が仮定なうえ、希望的観測で論文を発表出来てしまう畿内説なんて異常だよな。 >>240
>論理に飛躍があるんだよ。
何度も説明されてるのに、おまえが理解してないだけだよ
そもそも畿内説を認めたくないのが本心なんだろうがな
一つ一つ理詰めで追い詰められてしまうと、最後は、ヤマト政権なんか認めない、
前方後円墳なんか認めない、と平気で開き直ってたやつだろ?
トンデモ野郎が一人で喚いてるだけ 狗邪韓国
↓海を1000余里
対馬国 1000余戸
↓海を1000余里
一大国 3000
↓海を1000余里
末廬国 4000余戸
↓東南に陸行500里
伊都国 1000余戸←世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所
↓ 東南に100里
奴国 2万余戸←大きい
↓東へ100里
不弥国 1000余
↓南へ水行20日
投馬国 5万戸余←大きい
↓南に水行10日と陸行1月
女王の都のある邪馬台国 7万戸
このまま読み取ると伊都国以降の方位と距離、位置がどうもしっくり来ない
既に天体観測は行われ天文図が存在した時代、方位に大きな誤差があるとは考えずらい
しかし正確に測量した地図は存在しない
当時の日本列島の認識を示した地図
http://inoues.net/mystery/kokusi_zu2.jpg
日本列島は東北方面へ伸びておらず
朝鮮半島から南へ伸びている
つまり不弥国より南へ水行20日という事は投馬国は出雲
更にそこから南に水行10日という事は丹後半島辺り、陸行1月で奈良周辺へ
と考えると辻褄が合う 九州説にも畿内説にも論理の飛躍はあるだろう。
纏向がヤマト王権に連続するのは認められるが、
そこが邪馬台国であると結論づけるのは、なお証拠が足らないと思う。
宮内庁の陵墓の指定がどうなんでしょうと思う程度には纏向=邪馬台国は不確定な気がするが。 他の歴史的事項なら邪馬台国は大和(異説あり)って言い切る段階だと思うけどな
この問題はむしろ論争がメインみたいなところがあるから慎重になってる
九州説を主張してる方がみんなご高齢だし、そのままそっとしてれば自然と九州説もなくなる
そんな意図があるんじゃないかな まぁ畿内、九州の地を幾ら掘り返したところで決定打となるものは出て来ないよ。
もし、そんなもんが出て来るとしたら中国からだ。
今は魏志倭人伝の記述だけだから揉める原因にもなっている。
然るべき(由緒正しい)所から卑弥呼や邪馬台国に関する新たな竹簡でも出てくれば特定されるかもねw >>245
>九州説を主張してる方がみんなご高齢だし、そのままそっとしてれば自然と九州説もなくなる
それ言っちゃダメw >>243
東北地方まで書き込まれてるとこを見ると、
平安時代以後の日本の知識で書かれてると思われるので、
当時の日本列島の認識とは思えないかな。 >>246
要するに、天皇家には関りの無いことだったから伝承されなかったとみるべきだと思うけどな。 捏造の記録を正当化するため過去の史書は燃やしたんだよ 10年タダ飯食ってきた考古学者ってもはや生活保護不正受給者でしかない。
「2009年に奈良の纏向遺跡で大型の建物跡が発見されたことから畿内説がやや優位に立ったとも言われているが、決定的な考古学上の“証拠”はいまだ見つかっていないのだ。」 >「2009年に奈良の纏向遺跡で大型の建物跡が発見されたことから畿内説がやや優位に立ったとも言われているが、決定的な考古学上の“証拠”はいまだ見つかっていないのだ。」
この大型の建物が、宮殿か神殿と言いきれれば、纏向=邪馬台国はずっと現実味を増すけど、そう言い切れないのが泣き所じゃね。 ネイチャー・サイエンスに邪馬台国か卑弥呼を主題にした論文を一等はじめに掲載した説を推すわ ◆何故淑人は「太良」にいたのか
なぜ「多良(太良)」なのか。先生は次のように述べる。【白村江の戦いに沢山の軍船が九州に集まり出港していったはず。博多湾では敵国の眼があり軍事上無理だ。有明海・佐世保湾・大村湾・伊万里湾であろう。
郭務悰は九州王朝の軍事拠点を制圧するために有明海に来たのではないか】と。しかし
有明海は国内第一の干満差のある水域として知られている。大型軍船が自由に動き回れる水域ではない。この袋小路的な海域を拠点にしたら、被占領地の反乱分子によって、場合によっては殲滅される危険性があるのに、何故?
これらの謎について、海域の特性については、国土交通省のこの水域の海底地形図によって、太良町の竹崎港の付近が有明海北部で唯一の自然良港ということが理解できた。近くに、竹崎城(行基開設伝説もある)復元施設もあった。
また、駐留軍の司令官郭務悰がこの袋小路的なところに駐留できたのか、当時の東アジア情勢と唐軍の百済統治政策を調べてみて、理解することができた。
弥生時代以前の小型の船ならばともかく、7世紀の4,50人も乗れるような大型船では、吃水1メートル程度を確保できる接岸施設の確保は難しかった、と思われる。近代になって、
明治41年完成の三池炭鉱の石炭積出港として三池港ドックができるまでは、有明海北部沿岸には大型船舶が直接接岸できる港は、太良町の竹崎港以外はなかったのだ。
以上の事柄、干潟になる海域・古代諸施設など関係個所を地図に表わしてみた。 郭務悰を知らない人へ
白村江で負けた九州和国へ戦後進駐してきた唐の軍人 都合4回来ました >>226
ずっといるけど、ずっと議論にならないんだよ
九州説は罵倒の言葉ばかりで、議論のための「具体論」がない
具体的な議論になると、瞬殺されるからってのは分かってるけどさw >>228
九州説の認識では、そういうことになってるんだw
>関連学会を牛耳り
牛耳るも何も、九州説が一人もいないんだが?
偉い人が畿内説なんじゃなくて、上から下まで全部畿内説だよ
>自称査読によって九州説を徹底的に排除し続けるという
自称も何も、査読というのはピアレビューだよ
学会という内輪での信用だけで成り立つものだ
そして、排除するしないの前に、九州説の論文を書く人がいない
>学者研究者にあるまじき下劣な態度でのぞんできたにもかかわらず
下劣なのは、こういう邪推を根拠なく垂れ流す側だろ?
誰も訴えたりはしないだろうが、名誉毀損の構成要件は満たしてるぞ
>なぜそれほどまでに焦りマル出しなのか興味深い
誰も焦っていないよ
嘘デタラメは、できるだけその場で訂正しようとしているだけ
一見さんがだまされたらもうしわけないからねw >>232
>ヒミカ以降です
「ヒミカ」表記は古田史学の特徴ww >>233
>魏の役人が直接確認しなかったため、
>倭人が歩を歩幅と勘違いしてたとか、周りの長さを伝えたのに径だと誤解したとか、
記録が漢字で残されているし、それを記録したのが魏の役人なのだから、歩の定義が
違うというのは想定外だろ
倭人に歩や里の定義を伝えた様子は、魏志倭人伝にはないし、隋書の時点で
夷人不知里數但計以日と書かれているのを見ても、里も歩も倭人には
伝わっていないとする方が妥当 >>233
>畿内は以後の古墳出現からまだ未開の地が多くそこまで達してたとは思えず、
>中京もそこまで開拓が進んでたとは思えない。
この部分、理由が「思えない」だけでは意味がないな
大古墳が作れる時点で、それだけの労働力を動員できるだけの生産力があったことが明確
最も大きな人口集積を想定できるのが畿内だよ >>240
>現状ではプレヤマト王権の痕跡でしかないだろうに。
そのプレヤマト王権=邪馬台国じゃないと、タイムスケールに合わないんだよ
卑弥呼の時代・弥生終末期と古墳時代は一続きで間に断絶はない
というより、古墳時代草創期という概念では完全に卑弥呼の時代と重なってしまう >>250
>捏造の記録を正当化するため過去の史書は燃やしたんだよ
>>240にこんなことが書かれているよ
「そうやって予断を以て断定してしまうところが畿内説のダメなところだ。 」
ダメなのは、九州説の方だったみたいだね
「捏造の記録」 ←予断
「過去の史書は燃やした」←予断
どちらも一切根拠なしじゃないかw 邪馬台国が北九州〜東海を勢力圏に持つ奈良を首都とするヤマト国のことだということが認められると
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命ということが成立して
崇神天皇以前の天皇の実在性が明らかになるから
頑なに認めようとしないんだね
それは同時に崇神天皇が初代だという俗説をも屠り
神武天皇まで芋蔓式に存在が立証される契機となる
倭迹迹日百襲姫命の弟が吉備に派遣された彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)だから
桃が巻向から出土してるんだよね >>264
>タイムスケールに合わない
これは異なことを仰る。
それは「天皇は万世一系」を前提にしてる世界観なの?
違うよ。
倭の各地で都市が出現し群雄割拠していた時代だよ。
或いは三世紀、その最大の都市は畿内に有ったかもしれない、、、
だからと言ってソレが邪馬台国とは限らないと言ってるんだよ。
邪馬台国が九州や四国、中国、千葉、、、に有ったとしても全く問題がない。
邪馬台国とは関係なく畿内でヤマト王権が成立するのは可能だろう。 >>262
魏の役人が直接確認せず、倭人からの聴取した情報が記録されたって話。
”里も歩も倭人には 伝わっていない”からこそ、そういった齟齬が起きる可能性を言ってる。 九州は田舎だから発掘できるけど奈良の国宝や大阪はそうはいかないもんな >>268
実際に見て驚いたから報告したんだよ
小さな墓ならわざわざ報告しないし、倭人から大きい墓ですと聞いてもそのまま信用しない
径100歩という具体的な数字もでない >>263
僕は、現時点では開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説を採用しており、
大雑把に言えば>>212 >>216 のような考えを持ってる。
よって、魏志倭人伝の卑弥呼の時代大和は開拓に忙しく戦争などやってる余裕は無く、
魏とのやり取りは九州北部勢力の話とした方が自然。
学者ではない自分が持つ情報の範囲内で最もしっくりくるストーリーなだけなので、
断定的な表現を避け、「思えない」といった表現を用いる必要があると思ってる。 >>270
行って直接計測したという証拠がない限り、そうでない可能性は否定できない。
それは、畿内説の方角を間違えた可能性を完全に否定できないのと一緒。 >>265
君の信じる日本書紀を読めば 一書に曰と数十回も記載されている
是が倭国の日本旧記です >>273
可能性は否定できないけどさ
方角に関しては
・方角と日数の通りに行くと海の上になる。方角か日数のどちらかが間違ってる
・方角の間違いは他でもある
・陳寿が女王国を会稽東冶の東にあると考えていた
という根拠があるんだよ
個人的には方角と日数だったら日数を間違える可能性は少ないと思うけど
それは意見が分かれるところ
畿内説が方角を間違いとしているから、九州説に都合の悪いところはすべて間違い
とするのはおかしいと思わないかい >>275
方角については東→南とする以外は30度〜45度程度の間違いで、
いろいろ理由は考えやすいが、畿内説には無理がある。
日数については、伊都国放射説採用。
会稽から東に向かって漕ぎ続ければ海流の影響で対馬辺りに着く可能性が高いだろう。
呉の地域に会稽の東に倭国があるといった情報があったんじゃないかと推測してる。
南に水行20日とあるので魏の役人が倭国南端を東治の辺りと推測したと考えてる。 桃が出た!
→邪馬台国は畿内で確定!
ゴッドハンドかよw
日本の学者って狂人ばっかなの? www >>220
>カンノイ【ト】コクオウ
委奴の「奴」を「ト」と読むのは唐代後半の長安語の発音=音読みである。
唐代前半は「奴」を「ドndo」と発音していた。
万葉集の中で「奴」は「ぬ」を表わす。
3693番の和歌 「夜杼里【奴】流 やどり【ぬ】る 宿り【ぬ】る」の【ぬ】
3691番 遣新羅使,挽歌,雪宅麻呂の和歌「月日毛伎倍【奴】ー月日も来経【ぬ】」
己呂毛弖【奴】礼弖 ころもで【ぬ】れて=衣手【濡】れて
日本では8世紀末に遣唐使が「唐の役人と会話するには長安語音でないと通じない」
と言い始め、5世紀〜8世紀まで漢字は呉音読みが主流だったが呉音で読むべきか
漢音で読むべきかという大論争が起きて収集がつかなくなった。
そこで延暦11年(792年)閏11月、遂に桓武天皇が裁定し、勅令を渙発した。
(原文)勅。明経之徒、不可習吳音。発声誦読、既致訛謬。熟習漢音。
(訓読)勅す。明経(めいけい)の徒(と)、呉音ごおんを習(ならふ)可(べ)からず。
発声(はっせい)・誦読(しようどく)、既に訛謬(かびゆう)を致(いた)せり。
漢音(かんおん)を熟習(じゅくしふ)せよ。
しかし仏教の僧侶は依然として民衆に普及した呉音を使い続けた。 今のところ畿内説に根拠なし
by wiki
[箸墓古墳]
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」
と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫
は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。
[纏向遺跡]
世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで
生産された搬入土器で占められるものの、九州北部からの土器は少ない。
祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達しするが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。
このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。
2013年になって、邪馬台国の時期の3世紀に建造されたとされる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。
建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられる。
一方で、奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、
また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は
北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で
大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な
半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている >>276
>方角については東→南とする以外は30度〜45度程度の間違いで
末盧国から伊都国は90度近くズレている
>会稽から東に向かって漕ぎ続ければ海流の影響で対馬辺りに着く可能性が高いだろう。
当時は沿岸航行の時代であり、東シナ海横断は無理
しかも、船の上だと飲まず食わずということになり、人間は数日で死ぬ 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 >>272
最初は円墳だったが前方後円墳が流行して前方後円墳に
デザインが変更された。
吉野ケ里も楼観、望楼が出土したという証拠が無いのに
望楼がが有った「はず」ニダと復元建築されている
朝鮮クォリティwww 北部九州の弥生遺跡の多さや密度考えたら九州説やね
糸島半島だけで30くらいあるのには驚いた
畿内は未開地に大きめの遺跡がボツボツあるけど
九州は面で広がってる >>268
>魏の役人が直接確認せず、倭人からの聴取した情報が記録されたって話。
ここに無理がある
建忠校尉の梯儁は、封泥で封印された皇帝詔書と親魏倭王の金印を携えて、
卑弥呼を倭王とするために出向いた除正使なんだから、倭女王の都、邪馬台国まで行ってるよ
そしてそこまでの道里戸数は略載されてる
これを、魏使は確認していないというのはただの強弁
途中で日数になるのは、水行時の距離を測定する手段がないため >>271
>僕は、現時点では開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説を採用しており、
では、その説は棄てましょう
渋谷向山古墳や行燈山古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳を見れば分かるように、
初期の大古墳は「盛土量が少なくて済むように」山の尾根を切り取って整形することで
大墳丘を作っている
それにそんな山の尾根を開拓する必要はどこにもないだろ
ということで、大古墳を作り始めた時点では、開拓残土という説は成り立たない >>272
>径100歩は25mです 直径25mの円墳
「歩」という漢字は、成り立ちからして「複歩」(今で言う2歩)を示す文字
複歩で25センチってのはどうやっても無理だよ >>274
>君の信じる日本書紀を読めば 一書に曰と数十回も記載されている
>是が倭国の日本旧記です
日本書紀に一書曰で引用できるなら、燃やされてないじゃん?ww
自己矛盾、お疲れ様w >>276
>日数については、伊都国放射説採用。
オールドタイマーの人だね
中国人でも放射読みをする人はいないよ >>284
>最初は円墳だったが前方後円墳が流行して前方後円墳に
>デザインが変更された。
最初の地割の時点で前方後円形の土地が確保されてるから、デザイン変更説は採れない
箸墓古墳に先行する纏向石塚古墳で既に前方後円形になっているしね
ただ、築造の手順としては、後円部を作って埋葬主体を構築して、
それから前方部の盛土という流れだから、後円部が墓だと認識された可能性はある 日本人に生まれた幸運
https://www.youtube.com/watch?v=tqJfmMKyW-4
知能と技術が”圧倒的に世界一の日本”※一般人が、あの人達を超えました※ >>285
>北部九州の弥生遺跡の多さや密度考えたら九州説やね
これ、奈良文化財研究所の、遺跡データベースだろ?
これは、報告している自治体ごとに基準が異なるから、単純な数では比べられないんだよ
例えば、福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
でも、遺跡の数としては、汐井掛遺跡という共同墓地一件だろ?
奈良の唐子鍵遺跡が一件として登録されているのに対し、
糸島の三雲遺跡群は合計二十四件の登録がある
でもそれは、糸島に唐古鍵クラスの遺跡が24倍あることを意味しない
実は、九州の3世紀の遺跡は、邪馬台国ではないことが確定している末盧国、伊都国、奴国を
除くと、ほとんど何もないんだよ
奴国を上回る規模の国を想定できる遺跡はどこにもない
九州説は考古学的には考えることすらできないもの、ということになる >>294
そして該当しそうな遺跡も出土品も何一つ無いのが畿内な。
現時点、確率で言えば九州説が50%で畿内説が0%だ。 >>288
>「歩」という漢字は、成り立ちからして「複歩」(今で言う2歩)を示す文字
これは殷墟から出土した甲骨文字の研究から解ったことで
周王朝の初期まで使われてたらしい(by wiki)が
その後は中国史から消えてしまい、説文解字の著者の許慎も知らなかったこと。
説文解字によると「行也。从止相背。行く事なり。(篆書体の「歩」の字形を踏まえて)相(あ)い背(そむ)く」コト
歴史に再登場したのは1899年、だ。
つまり魏晋南北朝〜隋唐〜宋、明、清朝末期まで誰も甲骨文字を知らなかった。
甲骨文字の発見と研究は天動説から地動説に転換したのと同じ位のインパクトがあった。
陳寿や「魏略」の著者も「複歩」説を知らなかったので「複歩」説は成立しない。
「複歩」説は時代考証錯誤の一種だ。 < < < 東 日 本 大 虐 殺 > > >
2008年 12808万人 + 5万 △
2009年 12803万人 − 5万 ▼
2010年 12806万人 + 3万 △
2011年 12780万人 −26万 ▼▼▼ ▼▼▼▼▼▼
2012年 12752万人 −28万 ▼▼▼ ▼▼▼▼▼▼
2013年 12730万人 −22万 ▼▼▼ ▼▼▼▼
2014年 12709万人 −21万 ▼▼▼ ▼▼▼▼
https://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/a618afaa0113f2a33fbc495f48a2b8c4
移民政策の本当の本音は、原発事故が原因による人口減少を隠して、
「原発事故では被害がなかった」と正当化するための統計的整合性を確保したいのだと私は考えている。
東海アマブログentry-376.html
【アマルガム】 有毒廃棄物として処理される水銀を、口の中ならOK、と歯に詰めた歯科医を逮捕すべき
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1544495072/l50 いやいや奈良の文化財研究所が出してる資料ではなく
伊都国歴史博物館が出している普通の本というかパンフレットみたいな感じ
糸島の全体に弥生遺跡が満遍なく散らばってる、海側から山側まで東西にも地図が示す範囲全体に
こんなの見るとあの辺り全体が弥生時代の都市とも思えてくる >>282
末廬国4000余戸に対し、東松浦半島周辺はそれほど平野には恵まれてない。
これから、漁業で栄えてた国と推測される。
九州北岸から壱岐に渡ろうとしたとき東松浦半島の先端から行くのが最も楽だろうから、
朝鮮南部との交易の拠点としても栄えてたはずであり、
東松浦半島の先端に末廬国の中心的港町があったと考えるのは自然だと思うし、
ここから糸島半島平野部は東より若干南向きで、誤差は45度未満になる。
会稽→九州北岸は非常に難しい船旅ではあるが、
100年に数回行って帰って来た者があれば、知識として残るには十分だろう。 >>286
アンカ遡って話の流れ確認した後、>>273 読んどいて。 >>287
山から掘りだした土をも基本開拓・工事関係に使われたと思われるので一緒。 >>260
その長文自体がくやしさ全開であることを如実に示している
正直でたいへんよろしい この期に及んでいまだに偽書記紀信奉の無惨な畿内派がわめいているとはどういうことだ
焚書不比等の偽書記紀を信奉している時点で研究者としても教育者としても終了しているというのに
そのことにすら気づかないというのはここ数日の寒さで脳みそが凍ってしまったのだろうか? >>304
偽書であろうと真説であろうと
文献無しで土器や古墳の編年は難しい。
吉野ケ里も楼観の痕跡すら出土してないのに
信奉する魏志倭人伝に合わせて楼観をゴッドハンドした。
考古学の限界を露呈してるw >>296
>陳寿や「魏略」の著者も「複歩」説を知らなかったので「複歩」説は成立しない。
>「複歩」説は時代考証錯誤の一種だ。
あんまり笑わせないでくれるかな
説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。
「𣥂」というのが「止」の反字(裏返しの字)で、これがそれぞれ足跡を示すので
説文解字も、複歩だという説明そのものだぞ
少し古い字体だと「歨」http://www.zdic.net/z/1c/js/6B68.htm
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)
これを複歩ではないというやつは、インチキと断じてよい >>301
>山から掘りだした土をも基本開拓・工事関係に使われたと思われるので一緒。
おいおい、
最初は「開拓した時に出た残土を摘んで古墳を作った」説を採用って言ってたじゃないか
開拓⇒残土が出る⇒盛土⇒古墳 という因果だ
「山を掘り出した土」⇒「開拓に使う」というのは
「古墳を山の尾根を切り出して作る」⇒「山を掘り出した土」⇒「開拓に使う」という順序になるので
話の流れが完全に真逆になる
詭弁としても通らないよ >>302
それ、単に「現代日本語」で「思いつき」を書いただけじゃないかww
史書の旅程記事を放射読みで読む理由がない
放射読みの場合は地理紹介記事では普通にあるが、その場合は「方角と距離」が基本で
移動を示す語句(水行、渡海、陸行、泝流など)は付かない >>303
>その長文自体がくやしさ全開であることを如実に示している
長文てw
各項目は2行、3行しか書いてないのにw
九州説の人の読解力の限界はそのあたりにあるんだねw
そして、反論なしの情緒的な言い返しだけしかできない、とwwwww 奴国を上回る規模の国はどこにもないと
邪馬台国連合の最大の国は奴国でいいのかな
畿内纒向は奴国を超える規模の国じゃないと畿内説的にはいけないのではないか? >>304
「偽書記紀」って書くのが大好きな人は、九州説なの? >>298
https://youtu.be/49Vo9D04VE4
ここが天孫降臨の地です ニニギの墓はここから東方へクシフル岳を越えたヨシタケタカギにあります >>310
いや偽書記紀原理主義の畿内派と議論するだけ無駄だろ
原理主義とはそういうものだ
わかりましたか? だいたい名指しもしていないのに>>304に思わずレスしてしまった
>>305 >>312のしょくんは図らずもみずから
わたくしこそは焚書不比等の偽書記紀の信奉者でございます、おそれいりやしたと
自白してしまったようなものだ
他人に噛みつく前にまずチミたちがやるべきことは
パブロフのイヌ的な反応をしてしまったみずからの不覚を呪い、猛省を誓うことである >>308
溝・池等を掘れば残土が出るし、提等を作るには土が必要。
同じ場所で両方を同じだけ作る場合はいいが、
どちらかだけを作る場合は古墳が形成されることになる。 >>309
住処までの旅程を記した後、住処からの各地の場所を記すのは自然だと思う。
魏の役人が残り1300里を水行1月、陸行1月で行くのに、
1日20里強で妥当だと考えたとも思えないし。 >>317
1日20里強というのは、ものすごく妥当
むしろ水行30日と陸行30日から1300里を出した可能性まである >>318
魏において1日20里強の旅程が一般的だったならば畿内説が真であり、
そうじゃない場合は畿内説が偽であるということだね。 >>319
20から25里のように幅はあったとは思うけど妥当な数字
ただ、それだけで畿内説を真というのは早くない?
