【考古学】奈良の纏向(まきむく)遺跡の”桃の種” 年代は卑弥呼の時代と重なる 邪馬台国研究の新資料[05/14]
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邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、
女王・卑弥呼の時代と重なることがわかりました。邪馬台国の謎に迫る新たな資料として注目されます。
纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡で、邪馬台国があった場所の有力な候補の1つとされています。
遺跡では、8年前、卑弥呼の宮殿跡との説もある3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上見つかりました。
この桃の種を、名古屋大学の中村俊夫名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲さんが、
それぞれ放射性炭素を使った年代測定を行ったところ、
いずれも西暦135年から230年の間のものの可能性が高いことがわかりました。
卑弥呼は中国の歴史書「魏志倭人伝」で、3世紀前半ごろに邪馬台国を治めていたとされ、
今回の結果は卑弥呼の時代と一部、重なっています。また、桃は古くから神聖な果物とされていたことから、
卑弥呼が行った祭しで供えたのではないかという指摘もあるということです。
桜井市纒向学研究センターの寺澤薫所長は、「魏志倭人伝の記述にある卑弥呼の時代と重なり、
纒向遺跡について考えるうえで重要な資料だ」と話しています。
■邪馬台国九州説の研究者「卑弥呼 明確には結びつかず」
邪馬台国が九州にあったとする説を唱える、佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は、
「参考になる研究成果だが、邪馬台国の所在地や卑弥呼と結びつく明確な材料はなく、
今回の成果で論ずるのは無理があるのではないか」と話しています。
関連ソース画像
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/e/4/e4e19_1509_bbb0e83d_2ee86e0b.jpg
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180514/k10011438091000.html 畿内厨大惨敗w
【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529329558/ >>358
(ノ∀`)アチャー
686 :名無しさん@1周年 :2018/06/23(土) 11:58:47.58 ID:W+tyEJzC0
>>681
あまり知られてないけど、吉備の上東遺跡からは纏向をはるかに上回る1万個近い数の桃核が出土してる
この事実を知っていれば纏向の桃核を見て「卑弥呼の鬼道がー!」とかバカらしくて聞いてらんない
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-syutudoiseki.html
729 :名無しさん@1周年 :2018/06/23(土) 17:47:44.29 ID:nnSj0re70
>>686
これは本当、そこそこ弥生時代興味ある人でも案外知らんかもなあ
ちょっと検索してみたが、
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-joutou.html
モモの種は勿論、ト骨まで出てる
占いに使うやつな
畿内派があんなに騒いでた纏向の桃の種やト骨とは一体何だったのか 纏向の桃核の時代がどうあれ、その他の状況から、
奈良が邪馬台国なのは揺るがない事実なのです。
桃核の存在は、卑弥呼の祭祀がその場所で行なわれた傍証にはなるというだけ。
この程度で九州説が立証されると喜んでるなら、せいぜい夢を楽しむことだね。 >>360
それが畿内教のお題目なのですねw
でも+じゃほとんどが九州説www >>361
神武東征とか卑弥呼はアマテラスだとか言ってるやつばっかりじゃん。
浅知恵の素人がいくら空想を語っても学問の分野には影響しない。 今どき畿内だと言ってる学者は橿原の一部だけだよ 大半は九州説に傾いている
>>362
京大閥が無理筋をゴリ押ししてるだけの畿内説なんて世間一般じゃ相手にされてないってことだよ
しがらみのない人間が見ればどう見たってウソの塊なのは一目瞭然だからなw 九州は朝鮮の鉄材バブルで一時期繁栄した一地方じゃないの、砂鉄たたらの普及でバブル崩壊。それに中国の王朝が地方都市を知ってて首都を知らないわけがないでしょ。 .
神功皇后の実施応仁天皇の父親は天皇ではない(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 >>365
こと、考古学については、世間一般の常識なんて関係ありませんので。 ところで、その世間一般の常識ってのは、
九州の地名が奈良の地名と一致してるから、
九州の邪馬台国が奈良に東遷したってやつかな?
で、アマテラスが卑弥呼で、神武東征が4世紀で、欠史八代は架空だから、
神武と崇神と同一人物ってやつかな?
九州から出土する鉄器のほうが、奈良より多いから、九州のほうが勝ってるってやつかな?
平原遺跡の鏡はとても大きいから、ヤタノカガミに間違いないってやつかな?
三種の神器が九州の墓で見つかったから、日本神話の起源は九州ってやつかな?
他にも何かあったら、言ってみ。 畿内と魏志倭人伝の記述は矛盾することばかり
1.邪馬台国の風俗は海人 奈良には海は無い どこで蛤を拾うんだよw
今倭水人好沈没捕魚蛤
2.邪馬台国までの行程に吉備も出雲も出てこない
3.倭国の絹や鉄は畿内からはほとんど出ない 蠶桑緝績
4.邪馬台国は伊那国や奴国の南と記されている
5.棺ありて槨なし 有棺無槨
魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば畿内は有り得んな .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 俺は邪馬台国は皇室宗廟のある宇佐だと思うよ 宇佐から日向に抜けるには佐伯経由の
海沿いのリアス式海岸を行くより九重、高千穂経由で延岡に抜けるほうがよっぽど楽
天孫降臨というのは稲作農耕民がアマテラス=卑弥呼の国 宇佐から高千穂を経由して
日向に抜けた話を書いてるのだと思う そして日向三代のあと神武は本貫の宇佐を経由して
畿内に攻め込んだのだな >>370
「魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば」
何十年も前から、お決まりのフレーズですなあ。
>>372
天皇は渡来人というわけですね。 >>371
九州の人は、原を「はる」と発音しますよね?
でも、高天原は「はら」と発音されてます。
おかしいとは思わないのですかな? 九州出身だが(母親の実家が宇佐近郊) 原は ”はら” だね はるなんて聞いたことがない
皇室が渡来人である証拠は三種の神器 この系統は朝鮮の錦江流域出身
だいたい出発点が魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は何処?って議論で魏志倭人伝は間違い
っていう話なら最初から議論にならんでしょ >>366
砂鉄たたらは邪馬台国よりずっと後だろ
ああ、つまり邪馬台国は九州ってことか 魏の使者は