いや俺は畿内説だからいいんだけどさ >>320
真であるかどうかはどうでもいいが、ここでは1日40〜50里が
一般的だと認識されてたなら畿内説が偽であることを認めるかどうかが本題だ。 >>321
なんや納得してなかったんか
一般的という言い方が分からんけど、軍の行軍が1日30里だから妥当
だから畿内説が真でいいね >>322
まずは >>321 を認めるかどうかに質問に答えてよ。
認めるなら畿内説が偽であることと、君が畿内説派でないか、
中身を知らないかを証明して見せるから。 >>324
日数から里数を出した可能性はないとなるだけで
実際20里強が妥当なんだから、君がどんな資料出しても意味ないよ
だから認めないよ で、俺が納得できる資料がなければ畿内説を真を認めるってことでいい? >>325
逃げるんかよ。
ほんで、早く気づけよ。
20里強はおそらく伊都国放射説を否定する九州説派の言い分で、
伊都国放射説を採用する九州説派と畿内説派の共通の敵だよ。
理解した後、>>300 を読んで、結局同じことを繰り返してることを悟りなさい。 >>326
君が畿内説派だというなら、資料を提供するのは君だよ。
畿内説の中身を否定すると言ってるんだから。 >>321
横レス失礼
中国での1日の移動距離は30里あるいは50里だよ
それと畿内説が成り立つ、成り立たないは関係ない >>320
最後の行は、畿内説の中身を確認してから発言して。
その上の行の信頼性まで失わせることが目的なんかもしれないけど。 アンカ間違えた
>>329
最後の行は、畿内説の中身を確認してから発言して。
その上の行の信頼性まで失わせることが目的なんかもしれないけど。 結局、この件については僕は伊都国放射説を採用する九州説が優位にあると思ってるけど、
どの三説のどれにも一長一短があり、>>233 に書かれてるイーブンに帰結する。 >>332
畿内説が不弥国から邪馬台国へどういった旅程で行ったと思ってるの?
一度検証してみたら。 >>327
何説がどうとか関係ない
1日20里強が妥当という話。整備された街道ならともかく、当時の日本を進むのに妥当だろという話
土佐日記によると1日6km程度、魏晋里で言えば15里ほど
伊都国放射説だとまずいのか?そんなことないだろ(推測)
伊都国放射説以外の九州説は短里前提だし、20里強ということで
何説が有利になるとは思えないから
>>それだけで畿内説を真というのは早くない?
と書いたんだよ。だから逆もそうで、違ったからといって偽でもない
とはいえ俺は20里強が妥当だと思ってるけどね >>335
まず、不弥国から邪馬台国へ水行20日、水行10日、陸行1月の
起点-終点をどこと仮定し何里づつだったと想定してるのかを答えてくれる? >>336
そんなことより、街道でもない整備されてないところを一般的に40から50里ってのを
早く出してよ
出せなかったら認めるって言ったよね >>337
他人の書いてる文をよく読めよ。
結局「>>233 に書かれてるイーブンに帰結する。」と主張してるんだから。
実際が20里くらいだろうが40里くらいだろうが結論は変わらん。
そもそも、一般的に40から50里ってのは伊都国放射説を否定する九州説を
否定するための材料であり、畿内説の武器としてるところだろ。 >>338 の続き
20里くらいという話なら、
伊都国放射説を採用しない九州説がこの件においては優位に立つことは認めるけど。 >>315
あなたのことはこれから「偽書記紀」君と呼ぶことにするよ
で、「偽書記紀」君は、九州説なの? >>316
だから、そんなもの関係なしで、作られている初期大古墳がたくさんあるんだけど?ってこと
>>271の「現時点では開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説」は、成立しません
その説は、放棄しましょう
自分の間違いが認められるかどうかで、知的水準が分かるよ >>299
>漁業で栄えてた国と推測される
>朝鮮南部との交易の拠点としても栄えてたはずであり
>東松浦半島の先端に末廬国の中心的港町があった
末盧国を東松浦半島の先端に持ってきたいために作った根拠のない妄想
しかも東松浦半島の先端にはほとんど遺跡もなく、4000戸を想定することは全く不可能
末盧国は遺跡や出土品、平野面積から唐津であることはほぼ確定
あとは遺跡レベルでの特定が必要だが
末盧国から伊都国への方角は、90度近くズレているのが結論
>100年に数回行って帰って来た者があれば、知識として残るには十分だろう
これも根拠のない妄想
伊都国放射説は、水行陸行で合計60日が九州では無理だから文献を曲解してるだけ
著者である陳寿の立場で考えたとき、読み方を突然変えて、読者を混乱させる動機がない >>333
>僕は伊都国放射説を採用する九州説が優位にあると思ってるけど、
伊都国放射説は、もう採る人がほぼいない否定された説だと思っていたけれど、
まだ信じている人がいるんだw
それ、九州にするために無理やり考え出された無理読みだよ
「(現在地)移動方向、移動方法、距離、到達地点」がセットで書かれているのは
順次式で読めばよい
そして、到達地点が次の旅程の出発点(現在地)になる >>341
>>287 のは2つしか確認しなかったけど、じゃあ、その初期大古墳を列挙してよ。
そして関係ない理由もちゃんと説明して。
それから、残りの確認に入るよ。 >>342
根拠は書いた通りで、一応遺跡があるってことだし、
もちろん唐津の平野を含めて末廬国だったと思ってる。
魏の役人は伊都国への道中で唐津の平野に一泊して様子を観察しただろうな。 >>349
東松浦半島先端部は入り江が多く港には最適に見えし、壱岐に近い地理的優位もある。
横浜や神戸が糞田舎だというなら、そういう人にとっては妄想としか思えんのだろうけど。 >>350
そもそも唐津にある遺跡を無視して、漁業で4000戸を支えてたというのが妄想なんだよ
証拠も出さずにひたすら妄想が史実だの妄想が根拠だとゴリ押ししてるだけ >>351
唐津にある平野だけじゃ、4000戸を養う農作物の生産は難しそうでしょ。
当時どれだけの平野部分があったんだか。
4000戸を疑問視するか、漁業で補ってたかどちらかになる。
魏志倭人伝に書かれてることを信じるなら、漁業中心と考えるのが自然。 >>352 への追加
漁業と貿易の拠点としての収入中心やな。 >>352
宇木汲田遺跡、桜馬場遺跡、中原遺跡、千々賀遺跡などいっぱいあるでしょ
東松浦半島の先端にはほとんど遺跡もない
そんな国の端っこを起点にするのは方角を正しいと言い張りたいためのこじつけ
4000戸の根拠となる遺跡、漁業で4000戸を支えていた根拠、貿易で稼いでいた証拠を出せばいい
何も出せないなら、妄想をごり押ししてるだけのこと >>354
遺跡じゃ人は食えんよ。
当時の平野部が50km^2くらいあったのなら、認めるが。 1000〜2000戸くらいは養える農産物を作ってたかもしれないが、
実際住んでたのはその半分くらいとかで、
残りの米で遺跡で出土するようなものと交換してたと考えるのが妥当だろう。 >>355
遺跡があるということは人が住んでいたということ
結局、東松浦半島の先端が末盧国の中心であった証拠は出せないんだな
所詮こじつけのための根拠のない妄想ということだ
末盧国から伊都国への方角は90度近くズレているというのが結論
いくらゴネても証拠を出せなかったおまえの負け
議論終了 >>357
魏志倭人伝の記録が真実かでたらめかの議論で、
「最終的に >>233 に書かれてるイーブンに帰結する。」という話。 なんとなくわかってきたが、
畿内説って魏志倭人伝の都合のいいとかだけしか議論せず、
後は妄想だの遺跡がどうたらでごまかそうとするんやな。
詳しくはないが、畿内説は魏志倭人伝の記録をすべて保証する遺跡あんのか? >>358
方角と距離(日数)がイーブン
邪馬台国7万戸を含む邪馬台国連合で15万戸は九州説前提では不可能
百余歩の墓、邪馬台国の都の候補は九州説では見つかってない >>360
残り1300里を不弥国〜邪馬台国までの行程にどのように振り分けるのかを説明してから、
方角と距離(日数)がイーブン と言ってもらえる。 >>361
魏志倭人伝に1300里だとは書かれていない
文献の改竄は不可
水行二十日、水行十日陸行一月と書かれている >>360
筑紫平野には7万戸余裕で養える平野あるし、
熊本平野だって問題ないだろう。
他産業で補えば7万戸行けそうな平野は他にもたくさんある。
当然、2万戸、5万戸程度なら候補地は多々ある。 >>362
「自郡至女王國、萬二千餘里(帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である)」
と書かれており、不弥国までの距離を引けば1300里になるのは小学生でもわかる。 >>360
むしろ、投馬国の5万戸を養えそうな平野が畿内説の行程にないぞ。 エベンキの国から棄民で北海道に白丁移民で来た、リカチョン
歴史無しの三界に家なし >>363
北部九州と中九州で15万戸だと?
記載のない旁国も含めたら20万戸や25万戸になるだろう
100万人相当の人口になる
九州では逆立ちしても不可能 >>365
投馬国は吉備あるいは出雲
具体的には特殊器台の分布域、あるいは四隅突出型の分布域 >>367
九州平野部の農作物だけではどんなに見積もっても
せいぜい50万戸くらいが限界だろうが、
20万戸や25万戸くらいなら妥当といっとこだろう。 >>369
農作物だけで養うとしたら末廬国といい勝負だろう。
山陰と瀬戸内の平野全部足せば5万戸養えるくらいにはなるんだろうけど。 >>370
九州では不可能
近代以前の日本の人口統計というWikipediaを確認してみな イメージだけで九州説を主張してる人は多いが
畿内説と九州説でイーブンなのは方角と日数のみ
それ以外の点では圧倒的に畿内説が有利なんだよ >>372
仮に500万人で一戸10人なら50万戸、
その半分が九州に住んでたなら25万戸、特に問題は見えんけど。
一戸当たりの人数は10人より少ないと思ってるけど。
九州説の僕としては魏志倭人伝の卑弥呼の時代は九州が中心で、
その頃から7世紀まで人口がほとんど変わってないと思ってるし。 >>375
弥生末期は日本の総人口の半分が九州に住んでたとか、妄想がどんどん酷くなってるなw
しかも学者が遺跡ベースで推定した数値を無視か
九州説は妄想を前提にしなければ成り立たないということだよ >>376
遺跡で全戸数・人口どうやって測るんよ?
日本全域を掘り返して確認したんか?
話次第では、なんか日本の考古学者のレベルが怪しくなってきたかも。 >>376
6,7世紀辺りなら、7,8割が九州・畿内に住んでたと思ってるだけだけどな。
九州25万戸にこだわる必要もないし、Wikiが参照したデータが正しいわけでもなく、
魏志倭人伝に出てくる戸数がすべて九州でカバーしてたとしても
何の不思議もないという話だけどな。 >>373
で伝統の「黥面文身」はイツ頃止めたの? >>344
初期の大王墓と考えられるのが
箸墓古墳、西殿塚古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、渋谷向山古墳、行燈山古墳、の6つ
箸墓古墳まで(纏向石塚古墳から箸墓古墳までの纏向古墳群)では、弥生時代の伝統通りに
集落と同じ空間に大墳丘墓を作っていたけれど、箸墓古墳でこれは大変だ、となって、
それ以降の西殿塚古墳から行燈山古墳までは山が盆地に接するところの尾根を切り取って
墳丘に仕立てているんだよ
箸墓古墳、西殿塚古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、渋谷向山古墳、行燈山古墳の立地や
どんな古墳なのかも知らずに、邪馬台国論争に参加してるってところにちょっと驚きを禁じえない
それで、「開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説」を信じてたら嗤われるだけだよ
さっさと間違いを認めましょうw >>383
学者としては無能、社会にも馴染めない考古学者がバカの壁に張り付いてるだけ。 >>383
それ以外の古墳は開拓・工事のために作られたということでいいのか? >>383
まず箸墓古墳をグーグルマップで確認したが、周りには田畑が多く、
500m離れたところを大和川が流れてる。
当時古墳の半径数キロメートル以内がすべて集落で田畑がなかったとか、
大和川が5km以上離れてたとかそういった証拠提出してから、
”「開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説」を信じてたら嗤われるだけだよ
さっさと間違いを認めましょうw”と言ってくれる?
以後、同レベルのレスだったら無視するから。 >>384
誰が考古学者だ?ww
この程度の知識で考古学者に見えるってのはやばいぞww >>385
>それ以外の古墳は開拓・工事のために作られたということでいいのか?
おーい!
大倭古墳群、柳本古墳群をググってから言ってくれ >>386
>当時古墳の半径数キロメートル以内がすべて集落で田畑がなかったとか、
>大和川が5km以上離れてたとかそういった証拠提出してから、
あなたは、「当時(の)古墳」という言葉で何を意味しようとしているんだい?
どれのこと?
まあ、「メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、渋谷向山古墳、行燈山古墳」の4古墳の名前を並べられて
二つしか調べなかったって言う程度だから、何も知らずに適当に聞きかじりを書いてるだけなんだろうけれど >>348
日本列島で最初の年号は磐井天皇から 勿論先進国 九州の倭国です >>392
その人、魏志倭人伝の卑弥呼より古い時代の人なの? >>389
は?
バカの壁というのは邪馬台国研究の事だぞ?
学者が専門的に取り組む対象じゃないだろ? 倭国の人物
ヒミカ
五王
イワイ
タリシホコ
サチヤマ
このような人たちがいました
歴史に現れるのは周へのチョウソウ 金印あたりからですが 既に半島は支配下にありました 元々同じ民族だったけど、海面の上昇で海で分かたれた後もそれなりの交流が続き、
両方に華南人が同様に入ってきたため、同じ倭人として交流が続いてたってだけだと思うけど。 1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する 哀れな日本と偉大な韓国は、兄弟の国、運命共同体ニダ!
弟の日本は、兄の韓国からの指導が絶対に必要ニダ!
日本は韓国なしでは成り立たない哀れな国ニダ!
困っている日本を偉大な兄の韓国さまが助けてやるニダ!
日本の円と偉大な韓国のウォンを交換してやるニダ!
今すぐ通貨スワップを結んでやるから急ぐニダ!
安倍首相が韓国に来て土下座をすれば許してやるニダ!
兄の韓国のお慈悲を、弟の日本は有り難く受けるニダ! なお東松浦半島北端にある呼子には律令制下においても登望駅が置かれ大陸との交通の拠点になっていたが
ここには支石墓から支石甕棺、甕棺墓、箱式石棺を経て配石墓に至る
推定前8-7世紀から2-4世紀の連続した遺跡が残されており
抜歯を伴う縄文形質の人骨が出土した点でかつては話題になった。
末盧国の先端は有史以前からだよ
もう末盧国の無知はやめてくれないか
何も知らないのに唐津平野だけで適当に言うのはやめてくれ >>399
呼子からでも、伊都国は東南陸行五百里にならないんだが?
魏志倭人伝の方角が間違っていないというためだけに、無理押しを続けるのは止めなよ
墓が一つ二つあったくらいで国って言われてもw >>399
必死になって集めてきた根拠がそれだけwww
唐津平野を上回るものを出さんと話にならんだろ 呼子からーとかそんなのどうでもいいよ
何説かしらんが
末盧国の事何も知らないのに何を語りたいんだw >>340
ご丁寧にもカギカッコつけて抽象名詞化しているあたり
偽書記紀という言葉を使われるのが不愉快で悔しくて仕方がないのだろうw
つまり自らが偽書記紀信者であることを告白しているのと同じことだw
ならば今後も偽書記紀という単語を使ってやろうじゃないか
感謝したまえw お、「偽書記紀」君、来たね!
今日はどんなトンデモを書き散らしてくれるのかな?
古い歴史書のある国がうらやましいんだろうね!
がんばれ!
こっちも、腹筋を鍛えてがんばるよ!ww 日本書紀は奈良政権の肯定と倭国歴史の簒奪を目的として造られました
最初 古事記が造られましたが 倭国臭が強く採用されず没 平安時代に偶然発見されるまで 日の目を見ることはありませんでした >>405
>倭国歴史の簒奪を目的として造られました
何度も指摘してるんだが、これがかなり間抜けな想定
日本書紀は、大陸王朝に示すために作られた史書
そして、大陸王朝は「易姓革命」で自らを正当化する思想の上に成り立っている
歴史を簒奪するまでもなく、徳を失ったから滅んだといえば済む、というか、
新たに天命を受けた有徳の新王朝を建てたとする方がむしろ正当だと強く主張できる
この辺を理解していないのが九州説
>>406
それ、名誉毀損の要件を満たすから、気をつけな
不用意に他人を誹謗しないようにww
そういうの抜きで議論できる人が九州説にはいないのかな? Wikipediaの魏志倭人伝の訳文を借りれば、
4000余戸が有り、山海に沿って住む。
草木が茂り、前を行く人が見えない。
魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
魏の役人が末廬国の拠点を田畑の広がる平野部と見てないことは歴然。
もちろん、当時の唐津平野が末廬国において、
現代の日本におけるトヨタグループが存在する中京地域くらいの重要性が
あったであろう農村であった可能性が高いことは認めるが。
唐津湾が悪い漁場だとは思わないが、入り江の漁場が存在し更に沖合漁場にも出られ、
朝鮮半島交易で有利な壱岐に近い所が必然的に末廬国の拠点だったと推測するのが、
どう見ても一般的な考え方だろうと思うんだが。
たぶん、こんな感じの所に上陸し、
ちょっとだけ内陸にある漁村まで歩いたんじゃないかなと想像するかな。
https://www.google.co.jp/maps/@33.5366847,129.8737341,3a,37.5y,217.98h,86.36t/data=!3m6!1e1!3m4!1sE0PuWromJCp_2YLNx2y3QA!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja >>399
Wikipediaからのコピペ乙
コピペで末盧国の専門家を自称かい? 今考えたけど
邪馬台国は
大和として
任那みまな は 那に任せる で 任那だと すると 倭人は 那って何? 倭人は 人に 委ねる で 倭人だから
任那は 那に任せる で 任那
両方とも
任せる委ねるがカギだね 倭も 任那も つまり 神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後5年の出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 ヤマタイコク
・九州には山と台(丘)が9つある
・つまりヤマタイとは9の事である
州というのはアメリカでもそうであるように国と同じような位置付けである
つまり国と州は類似の意味である
つまりヤマタイコクとは九州という意味となる
ヤマタイコク=九州という意味である 畿内のヤマト王権は何で邪馬台国に固執するのかな。
大陸に媚びを売って臣従し朝貢していた邪馬台国なんぞ黒歴史でしかないだろうに。
邪馬台国や卑弥呼は当時の九州の一勢力が仕出かしたことと押し付けときゃ良いじゃないか。
そんなに古代の日本を中国の属国地位に貶めたいのか?
ヤマト王権の大君が皇帝にも並ぶ存在として「天皇」を名乗れたのは独立国だったからだぞ。
北条時宗も豊臣秀吉も中国からの「汝を封じて日本国王と為す」の証文には大激怒だよ。
要らんだろ?そんな大国のお墨付きは。
そう日本は太古の御代から独立国なんだからw >>416
それは中国が勝手に属国と言い張ってるだけで何の意味もないからな
属国というのは王が使者に三跪九叩頭させられたり3000人の女性を貢いだり
旗に属国と書かされたりする状態だよ >>412
>神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後5年の出生(女系天皇)。
それ、ちょっと前まで「先帝死後3年の出産」ってコピペしてただろ?ww
本当に捏造体質だな
半島の血筋の人なの? >>414
>名誉も無い人が毀損という笑い話 隣の国かな
本当に、他人をバカにして上下関係でしか考えられない辺り、
>>414が半島の血筋の人なんだろ?
ミラーリング乙ww 奈良政権は継体以降 朝鮮人となりました
フジワラが入りますます強固な朝鮮人のDNAとなり
現在に到ります
畸形と精神障害の遺伝子です
そのようなものは日本に不要です ヤマト王権のヤマトはコシノヤマタノオロチのヤマタが語源でもいいんじゃね?
継体天皇もコシから来たわけだし。スサノオに出雲取られたけど取り返してるし。 >>397
弥生時代の出土品として有名な銅鐸はヤマト政権サイドは知らない(記紀に記述なし)らしいが
東征は史実で銅鐸文化圏を武力制圧したから畿内なら銅鐸が消えたって本当? 畿内説は確定している奴国までの知識が無さ過ぎる
道順を追うのも良いが道道のクニをちゃんと勉強しなさい
末盧国伊都国奴国の発見されている先史時代遺跡を学びなさい
方角とか距離とかそこに何があったか知らないのに語るとは笑止千万。 >>386
千数百年と今と同じ地形だと思ってる摩訶=莫迦=大=馬鹿か
それとも摩訶姦民国から来た奴か >>415
ヤマタイコク は江戸時代以降の呼び方
支那の文献は邪馬「臺」國又は邪馬「壹」国という書き方。
当用漢字、常用漢字に「臺」は採用されず「台」で代用してる。
新井白石か誰かが長崎の出島の清国人の発音を聞いて
「ヤマタイ」と勝手に決めた。
実は飛鳥奈良時代の万葉仮名には清濁の区別があったが
平安時代の和名抄の万葉仮名の使い方には清濁の区別がない。
源氏物語、枕草子などに濁点付きの仮名が無いのと同じだ。
支那語は殷の古代から初唐辺りまでは濁音もあったが安史の乱以降
次第に濁音が清音に変わり唐末五代には濁子音が無くなった。
ヤマタイは元々ヤマドだった。
山門というのは扇状地のような地形も含める。
灯火の明石大門(アカシオホト)は明石海峡のことだ。
このまえのチコちゃんに叱られるで言ってただろう
「年の瀬」の「瀬」は川の浅い箇所、流れの速い場所という意味がある。
百人一首 瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ
崇徳院
川に限らず海についても言われる。
音戸の瀬戸、瀬戸内海。
天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
(原文)天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見 >>413
その気づきは面白いね
灘や那須もそのうちに入ってくるよな
どこもかなり古代からの地名みたいだが、地名だけで判断するのはかなりの調査が必要
別の仮説の裏付け程度に考えた方がいかな 邪馬台国の件で必要以上にムキになる人が多いのは
渡来人と卑弥呼が絡むことで日本国の起源が大陸に犯されるのを極端に嫌う人たちのせいだな
そういう学問以外の要素を持ち込むのはそれこそ無粋だと思うけどな >>431
九州説がパヨクと半島系のおもちゃにされてるからだよ
九州説は、邪馬台国をより小さく、日本の歴史をより短くしたいっていう工作活動だから
起源が古いほどエラいという謎の価値観から、日本の歴史を短くしようと躍起になってる
彼らの合い言葉は大和朝廷は8世紀から、だからね
天智・天武も半島人にしたがるし、いい加減にしてくれって思うだろ? >>432
違うよ。
仮に九州に邪馬台国が有って卑弥呼が存在したとして、、、何か不都合なことがあるのか?
当時の中国をして魏・呉・蜀と分かれいたんだぞ。
それとは関係なく畿内には九州と同等以上の都市(国)が存在した、、、と言うだけのことさ。
どうしても「どちらか一方だけ(両雄並び立たず)だ」と言うことにしたいのか?
意味が分からん。 >>433
>それとは関係なく畿内には九州と同等以上の都市(国)が存在した、、、と
これが根拠なしの妄想
畿内からの土器が九州に浸透して九州の在地の土器が消滅するのに
九州から畿内への影響は皆無
これが標準的な編年では卑弥呼の遣使の前に進行している
九州説は根拠一つないファンタジーなんだよ >>433
九州に邪馬台国があって不都合なんてないよ
畿内説はそれが事実と思ってるからで思想から主張してる人は少ない
ただ、畿内に邪馬台国があると不都合な人は多い
だから事実なんてどうでもよくてとにかく畿内は嫌
そういう人たちが大騒ぎしてるだけだよ >>435
>九州に邪馬台国があって不都合なんてないよ
不都合の有無を問題にしてるんじゃなくて、
既に明らかになっている考古学的な状況から
九州説は成り立つ余地はないってこと 韓国の南半分は、元は日本の領土。
朝鮮人は侵略者だ。
韓国人を殲滅すべき。 古代、戦争は極めて効率のよい営利活動だった。
負けた側は略奪されるだけでなく、一部は奴隷として様々な地域へ移送され取引された。
当然女も含まれる。土器づくりは主に女性の仕事だったと考えられている。
弥生後期の特定地域からの、または特定地域へのまとまった土器の移動・拡散は
そうした結果であったと考えられる。
このため、敗れた地域では強権的な支配体制が急速に形成されるものの労働力不足となる場合がある。
そうした地域は、また別の地域から新たな労働力を確保することとなるのだが
この労働力の主な供給元が伊勢・東海であり、半島からの移民の受け入れである。 >>434
語ってることが意味不明で理解できないだけんだけど。
「ミイラ取りがミイラになってる」んじゃないの?
畿内から「邪馬台国」「卑弥呼」に直結する遺物かなんか出土したとでも言うの?
仮に畿内が倭国の先進国で本流だとしても、、、
亜流で後進国(畿内のパクリ)の九州に邪馬台国や卑弥呼が存在しちゃーオカシイのか?
「(邪馬台国は)畿内でないとオカシイ」の説明にはなってないよ。 >>439
大陸中華は倭人の王にしか王号を認めない
そのための梯儁の派遣だよ
九州説は弱小な北部九州の地域首長が魏皇帝を騙して王号を
出させたっていう詐欺師説だけれど
梯儁が北部九州まで来ているのだから、そこにはより大きな勢力の
出雲や吉備や丹波や畿内の人も来ている
北部九州が倭人を代表する国ではないのはすぐにバレる
それに、奴国二萬餘戸、投馬国五萬餘戸、邪馬台国七萬餘戸の整合性が取れない
奴国が福岡平野の那珂川流域中心の国なのは確定
北部九州に奴国より大きな国は、考古学的に存在しない
この時点で北部九州説は成り立たない >>440
>出雲や吉備や丹波や畿内の人も来ている
初耳なんだけど、それ何て名前の人が北部九州までやって来たと言うの? >>441
吉備の土器も出雲の土器も丹波の土器も畿内様式の土器も、
3世紀初頭からずっと北部九州まで来てるんだよ
土器だけが歩いてくるはずもあるまい
それにこの部分には反論できないのかい?
奴国二萬餘戸、投馬国五萬餘戸、邪馬台国七萬餘戸の整合性が取れない
奴国が福岡平野の那珂川流域中心の国なのは確定
北部九州に奴国より大きな国は、考古学的に存在しない
この時点で北部九州説は成り立たない
まあ、九州説は穴だらけで、全体として整合性に取れる説にはならないからしょうがない >>443
アンタな〜
先ず俺の質問に答えろよ。
他人(ヒト)には「妄想」だの「ファンタジー」など言いながら、、、
自分は適当でイイ加減なことばかり書き込んでるだろ?
オマエはもうここへ来んなよ。 >>433
>仮に九州に邪馬台国が有って卑弥呼が存在したとして、、、何か不都合なことがあるのか?
九州に邪馬台国が存在した可能性は皆無と言っていい状況なんだから
デタラメな歴史を認めないってだけだよ
九州にあったと認めてもらいたいなら、それなりの物証を出せばいいだけ
現状、九州説がやってることは、文献珍解釈して、ひたすらゴリ押ししてるだけだろ >>447
心外だな、俺は九州説を信奉してるワケじゃないから。
ただ現段階で「畿内説で決まり!」の風潮には疑問符ってだけだよ。
別に邪馬台国が畿内だろうと九州だろうと中国(地方)だろうと四国だろうが何処でも良いワw >>428
邪馬台国とは山台国
山台とは阿蘇山の事
つまり阿蘇山のふもとの国という意味 >>448
どこでもいいなら畿内でいいじゃん
畿内で決まりっていう風潮が嫌いって、ただの天邪鬼 当時の畿内と出雲の関係性を記紀の国譲りとは別の観点で検証してみたいな
鉄の交易中継地なのか、出雲が北九州の交易権を支配する立場だったのか
瀬戸内海航路の開拓で吉備に有利な条件が移ったのかとか
その謎の解明で畿内説は有利になれる >>444
古代史に固有名詞のついた人間などほとんどいないし、ほぼ検証不能だから
>>441の質問は事実上悪魔の証明でただのハメ手の質問だろ?
そのハメ手に乗らずに真正面から正当な解答をされたからって
不利な書き込みをするやつには書き込むなっていう辺り、質の悪い九州説の人かな?
神話の固有名詞でよければ、出雲の大国主は北部九州まで宗像三神の一人に妻問いに行ってる
日本海航路は出雲から北部九州まで通婚圏になるほど行き来が盛んだったとみられる
出雲の人が北部九州まで行っているのは確実 >>444
そして結局、この部分には反論一つできないわけだな?
奴国二萬餘戸、投馬国五萬餘戸、邪馬台国七萬餘戸の整合性が取れない
奴国が福岡平野の那珂川流域中心の国なのは確定
北部九州に奴国より大きな国は、考古学的に存在しない
この時点で北部九州説は成り立たない
まあ、九州説は穴だらけで、全体として整合性に取れる説にはならないからしょうがない 畿内説と九州説の妄想合戦、はてさてドッチが勝つのやらw >>451
国ゆずりは記紀の通り神武東征以前に九州ー出雲の間であったと考えるのが
基本だと思うけどな。九州の者が畿内に新天地を求めることに対し、
特に邪魔したりしないくらいのもので決着したんじゃないかと思うけど。
1世紀か2世紀辺りから畿内―日向辺りの間には交易の跡があったはずだから、
瀬戸内海航路の開拓はおそらく神武東征近くまでさかのぼるんじゃないかと思う。
神武東征以前も九州ー瀬戸内間の交流はあったんだろうし。
神武東征が紀元前後1世紀にあったと仮定しての話だが。 >>454
文献の「新解釈w」を根拠に置く妄想と、
考古学的な実物証拠をもとにした推論の
どちらに妥当性があるか判断できないようではダメだよww 九州南部、瀬戸内、畿内の考古学的な実物証拠から
弥生時代におけるこれらの交流の移り変わりは興味深いよね。
奈良県における銅鐸出土の激減同様、記紀の神武東征を裏付けてるように思える。
年代は紀元前後1世紀辺りになってしまうんだろうが。 前方後円墳は全国ほぼ同時発生。
つまりその前段階の弥生後期には既に何らかの土壌が形成されつつあった。
弥生中期の高地性集落、九州と瀬戸内・山陰の関係ぐらいから考えるべきで、卑弥呼では遅すぎる。 3世紀辺りで大和に大きな転換期があったのも事実なんだろうとは思うけど。
任那設置も3世紀後半くらいと考えれば、いろいろつじつま合う事多そうだし。 九州は争いが絶えない状況で、大和が漁夫の利を得ていたと考えれば、
いろいろつじつまが合う。 箸墓古墳から鏡100枚と金印と大量の勾玉と剣が出たら確定だろうな
女性の被葬者だから勾玉と鏡は必須 >>459
同時発生という表現には違和感が。前方後円墳作るのに10年20年かかるんじゃね?的に。 >>463
>同時発生という表現には違和感が。前方後円墳作るのに10年20年かかるんじゃね?的に。
というか、人が死んでから墓は作られるものだから、「前方後円墳を作る」という合意をした首長が
順に死ぬごとに作られていったことになる
合意のときに、年寄りだった首長から順に一世代分の時間をかけて「一斉に」作られるようになったのだと思う >>464
そんな記録は無い。
記紀にも前方後円墳のゼの字も書かれていない。 >>466
>記紀にも前方後円墳のゼの字も書かれていない。
面白いことを言うなぁ
前方後円墳というのは、後代の命名だぞw
記紀では陵(大王の場合)という表現になっているねww >>3
邪馬台国はなかった。
邪馬「台」國と書いた支那文献はない。
邪馬「臺」國あるいは邪馬「壹」國の二通りだけだ。
邪馬「台」国は当用漢字、常用漢字に縛られた代用表記。
横「浜」の「浜ホウ」も代用漢字。
芸術の「芸ウン」も代用漢字。 最新の学説では前方後円墳は通説は間違いで前方が最初に作られて
被葬者が亡くなった時に埋葬の為に後円が作られた >>470
>最新の学説では前方後円墳は通説は間違いで前方が最初に作られて
>被葬者が亡くなった時に埋葬の為に後円が作られた
それ逆
葺き石が、後円部の方が下になっているの確認されている古墳が複数あり、
築造順序としては後円部、埋葬主体、前方部の順だろうと考えられている 纒向の規模がでかいだけで
ここが邪馬台国というのは
短絡的ではないか? >>133
「倭と書いてちくし 」と読むのは古田教信者www
卑弥呼をヒミカと読むのも古田教www
「呼」をカと読むのは支那の春秋戦国時代の音読みwww
「卑」を「ヒhi」と読むのは日本の江戸時代の発音www
古田教は支離滅裂の時代錯誤www >>456
国ゆずりなんて支那の儒教の禅譲のコピペだろが。
日本書紀執筆の時には諸氏百家の書物が
遣唐使の土産物として輸入されてた。 天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
(原文)天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見
九州倭国の首都太宰府が天(あま)でそこからはるばると田舎の奈良まできたなぁ という倭歌 >>432
大和朝廷は8世紀からだと何がいかんのかね?
そんなことで国民の皇室への尊崇が弱まるとでも思っているのかね?
初めから大和朝廷は太古より続く万世一系であるなどという結論ありき
そんなの焚書不比等の偽書記紀が目指した虚構そのものではないかw
まもなく大和朝廷の安寧を願い偽書記紀編纂という大罪を犯した焚書不比等の1300回忌
いまだに自分の説を原理主義的に指示する馬鹿者がこの国の考古学歴史学を牛耳っているのを知ったら
さすがの焚書不比等も驚きを禁じ得ないだろうな >>471
もともとは円墳だったものに、あとから方墳を建て増したってこともありですか。 九州説が探してるのは、3世紀頃の卑弥呼のいた女王国。
畿内説が探してるのは、7世紀頃の大和政権の源。
もともと調査年代も対象も異なるわけよ。 >>477
>もともとは円墳だったものに、あとから方墳を建て増したってこともありですか
それはない
最初から前方後円形の地割をして、その形の平面を作ってから盛土をしている
あくまで「前方後円墳の」築造手順の話 >>476
>大和朝廷は8世紀からだと何がいかんのかね?
そんなに日本の歴史を短くしたいのかい?
雄略天皇の実在も否定するの?
教科書レベルの定説すら否定しようとするのは、どういう思想が根底にあるの? >>478
纒向が7世紀の遺跡だと思ってるわけ?
さすがにないわw >>483
>真実の追究あるのみ
wwwwwwwwwwwwwwwww
だったら、その「真実」とやらを追求して見せてくれよ
雄略天皇の実在を、真実じゃないかもしれないというなら、かなりの大論文が必要だと思うが
さわりだけでいいから、具体的な根拠・論拠を挙げて論証してみてくれ >>480 >>481
飛鳥時代の朝廷の出自は何? c14の年代測定って誤差何年くらいあるの?
種15個くらいで100年以内に誤差おさめられんの?
C14が2000年位前の日本に同じ割合存在してた証拠もないし、そもそも半減期5700年なのに100年単位に精度がなるのがよくわからん >>486
だから
>おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり
と幅を持たせてるじゃん。
悔しいだろう >>486
>C14が2000年位前の日本に同じ割合存在してた証拠もないし
あちゃー、ここからかいw
14C⇔14Nの平衡が成り立ってるから、14Cの量は基本的に2000年前だろうと
日本だろうとオーストラリアだろうと同じと考える、というのが前提
大気中の14Nに高エネルギー放射線(宇宙線)があたることで、
原子番号が一つ減って、14Cになり、14Cは放射性元素なのでβ崩壊で、
原子番号が一つ増えて、14Nに戻る
これが平衡状態にあるので、14Cの値は一定に保たれていると考える
しかし、これは大気中の平衡なので大気から隔離された海の水の循環の中の炭素は
14Cの比率が低くなるし、海洋炭素の影響の大きい試料では14Cの比率が低くなる
また、大気中の平衡の位置も太陽活動による太陽風の量の変化により、
大気中に入射する宇宙線の量が変化するために、年代によって多少変化する
これらを踏まえて、各年代、地域により試料中の14Cの比率により機械的に
算出される14C年代を実年代に対応させるための較正曲線が作られており、
年較差を考慮したINTCAL13 や、海洋リザーバ効果の大きい南半球試料用の
MARINE13が較正曲線として使われている >>488の続き
試料の数が15個でも、その中に含まれる炭素原子の数は膨大だから、
加速器質量分析法(AMS法)では、統計学的には十分な精度の14C年代が得られる
ただ、3世紀頃はおそらく太陽黒点活動のために、較正曲線が横に寝てしまっていて、
そのために推定年代の幅が広くなっている
較正曲線が45度に近い傾きの領域では、推定年代幅は数十年に収まるところもある ニュー速+で新スレ建たないから続きはここでいいのか? このスレも、もの知らずの九州説が暴れるだけだから、もう手仕舞いでいいと思うんだけどね 雄略は存在したよ 奈良にね
当時の日本列島の代表政権で外交していたのは九州 倭国
奈良は700年から表舞台に出てきた >>493
>当時の日本列島の代表政権で外交していたのは九州 倭国
倭王武が雄略を指すというのは教科書レベルの定説
これを否定したいなら、それだけの根拠を挙げてもらわないと!
「ぼくチンが九州説だと思ってるのに都合が悪いからダメ!」っていうのは
理由にも根拠にもならないよ? 現時点、畿内説は無いも同然。
第一に魏志倭人伝とは全く合わない方角と地勢なので仮説の域を越えない。
箸墓は馬具が出土し年代不明のうえ、殉葬者がいる形跡もなく圏外。
纒向は邪馬台国にはカスリもしない様相と生活痕無しでこれまた文献とは合わない。
比定されたものは全て否定された模様。
さらに唐古鍵が継続せず消滅してるのが痛いな。
今、言えるのはこれだけ→3世紀に奈良盆地にも人が居た。 >>495
>第一に魏志倭人伝とは全く合わない方角と地勢なので仮説の域を越えない。
具体的に指摘して!
仮説なのはどれも仮説だろ?
そして、畿内説が最有力の仮説だww >>493
中国との外交は推古天皇からかもしれないが、
朝鮮の韓(漢)人との外交は任那を通して三世紀ころから
やってた可能性が高いんじゃないかな? 卑弥呼の時代は軍事権力と祭祀は別だった時代
女王祭祀の本場は筑前筑後、軍事は北九州の畿内勢力
やがて3世紀後半これらがまとまったのが巻向遺跡
それがヤマトの正体なのでは >>495
こいつ間違いを指摘されても同じ間違いを繰り返す、壊れたテープレコーダーだな 卑弥呼は瀬戸内海を制覇してたのだから普通に考えたら瀬戸内海に面した所だろ 紀元前3世紀から、防衛のための大規模な環濠集落が形成されている
→軍事的な緊張があった
→おそらくは大和大乱(ここは別に何でもよいが)
場所は初めは九州と瀬戸内海周辺、3世紀になると九州のみとなり(吉野ヶ里遺跡など)、卑弥呼の時代には無くなる
→防衛ラインの変化が分かる >>496
おやおや伊都国の南に奈良が有ると言い張るのかい?
ま、畿内説は頭がおかしいのは聞いてるし驚かないけどねw
文盲で方向音痴で4世紀の後に3世紀があると思ってるぐらいだからなwww >>499
>こいつ間違いを指摘されても
どこがどう間違いなのか「具体的に指摘」しておくれ?
あれ? もしかしたら能力を超える過大な要求しちゃったかな? >>503
>おやおや伊都国の南に奈良が有ると言い張るのかい?
そうだよ、陳寿の認識の倭国の地理では、伊都国の南に本州が連なる形になるからね
陳寿が、「當在會稽、東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」と書いてあるところからも、
半島から倭国に渡ったのち、そこから遙か南まで日本列島が南に続いている想定なのが分かる
その想定の中で、ヤマト国は伊都国の南なんだよ >>503
>文○で
お前は留学したエリート様なのか?ww >>500
>卑弥呼は瀬戸内海を制覇してたのだから普通に考えたら瀬戸内海に面した所だろ
これはどこから出てくる想定なの? >>495
唐古鍵は弥生時代から古墳時代まで継続
立派じゃないか
吉野ケ里は倭人伝の「楼観」があったという証拠が出土してないというのに >>465
遺骨なんてシナチョン阿蘇山から流れてきた亜硫酸ガス原因の
酸性雨で特区の昔に溶けて流れてるwww >>480
旧唐書をガン無視して「教科書レベルの定説」をふりかざす似非学者 まあ教科書からして偽書記紀原理主義の畿内派たちによる執筆だからな
日本の歴史教育は根底から崩壊している
廃墟の頂上から見下ろす景色はどんなものかね?自称研究者、自称教育者のバカども >>510
旧唐書の一言だけを頼りに、隋書、新唐書、唐会要の記述を検討すらしないチェリーピッカー乙
旧唐書とほぼ同時代資料の唐会要が、倭国の日本国への改号の経緯の点で詳しい
唐会要にも倭国伝、日本国伝の両方が立てられているが、倭国伝の中に
「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。」とあり、
日本国伝にその則天時の遣唐使の記録が書かれている
「長安三年。遣其大臣朝臣真人來朝。貢方物。朝臣真人者。」
長安は武則天の武周の元号で、「朝臣真人」は「粟田真人」で続日本紀の記録とも一致している
そもそも、倭国伝と日本国伝が二つあるから別の国っていう言い方をするけれど、
唐代(正確には武周の時)に、倭国から日本国に改号したから、倭国の時の分が倭国伝に
日本国になってからが日本国伝に書かれているだけ
同じ国だよ
隋書の時点で魏志の邪馬臺がヤマトだって書いてあるんだし別の国というのは通らない
裴世清が大和まで行った報告をもとに書かれているんだから紛れはないよ >>511
お、「偽書記紀」君、また来たね!
「偽書記紀」君は賢いから、大勢の学者が何年も研究した成果をもとに書かれている教科書より
「偽書記紀」君の考えたすごい日本古代史の方が、正しいんだよね!
スゴイスゴイ! >>513
邪馬台がヤマトだなんて何処に書いてあるんだよ?www
やはりバカで文盲だと死ぬまで治らないんだなwww
妄想と現実と区別つかないんだろ?
たまには人と話せよwww >>515
隋書で裴世清の行った都が邪馬臺って書いてあるんだからヤマトでいいんだよ
記述は現存の版本では「邪靡堆」だが、「邪摩堆」の文字化けとみるのが通説
「邪摩堆」はヤマトでいいだろ? 記紀で目立つのはあくまで国内の物語重視ということ
その100年前まで半島情勢に一喜一憂していたはず
いろんな刷新や騎馬文化などのエポックメイキングを無視して編纂されている
これは国内統一よりも半島との繋がりを重視した時代の反省だ
律令と正当性によって改めてヤマトによる国内支配を確立したい意思の現れであろう
天武はその正当性を表現するために伊勢神宮を整備し天照を祀ったが、これを三輪山の神と完全に分祀したことが興味深い
これはそもそも三輪山が天照の発祥ではないことのの証左であるが、では天照はどこから来たのかということになる
間違いなく畿内以外の場所から取り入れた祭祀形態であり、可能性が一番高いのが九州
その次に可能性があるのが東海三河だな >>503
>>506
お呼びかな?
特定のワードを異なる2人の人物から使用された事を重く見た方がいいぞ、文盲さん(ネットスラング的な意味) >>516
すべてお前の想像の中の世界だなwww
ヤマトでいいだろ?ってwww
ヤビトィだと中国人が笑ってたぞwww
壹をトと読みたがるのも日本人しかも文妄の畿内説だけwww 北史では邪摩堆なんだし、邪靡堆は誤植と見るべきかと 卑弥呼の時代は3世紀で終わり=邪馬台国も3世紀で終息。
日本書紀、神功皇后紀が3世紀で終わってるだろ?
そういうことよ。 >>518 アマテラスは神の中の神と言われるアフラ・マズダ(闇に対して光を与える神)
旧大和は始皇帝一族の旧イランや中央アジアの文化なんだわ。
アーリア人(ゾクド人やらペルシャ人らイラン地方の部族)が寒冷化で東に向かい秦国設立。
更に東へ徐福集団が遠征し沖縄から伊豆までの扶桑国や旧大和物部氏に。
沖縄県から朝鮮あたりにいた鯷人部族が道案内。
徐福やら旧大和は沖縄経由できたイラン系の排教部族。
大和国では拝教=神道派の教えで、宗教上の職務を行う高位の聖職者には最近親婚の夫婦から産まれた者を推戴。
身内だけの部族で血族を守った。
安息の地とは安息国であり、沖縄・奄美では大和言葉があり、アマテラス=アマミキヨなど同一神やユタなどと旧大和と共通した文化が多い。
新大和は寒冷化で中央アジアから日本にきた仏教派=天武、蘇我、厩戸皇子。
厩戸皇子は謎が多いが、パルティアンショットの旗を掲げて戦をしている時点で騎馬系。
ペルシャや弓月国、大月や匈奴、突厥あたりにた仏教徒で中央騎馬系が寒冷化で東西に移民として大移動しはじめた。
万里の長城があるため中国に入れず日本へ。
東北=蝦夷氏。北関東の騎馬系。北陸あたりから旧大和と関係を持った吉備国など、仏教派のアフガニスタンあたりの渡来人らで新大和。
日本全国に突如でる古墳時代へ。
三輪山の神は東から日本を統一した新大和勢力
大和の拝教派と新大和の仏教派が対立。
で新大和が朝鮮半島まで拡大したが、白村江で破れ唐に破れて、郭子儀に占領され、平氏、藤原氏ができる。 間違えた。郭子儀x
郭務悰が大和へ百済人らを強制移民させて、大化の改新をつくった。 大化の改新というより、近江令。
唐は近江令を命じたが誰も従わなかったらしいが。 九州の分裂した小勢力と、瀬戸内海〜近畿一体の巨大勢力 邪馬台国やら卑弥呼やら、日本を蔑視した
大陸視点の記述をいつまでも使うのどうなのかなと。
日本でヤマト国、ヒミコと読んでたのを
中国の当て字で文献化しただけだろ?
中華思想で日本なんて野蛮な国とされてたんだから
邪悪の邪やら、卑しい卑なんて漢字が当てられた。
大和の国で邪馬台国。日出づる国の天子(みこ)で卑弥呼ってこった >>511
廃墟だった吉野ケ里テーマ・パークの捏造「楼観」の上から見下ろす気分はいかがですか。
「捏造楼観」が存在したという証拠は見つかりましたかw >>527
ヒミコの発音は現代東京方言のHimikoではなく
古田教信者によるとHimika=氷見香ということで
「呼」=藤原紀香という美人の「香」と同じ発音だそうです。
卑彌呼は倭人伝によると年齢は「長大」なんだけど古田教や黒鉄 ヒロシの漫画では美人という想定w
言語学の日本語音韻史ではhiという発音は江戸時代に発生した江戸方言の発音なんですけどね。
安土桃山〜江戸時代初期では「卑」はフィという発音。
【氷】という漢字は支那語方言を調べてもpingという発音なんですよ。
【卑】という漢字も支那語方言を調べるとpeiペイーやらpiという発音なんですよ。 ホ〜ント七世紀のヤマトの世界が闇なんだよね。
法隆寺の建立やら大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱、、、
色んな事が目まぐるしく起こっている。
そんな中、斉明天皇(女性)の重祚だろ?
「ヤマト政権」が大混乱してる様子が見てとれる。
不思議なのが白村江の戦いの戦後処理だ。
唐が北部九州を占領している。
旧百済の残党と共に戦った倭は九州勢力と言うのは分かるが畿内はスルー
少なくとも中国側は倭の中心は北部九州と思っていたのではないか? >>521
>壹をトと読みたがるのも日本人しかも文妄の畿内説だけwww
現存の三国志は12世紀の版本が最古
それ以前に成立の他の史書が、軒並み魏志曰で「邪馬臺國」と表記している
邪馬壹国の方が誤写とするのが通説
だから、ここのスレタイも邪馬台国になってるだろ?
「壹をトと読みたがるのも日本人しかも文妄の畿内説だけwww」
こんなことを書いて喜んでる時点で、物知らずだよな で、結局>>521には、意味のある具体的な批判はなし、と 名古屋大の中村俊夫教授wwwwwwwww
天理教いい加減にせえや 邪馬台国の馬の発音はメだろう、駿馬とか普通に使うし
という事は邪馬台国の読みはヤメィ、今で言う八女だろうな >>534
奈良は組織的にゴットハンドやってるからなw
奈良判定も日常茶飯事な土地柄やし。 >>537
そして
壬申の乱を起こし、平城京に住み着いた物部氏は名古屋から来た >>529
>卑彌呼は倭人伝によると年齢は「長大」
年已長大、無夫壻
卑弥呼はすでにばあちゃんで夫婿はいなかった
すでに亡くなっていた、という解釈が正解なんだよねココ >>530
九州まで唐の軍が攻めてきたなら、半島は完全に占領されてたんだろうな
やっぱり中国人が言うように新羅は中国の歴史なのかな あり得る認識としては、邪馬台国の都は畿内として位置をしめしているが卑弥呼と会談し風俗を記したのは九州
畿内の女王が九州にいた時期それが起こった、としたら
陳寿にとって邪馬台国の風俗は同じだという認識と推測に基づいて魏史に記述
とすると例え卑弥呼が神功皇后であっても大きな矛盾がなくなる
共立した女王が君臨し一人で過ごした
仲哀天皇死後の三韓征伐前と重なったりする ググったら同じこと考えてる人もいたが、
並の銅鐸じゃ飽きたらずに、地上に超巨大銅鐸を再現したのかもしれない。
太陽と銅鐸、あるいは鏡と銅鐸を一緒に祀ってたので
前方後円墳もあんな形になったのかもw 倭の総戸数が十数万戸とはどの文献にも書いてないんだよね
そもそも"やまと"って一地域のじゃなく、広域の国名を示すし
やっぱり、"やまと"は連合国だと思うな >>530 唐と新羅に密通していた天智天皇の派閥の藤原(中臣)鎌足。
蘇我氏を滅ぼすため唐と手を組んだ。
645年、宴会で蘇我氏の首をはねてクーデター起こすのは、よほど唐や新羅の後ろ盾がないとできない。 藤原氏として平安時代を築いた、初の下剋上なんだわ。 かなり古い時代から、トップの家系とそこに皇妃を入れる姻族の二つの家系の共同統治の形を
取っていた形跡がある
古くは皇室と葛城氏
飛鳥時代は皇室と蘇我氏
奈良時代の一瞬だけ天武皇統に天智系の皇后
その後に皇統と藤原氏という関係が固定される
武家の時代になっても、足利将軍家の嫁は代々日野家だし、
関東公方家には上杉家が姻族となっている
そして関東管領上杉家には長尾家が代々正室を出している 臺(台)は中国語だとダイかタイだろ
どうやってトって読むんだよ
トと読むことを説明した資料ってあるの? 詳しくはないけど、魏では上古音で発音されてたって話で、
臺の発音はdɯːで、これが日本語のドゥに近いって話じゃないの? >>547
支那語の方言のひとつである広東語で「臺(台)」をトーイと発音する。
発音が聞けるHP→ttps://ja.forvo.com/search/%E8%87%BA/yue/
明石家電視「台」というの知らないかな
広東語でテレビ局を「電視臺ディン・シー・トーイ」、
ラジオ局を「廣播電臺クォン・ボー・ディン・トーイ」という。 >>539
普通に訳せば、「大きく成長する」のような気がするが。
ばあちゃんってのはどういう解釈でそうなったの? 唐が戦った相手を確認できないと思う馬鹿がいるようだ >>553
秦人が万里の長城建設のために北上したのち
韓半島に来たのが新羅
そこから出雲に渡って来て、出雲街道を通って
神戸・大阪に来て「葦原中津国=魏志倭人伝の狗奴国」を築くも
邪馬台国勢に説得されて京都盆地を開拓して補佐にまわった
したがって「真の京都人」は元は秦人 秦王国って隋書のか
「翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、
南に耽羅国と都斯麻国(つしまこく?)(対馬)を経て大海に出、
東に一支国、竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、
また東で秦王国へと至る。
その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」
これなら広島かな
秦氏=平氏だよ 九州説の人に聞きたいんだけど
じゃあ結局どの古墳なの?
絞らずに候補いくつかでもいいから >>556
またそうやってマッチポンプしようとする
卑弥呼と先立った夫の墓はここ
https://kofun.info/kofun/1064
全長約35mの前方後方墳。
墳丘の外側に周濠がめぐっており、その土を盛り上げて墳丘を築いたようだ。
後方部で埋葬施設が2基見つかり、
出土した土器などから3世紀前半の築造と推定されている。
国内最古級の前方後方墳のようだ。 >>557
俺は九州説を主張してる人に聞いてるんだってば >>559
それであなた自身は?w
架空の討論相手を作り出そうとして、マッチポンプ以外の何でもない
↓反論あるならどうぞ??
卑弥呼と先立った夫の墓はここ
https://kofun.info/kofun/1064
全長約35mの前方後方墳。
墳丘の外側に周濠がめぐっており、その土を盛り上げて墳丘を築いたようだ。
後方部で埋葬施設が2基見つかり、
出土した土器などから3世紀前半の築造と推定されている。
国内最古級の前方後方墳のようだ。 >>556
聞くのではなく自分で調べて比定してみればいい。 邪馬台国は素直に読めば沖縄か台湾あたりにある国じゃないの?
そこだとほとんど呉の対岸だけど
「呉の対岸」だからこそ同盟に意味があると言える
例えば、魏の侵攻に呼応して呉の沿岸で海賊行為でもやってくれたら、かなり勝ちやすくなる 九州説ではない人に、九州説にたって比定してみろというのは無茶じゃね?
九州説以外の人からすれば、九州の墳墓はすべて否定されるだろ?w
まあ、だからといって、滋賀説もないだろうけどww じゃあ畿内説に聞くけど。
@約100名殉葬された卑弥呼の墓は?
A住居が約7万戸あり警備の厳重な邪馬台国の遺跡は? 「邪馬台国はやはり畿内だった!」
論文の多さだけで邪馬台国の所在地も確定させてしまう、今の学界、、、
決め手は「多数決の原理」かよw >>556
>>562の言う通り、撹乱したいなら自分がピエロやれ
ま、それは>>562にも当てはまるわけだけどね
というわけでもう一度↓反論あるならどうぞ??
卑弥呼と先立った夫の墓はここ
https://kofun.info/kofun/1064
全長約35mの前方後方墳。
墳丘の外側に周濠がめぐっており、その土を盛り上げて墳丘を築いたようだ。
後方部で埋葬施設が2基見つかり、
出土した土器などから3世紀前半の築造と推定されている。
国内最古級の前方後方墳のようだ じゃあ九州説の代わりに俺が
・邪馬台国は九州のどこか
・卑弥呼の墓はない。倭人伝は嘘
・7万戸も嘘
・邪馬台国という表記も嘘
・金印も嘘
・百済人が大和朝廷をつくったことにできればなんでもいい。滋賀でもいい
こんな感じかな >>569
何が九州説の代わりだケッタクソわるいな
お前自身の意見は??
反論あるの?
卑弥呼と先立った夫の墓はここ
https://kofun.info/kofun/1064
全長約35mの前方後方墳。
墳丘の外側に周濠がめぐっており、その土を盛り上げて墳丘を築いたようだ。
後方部で埋葬施設が2基見つかり、
出土した土器などから3世紀前半の築造と推定されている。
国内最古級の前方後方墳のようだ >>571
年已長大、無夫壻
ヒミコはすでに歳くってて夫婿はなかった >>569
>・7万戸も嘘
魏志倭人伝には「二万余戸」「五万余戸」「七万余戸」などの数値が踊ってるが
いったい「戸」って何なんだ?と思う。
普通に考えたら家の件数で世帯数の事なんだろう。
だがこんなの意味が有るのかな
平均何人家族なんだよ。
人口で書けよ!
古代の日本人だから平均寿命はせいぜい20代でそうそう長生きできないんだろうし
親や夫婦、孫子、叔父、いとこなども同居した大家族が同居してたんだろう。
ま、7万戸と言っても絶対に盛ってるし総人口7万人も居なかったんじゃないかw 九州説では平原か祇園が多いね
邪馬台国は
筑後川流域説が一番多いかな
その次は北部九州連合説、宇佐説あたりか 滋賀のやつウザすぎる
誰も相手にしないのは、相手にする価値さえないということだ 俺は3世紀は九州でその後は畿内という、東遷説派だけど、
滋賀説もいい感じだなあと思うよ。 今さら東遷説とか言ってるのは高校の教科書レベルの知識さえないと
白状してるも同然なんだが >>577
へえ〜
畿内説って中卒レベルなんだね。 >>573
戸籍がないんだから仕方ないだろ
徴税には家ごとが効率的だし >>574
七万戸を考えれば、筑紫平野は最有力候補だよな。
>>576
ただ、東遷説には賛同できないかな。
古墳出現は畿内の高度経済成長を裏付けるものだと思ってて、
九州勢力も大なり小なり参画はしてたんだろうけど、
他にも出雲、瀬戸内、中京、北陸、紀伊半島勢力と多くの地域が参画してて、
九州北部勢力は最も強力なバックを持ってたかもしれないが、
所詮1勢力にすぎなかったと思ってるかな。 >>565
>@約100名殉葬された卑弥呼の墓は?
日本中どこを探しても、大規模殉葬の形跡はない
おそらく、探すだけ無駄
>A住居が約7万戸あり警備の厳重な邪馬台国の遺跡は?
邪馬台国七万戸の範囲は、「大和+河内〜環大阪湾」の畿内第V様式土器を共通に使った範囲
それ全体が警備が厳重だった訳ではなく、その中の居館域が卑弥呼の宮室に当たる
日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から
橋本輝彦 2008
nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2741/1/BA89557434pp81-102.pdf
この論文の、図2の居館域のあたりだよ
この辺はまだ発掘が進んでいない >>568
>全長約35mの前方後方墳。
径百歩にならない
古ければいいって物じゃない
当時既に、纏向古墳群に100メートル級の墳丘墓が作られているし、
吉備や出雲の墳丘墓と比べても小さい >>580
>七万戸を考えれば、筑紫平野は最有力候補だよな。
いいえ、弥生終末期には今よりキロメートル単位で海が内陸まで来ていたし、
筑後川が大きすぎて、弥生時代の土木力では潅漑に利用できない
筑紫平野の遺跡は、低いところのものは古墳時代に入ってから開墾が進んでいる
筑紫平野の遺跡の分布を見てごらん
吉野ヶ里と同等またはそれ以上の山沿いにあるんだよ >>583
3世紀には海岸線は吉野ケ里から10kmくらい離れてたって報告読んだことあるよ。
3世紀は古墳時代の開始期ってことだったように思うから、
そろそろ土木を駆使した潅漑も小規模ながら始まってたはずだと思うけど。
有力者が山の手に住んでただけで、魏志倭人伝の卑弥呼の時代には
田畑と下々の者の住処が大川市付近まであったはずだと思うんだけどな。
筑後川付近に住んだりするのは危険だったろうし、
田畑も何年かに1度くらいは洪水でダメになったんだろうとは思うけど。 そもそも筑紫平野って不弥国から南西やん
方角だけは絶対間違えないから!!って言ってるのにおかしいよね
日数は間違えるけど、何回夜が来たかを把握するのは難しいけど
方角だけは正確だからって言ってたやん 伊都国の南方、水行十日、陸行1月の認識だから。
若干盛ってるけど。 教科書が書き換えられたんだから、学者の間では畿内説でコンセンサスが取れたってことだろ
一部の学者の見解だけでは教科書検定は通らんよ まあ、ここの九州説のやつらには何を言っても無駄だけどな
学者はバカで、考古学は捏造で、C14はデタラメで、教科書は嘘が書かれてて
薄っぺらい知識しかないオレ様が九州だと言ってるんだから
絶対に九州説が正しいんだってやつしか残ってない まぁね「邪馬台国」は畿内に在ったんだろうがルートや日数は倭人が言ったとおりの事を中国
の使者がそのまま記述し検証したりしていない(畿内へ行ってない)んだろうね。
余りに遠く険しくて行くのが面倒臭いから。
道程が正しく伝わらなかったのは言葉の壁からか故意に教えなかったのかは分からないけど。 >>589
>そのまま記述し検証したりしていない(畿内へ行ってない)んだろうね。
封泥で封印された皇帝詔書と金印を持って、卑弥呼を倭王に除正するために来た建忠校尉梯儁が、
畿内へ行かず金印と皇帝詔書を手放して倭人に預けたっていうことになるぞ
子供の使いじゃないんだから、その想定は無理がある >>549
広東語を参照にするのはおかしくないか
魏西晋の首都は洛陽だから中原の発音じゃないと
台湾のウェブサイトで中古音(魏、晋時代)調べたら
邪馬臺=jiaーraーəї
まったくヤマトと読めないんだが
台湾の政府機関のひとつである中央研究院が開設したウェブサイト
ttp://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ 金印授与の為、一回だけ行った、、、の理屈ならソーかもね。
でも使者は本当なら何度も往き来してるハズだろう。
間違ったルート(方角や距離)のまま魏志倭人伝や旧唐書で改定もしてないってのが、、、
中国側は七世紀くらいまで「倭国の中心は九州だ」とずっと思っていたみたいなんだけど。 >>537
吉野ケ里も「楼観」の証拠が出土してないのに望楼を捏造してる来た九州 >>544
密通って言葉知ってるの
現代語で言えば不倫だぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 九州は3世紀の卑弥呼の居た邪馬台国。
畿内は7世紀の邪靡堆国。
中国や台湾でも同じ認識とのこと。
そして、古代人が方角を間違えることは無い、という認識は世界共通。
箸墓古墳は編年間違い、纒向遺跡は邪馬台国では無い、という認識は研究者共通の認識。
ここの畿内説は2005年頃の畿内説で思考停止してる感じだね。 >>592
莫迦も休みやすみ書け
>邪馬臺=jiaーraーəї
>まったくヤマトと読めないんだが
[j]はInternational Phonetic Alphabetなんだわ。
邪=[jia]=ya「や」と読めるじゃないか
馬=raと臺=əїは根拠不明。
特殊な約束事でma以外の情報も詰め込んだ表記かも知れん。
だから馬=ra=maとしても間違いなさそうだ。
http://www.zdic.net/z/28/yy/99AC.htmでは
↑の頁で「馬」の上古音はmraːʔとなっている。[ʔ]は日本語音韻学でいう促音、支那音韻学では入声韻尾という内破音を表わすInternational Phonetic Alphabetだ。
上古音のラテン文字表記で最後にsを付けると四声の「去声」を表わす流派もある。
閑話休題
【臺】
http://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/minyu?kaiOrder=3627
xiaoxueシャオシュエというのは漢字で「小学」と書き伝統的な経学の一分野で文字学・音韻学・訓詁学を指す。
建甌方言:to、中山(隆都)(廣東閩方言):tʰoi、大埔元洲仔(香港新界福佬話):tʰoi
[tʰ]は江戸っ子が口角泡を飛ばして喧嘩してる時のように威勢よく発音するtだ。朝鮮語では激音という。
というわけで邪馬臺はヤマトと読めるwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
「中原」は胡人、北狄と呼ばれた異民族に蹂躙されて
昔の中原の漢民族は江南に逃げ延び
「中原」は五胡十六国時代となって中原の漢字の発音は北狄訛りに変化した。
「永嘉の乱」で検索。
魏晋の時代の漢字音は客家方言、福建方言、広東方言、記紀万葉風土記の万葉仮名に面影を残している。
http://www.zdic.net/z/22/yy/81FA.htm
>上古音系
>擬音=dɯː 室高省,小徐之聲
mを上下逆にしたIPA=発音記号は福島など日本の関東・東北方言のように
唇を横に引いた平唇のウだ。
従ってdɯːはドゥという発音。 >>597
>九州は3世紀の卑弥呼の居た邪馬台国。
>畿内は7世紀の邪靡堆国。
>中国や台湾でも同じ認識とのこと。
証拠は?
>そして、古代人が方角を間違えることは無い、という認識は世界共通。
証拠は?
>箸墓古墳は編年間違い、纒向遺跡は邪馬台国では無い、という認識は研究者共通の認識。
証拠は?
こんな嘘を平気で書くやつがまともに答えるわけないけど >>600
それなら大陸出発点はウラジオストック辺りか >>599
畿内珍理教の信者か?
予算削られたらしいなw >>602
嘘をついて、証拠を求められたら、捨て台詞を吐くだけ
九州説らしいレスだな >>604
史書やWikiに書いてあることを要約してるだけなのに「証拠は?」の一点張りな畿内説w
Wikiもしっかり更新してくれてるんだから、一押し把握ぐらいしとけよ、畿内教信者ならw >>605
史書に書いてあるだと?
チェリーピッキングしてるだけだ
小学生みたいな言い訳はやめろ
で、箸墓古墳は編年間違い、纒向遺跡は邪馬台国では無い、という認識は「研究者共通の認識」とWikiのどこに書いてあるんだ? >>605
Wikiの纒向遺跡の記事には、一番上にこういう注意書きがある
デタラメだってことを示唆してるよな
こんなものが根拠になるのか?
>この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
>・出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2018年5月)
>・信頼性に問題があるかもしれない資料に基づいており、精度に欠けるかもしれません。(2018年5月)
>・中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2018年5月)
>・独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年5月) >>608
東大が畿内説に都合の悪いような内容までキチンと掲載しているのに、
名も無い研究者がそこを削除しているのを見て言ってるか?w
n村w 某研究室の論文査読
主査 桃の種なあw
副査 柿の種ならうちにもある Wikipediaのウソ編集までやる九州説さん必死過ぎw
姑息というか卑劣だろ ヒミカの宮殿は現在の春日市に所在し 其処には魏の軍人チョウセイが兵と共に20年間駐留し
ヤマイチ国の安定に寄与した 当然幾度となく魏と行き来をした
其の報告を基にチンジュは魏志を書いた
魏兵は岡山 四国までは足を伸ばしたと思われる >>611
Wikiの編集ログすら見れないのか?
さすが脳内構築畿内説w
文亡ってよく言われてるらしいなw 卑弥呼の宮殿を春日と言ってる奴
井尻の謎の古代廃墟の跡とか知らんだろ
君の知識はその程度だ
浅いんだよなあ >>615
相変わらず幼稚な言い訳ばっかりだな
おまえがいくら屁理屈こねて、Wikiの纒向遺跡の記事が信頼できると言い張ろうと
ページの一番上に目立つように、この記事が信頼性に問題がある資料に基づいていて、精度に欠けることや
中立でないことや独自研究が含まれていると明記されていることは事実だ
しかも何の言及もなく、いきなり編集ログがどうたらとか、こっちはエスパーではない
おまえの支離滅裂な理屈を予想しろってか?
いい加減にしろや >>615
もう一つ
これはWikiの信頼性とは別の問題
箸墓古墳は編年間違い、纒向遺跡は邪馬台国では無い、という認識は「研究者共通の認識」とWikiのどこに書いてあるんだ? まじか?w
Wikiをどんな連中が編集してるかマジで知らんのか?w
アナログ畿内説www
一応学者や研究機関がメインだぞ。 >>608
wikiの記事は2ch、5chの書き込みと同じで
話半分か1/4ぐらいに受け取ればよい。
>>613
姑息はそういう意味で使う言葉じゃないから よく考えるとヒムカの黒馬って酒がある
ヒムカって卑弥呼ヒミコで
ヒムカは日向とすれば
日向がヒミコになると500年代のヤマト政権は考えついたってことだ >>619
またそういう嘘をつく
Wikiは誰でも編集できるんだよ
編集者の中には学者もいるという程度
ついでに言うと、おまえがお気に入りだった「纒向は前方後円墳の発祥の地ではない」という記述は現在削除されているが
その理由は「独自研究によるところの記述を除く」となってる
そして、「纒向は前方後円墳の発祥の地ではない」という記述を書いた人物のIPアドレスはブロックされている
Wikipedia側が問題人物だと判断し、投稿の禁止措置をとったようだ >>622
書いたのが東大で消したのが自称考古学者だバカw そのWikipediaの纒向遺跡のページに
「魏志倭人伝使われている短里の場合古墳の大きさは30m前後となり、
箸墓古墳は大きすぎることになる。」なんていう記述もある
「魏志倭人伝で使われている短里」なんて文言を書き込んでるあたり、
誰が編集しているのか、お察しってやつだww >>623
元の出典は?
出典がなかったのなら消されて当然だけど 畿内説はWikiの編集者が大学や学者だとしても、都合の悪い事は
素人によるデタラメ編集だとして無視するんだよな。
確かに宗教がかってる。 Wikipediaで編集者の権威って何か意味あるの? ID:WDR7vpu2が言ってるのはおそらくこれ
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1&diff=68598158&oldid=68598088
近藤義郎氏の研究によると、前方後円墳の築造時期を10期にわけて、地域別の数を出したところ
最も古い1期では筑前が最も多く、大和は3番目に多かった
その研究をベースに、トンデモ編集者がアクロバティックな論理で、
「纒向は前方後円墳の発祥地とは言えない」という文章を作りWikiを編集した
ところが、12月9日にその記述は削除されている
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1&diff=70906279&oldid=70888091
ID:WDR7vpu2によれば、元の記事を書いたのはトンデモ編集者ではなく東大で、それを自称考古学者が削除したことになるらしいwww
こいつがダンマリなのは、近藤義郎氏(正確には東大ではなく京大だが)は2009年に亡くなっていたのをググって気付いたからだろう
・東大や京大の学者がWikiの編集をやってると思ってるのだから、かなりの非常識
・「纒向は前方後円墳の発祥地とは言えない」を学者の説だと本気で思ってるのだから、教養のなさは救いようがない 「独自研究の排除」は、ある議題に関する専門家がウィキペディアに寄稿できないことを意味するわけではありません。
むしろ、ウィキペディアでは専門家は歓迎されます。
しかしウィキペディアでは、専門家は、その話題に関する個人的・直接的な知識だけではなく、
その話題に関して既に発表された情報源に関する知識をも持ちあわせているゆえに、専門家であると考えています。
出典がなく、検証不可能であるならば、専門家を自称する編集者が、直接的・個人的知識をもとに寄稿することは禁止されています。
一方、専門家が自分の研究の成果を何らかの評判の良い媒体において発表済みであるなら、
この成果を中立的な観点の方針に従い、その出典とともに記すことができます。
しかし、第三者の媒体による信頼できる情報源を明記しなければならず、検証不可能である未発表の知識は使用してはなりません。
専門家の方々におかれましては、自分達が専門家だからといってウィキペディアで特権的な地位にあるわけではないということをご理解いただき、
ウィキペディアの記事を充実させるために、公表されている情報に基づいてご自身の知識を提供くださることをお願いいたします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%8B%AC%E8%87%AA%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AF%E8%BC%89%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84 もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、
AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。
しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む「ある観点を推進するような、
発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します[3]。
「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、
その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%8B%AC%E8%87%AA%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AF%E8%BC%89%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84 ID:WDR7vpu2は「畿内珍理教」という独特の表現を使っているからこのスレの常駐者だろう
こいつは以前から相当おかしな主張をしていた
・ヤマト王権は渡来人がつくった
・隋書に阿蘇が出てくるから、魏志の邪馬台国は九州だ
・隋書にある倭人の葬制を精霊流しだと決めつけて、精霊流しがあるのは九州だから邪馬台国は九州だ
・奴国があった福岡から硯が出土したのは、九州説の根拠になる
・「晋書」を「普書」と書く
・精霊流しの「精霊」を「鐘楼」と書く >>626
出典は素人が書いたものでも良いニカ
古田武彦や安本美典レベルでもいいのか >>563 邪馬台国は沖縄・奄美=東鯷だろうと思うわ。
卑弥呼=ユタ
中国は扶桑国=倭国と思いこんでいる可能性が高い。
徐福の集団が東鯷らと沖縄から東に向かい、徐福伝説とともに朝鮮や伊豆・房総や長野あたりまで行った。
海洋民族のためどこまでを扶桑国というか不明だが、徐福関連が佐賀、愛知、山梨に多いので最終的には徐福の一派が移り住んだのだろう。
愛知といえば熱田神宮もあり、昔から有力部族がいたからな。
幻の邪馬台国だわ。
中国まで使節使わせる意味を考えたら、九州部族からの防御のためにも沖縄・奄美の東鯷だわ。 ここの畿内説が実はニートネラーによる妄想説だと発覚したわけか。 >>633
古田武彦や安本美典は邪馬台国を題材とした作家のカテゴリーだろ?
井沢元彦や関裕二と一緒 .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 結局、九州説って候補すらあげられないのなw
本当に九州にあったと思ってるのー? >>639
候補地を挙げた瞬間に否定されるから、九州のどこかと言い続けるしかない 二、卑弥呼の墓
次は卑弥呼の墓についてお話しします。
2009年5月29日に、NHKや民放各局それに新聞各社が一斉に、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表によるとして、奈良県桜井市にある箸墓古墳(全長280メートル)が卑弥呼の墓の可能性が強まったとして報道されました。
それは同古墳の傍らから出土した土器が、「放射性炭素(C14)年代測定法」により西暦240〜260年の物と測定されたことにより、卑弥呼が「魏志倭人伝」に登場し、死亡した年代が一致した、としております。
それでは、卑弥呼の墓について、「魏志倭人伝」には一体どのように記されていたのでしょうか。
「卑弥呼以て死し、大いに冢ちょうを作る、径百余歩。」
とあります。これを箸墓古墳に当てはめて見ます。先ず、「径」とは円の直径を意味しますので、円墳でなければなりません。前方後円墳である箸墓古墳では全くおかしいことになります。
そのため発表では円形部分だけを指すと言っております。
その円形部分はおよそ150メートルなので、「百余歩」ですから一歩は約150センチメートルとなります。皆さんこのような歩幅で歩けますか。とんでもないですね。
そこで何と言っているかと申しますと、片足を一歩出しそれが75センチメートル、次いでもう一歩出して75センチメートル、つまり両足動歩で一歩とするのです。
ところが、この時代の中国では一里が300歩、一歩はその300分の1。そして、一里は77メートルの短里なので、一歩は約26センチメートルです。
従って、卑弥呼の墓「径百余歩」とは、26〜30メートルとなります。
もう一つ「魏志倭人伝」に次の記述があります。それは、倭人の風俗を記した箇所に、
「死ぬと棺に納めるが、槨は作らず、土を盛りあげて冢をつくる。」
とあります。中国では、冢は墓よりも小さいものを指しています。そのことを示す有名な言葉があります。
すなわち、三国の一翼を担う「蜀」の皇帝劉備玄徳は、白帝城で己が死に臨み、「墓を造ることなかれ、冢で良い」と言いました。つまり冢は規模とすれば塚です。
また、「大いに」の意は「大きい」ではありません。「大いに励む」とか「大いに○○する」で、「一所懸命○○する」の意です。これも勘違いのもとになっているのでしょう。
これらのことから、卑弥呼の墓は、箸墓古墳などの巨大古墳では決してありえないのです。 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた >>641
>卑弥呼以て死し
そこの「以」は「已イ=すでに」と同じ発音なので
「卑弥呼すでに死す」というのが最新定番の説だw 魏史の記述
記紀の伝承
古墳の出土品による時代測定
各地の風土記や伝承
地名や神社の由来
この辺りから導きだされる推測を統合するとどうしても矛盾が生じる
それは何故なのか
こうあって欲しいという憶測が邪魔してるんだよな
例えば邪馬台国はヤマトだとか
卑弥呼が天照だとか
箸墓は卑弥呼の墓だとか
けどもその憶測こそロマンの元であってそれを否定すると面白味が無くなる >>649
それだけ九州が村起こしに必死になってる
という証拠 大型内行花文鏡の話をしよう
畿内説でも当然出土してるよね?
纒向から出てない? 国体護持という名の下 死なずともよい多くの日本人を殺した 昭和天皇
勝ち目の無い戦争をはじめ 負けが確定しても降伏をしなかったが故に死んだ日本人
沖縄戦 特攻 本土空襲 広島長崎への原爆 すべて無駄死に
原爆を見て ほんとに我が身の危うさを知り 従来の方針を投げ捨て無条件降伏をする変わり身
敗戦後は命乞いのためマッカサーへ土下座する 少し以前なら 天皇制反対論者へは日本から出て行けなどと罵倒の嵐だったようだが
其の数も僅かなものとなったようだ
日本人の民度の向上と相俟って不景気もその因のようだ
せいぜいが700年以降の天皇制だ しかも日本国民の役にたった験もなく 徒に
権力迎合愚民政策の道具に過ぎなかった
そろそろ 止める時期がきたようだ。 >>652
兵庫県加古郡播磨町(明石市と加古川市に挟まれた位置)大中遺跡から
内行花文鏡の破片が出土している。・
復元すると鏡の直径が約21cmになる。
意図的に割った上、片方を磨いて一直線にし
ひもを通して首にかけられるよう2つの穴をあけて
ペンダントにしたと考えられている。 >>655
>奈良
に限定すると厳しいね。
個人的には畿内と九州の二都並立時代を経て畿内へ集約、、、と考える。
併合されたのが卑弥呼の時代より前なのか後なのかは分からないが。
古代の皇統譜がメチャクチャなんだよね。
異なる二つ(以上)の系譜を無理矢理に合体させたとしか思えない。
南北朝時代が如何に「まとも」だったかw >>652
大秦景教流行中国碑は、唐の781年に、
伊斯が建立したもので、
景教が、中国に伝来した年といわれているが、
徐州汉代天主教福音铜镜は、
後漢の時代の銅鏡で、
キリスト教に関して
かかれているんよね。
400年から500年も伝来時期が、遡るからね。
洛陽以外の、銅鏡産地である
徐州、顎州、紹興は、
道教も含んで、神獣鏡や景教など、
多文化的な匂いがするな。
シルクロード、長江沿いだからかな。
洛陽銅鏡は、幾何学的な紋様で、
ぶれてないからね。 【放射線ホルミシス効果】 全部バラしてヤバいよって言った方が、セルフガードするからいいと思います
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1545534951/l50
りゅうちぇる、ローラの支持者の皆さん、ジュゴンは守っても、人間は守らないのですか? このまま候補地出さないなら畿内説の不戦勝ということで >>652
糸島と太宰府にあるけど 見たことないようだね >>646
九州説の論文ってバカかw
査読する側が焚書不比等の偽書記紀を盲信する愚昧畿内派で
牛耳られているのに論文出しても意味ないだろうがw >>663
>九州説の論文ってバカかw
>査読する側が焚書不比等の偽書記紀を盲信する愚昧畿内派で
>牛耳られているのに論文出しても意味ないだろうがw
こうやって、被害妄想で相手を悪の権化のように描くのが、トンデモの特徴
筋の通った論文ならきちんと査読を通るよ
九州説では筋が通らないって言ってるようなものだぞww >>664
「査読を通る」というおかしな日本語を使ってしまったところ
図星を突かれてメラメラファビョって正気を失っていることを如実に示している
偽書記紀原理主義の畿内派どもが九州説に関して「筋が通っている」などという
評価を下すはずがなかろう
原理主義とはそういうものだ
わかりましたか? 焚書不比等の偽書記紀を盲信する畿内派の自称研究者・教育者のしょくん
きみたちは1300年前に大犯罪者焚書不比等が作り出した虚構を聖典のごとく崇め奉り
日本における古代史の研究および教育を崩壊させている
きみたちに少しでも良心があるならば、ただちに現職を退くことが最善であろう
少しは反省したまえ、偽書記紀盲信の畿内派のしょくん >>665
>「査読を通る」というおかしな日本語を使ってしまったところ
「査読」がなんだか分かってないから、「査読を通る」がおかしいと思うんだろうなww
「審査を通る」とほぼ同じ言い回しだぞw 今日の「偽書記紀」君のIDは、ID:YL5GYqksなんだね
今日も、いっぱい笑わせておくれ!ww あれ?
ID:BudHiykzも「偽書記紀」君なの?
いつもそうやって、IDを切り替えながら、多数派に見せかけようとしてるのかな?ww >>657
>個人的には畿内と九州の二都並立時代を経て畿内へ集約、、、と考える。
>併合されたのが卑弥呼の時代より前なのか後なのかは分からないが。
二都並立などという、怪しげなものを考えなくても、
各地域にそれぞれの首長がいて、
紀元前には、北部九州の首長が大陸王朝に朝貢していた
各地域の首長が成長し、水系単位・平野単位の国ができ、さらに広域をまとめる大首長が生まれた
紀元2世紀の頃に、火山の冬があり、倭国全体が不安定になり、一人の祭祀王の共立することで落ち着いた
くらいの流れだと思うよ >>662
みたことあるから、書いてる。だから、
幾何学紋様は、洛陽につながると書いている。
徐州汉代天主教福音铜镜は、みたことあるかい?
書いている銘文も?
画像みたら、三角縁になっているよ。
すでに、キリスト教が、後漢にきていた証拠。 >>670
そー直接的(露骨)に書いちゃうと畿内説の人に怒られちゃうでしょうに。
仮にもここは畿内説のスレなんだからw >>672
>そー直接的(露骨)に書いちゃうと畿内説の人に怒られちゃうでしょうに。
怒られないよ?
>>670を書いたのは私だけど、私は畿内説だし
その共立された卑弥呼の都が畿内ヤマト=邪馬台国だというのが畿内説で、
畿内説は紀元2世紀初めまでの朝貢が北部九州だってのを否定してないよ
ただ、2世紀の地方王権の伸長に乗り遅れたために、北部九州は倭国内での
相対的地位が下がって、3世紀には共立倭王を出すこともできない一地域になってたってだけ ID:O//bT+3g
今日もおかしなフォント使うやつ来てるな
昨日はID:vD+lK3Ucだった
いったいどこのPCで書き込みしてるんだ?
こいつは日本人なのか、外国人なのか? >>671
>徐州汉代天主教福音铜镜
これのことかい?
http://s7.sinaimg.cn/bmiddle/5f777176h758e467650d6&690
「見たことある?」とかいうより、さっさと画像なりソースなりを貼った方が速い >>675
そうだよ。
銘文は、
作神镜,尊一帝。
コ母目人子。有王赫。志,重,须,毓。
の18文字。
現在も考証中だが、専門家は、キリスト教の
意味として捉えている。
三角縁神獣鏡と作りは、似ている。
三角縁、四乳、四神獣、福音銘文 >>675
徳母目人子
ここは、聖徳母を略してるかな、
聖母やね。 >>670
倭人が現代で言うところのアラビア人のくくりみたいなもんに相当し、
多くのアラビア諸国の中で、
エジプト、イラク、リビア等がリーダー的立場を取ろうとする中、
新興サウジもリーダー争いに加わってるみたいな状況だったんじゃないかと思ってる。
畿内は新興だが、3世紀以前ならイラン的な立場だろうか。 邪馬台国は九州北部の地方政権じゃなかったの?
統一日本の前が近畿に一つの政権しかなかったなんてことにしたいのか >>676
その鏡3世紀以前に作られてっぽそうだけど、
4世紀にローマで認められ普及し始めたキリスト教と結びつけるのは
ちょっと飛躍しすぎてるような気がするけど。
ユダヤ教・キリスト教等と起源を同じくする中東信仰の類が
流れ着いて来たとかじゃないの? >>680
シルクロード通るからね。中国も慎重に、
現在、調べてる最中とおもうが、
個人的には、その銅鏡が徐州から出た意味だね。
最初から、書いているが、
洛陽以外の銅鏡産地の
徐州、顎州、紹興市は、神獣鏡や
福音銅鏡で、多様性を感じるな。
曹操は、それら、特に
道教を嫌っていたから、
そりゃ、自分以外を崇拝されたら、
困るわな。 >>681
僕の仮説なら、ペルシャを起源に持つ金属器系民族が、チベット高原やヒマラヤ山脈を経て、
雲南省辺りに徐々に広がって来て、一部揚子江沿いに移動した者がいたことを証明していて、
他にも北部に移動し朝鮮半島に至った者もいるといった感じかな。 >>679
その時代は既に九州〜東海まで統一された日本とかいてヤマトと読む >>682
金属知識と鋳鉄、青銅、などは、
西側からきただろうしね。
そうかもね。 >>683
君へ質問する 奈良をヤマトと呼称しだしたのは何時からですか 北九州が雪で奈良が雨のような天気予報が出てる時がある。
つまり倭人伝で冬でも野菜が食えるのは奈良盆地。
北九州は倭人伝の記述と矛盾するwww >>679
>邪馬台国は九州北部の地方政権じゃなかったの?
>統一日本の前が近畿に一つの政権しかなかったなんてことにしたいのか
畿内ヤマトもその意味では地方政権だが、その地方政権の連合体の統一祭祀王が大和の地にいて
それが邪馬臺國と、音訳で表記されたんだよ >>680
>ユダヤ教・キリスト教等と起源を同じくする中東信仰の類が
>流れ着いて来たとかじゃないの?
聖母信仰は、キリスト教独自のものだぞ
徳母目人子をどう読むかにも依るけれど >>685
>奈良をヤマトと呼称しだしたのは何時からですか
横レスだけれど、もともとは式下郡の小地名
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/式下郡
「大和郷は大和神社の付近。この辺りは古墳が多く大和古墳群がある。
周辺を「ヤマト」といったのが「倭」「大倭」「大和」の始まりと比定される。」
筑紫の地名が筑紫野市の筑紫神社近辺の大字筑紫がそのもとであるのと同じ >>688
土偶を見るに、母親を敬う信仰は縄文時代の日本にもあったように思うけど。 >>691
>>688は>>680の「ユダヤ教・キリスト教等と起源を同じくする中東信仰」に対する返信
これらの中で聖母信仰があるのはキリスト教のみ >>690
こうやって倭人伝を日本語にこじつけるやつの脳みそどうなってるんだろうな
普段の生活でも意味不明なこと喚いていそう >>692
母親を敬う信仰はどこにでもある有り触れたもんだと言いたいんだけど。 >>528
魏志倭人伝の時代の楼閣って、
物見櫓とかの高い建物やないやろ。
その時代の楼閣は、楼と閣に分けて
考えた方がわかりやすい。実際に、
古代は厳密に分けていたし。
楼は、重屋。 二層、二階建。
閣は、その空間を指すと厳密に区別
されていた。
商の時代は、天子が正教行う大聖堂。
閣は、その空間を指す。
わざわざ高い物見櫓あとをさがすのも
ちがうとおもうけどね。
後漢時代でも3階がマックスで、
邪馬台国もつくれるかな。魏志倭人伝で、
春と秋でしか、年季をしらないと
ビックリされたなか。
その後は、仏教伝来で、中国も
建築技術あがり、高層になる
本来の楼閣になっていくけど。 >>694
>母親を敬う信仰はどこにでもある有り触れたもんだと言いたいんだけど。
言いたいことは分からんでもないが、今話題にしているのは
徐州汉代天主教福音铜镜という特定の鏡に、キリスト教という固有名詞の宗教の
影響があるかどうかという点だから
ユダヤ教から始まる中東宗教では、もとが一神教だから主神以外は本来信仰対象ではない >>696
一神教のキリスト教がOKで、一神教だったかどうかわからない中東信仰の類に
母親を敬う信仰があってはいけないとか、意味不明やな。 記紀を元に考えてみる
神武天皇の祖母の豊玉姫について
この豊玉姫の伝承が残るのが吉備の和田にある玉比盗_社
ここは巨石信仰の古い伝承が残るところでその存在感に信憑性が残る
吉備といえは箸墓古墳との関連性だ
豊玉姫は瀬ノ内航路の海人族にあたる出自でこれを東征の神武が拠り所として滞在したとしたら実在性が出てくる
ちなみに昔から言われる神武と崇神の近似性がこの辺りからも垣間見れる
神武と崇神を同一視したときモモソヒメは豊玉姫と同時代となる
この辺りの伝承の複層性をどう考えるかなのだが、豊玉姫の実在性を元に大胆に考察してみると、九州出身の天照がトヨによって祭祀を引き継がれ移動ののちヤマトに鎮座し大国主と同時に祀られたのが大和神社であり三輪山となる
その後倭姫命によって天照とトヨは大和神社から分祀され結局伊勢に鎮座
この考察により天照は移動する神だったと考えることができるわけだ
ポイントの一つは神武=崇神の大元の祭神が天照であり、土地神として大国主が祀られた二神体制とでも言える時代があったこと
そして移動が可能な鏡が御神体なので結局伊勢まで動いたというのがもう一つの理由かもしれない つづき
吉備から出土した桃の種
巻向遺跡から出土した出土した桃の種
このあたりの整合性をとる説としては適当なものかもしれない
天照は天孫族が畿内に持ち込んだ祭祀であり、まだ小勢力だった天孫族のアイデンティティなのだろう
そして鏡を御神体としている所から、天照の祭祀を持ち込んだ天孫族が唐古鍵遺跡で見られる鏡作りを進めたとも考えられる
そうなると、天照の大元は吉備から西
すなわち九州のどこか、というのが信憑性を帯びてくることになる
そして天照が卑弥呼だったとすると西日本を統括した初期のヤマト王権の祖だと言えるかもしれない >>699
日向は弥生時代中期後半から瀬戸内と交易してたみたいだから、
弥生時代後期始めくらいに神武東征があったと考えれば、つじつまが合うかもしれんな。 >>698
>一神教のキリスト教がOKで、一神教だったかどうかわからない中東信仰の類に
>母親を敬う信仰があってはいけないとか、意味不明やな。
文句ばっかり付けてないで少しは自分で調べてごらん?
一神教である以上、そのただ一つの神以外の信仰はありえないのが基本
キリスト教では、父と子と精霊の三位一体という教義を編み出すことでキリスト崇拝を可能にした
さらに、そのキリスト崇拝を導くものとして、マリア「崇敬」を認めている
一方でマリア「崇拝」は認めていない
キリスト教は蛮族への布教のための便法として、一神教からの逸脱を教義化している
自分の知識のなさを文句を付けることでごまかさないこと! >>702
まず、僕が中東信仰の類と言ってるのは、
人間の所業では決して行えない自然現象への崇拝みたいなもんが、
人類最初の文明を持った中東のある地域で多くの人に共通認識として持たれるようになり、
それは必ずしもキリスト教のような一神教を基本としてるもんじゃなかったと思ってる。
確かに僕はキリスト教について一般レベルの知識しか持ってないが、
その三位一体とやらの教義がいつ成立したのか教えてよ。
それは徐州汉代天主教福音铜镜が作られる前なのか? そもそも一神教というのは、ツタンカーメンの父親の
アクエンアテンによる宗教改革で作られた人工宗教であって
「人間の所業では決して行えない自然現象への崇拝みたいなもん」ではないんだよ
ちょっとは自分で調べなさいな その話からするに、一度エジプトを経由した信仰が一神教化したってことになるのかな? >>707
Wikiにはゾロアスター教に帰依していたらしかったアケメネス朝がアレクサンドロス大王に滅ぼされて、
後期ユダヤ教、キリスト教につながる一神教の原型がかたちづくられたみたいな書き方になってるぞ。 >>708
あぁ、ごめん。書き方悪かった
もともと多神教だったんじゃないかと思われるユダヤ教が
一神教になったのはゾロアスター教の影響と思われる >>709
ゾロアスター教の影響で多神教だったんじゃないかと思われるユダヤ教が、
アレクサンドロス大王以後一神教化したように読めるが。 出エジプトの神官団が、アクエンアテンの死後迫害を受けていたアクエンアテンの
作った一神教の教団の末裔
最初から一神教だよ 最初から一神教だった初期ユダヤ教が、ゾロアスター教の影響で多神教的になったところで、
民族的な苦難の中で先鋭化して厳格な一神教になっていったのが後期ユダヤ教 お正月の鏡餅
あれは完全に神道祭祀の名残だね
興味深いのが正月が終わったら鏡割と言って餅を割って分け与える風習
これは九州で古墳の副葬品で見られる割れた鏡と関連性があるかもしれないな
祭祀の統率者が死んだ後または重要な祭祀の後に鏡を割るみたいな
その儀式が頻繁に行われるために鏡が必要で仿製鏡が作られることになったのかもしれない
あとは酒樽を開けるときのやり方
あれも鏡割の名残を留めているような気がする ところで、 >>680 に書いたようなキリスト教について一般レベルの知識しか持ってない僕が、
三位一体とやらの教義が成立したは徐州汉代天主教福音铜镜が作られる前なのか聞くと、
>>704 の
>ちょっとは自分で調べなさいな
が、答えなんか? >>713
関係あると面白いと思ったけど、wikiには武家の習わしみたいに書いてあって残念に思った。 >>701
海人族の移動痕跡と原始的な巨岩祭祀は関係ありそう
熊野にも花の窟神社だったかという巨岩祭祀の痕跡があるし、どうにも記紀の神代は視点次第では嘘では無さそうな気がするんだよね >>716
いろんな伝承を事情を知らない人間が無理やり1つのストーリーにまとめた感はあるけどな。
一つの推測としては、神武を含む一行が筑紫に滞在中出雲の国譲りが始まって、
で、話がついた後畿内に進行したと考えた方がなんかしっくりくるもんな。 685ニュースソース検討中@自治議論スレ2018/12/23(日) 21:15:16.28ID:O//bT+3g>>689
>>683
君へ質問する 奈良をヤマトと呼称しだしたのは何時からですか >>714
「教えて君」は5ちゃんねるでは邪険にされるのが常
かなり親切に応対した方だぞw
しらべればわかるれべるのことはじぶんでしらべなさいな >>713 青銅鏡を割ったのは九州だけじゃないぞ
九州は青銅剣の出土が多く
銅鐸は中国、四国、近畿、中京が多い。
このことから九州は好戦的、
中国、四国、近畿などは祭祀によって聯合したと考えられる。
鬼道を事とした邪馬臺国聯合の盟主は近畿だった。 >>720
一応僕は、高校必須科目だった世界史で説明されてる程度のキリスト教の知識くらいは持ってる。
もちろん、教科書レベルの三位一体説の説明も知ってる。
そういった知識をもとに述べた >>680 に対し、
教科書と矛盾するような理屈で文句付けてきて、
>>702 の
>自分の知識のなさを文句を付けることでごまかさないこと!
みたいなこと言った挙句、更に
>しらべればわかるれべるのことはじぶんでしらべなさいな
といった逃げ口上か?
奴隷や下民が中国まで来て布教活動してたと言いたいの? 再掲
「教えて君」は5ちゃんねるでは邪険にされるのが常
かなり親切に応対した方だぞw
「教えて君」は嫌われるってのを自覚しなよ 蛮族に布教するための教義は、教会のお偉いさんが決めるんだよ
まあ、異教徒への布教は過激派が行うってのも通例だけどね
ネストリウス派は三位一体を認めないがゆえに異端とされ、
キリスト教世界の外に活路を見出そうとしたということもある 教科書レベルの知識で矛盾起こしてるやつから嫌われても、痛くもかゆくもないな。 まるで、5ちゃんは中卒のたまり場で、高卒以上は嫌われるよって言いたげやな。 ノーベル賞(医学生理学賞)受賞の本庶佑先生の名言「教科書に書いてあることを信じるな」
⇒「そんなの常識(当たり前)」と思ってることも先ず疑って掛かれ」だからね。 一般常識から外れた理論を展開する場合は、自分から説明すんのが筋でしょ。 >>725
君は直されているポイントが理解できていないんだよ
>>680の
「ユダヤ教・キリスト教等と起源を同じくする中東信仰の類が
流れ着いて来たとかじゃないの?」
これが、キリスト教以外の中東信仰の類では聖母信仰はないからありえないって話
徐州汉代天主教福音铜镜銘文の「徳母目人子」が「聖母子」を示すものと思われるから
キリスト教が伝わっていたと考えられる、という話をしているときに
「母親を敬う信仰はどこにでもある」っていうのが、どんだけ的外れか分かるかい? 相手にくってかかりたかったら、自分で相手に対する反証を挙げて指摘すればいいんだよ
それもせずに教えてくれないのはお前が悪いって言われてもなw
三掲
「教えて君」は嫌われるって自覚しなよ >>729
まず君は、僕の論点を全く理解してないな。
>>680 のユダヤ教・キリスト教等と起源を同じくする中東信仰の類を
一神教だからあり得ないといちゃもんを付けてきたのに対し、
一神教かどうかわからないはわからないし、僕は違うと推測してるだけ。
その挙句に、 >>696 や、>>702 と言いだしたので、
教科書レベルの矛盾を指摘しただけ。
一方が勝手に主張して、僕が全く相手にしてない部分を取りあげて、
僕の論旨は全然読んでない状態でなんか指摘されても意味ないよ。 「高卒レベル知識無視君」に嫌われても、痛くもかゆくもないな。 >>717
そうだね
記紀当時の口伝伝承とは神事の由来から得ている部分もあるだろう
当時まで残った風習と伝承を後世の人が推測をしてストーリー付けしたものが神代の記述なのだろうね
記紀を編纂した稗田阿礼は巫女だという説がある
モモソヒメや豊鍬入姫命の様に祭祀を受け持つ人からの伝承が記紀に伝わっているとするとこれらの伝承の検証は邪馬台国の謎の参考とする価値があるように思えるね >>715
自分も調べてみたのだが、確かに由来は武家の作法と言われている
だけどまだその奥がありそうだね
そもそも由緒のある武家は八幡神を信仰しており神道行事が慣習化したようだ
その八幡神とは神功皇后を主な祭神とする九州由来の神
疑問に思っていた古墳の副葬品の割れ鏡の謎が見えてきた気がする
弥生後期から続く慣習が現代まで残ってるってのは凄いことだな
これは渡来系や半島からの文化侵略が起こらず民族が永続している証拠でもあると思う >>733
どっちかっていうと、記紀の年代が考古学的にはいつ頃となるのか、
まずそっちをはっきりさせて欲しいかな。
推古天皇より前を1年を2年と数える方法で年表を作成し直したとき、
おおよそ記紀の事柄が一致するのかしないのか知りたい。
神武東征、箸墓古墳(←最近追加)、神功皇后の三韓征伐の年代は結構合ってそうだけど、
雄略天皇の刀の年代とか、考古学的にわからんのかな?
あと百舌鳥野にある古墳の年代をすべて特定してくれるとか。
他にも、記紀に書かれてる事で年代特定できそうなもん無いのかな? >>714
つまり、中国で、三角縁が、出にくいものは、
この三角形が何かしらの中国正統王朝と
違うものをいみしたのか。
三位一体の三角形か、菩薩の指の三角形か、
キリストの指でつくる三角形かは、わからない。
ただ、尊一帝 との銘文は、かなり
一神教をかんじるからね。 >>735
仰る通りそこが解らないから本当に困る
画期的な年代測定法が開発されることを願うね
個人的な感想だけど、記紀はその性質から推古天皇あたりの伝承が一番信用おけないが、年代は誤魔化しようがなかったと思う
どこかのタイミングで年代がスキップしていると思うんだ
例えば新嘗祭などの神事の回数を年に当てていて、行われない年は飛んでいるとかね
今ある程度測定するとしたら系譜を複数充ててみておおよその世代を特定する方法がいいと思うけどそれこそ学者の仕事だな >>737
遣唐使以後の年代はズレようがないはずだと思うからね。
僕は今のところは推古天皇の時に送ったのが第1回遣唐使だと信じてる派かな。
まだ、中国の王朝ではなかったが。
だから、現時点では一応推古天皇を区切りと考えてる。 >>731
>ユダヤ教・キリスト教等と起源を同じくする中東信仰の類
>一神教かどうかわからないはわからないし、僕は違うと推測してる
これだけは老婆心として伝えておくけれど、
ユダヤ教・キリスト教等と起源が同じ宗教の人が、一神教ではないと言われたら、
侮辱されたとしか思わないよ
彼らは、一神教こそ正しい宗教だという信仰だからね
高卒レベルの知識があると言いながら、宗教に対する常識がなさ過ぎ 記紀の年代については、雄略天皇の即位以降は大きなずれはないとされているよ
そこから神功皇后あたりまでで二運120年ずれるとされている ID:hU4CNJaAは前方後円墳が農地開拓の残土とか言ってたやつだろ
ただのトンデモやろう >>739
>>708 に書いたが、
wikiの情報では一神教の原型がかたちづくられたのはヘレニズム時代で、
それ以前に分化してれば一神教になってなくてもおかしくないだろ。
スレに書いてること、もうちょっと読んだらどう?
常識がなさ過ぎ 古墳の解釈で絡んできたやつも、高校レベル知識無視君と同様な人間だったってことか。
まあ、議論にすらならないやつだったから途中から無視したけど。 >>740
推古天皇より前の1年を2年で数えてたとしたら、
雄略天皇即位は干支が一回りくらい後ってことになるけど、
大きなずれはないとされているのは、何が根拠なの? へぇ〜記紀の検証を行えば邪馬台国の謎解きができるなんて考えの人が今だに居るんだね。
驚きです。
無駄だと思うけど。
そんなのより旧唐書の倭人伝や日本人伝を読んだ方が良いんじゃない。 九州にあったと思ってる邪馬台国にそれほど興味があるわけじゃなく、
日本の歴史を知りたいなと思ってるだけだけどね。 >>744
>推古天皇より前の1年を2年で数えてたとしたら、
この前提が既におかしい
1年を2年で数える、というのが雄略天皇よりも前の世代のこと
日本書紀の紀年論という研究があって、雄略天皇から持統天皇の途中までが
元嘉暦で書かれていて、持統天皇の途中から当時最新の暦の儀鳳暦に
切り替わっている
で問題は、雄略天皇より前がその最新の暦の儀鳳暦で書かれていること
つまり、雄略天皇以降はきちんと元嘉暦での記録が残っていて、それ以前は
大陸の暦法での記録がなかったから書記編纂時の儀鳳暦で、暦を計算しなおしたということ
ここから、雄略天皇までは極端なずれはないとされている
実際、大陸の宋書の倭王武と雄略天皇の実年代に大きな齟齬はない
>雄略天皇即位は干支が一回りくらい後ってことになるけど、
これは前提がおかしいのは先述のとおり
>大きなずれはないとされているのは、何が根拠なの?
これも既に書いたけれど、宋書との対応で問題ないとされている >>746
>九州にあったと思ってる邪馬台国に
どんな情報に接したら、今どきそんな封に思えるのか疑問だけれど
>それほど興味があるわけじゃなく、
そんな言い訳かまさずに、九州説を信じてますっていえばいいのにw >>743
横レスだが、古墳を開拓時の残土とか主張してるんだから高校レベル知識無視は自分だろwww
普通、議論してたら相手が自分より知識があるかどうかは判断できると思うけどな
古墳の議論をはたから見てたが酷かったぞ >>747
興味が募るようなら今後紀年論を詳しく勉強してみるだろうけど、
どんな情報を元に誰が元嘉暦で書いたのか、
当該天皇の時代に外国の暦と合わせる習慣があったかが問題かな。
Wikiによれば朝鮮史とのからみらしく、
記紀ー朝鮮史ー中国史を比較して初めて結論が出せるんだろうから、
現時点僕が持ってる情報ではまだ納得とはいかないかな。
僕が読んだ範囲の記紀には宋に使いを送った記述は無かったから、
現時点ではおそらく天皇家が関わったことではないと思ってる。
仲哀天皇が西の海の向こうに土地があることを知らなかったことから、
古代において揚子江流域以南と交流があったのは九州地方だったと思ってるし。 >>749
既に議論済みのことを蒸し返すあたり、 >>739 と同等レベルのやつだったからな。 古墳の解釈についても、宗教に関しても、低いレベルのレスは今後無視するから。 >>751
まあ、Wikiでググって頑張れや
お前から見れば、学者はみんな高校レベルの知識がないってことになるんだろうけどw 日本の古代歴史学者が、まともに一般常識レベルの議論をできないなら、由々しき問題だけどな。
もしそうなら、税金の使い道をあらためて検討し直しておくべきだろうな。 >>750
>僕が読んだ範囲の記紀には宋に使いを送った記述は無かったから、
記紀の雄略紀を読めば、遣「呉」使が出てくるよ
「宋と書いてないから違う」とかいうレベルなのかい? どうしてID:hU4CNJaAは、定説になっていることを「自分はそうは思わない」で、
間違いにしちゃうんだろうね? >>755
吳国遣使貢獻也等の記述が複数回あったことは確認したよ。
雄略天皇が揚子江流域と交流してたことが確からしいことは分かったが、
相手が宋なのか梁なのかは現時点では未確定かな。
まあ、中国との交流があったにもかかわらず、
暦の違いを放置したかどうかには疑問が生じることにはなるかな。
もう少し情報を集めてから、結論を出すことにするよ。 梁に倭国が遣使した記録は大陸史書にもないんだから、宋でいいだろうに
なんだかんだ言って、日本書紀も読まずにエラそうにしてたのかってのもあるし
基本的な知識が足りないんだよなこの人は ついでに書いておくと、元嘉暦は南朝宋代の天文学者・何承天が編纂した暦法で、
宋に遣使した雄略から元嘉暦で記録が残されていたというのは整合性が取れてる 高校教科書レベル知識の矛盾の指摘に対して定説がどうたらこうたら、
ID:Y4Mohlqvは、自分の矛盾が恥ずかしくないんかね?
教科書に書かれてることは定説じゃないんですよと言いたいの? 東晋、宋、南斉、梁と倭国からの使者の記述があることから、
記述の一致が見えるまではどの時代かは確定できないな。
雄略天皇前後に呉等に使い送った記述がないかは気が向いたら確認しておくよ。
雄略天皇が6世紀に使いを送ったとすれば、倭国とは別扱いということになり、
矛盾しないことになるんだし。 高校教科書レベル知識の矛盾を棚に上げ、えらそうに書きまくる事はOKなの?
既に議論済みをことを蒸し返したり、一般常識レベルの議論すら展開できない状態で、
知識が足りないなどの逃げ口上を使い、えらそうなことを書きまくってる方がかなり問題だろ。 畿内説はまず隋書とか言ってる時点で邪馬台国の4百年後を言ってるわけで。
ヤビタイコクでも探しとけ暇人。 これがいわゆるネット弁慶ってやつか
実際に見るとすげーな
一人だけ大量書き込みしてるし >>734 神道が渡来人の祆教だわ。
秦の始皇帝がペルシャあたりの中央アジアからきて秦で武力で中国統一させる。
祆教の一派の徐福部隊が3000名以上引き連れ東へ遠征する。
徐福らと共に沖縄・奄美の東鯷部族が遠征し、日本本土へ向かい扶桑国と大和を築く。
沖縄から佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県,和歌山,山梨県,京都,愛知県、千葉県と徐福と東鯷部族集団が拡大する。
佐賀に上陸した集団元祖住吉本社。宮司ら不明
近畿に上陸した集団は住吉神社津守氏。大和国になる物部氏やら旧天皇家へ。
愛知に上陸した集団は草薙神剣にもつながる熱田神宮の尾張氏。
神社を丁寧にたどれば大和国らの歴史が見えてくると思う。
新大和の突厥系気比(吉備)神社や、藤原家や平家の厳島神社はまた別勢力で。
中国大陸と密接に交流しているのは扶桑国しかいない。
中国からみれば、朝鮮半島から沖縄、房総まで活動していた倭国。
扶桑国=東鯷部族の沖縄・奄美=卑弥呼=ユタ==邪馬台国=北九州、播磨、東海。
逆に沖縄・奄美の東鯷部族と徐福集団=扶桑国がユタ新興で神道=邪馬台国なのだろう。 三種の神器=徐福東鯷部族の扶桑国=天皇家につながるんだわ。
邪馬台国=倭国=大和はかなり難しいこじつけ。
近畿上陸した渡来系住吉神社の物部、大伴氏らが近畿の地主葛城氏と大和国。
中国なんか知らないレベル、出雲や東北、九州ら地方王族が大勢いた。
しかし5世紀頃、新大和の突厥系部族が北陸から上陸。気比(吉備)神社。
旧大和と手を組み日本統一。
桃太郎の鬼退治で、天智天皇ら新大和勢力派ら突厥の吉備国は突如国が歴史上から消されてしまう。
日本書紀ではわからないこと。 東北の蝦夷は大和国以上の文化があったと思う。
奥州平泉はその象徴だわ。
逆に東北を調べていくと、正しい日本の歴史がわかるのではないかな。
東北の仏教と蘇我系は少し違うし、厩戸皇子、蜂子皇子がなぜ山形?
ソーラン節から青森のユダヤまで面白いと思うわ。 IDコロコロでも情けないし、集団で一般常識無しも、どっちにしても情けないな。 >>774
東北が栄えたのは平安時代以後だと思うし、
京都(政権)・筑紫があって初めて東北の繁栄があったと思うかな。 絶対に結論が出ない物事に
いつまでもグダグダ関わってる奴は
原始人以下の非科学的クズ人種だ ここに集う住人は「桃の種」出土の件を歯牙にも掛けてないってこったなw >>763
>南斉、梁と倭国からの使者の記述があることから、
ほら、言われた端から知識の欠如を露呈してる
南斉と梁の記事は王朝創立時の倭王武の「進号」記事で、
倭からの朝貢記事じゃないんだよ
南斉と梁は前王朝から禅譲された体裁を取るから、
前王朝の除正は基本踏襲で、さらに新王朝の徳を示すために
ご祝儀で信号してるんだよ
この南斉書、梁書の記述をもって、記紀の雄略死後に倭王武の
朝貢があるから倭王武は雄略じゃないとか言い出すのは噴飯物
>>763も5ちゃんねるではともかく、表でそんな話をしたら、
大恥をかくから気をつけてね! >>767
>高校教科書レベル知識の矛盾を棚に上げ、
それ、具体的に根拠を挙げて指摘してごらん?
どこがどう、何が何と矛盾してるのか、具体的に書いてみなさいな >>778
>ここに集う住人は「桃の種」出土の件を歯牙にも掛けてないってこったなw
桃の種は「年代測定の材料」であって、桃の種であることにはあまり意味がないからな
まあ、桃は大きめの核果なので、14C年代計測試料に適しているということはあるけれど 卑弥呼の時代、本場中国ではお供えの桃の種をどうしてたんだろう。
道教的なのか儒教的なのか。 >>777
>絶対に結論が出ない物事に
>いつまでもグダグダ関わってる奴は
>原始人以下の非科学的クズ人種だ
すべての人間にケンカを売ってるなww
結論のない、究極のフレーズを探す音楽家や
結論のない、至高の一皿を追求する料理人や
結論のない、最高の建築を目指す設計士や
結論のない、歴代最高の話芸を目指す落語家、その他すべての人間の営みをばっさりやんww
研究者にしたって、3日で結論の出るようなテーマの研究してる人なんていないし、
研究はそう簡単に結論が出ないものだぞw
一方で、邪馬台国の所在地論争なら、既に結論は事実上出てる
それを認められないー、教科書に書いてあっても定説じゃないー、
末盧国も伊都国も奴国も比定地は決まってないーってなんにでも駄々を捏ねる人が少数いるだけ >>777
もしかして、邪馬台国論争がいまだに続いてると思ってる?
実質的にもう畿内説で決着して、教科書も書き換えられてきてるんだけど >>785
全然民間の研究者を納得させれてないみたいだが?
勇み足では?
教科書を信じるな、とある方が言われてたが、なるほどなぁ、とこの件でも感じたよ
確実な証拠も無いのに、さも事実のように扱われ、深く考えもせず信じることになるのは怖いことだな >>786
>全然民間の研究者を納得させれてないみたいだが?
>勇み足では?
いや、民間の人たちは好きでやってるだけの研究家であって、研究者じゃないしw
その人たちは、ただ単に「納得してないぞー」って根拠もなく言ってるだけだから >>787
>あなたは何処の国の人ですか?
その納得していないといい続けている人たちのやっていることは、
役所に大勢で押しかけて、業務妨害して横紙破りを強要するのと同じノリなんだけどね
他人に何処の国の人と問う、あなたは何人?(なんにん?じゃないよw) >>773
>邪馬台国=倭国=大和はかなり難しいこじつけ
別に「難しいこじつけ」じゃないぞ
「倭」と「和」は声譜「禾=のぎ、音読みワ、クヮ」を共有する漢字だ。 海行かばの大伴家持
奈良政権は海で戦ったことは無く
九州倭国の白村江の戦い想起して詠んだと思われる 日本の歴史教科書の明治以来の大間違いを訂正するときが 日本が正常な国となります >>793
>明治以来の大間違い
そう思っているのは「特定」の人たちだけだろw >>786
>全然民間の研究者を納得させれてないみたいだが?
いや、ただのクレーマーでしょ
どこの世界にも一定数のクレーマーはいる
邪馬台国を九州だとするためには、日本の古代史を全否定するような人たちもいる
ヤマト王権の存在さえ認めないし、飛鳥時代でさえ日本は小国乱立のバラバラ状態だと言い張る
そんな人たちは納得しなくていいし、放っておくだけ >そんな人たちは納得しなくていいし、放っておくだけ
つまり「そんな人たちは説得できないし、手におえません」と白旗揚げてるだけじゃないの?
>飛鳥時代でさえ、、、
と極端な九州説の例を挙げているが卑弥呼のいた三世紀後半に限定にしたら尚さら微妙なのでは? 畿内ありき、九州ありきでものを考えるのはつまらん
考察や検証の帰結として場所を提示し
それに対する論考をするのが面白い議論のしかた
卑弥呼の議論はそういう格好のネタなんだよな
なので一部で言われてる東海説や福井盆地説なども着眼点が面白ければ一考の余地がある >>797
>つまり「そんな人たちは説得できないし、手におえません」と白旗揚げてるだけじゃないの?
畿内説は古代史の通説を前提にして論が組み立てられているので、
その前提を認めない人たちとは議論そのものが成立しない
とっくに通説になってる日本の古代史までも否定してる電波さんは放置でいい
>極端な九州説の例を挙げているが卑弥呼のいた三世紀後半に限定にしたら尚さら微妙なのでは?
日本の古代史の通説を認めるのなら、全然微妙ではない
土器編年、今回のC14年代測定、中国鏡の編年で整合性が取れてるから
畿内説を否定するする人はここで「ヤマト王権の存在さえ認めない」と開き直るパターンが多い 土器と桃の種と鏡の編年だけで断定できてしまう畿内説って凄いよね。
傍証も無しに結論着けてしまうのか?
オマケに「日本の古代史の通説」だなんて、、、そんなものがあるのかよ。 >>792
「海行かば」の次には「山行かば」云々が続く
はい論破w >>799
論証が無いものだから通説にはなってないよ。
畿内説は今でも一仮説のままだよ。
もっとはっきりとわかる遺跡や古墳を発掘しなければね。 卑弥呼の時代の遺跡が九州にみあたらない理由は、
九州説畿内説共にそれぞれの説明が必要なのかも。
九州説はそのものずばりだろうが、
文献上は畿内より早く大陸との交流があった九州北部に
纏向と同程度の遺跡が見つからないという不均衡を
畿内説は説明する必要があるのでは。 戦国時代なみに国が別れて敵対してたなら、北九州と山陰位しか中国と交易無理じゃない
敵の土地使って交易した大名とかいたっけ? >>805
それ悪魔の証明と同じだろ
悪魔が存在すると主張してる側に立証義務がある >>807
それな。
弥生時代に畿内説の言うような統一国家が成り立っていたなら、戦国時代なんか無かったわけよ。
日本が本当の統一国家となったのは明治維新以降だと思う。 >>807>>809
同じ理屈で筑紫平野とか熊本平野の勢力が中国と交易するのは無理になるな >>800
吉野ヶ里は楼観が有ったという考古学的証拠もなしに
倭人伝の記述に合わせて楼観を捏造したwww >>798
>福井盆地説なども
福井のどこに盆地があるのか教えて? >>805
>纏向と同程度の遺跡が見つからないという不均衡を
>畿内説は説明する必要があるのでは。
衰退したからでしょ?
他地域では、「小河川の流域」を超えた広域での地域首長の析出・権力の伸長が
巨大な弥生墳丘墓の築造から見て取れるのに対し、北部九州ではその地域王権の
伸張が見られない(大墳丘墓の築造に進んでいない)
そして、纏向はそうした首長層の連合の上に建設されたものだから、それに
匹敵するものが九州にないのはむしろ当然だと思うが? 纒向は違うなあと言われてるのに比較対象としてる時点で噛み合ってない。
今時点、邪馬台国と言える遺跡は何処にも無い状況なんだから。
宮殿のような遺跡、かつ福岡や出雲?との密接な関係を意味する出土品。
これを探そうや。 >>804
>論証が無いものだから通説にはなってないよ。
論証は十分にされてるし、「邪馬台国は大和纏向」というのは通説になっているよ
定説にはなっていないけれどね
大体が、
定説>通説>多数説> >仮説≧一部説・少数説>作業仮説
くらいの確からしさ
複数の仮説がある中で、最大多数が認めているのが多数説
通説まで来ると、偏屈以外は大体認めている
定説は、反論する人も中にはいるけれど、事実上決まりという状態
定説まで行っても、あくまで「説」だから事実という訳ではないのだけれどね
>>804の言い分だと、定説でもあくまで説だから事実じゃない、って言い張っているだけの
人の考え方になるよw >>816
>宮殿のような遺跡、
これが何を意味するかが不明
辻地区の掘立柱の大型建物は、弥生時代基準なら十分に
「宮殿(王の住まい)のような」と表現できる
>かつ福岡や出雲?との密接な関係を意味する出土品。
出雲の土器は十分に出ているし、出雲でも畿内様式土器が出ている
密接の定義しだいだが、単発ではない人の行き来は十分に想定できる
福岡では畿内様式土器が庄内期から多く出ている
また弥生後期の吉備甕が、北部九州でも畿内でも出ているから、この間の
往来も確保されている
何が不満なんだい?
纏向遺跡は、もともとの奈良盆地内の中心ではなく、新造の都だし
邪馬台国七万戸という場合には、畿内第V様式土器を共通に使う範囲と認識されている
河内では出るけれど纏向では出ないから纏向は邪馬台国ではないというのは無意味
>これを探そうや。
探すまでもなく、現在までの出土物で十分に説明できるし論文も多く出てるよ
何が不満なんだい? >>818
君がそう思ってるだけ。
畿内説の学者からも嘲笑されそうな言い分だな。 >>819
>君がそう思ってるだけ。
いつも書いてることなんだが、批判したかったら、
「論点を明確にして」
「具体的に」
「根拠を示して」
反論してくれないかな?
この場合、『どこ』が「思っているだけ」なのか
『どのように』「笑われる」のか
根拠を挙げて具体的に書いてくれるかな? >>818
2世紀頃には交易があったような形跡もあるが、3世紀になると全く付き合いが無いってことだろ。
南が東の間違いだと言うのであれば、畿内は倭国大乱で決別した狗奴国だろ。
卑弥呼派の九州と狗古智卑狗派の畿内ってことよ。 >>809
僕は平安時代から筑紫ー京都ー東北とそれを結ぶ瀬戸内、東海道、日本海航路で
中国との交易のための非常に強固な経済的繋がりを持った
国家と言っても過言ではないものが天皇家を旗振り役として存在してたと思うけどな。
非公式には、京都と同盟関係にある出雲族等が更に北海道、千島列島にまで
入ってたんじゃないかと思ってるかな。
戦国時代は将軍や幕府の権限みたいなものを制限しようとするのに対し、
鎌倉幕府同等かもしくはそれ以上に拡大しようとする勢力との争い、
それに便乗して金儲けしようとする輩の暗躍、
更に非公式だったアメリカ大陸における利権の大幅減少が引き起こした
ちょっとした騒乱の時代だったと思ってるかな。
まあ、平安時代以後最も秩序を失った時代ではあったんだろうけど。 >>811
高い柱は、楼観以外何の目的で建ってたってことになるの?
確定とまでは言えないまでも、最も可能性の高い仮説であるとは思うけどな。 >>824
高い柱だというのも仮説だろwww
出雲大社の柱跡は楼観だと云うのかw
ものすごく主観的な仮説じゃないか。
町興しのためには手段を選ばないのが九州説。 >>815
九州北部で王権の伸張が見られないのは北や西ばかり見てて、
東や南に全く興味を示してなかったからだと思うけど。
つい最近まで日本が欧米ばかり見てて、
アジアにほとんど興味を示してなかったのに似てるんじゃないかな。
加えて、同じやり方を続けてはそれ以上向上が
当時の文明では物理的に望めないところまで達してたからだと思う。 >>825
だから、ひとまず可能性の高そうな仮説を採用することがなぜいけないの? >>804
>畿内説は今でも一仮説のままだよ。
だから、戦後長い間ずーっと中立だった教科書もついに書き換えられたと言ってるだろ
いったいどんな偏った情報を見てるんだ >>822 >>818 >>816
九州北部が出雲と深い同盟関係にあるようなら、
狗奴国ごときにそんなにビビる必要はないと思うから、
むしろ出雲との関係が希薄なことが邪馬台国の可能性を高くしてると思うけどな。
出雲が大和に味方したことをきっかけに
大和が大きく発展していく転機を迎えたってだけだろうと思うけど。 福岡県春日市がヤマイチ国 其のなかのヒミカの宮殿をヤマタイ といいます
ヒミカの呼称の由来は筑後風土記中の八女のミカヨリ姫からきます 正しい歴史
倭国の始まりはイトシマのクシフル岳から 東へ山を抜けて ヨシタケタカギ(ここのニニギの墓あり)
更に東へいき春日市スクオカモト(ここがヒミカの墓殉死者100人と眠る)更に東南へ移動して太宰府
ここがトトクフ都府楼倭国の首都で周囲に城を築く 倭の五王からタリシホコ岩井サチヤマ白村の戦いまで
続く
700年以降 奈良政権が日本列島を代表し外交を始める >>816
>纒向は違うなあと言われてる
まるで大多数の専門家が違うと言ってるような書き方だが、誰が言ってる?
嘘はダメ
専門家でそんなこと言ってるのは関川氏くらいで、他にいたとしても極めて少数のはずだが >>822
>卑弥呼派の九州と狗古智卑狗派の畿内ってことよ。
ということは、女王国・邪馬台国の「南」と魏志倭人伝に書いてある狗奴国は
実は「東」にあったという主張な訳だね
つまり「南」は「東」に誤記であると
そういう誤記を認めるなら、水行二十日のところの「南」を「東」と考えた方が
素直な理解ができるよ? チョウと墳の違いも解らないで 此処に書き込むのは恥ずかしい 倭人伝も読んでないね >>826
>九州北部で王権の伸張が見られないのは北や西ばかり見てて、
>東や南に全く興味を示してなかったからだと思うけど。
理由をどう想定したところで、北部九州が弥生終末期の地域王権伸長の時代に
取り残されて、倭国内での相対的な地位を低下させたのは考古遺物からあとづけられる
それから九州が「西」を見てたって、何を想定している?
九州の西は、東シナ海で当時は渡れない海だよ? 邪馬台国、卑弥呼のことは置いといても有史ではない三世紀〜七世紀のヤマトって面白いよね。
「いったい何があったんだ?」って感じでw >>837
他の地域のように伸びしろを持ってなかったことには
同意してくれたとみていいんだよね。
朝鮮半島西部では弱いながら西向きの海流があるので、
中国に渡ることができなかったとは思わない。
困難な航海だったとは思うけど、
少なくとも、黒潮がある沖縄や伊豆諸島への航海よりは
ましだったんじゃないかと思ってる。 >>829
>狗奴国ごときにそんなにビビる必要はないと思うから、
そんなにビビってたようにも思わないんだがな
狗奴国は東海から関東の範囲だからそれなりに広いけれどね
地名として残っている山名郡久努郷辺りを含む国だろう
旧事本紀の国造本紀に久努国造が見えるし
まあ、卑弥呼の倭国は共立で立ち上がった新秩序なので、
卑弥呼は連合全体に兵を出すように号令できる立場ではない
狗奴国はそこまで大きくない普通の国だと思うよ >>836
>チョウと墳の違いも解らないで
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
なんて書いてある史料もあるんだけどね
始皇帝陵が「冢」と表現されていて、さらに「墳高」という表現が使われている
「冢」と「墳」がそんなに区別されてなかったってこ が分かる
多分>>836は、諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺」とあるから
「山のように大きいのが墳」「棺を容れるに足るだけの小さなものが冢」だと
言いたいのだと思うけれど、それは誤読
諸葛亮は戦争中なのだから、自分の墓に国力を使わないように
「山によりて墳と為し(山を自分の墓の墳に見立てて)、
冢(実際に造営する墓)は棺を容れるに足る(程度の小さなものにせよ)」と
遺言したのであって、「冢」だけで小さな盛土を意味するなら、こんな遺言はいらない >>840
どう思うかは人それぞれだと思うけど、
僕が魏志倭人伝を読んだときは、狗奴国という強大な敵を前にして
争いをやめ女王を共立し、更に周辺国に対して正当性を示すため、
朝貢して魏から倭王の称号を取り付けたと考えるのが自然だと思ったかな。
ポテンシャル的には関東>中京>畿内>九州北部だと思うから、
既に中京・関東にそれほどの人口があったなら、
日本列島の中心地は7世紀頃には中京か関東になってたと思う。 >>843
ずいぶん昔の話で正確に覚えてるかどうかは自信はないが、
観光に行ったとき、吉野ケ里で働いてた人が、深い柱状の穴があったので、
?メートル以下の柱が建ってたと推測されるみたいなこと説明してた。 >>830
>ヤマイチ国 其のなかのヒミカの宮殿をヤマタイ
なんで「ヤマイチ」、「ヤマタイ」と2通り使い分けるんだ?
なんで「卑」を上古音のピと読まないで江戸時代以降のヒと読むのか
理由を説明してくれ。 >>838
そうだね
だいたい古墳の当時の基本的な思想も不明だし、あれだけ重視されてる祭祀の本質も想像の域を出ない
気候変動に対する畏れは今の比ではなかっただろうなぁ
火山による日照不足なんか特に火山から離れた地域では意味不明だったはずそれこそ神を想像しただろうね
歴史の記述は常に建前の世界
その奥にある本音を読み取らないと脳みそから快楽物質が出てこないw >>827
その可能性が高いという根拠は何処に有るんだ 一般常識欠落してるやつとは議論する気にもなれんな。 >>846
>なんで「卑」を上古音のピと読まないで江戸時代以降のヒと読むのか
>理由を説明してくれ。
でもさ、奈良時代には「母」をpapaと発音していたのは確実だが、それでも
意味するものは現代の「はは」と変わりがない
「ぴめ」と発音することにこだわったところで、その意味が「姫」であるなら
現代人が「ひめ」と読んで理解することに目くじら立てる必要はないと思うんだが? >>849
>一般常識欠落してるやつとは議論する気にもなれんな。
そうだね
どこかで聞きかじってきた、古墳の土は開発残土っていうのを信じきっていて
修正が利かない人とは議論にならなかったよ そういやそういや、既に議論済みのことを蒸し返して、
話をループさせて逃げ回ろうとしてたやついたな。 修正が利かないって、同じこと何度何度も書かせようとされるのにはうんざりしてたろうな。
無視されて最後のレスは自分ので終わったんだから、それで満足すればいいのに、
まだか絡もうとするなんて、マジ情けないやつやな。 ここらで「しじみ」氏にお願いしたいんだが、★13は立てずに12で終わりにしない?
ID:dIkAG6SFみたいなのが湧くばかりで、もうみんな興味もなくしてるし >>853
>無視されて最後のレスは自分ので終わったんだから、それで満足すればいいのに、
無視されてじゃなくて、間違いに気づいて逃げただけだろ?
間違ってましたの一言も言えずに 堤をを作ることを開拓と思ってない、一般常識が欠落してるやつのことか。 高校教科書レベルの知識が欠落してたり、一般常識が欠落してるやつ擁護して、
知識が無いとか言って文句付けてくる奴とか、ろくなやついないな。 >>858
ご本人なのかな? ID:dIkAG6SFは?ww 西殿塚古墳やメスリ山古墳周辺のどこに堤があるっていうんだ?
まだ、間違いが認められないんだwwwww まさか、畿内説の古代史学者ってこんなやつばっかりってことじゃないよな? >>861
で?
川と堤にどんな関係があるの?
現代の水路が弥生時代から共通だとでも思っているの?
グーグルストリートのURLを貼って、何に反論したつもりになってるの?
「尾根を切って地山生計で作った墳丘」のどこに、
「開発残土が墳丘のリソースっていう説」とかかわりがあるんだい?
そもそも、「開発残土が墳丘のリソースっていう説」は高校教科書にも書いてないし
高卒程度の常識とは関係ない説だぞ?
間違いを認めたら、一生、下の地位になるっていう価値観の持ち主なのかな?
反論したという形式だけで、何か言ったつもりになる人なのかな? 、「冢」だけで小さな盛土を意味するなら
正解です 直系25mの円形です タイとは天子の居るところです ヤマタイと言えばヒミカの居るところです
ヤマイチ国の中にヤマタイという宮殿がありました ココの畿内説は、論理思考が無いから論破されても理解出来ないんだよ。
未だに纒向遺跡がー!とか箸墓古墳がー!
なんて言ってるあたり糖質確定だろよw なかなか香ばしいやつがいるな
平成か昭和に造った堤防の残土で古墳時代に古墳を造ったとはw
しかもその周辺には古墳ないし 古墳は開拓残土って、どっかのトンデモ動画で見たことあるわ
典型的な「ネットde真実」だわな 別のサイトだけど、銅鐸は時計だかカレンダーとか言ってるやつもいた >>866
一番の根拠は、「王の墓だから列島最大のものが第一候補」ってことだよ?
海外資料に、倭にはH1という女王がいたとある
考古学的にほぼ同じ頃、奈良県にH2という隔絶した大型墓があった
これ、普通H1さんの墓はH2だと推定するだろ >>870
それを編年の怪しい箸墓古墳だと断言しようとするから、おかしくなるんだよ。
多数の殉葬の形跡でもあればまだ理解できるが、今の段階では無理矢理こじつけているようにしか見えない。 >>872
ほんとそれ
納得させる材料が足りない
箸墓の状況で卑弥呼の墓と断言できる人はビットコインに投資する人と同じ感覚だと思うわ >>872
逆に、箸墓が卑弥呼の墓だと分かれば、編年の定点が得られることになるんだよ
あまり意味のある反論じゃないな
僕ちんは気に入らないんだーって、言ってるだけ >>850
それじゃ「呼」を「か」と読む理由は何だ。
ヒミコとヒミカでは理解の仕方が変わってくる。
そういう自己矛盾に気が付かない摩訶=莫迦=馬鹿なのかw
首尾一貫性がない統合失調症患者なのか >>876
>それじゃ「呼」を「か」と読む理由は何だ。
>>850だが、ヒミコと読めばいい、という趣旨で書き込んでるんだが?
何か勘違いしてないか?
ヒミカと読みたがるのは古田史学の会の九州王朝説の人たちだよ
その人たちに訊いてくれ 畿内、九州、、、どちらも「確定!」どころか「否定」すら出来ないよ。
邪馬台国への道のりはまだまだ遠い。 >>879
どちらも100%でない、0%でない
という状況だから、半々のようなものだということにしてる
単に論理飛躍してるだけ 箸墓は、3世紀後半と想定されていて、卑弥呼の墓というには、遅いんじゃなかったっけ。
桃の種なんていくら見つけても、話は進まない。古墳の発掘調査早く進まないかなぁ。近くにある小学校とか中学校も閉鎖して、全部ほっくり返そうよw 中心的な都市だったのは疑いようがないけど、
邪馬台国だとしたら、もっとあるはずの中国・朝鮮・九州との繋がりを示す
土器や鏡などの出土が、極端に少ないんだっけ。
>>884
それ、浜松のやつ?どうだった? >>879
九州説ロジック乙
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
九州説はこんなんばっかw >>886
>邪馬台国だとしたら、もっとあるはずの
これが単なる>>886の主観
もっとって、どれくらいあれば満足するんだ?w
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 >>879
確定できないまでも、九州北部の方が地政学的なものがかなり想像しやすいかな。
呉が高句麗と同盟を結び魏を挟み撃ち的に牽制しようとしたため、
魏は倭国と同盟を結ぶことで同じように呉を牽制しようとしたという仮説は、
朝鮮南部と倭国ににもつながるんじゃないかと想像できる。
朝鮮南部では少数派の韓(漢)人が多数派の倭人を支配していたのに
近い状態だったと想像するが、
朝鮮南部の倭人勢力のバックには強大な国力を持つ倭国の九州北部勢力があり、
朝鮮南部の倭人勢力を抑えるため新羅→出雲→大和→日向→狗奴国と関係を結んで
狗奴国をバックアップし、九州北部勢力をけん制していた考えれば、
魏志倭人伝に書かれていることが納得しやすい。 >>889
それ単なる想像じゃん
もっとはっきり言うと妄想
九州の邪馬台国候補地で、3世紀前半から中頃の中国との繋がりを示すものを出せばいいだけ
根拠のない仮説はただの妄想 >>890
畿内は川に堤を作って耕作地等を守るような土木技術を古墳時代に持ってなかった
原始的な地域だったと思ってるんじゃなかったのか? >>891
いきなり何を言ってるんだ?
意味不明すぎる
つーか、人違いだ >>892
一般常識が通じる人間が畿内説派にもいそうなので安心したよ。
でも口調や態度は一緒やな。 >>893
根拠がないどころか、物証に矛盾した与太話をダラダラ書いてるから
それは妄想だと的確に指摘しただけだ
ついでに言っておくが、朝鮮南部が倭人の多数派地域だなどと教科書には書かれていない >>894
地政学的に想像してるって書いてるだろ。
もうちょっと、人の書いてる文章読めよ。
そんなに一般常識や高校教科書レベル知識の欠如を指摘されたのが悔しいんか? 後、出雲→大和→日向の関係は物証あるみたいやけどな。 >>895
小学生の言い訳かよ
>確定できないまでも、九州北部の方が地政学的なものがかなり想像しやすいかな。
と自分で書いてるだろが
あえて「確定できないまでも」と書くのは「確定に近い」という意味と同じだ
>そんなに一般常識や高校教科書レベル知識の欠如を指摘されたのが悔しいんか?
人違いだと言ってるだろが
しつこいぞ >>897
「教科書には書かれていない」等、
やたらこだわって絡んで書き込みしてくる連中と同じ表現使ってるからな。
スレ最初から読んでみりゃわかるよ。
絡んできてるやつの程度がどんなだったか。 それから、畿内は川に堤を作って耕作地等を守るような土木技術を古墳時代に持ってなかった
原始的な地域だったと思ってそうな連中の書き込みの議論の開始点のレスを読めば、
「確定に近い」とまではいかないまでも、九州北部が有利だと思ってる理由もわかる。 >>898
古墳のあたりはざっとは読んだよ
少なくともお前より10000倍知識があるように見えるけどな >>901
じゃあ、君も畿内は川に堤を作って耕作地等を守るような土木技術を古墳時代に持ってなかった
原始的な地域だったと思ってる連中に同意なわけだね。
分かったよ。 畿内は川に堤を作って耕作地等を守るような土木技術を古墳時代に持ってなかった
原始的な地域だったと思ってるんじゃ説得しようがないからな。 >>902
お前がどう誤解しようと、デタラメな知識を持ってようと、知ったこっちゃない
そんな議論に付き合うつもりもない
北部九州が有利だと思いたければ勝手に思えばいい
だが、根拠もないし物証もない
むしろ物証に矛盾している 畿内は川に堤を作って耕作地等を守るような土木技術を古墳時代に持ってなかった
原始的な地域じゃなかった物証を出せと言われても、
学者じゃないんで考古学的物証にそんなに詳しくないからな。 >>865
また糖質古田教信者かwww
>>878
>>850には ヒミコと読めばいい、という趣旨なんて読み取れないなw 他人に読み方を強制してくるならまだしも、
個人的になんて読んでるかなんて、どうでもいい話やな。
自由に呼ばせときゃいいのに。 >>906
方程式のxやyのように仮定として卑弥呼や邪馬台国として表しているのに、いきなり問題を解きましたかのようにヒミカとか言う
そのズレ具合には失笑しかない
相手と問題を論じる場合、
答が重要ではなくその論証と過程が重要という基本姿勢を忘れている人の論議は読むに値しない
答えが間違っていても論証と過程をしっかり表した説明の方がよっぽど面白いよね 邪馬台国は朝鮮半島にあったニダ。
伽耶、すなわち任那(みまな)。
それが奈良県の纏向遺跡へ移って大和朝廷になったニダ。
奈良=ウリナラ(我が国)なのだニダ。
「みまな」は、「御真奈良」が語源ニダ。
前方後円墳もあるニダ。日本人と親戚ニダ。 >>904
横ですまんが、物証で言えば九州だと思う
卑弥呼は200年前後に共立されたと思われる
つまり、3世紀前半は既に共立後の時代
この時期に畿内の出土物、特に鉄や絹が弱い
巻向に至っては0だしな
ホケノから急に増える鉄等の文化移入は外から持ち込まれた様に思われるが、共立時にはちょっと遅い
後、大事なのは"鏡"文化だが、畿内にも少しは出てるが、量が増えるのはこれも上記と同じくホケノから
北部九州は弥生時代より既に鏡文化なので問題ないからね
まぁ、元々、大陸との交流が活発だった北部九州は物証はあって当然だから何とも言えんがな どうしても、最初の王朝を後漢滅亡前に存在したってことにしたいんだな
三角縁神獣鏡以外の出土した中国鏡の研究もやってほしいわ
日本史-日本の成り立ち を示す分野だから仕方ないかもしれんが、
関係性で理解してった方が圧倒的に面白いし覚える >>910
確かに、畿内の出土品はホケノ以前では弱いが、それでも問題ないよ
この論争のポイントは、239年〜247年の間に魏と外交を行っていた勢力がどこにあったかだ
台与も含めると、239年〜266年の間となる
まず、纒向の築造は2世紀末か3世紀初頭
畿内と瀬戸内勢力、東海、山陰、北陸の勢力による政治連合が成立したことになる
この時点では、九州勢の参加はなし
畿内勢の北部九州への進出が本格化するのが庄内2からで、北部九州での土器編年だと久住IB期、
つまり3世紀前半で、だいたい第2四半世紀あたりからになる
後に前方後円墳が築造されることを考慮すると、北部九州が畿内政権に加わろうとしていたと解釈できる
239年〜247年の時点では、畿内勢は北部九州に大勢いたし、魏使は畿内勢つまりヤマト国の存在を認識できる状況にあった
威信材を墓に副葬する文化が確認できるのはホケノからであり、それ以前にあったかどうかは不明
なかったとしても問題ない
北部九州に進出していたのだから北部九州の文化を吸収したという解釈になる
鏡の文化だけど、7期からは九州勢は中国鏡を入手できなくなってる
畿内勢の北部九州への本格進出に伴い、中国鏡を畿内勢に独占されてしまったことを示している
239年〜247年の時点で
・畿内勢は北部九州にいた
・北部九州勢は畿内政権の傘下に入ろうとしていた
・中国鏡の取引を畿内勢が独占していた
こういう状況だから、239年〜247年の間に魏と外交を行っていたのは畿内勢だと考えるのが最も妥当 >>910
逆に九州説を唱えるのなら、以下の物証が必要だと思う
・伊都国や奴国を傘下に収めていた勢力が九州に存在したこと
・その連合の根拠や物証
・その勢力が奴国の3.5倍
・九州の邪馬台国候補地で、3世紀前半から中頃の中国との繋がりを示すもの
・列島ナンバー1を差し置いて、九州邪馬台国なる勢力が魏と外交をできた根拠 一大率関連の遺物も何も見つかってないわけだし、
物証と言ってもなかなか見つからないんじゃない。 候補地から出たものが物証になるんだから、候補地がない時点で
九州説の物証はゼロということだよ >物証
物証は先ず無理だから。
文字を持たぬ民だった倭人に何を期待してるんだから。 >>913
私的には邪馬台国は北部九州連合説もあり、と思っているので、戸数は問題ないし、連合は甕棺墓の範囲で説明できる。
倭国自体は卑弥呼以前から存在していることから、北部九州には男王等を思わせる王墓の様相があるのが重要と思っている
プラス鏡副葬文化も後押しする
庄内土器の流入は交流がはじまった段階でしかなく、卑弥呼共立時には機内との関係はまだ薄い
また、土器は交流の有無しか示さない。文化の受容は市民の流行だと思う
権力者の威信材としての流行は鏡だね
本格的に畿内に入るのは布留1以降 >>912
この考察はとでも妥当だと思う
卑弥呼の出現はこの畿内と九州の文化が交錯した瞬間だと感じる
だからどちらが拠点とみるかが難しいんだな
人や物の移動は比較的早期に達成できるが、思想や産業の移動は基盤作りから始めないといけないので時間差が生まれる
発掘による地域文化の年代測定を探るとしたらやはり古墳になるだろう
九州の畿内型古墳の築造が3世紀後半以降なのは九州への文化移動が完了した証左だ
魏史の生活の描写は九州周辺の倭人すなわち海人族のものだと思う
なので当時の畿内の文化は魏史の記述とは違ってたと思う
これらを複合的に解釈すると、畿内は九州由来の海人族と繋がりを持ち、西日本の交易権を独占した
その理由は九州の習俗思想と共に半島文化を導入したいから
これは祭祀文化も含まれる
九州そのものではなく、九州の習俗と交易権を畿内が吸収した時に邪馬台国と名乗り活動を始めた
これを無理矢理記紀に当てはめると神武東征にあたるだろうな >>895
>そんなに一般常識や高校教科書レベル知識の欠如を指摘されたのが悔しいんか?
一般常識や高校教科書レベルの知識すら欠如しているのはID:bJ4Owym8の方だと思います >>918
海人族=東鯷部族=ユタ信仰=卑弥呼=邪馬台国=扶桑国
倭国の争いとは扶桑国と狗奴国の争いなのかなと?
東鯷=扶桑国=徐福
中国と交流している扶桑国は秦の徐福ら3000名の部隊で東へ遠征した。
道案内した東鯷ら徐福と神武東征がかぶるんだわ。
熱田神宮や住吉大社、伊勢神宮などもすべて海岸線。
徐福伝説をみると沖縄・奄美、鹿児島、宮崎、佐賀、朝鮮南部、三重、京都、愛知、長野、山梨、千葉、秋田あたりまである。
東鯷のユタ信仰と徐福で統一させたなら、扶桑国の沖縄・奄美が邪馬台国拠点で、九州、近畿、東海も分岐した邪馬台国になり天皇家につながる。 >>914
>一大率関連の遺物も何も見つかってないわけだし、
>物証と言ってもなかなか見つからないんじゃない。
一大率関連の遺物というには弱いが、三雲遺跡群のサキゾノ地区(端山古墳の東側)で、
三雲遺跡群の中ではもっとも早い時期の畿内様式土器が出ている
伊都国(三雲遺跡群)は奴国(比恵・那珂遺跡群)が早い時期から畿内様式土器の
流入を受け入れているのと対比的に、畿内様式土器の浸透が遅れることと合わせると
このサキゾノ地区のあたりに一大率の治所を想定したくなる
まあ、この辺はどうやっても妄想混じりにしかならないからこれ以上のことは
言えないけれど >>921
>畿内説が100%想像論な件。
それを言うのは自由だけれど、
「具体的な根拠と論証」を添えて書かなければ意味ないよ? >>920
そこ
当時の主要な拠点は海岸線
これは伊都国や奴国も含んで
瀬戸内の吉備も、畿内で目立つ出土の東海もそう
明らかに内陸で農業を営む一族ではなく、農産物を買い取り別の場所に運び交易することを担う一族が畿内で勢力を拡大した可能性があるんだな
巻向遺跡は大市と言われ当時の交易拠点。恐らく唐古鍵遺跡を引き継ぐもの
米作と交易。この二つの一族の邂逅がヤマトを生んだのだろうと考えている ID:bJ4Owym8は昨日の香ばしいやつか
日付け変わるまで書き込み我慢してたんだなw 福岡県春日市がヤマイチ国 其のなかのヒミカの宮殿をヤマタイ といいます
ヒミカの呼称の由来は筑後風土記中の八女のミカヨリ姫からきます 魏から貰った錦が出たのは 日本列島では 春日市のみ スクオカモトへ参拝しましょう 菅原道真の祖先は天孫降臨族のアメノホヒノミコトです 今は出雲大社に祭祀されています
ハカタ→出雲→奈良→京都→太宰府と受け継がれました
死亡時に牛が動かないので安楽時に埋葬という話は嘘です
自分の出自を知り望んで天神を祭る太宰府に埋葬されました
其の後自らも祖先のあまつ神の一員となったのです
ハカタには天神(アマツカミ)を祀る由来の地名は多くあります
天孫族の拠点ゆえです 何故左遷されたのか
倭国の末裔たる道真と簒奪者であり歴史を消したい奈良政権のフジワラは相容れる関係ではありません
切っ掛けは道真が編纂した倭歌集です ここで大いに自己の祖先を褒め称えたことが原因です
フジワラから見れば痛い腹を探られることであり それならお前の先祖の地へ行けとながされました シンギワオウの金印は福岡市中央区ヤクインにあるように思われます
インヤクと呼んでいたのが後世ヤクインと呼ばれるようになったのかも
糸島の天孫族のクシフル岳のクシは チクシ であり 倭人伝中のクシ国であり
現在の福岡市博多区の櫛田神社へと受け継がれてきたようです
ハカタは昔は波方であり記紀の神話の誕生したところです
ヒミカの映画をつくるなら アムロナミエを起用しましょう
神武は海老蔵で
継体は韓国人から起用します .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 大分県別府と福岡市城南区別府 何れも 倭国の首都太宰府 トトクフの支所だったと推測しています >>917
甕棺墓の範囲を邪馬台国とする北部九州連合説だと、伊都国や奴国を含めて北部九州を邪馬台国と比定することになる
国の中に別の国があることになり、無理筋の解釈だろう
邪馬台国と投馬国は並列した書き方なのに、邪馬台国だけ国の二重構造とするのは不合理
最も繁栄してた伊都国や奴国ではない場所に王都を想定するのも非現実的
南水行十日陸行一月との矛盾もある
北部九州への畿内系土器の流入は庶民の間での流行という見解だが、前方後円墳の分布地域と
畿内系土器の分布地域が大体一致してるんだから両者を無関係とみなすのは無理がある
畿内政権の傘下に入った地域という解釈が原則で、庶民が勝手に流通させていた例外もあるというだけのこと
最後に鏡だが、考古学的事実は以下の通り
・7期以降の鏡は九州ではほとんど出土しない
・7期以降の鏡は畿内を中心に出土する
・ただし、大和での出土は3世紀中頃のホケノが最初
・魏の年号が入った鏡は畿内を中心とした本州で出土する
厳密に言えば、3世紀前半に中国から鏡を直接入手したのが畿内勢であるという証拠はない
しかし、もし九州勢が最初に入手していたのなら、根こそぎ畿内に持っていかれるのはありえない
平原が典型例だが、副葬品が国産鏡ばっかりになるのは、中国鏡を入手できなくなった苦しい状況を表している
当時の主要な貿易港であった博多に畿内系住人がいたので、直接入手するルートが存在する
したがって、中国鏡の取引においては、「九州勢は魏に相手にされていなかった」という結論にしかならない
九州勢は魏に相手にされていなかったにもかかわらず、列島ナンバー1を差し置いて、
魏と外交をやっていたという主張はいくらなんでも無理だろう >>929
道真は必ずしも左遷されたわけじゃないと思うけどな。
中国との交易を国家事業から民間事業へと切り替える際に、
その交易の窓口である筑紫に最高責任者として天下りした可能性が
高いんじゃないかなと思うけど。 昨日気がついたんだけど
古墳は順番に造られたわけではなくて
誰の古墳であるかは
わからないのねこれが
一からやり直しですよ山さん >国の中に別の国があることになり
国って言ってるのは陳寿じゃないかな。
倭人がどう思っていたかは過去の闇の中なんじゃないだろうか。 >>933
僕も、日本に入って来た中国鏡の多くは朝鮮半島を経由して入って来た中古品の
可能性が高いと思う。
中国で流行遅れになった鏡が捨てられたりした後等、朝鮮半島に人の移動と共に渡り、
倭国の米と交換されてたんじゃないかな。
もちろん厳しい航海を乗り越え中国と直接取引して、
新品の中国鏡も少数ながら入って来てたとは思うけど。 >>936
ぼくも同じような考えを持ってるな。
僕の場合は筑紫平野を邪馬台国として紹介したが、
実質九州北部を仕切ってたのは福岡平野にあった奴国じゃないかなと思ってる。 捨てられた鏡を集めて朝鮮に行って、
それを米と交換しながら生きていくことを考えたりする人間が現れるのは、
自然な話だと思うけどな。 魏志倭人伝読む限り北部の行政権持ってたのは邪馬台国だけど
奴の津(博多港)で交易仕切ってたなら奴国が一番経済力ありそう 一般常識と照らし合わせて考えることができない人間が、
なんかやたら多いような気がするな。 >>941
一人当たりのGDPは福岡平野の方が高かったと思うが、
GDP自体は筑紫平野の方が高かったんじゃないかなと思うかな。 僕が想像する3世紀前半のGDPランキング
邪馬台国(筑紫平野)>熊本平野>熊襲>投馬国>奴国(福岡平野、ただし一人当りGDPはNo.1 )>…
熊本平野が熊襲と組んで狗奴国として敵対したため、
九州北部勢力が切迫した状態になったんじゃないかなと想像してる。 やっぱりこうしとこ。
邪馬台国(筑紫平野)>熊本平野>奴国(福岡平野、ただし一人当りGDPはNo.1 )>熊襲>投馬国>…
投馬国の戸数はかなり盛ってそうだからな。 「畿内説に疑問を持つ人=九州説」、、、という意味でなら相当数に登るだろう。
畿内説の言にちょっと文句言っただけで「だから九州説は、、、」などと反論される。
「九州説を特別支持してるワケじゃー無い!」ちゅーねんw
被害妄想も甚だしい。
卑弥呼がいたとされる3世紀後半の邪馬台国が倭の何処に在ったかはホント微妙なんだよね。 >>947
いまだに地球は平らだって主張する人もいるんだから九州説はなくならないよ
思想的に畿内にあったと認めるのが嫌な人たちだから、理屈じゃないんだ 僕の場合、記紀は、6世紀に暦の専門家を連れてくるまで年代に問題があった可能性がありこそすれ、
書かれてる内容自体は基本本当のことが書かれてると信じたいところがあるから、
魏に使いを送った者は基本天皇家と関りのない者だという先入観があるかもしれないけど、
それでも、今僕が持ってる情報の範囲内では、九州北部が一番説明しやすいことは確かだな。 >>948
>畿内説の言にちょっと文句言っただけで「だから九州説は、、、」などと反論される。
具体的に頼む
質問者に問題があったか、回答者に問題があったか、それだけじゃわからん 纒向を中心に吉備出雲九州東海を話し合いで統合してた邪馬台国
これが畿内説でいいのかな >>935
>古墳は順番に造られたわけではなくて
古墳が作られた順番ははっきりしてるよ
箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山→津堂城山→仲津山→百舌鳥陵山→誉田御廟山→大仙→土師ニサンザイ→岡ミサンザイ >>950
>僕の場合、記紀は、6世紀に暦の専門家を連れてくるまで年代に問題があった可能性がありこそすれ、
>書かれてる内容自体は基本本当のことが書かれてると信じたいところがあるから、
古事記の編纂が日本書紀に書かれていない理由は、何? >>951
自分でも邪馬台国が何処に在ったかよく分からないんだよ。
出土物などから畿内はかなり有力と思うけど。
文献を読む限り少なくとも中国側は当時の倭の中心は九州だと認識してたんではないか?と。
七世紀の白村江の戦いの後に実際、唐軍は北部九州を占領している。
見てみぬ振りの畿内のヤマト王権と言い事実誤認してるのか知らないけど元締めであったろう
畿内を占拠しない中国にも違和感。 >>910
共立されてから50年前後生きてたという
証拠は何だ いたかもどうかわからない卑弥呼の論争ってどうよ?
そもそも人柱にするための卑しい身分だったんじゃね?ってのが中学で初めて学んだ時の感想だよ。 遠方の固有名詞に蔑称のような文字を用いるのは中華思想としては当たり前だという説
東夷北狄西戎南蛮や匈奴とかもかな .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 >>954
書かれてるのかどうかも知らないし、
歴史書にはどういった事柄を書く習慣があるのか正確にはよく知らないけど、
書物の編纂のことが歴史書には普通書かれるものなの? 西暦621年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。
太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。
所願のとおり623年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である[16]。
この銘文については、「法興」という私年号の使用や、「法皇」「仏師」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。福山敏男は1935年の論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来の光背銘はいずれも疑わしく、
推古朝の作ではないとした[17]。福山は推古朝には「天皇」の語はなく、したがって「法皇」という用語もなかったとするが、これについては、
栗原朋信(1965年の論文)が推古朝に天皇号がなかったとは証明できないとして批判した[18]。藪田嘉一郎は、「仏師」の語が使用されるのは天平以後であることから(「仏師」の初見は天平6年・734年の正倉院文書)、
釈迦三尊光背銘は疑わしいとし、笠井昌昭も同様の説を述べている[19]。これについて大橋一章は、そもそも正倉院文書以前の文字資料は乏しいので、推古朝に「仏師」の語がなかったとは証明できず、むしろ
釈迦三尊光背銘が「仏師」の初見であろうとして反論した
☆法隆寺其の物も太宰府観世音寺を移築したもの 釈迦三尊はタリシホコを写したもの
観世音寺は612年ごろ創建された 記紀と並べて書くけれど、古事記は正式な史書扱いじゃないんだよ >>960
>書物の編纂のことが歴史書には普通書かれるものなの?
国家事業として行われたことなら書かれる >>952
・日本列島の盟主の国が
・7万戸を想定できる領域を持ち
・水行二十日、水行十日陸行一月に妥当な距離であり
・30ヶ国の連合に相当するような政治連合をつくり
・3世紀前半には北部九州まで進出して
・伊都国や奴国を傘下に置こうとしていて
・魏や帯方郡とも交流をしていたことを裏付ける物証もあり
・邪馬台国の都に想定できる纒向遺跡があり
・邪馬台国の発音に近い国名であるヤマト国である
というのが畿内説の主な根拠 >>963
まだ、書籍の編纂のことが歴史書に書かれてるのをたぶんまだ見かけたことがないので、
何とも言えんかな。
安全保障、外交等一般的に重要なことが書かれるのは当然だと思うが、
どこまで細かいことを書くかは、編者の気分次第みたいなとこもあるだろうしな。 >>964
奈良をヤマトと言い出したのは何時からですか >>964
魏志倭人伝の水行10日水行20日陸行1月が正しいとすると
一大卒との連絡は往復4ヶ月程度になるけど、みんなのんびりしてたんですかね。
どうなんでしょうね。 >>949
思想なのか先入観なのか意地なのか分からんが
今でも九州説で残ってるのは理屈が通じない人たちだな 暇だから考えてみた。
不弥国から海で南へ20日かかり投馬国さらに南へ10日で邪馬台国につく。
帯方群から使節がきて伊都国(福岡佐賀あたり)から陸を歩き、さらに30日も海の上を行くのは常識的に九州ではない。
東に向かうなら近畿方面だが、1年中野菜が取れ、入れ墨、長命で、百歳や九十、八十歳の者。
>「古事記」(約712年)によれば、「神武天皇紀」に、「伊波礼彦尊」(後の神武天皇)からの求婚の使者(大久米命記)に「入れ墨」があったため、「伊須気余理比売が驚いた」との記述があります。
伊須気余理比売(ヒメタタライスズヒメ)の近畿のあたりは、入墨の風習がなかったのかと。
南を考えてみた
・女王卑弥呼の孫である伊波礼彦尊イワレヒコ=神武天皇
・求婚の使者(大久米命記)
・久米の 姓 ハヤト系もしくは沖縄 人名力などで久米家の由来がわかる
・久米氏は神武天皇の護衛、戦闘部隊 氷上姉子神社=熱田神宮の尾張氏につながる
・久米氏と大伴氏がニニギイの東遠征
・天孫降臨の段に登場する「笠沙之御前」笠沙岬は鹿児島の港笠沙
・ニニギイがここでコノハナサクヤヒメと出会い、神武天応の祖父にあたるホヲリを生む
古事記からも見ていくと投馬国へ20日が奄美、邪馬台国へ10日が沖縄が妥当ではないだろうか。
・投馬国、邪馬台国が口語当て字の可能性
中国の文章で一番やっかいなのが漢字
始皇帝や斉国と漢字でかかれていると中国人かと思うが、実際ペルシャ系DNAが違う。
中央アジアや日本に対して意味なく口語から当て字をしていることも多い。
始皇帝の父は呂不韋(ロフィー)
琉球・奄美の方言を調べた
ヤマタイ、ヤマト、ヤマチュ、ヤマンチュ アマト、アマンチュ、トゥマ・
・アマンチュ(天人)=130 歳である福人の大主の前にアマンチュー(天人)が現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた
http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/wordpress3/wp-content/uploads/2013/05/h2801.pdf
アマミキヨ=アマテラスがペルシャ系徐福伝説につながる。
・沖縄・奄美の方言では ヤ=家 トゥ=港 マ=馬 タイ=松明
・トウマ、港のある国。ヤマタイコク、港の家国で東鯷国の拠点。
・アマトゥコク 海女の港の国。
・アマンチュ(天人)国 中国からみた秦、斉徐福らの巨人のいる国。
・ヤマタイコク 家タイマツ
女王卑弥呼の孫であるイワレヒコ神武天皇。
神武天皇の祖先は沖縄。沖縄の久米氏らニニギを護衛しながら東へ遠征。
途中鹿児島の港笠沙でコノハナサクヤヒメと合う。
といった流れではないだろうか。
参考
・東鯷国(沖縄・奄美)は中国大陸から朝鮮半島、房総あたりまで交易していた
・東鯷の集落にユタのシャーマンがいる
・寒冷化によりペルシャ系始皇帝がで東征で、中国支配で徐福の集団もペルシャ人系の東征の続き
・斉国からペルシャ系のDNA https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12053850958.html
・ゾロアスター教やユダヤ教と天皇家や秦氏
・徐福の沖縄・奄美渡来ルートと神武東征がかぶる
・沖縄・奄美のイザナミやらアマテラスの神々と大和の神々がかぶる
・葦原中津国も沖縄・奄美か?
・高天原と斉のルーツがある西アジア?
・天忍日命の子孫道臣命=大伴氏 しかし焚書不比等の偽書記紀信者の畿内派ども、まだ反省しとらんようだな
お前らが研究界教育界を牛耳って日本の古代史を崩壊させているというのに
いまだに良心の呵責すら感じないとはどういうことだ
今のお前らに必要なことは、まず反省することだ
その次に改心し、方針を改めるか
または現職を辞するかのいずれかだ
少しでも良心があるなら考えたまえ、焚書不比等の偽書記紀信者の畿内派ども 大和から見れば遠い僻地を降臨の地としてそこを日向と呼び、そして大和自身の地を魔鬼向(纏向)と呼ぶ。おかしいと思わない? そして八百万のヤに纏向のマ、それに都を加えてヤマト。
古墳の形も鏡と銅鐸の合体墓。出雲の国譲りそのもの。天孫族は出身地を隠しに隠して、ヤマトから遠く離れた日向に降臨と偽装。そこまで隠したかった高天ヶ原は富山近辺から見た日本アルプス。 >>967
遠いから一大率を置いたんでしょ
刺史のごとくと書かれてるし、陳寿は一大率が邪馬台国から遠い場所にあるという認識を持っていたことがわかる
こういう状況は飛鳥時代でも大して変わらなかったのだろう
だから隋書に東西五月行と書かれている 記紀を信じたい立場の人間としては、
本来、出雲の国譲りで約束したように出雲は畿内に干渉してはいけないことになってたが、
時を経て遠い昔の約定はほぼ忘れられた状態になり、
出雲の失地回復の目論見と所詮奈良盆地の一部が勢力圏だった天皇家の勢力拡大志向が
これを機に互いを利用し合うことにより大きく前進し始めた時代だっただけで、
九州北部を牽制したい出雲と朝鮮に拠点を築きたい天皇家の思惑が九州への介入につながり、
邪馬台国が魏に使いを送った時期とほぼ同期しただけだと思うけどな。 邪馬台国の7万戸は、それだけの人口を養える農地があっただけで、
実際には5万戸にさえ満たなかったんじゃないだろうかと推測する。
余った米は朝鮮で鏡や金属器等と交換されてたが、
奴国や伊都国等にかなりピンハネされてたんじゃないかとも推測する。
それでも一応機能してたのだが、そこに目を付けたのが出雲ー大和連合。
そそのかされた邪馬台国は急速に不満を募らせ、九州北部に争いが起こり始める。
更に出雲ー大和連合は日向を介して狗奴国もそそのかし始める。
こんな感じを想像するかな。 他人の意見を否定したいため、畿内にまで届かない行程を主張し始めたり、
畿内を原始的な地域と主張し始めたりする畿内説はラノベ発表会にさえ程遠いもんな。 >>956
後漢書
桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立於是共立為王
桓靈間(147年??-??189年) >>947
【九州北部説】
鈴木靖民 佐藤信 倉本一宏
(日本古代史学会主流) 【畿内説(桜井市纒向箸墓説)】
近畿圏のB級C級考古学者 >>974
いや違うな。
七万戸だなんて有り得ない、五万戸、二万戸、、、ですら怪しい。
有ったとしても、かなり盛ってる。
翻って「邪馬台国」、果たして倭国にそんな大きな国が存在したんだろうか?
思うに邪馬台国とは倭国そのもので一地方国家のことではないんじゃないか、と。
卑弥呼に授けられという金印は「親魏倭王」だ。
分からないけど邪馬台国と書いて「ヤマト国」と読むんじゃないの?
片言の中国語しか喋れない土人(倭人)の説明で中国の役人が「倭国」と「邪馬台国」は別の国
、、、と理解しちゃったとか、ねw >>983
僕が一戸6人で計算したところ、現在の筑紫平野の半分を田畑として使うなら、
10万戸を養える食料を調達できそうだ。
魏の役人もその壮大な穀倉地帯を見て納得して報告した可能性が考えられる。 僕も神武天皇の先祖の出身地が筑紫平野内でヤマトと呼ばれる地域だったので、
その名を畿内の新しい自分のテリトリーに名付けた可能性を考えてるかな。 それから、魏の役人は倭国が九州を示し、
邪馬台国がその中の最大勢力の国と認識してた可能性が高いと思う。 正直、戸数はかなり怪しい気がする
もっと、ずっと後の時代ですら
まともな戸数なんて出てきてないのに
どうやって調査したのかと
九州地方は、畿内より文字文化が早く入ってきてたとしても
それでも、そんなに多くの記録が出来たとも思えない。
当然、数字にしてもそんな多くが扱えるとは思いにくい。 崇神天皇が初めて戸籍調査をしたとあるから、把握しててもおかしくない
正確さは置いといてね
税を取るのに戸数を把握するのは基本だと思うけどね >>988
でも文字を持っていなかったんだよ、当時の倭人。
仮に一部の役人は文盲ではなく読み書き(漢文)出来たのなら可能だろうけど、、、
ソレならソレで木簡や竹簡、土器に書き込んだ文献の出土に期待するw >>989
キープというのがあって、 縄の結び目で情報を残してたんだよ
南米にもあるし、日本でもあった。隋書にも書かれてる
縄だから残りにくいとは思うけど、発掘されて欲しいな 57年の金印が証明すること
其の一 漢字を使用していた
其の二 イトコクの倭を訓読みでチクシと読んでいたこと
其の三 九州倭国が当時の日本列島の代表政権として外交を行っていたこと 皇太子を東宮や春宮と呼びます
太宰府が首都で国東くにのさきに在って奈良への出入り口の別府を次の天子が防御していました
太宰府から見れば東にある宮で東宮と呼び始めました
あまのかぐやまは鶴見岳であり鴎や湯気が倭歌に詠まれています 新しい歴史教科書をつくる会の目標は敗戦後の自虐史観の是正にあったと思う
思想根底は皇国史観でもあったようだ
皇国史観の過ちが敗戦であり 羹に懲りて吹く膾が自虐史観では是正の方向性も疑わしいもの
正しい歴史を知る努力を先にすべきが この会と思う このスレッドは1000を超えました。
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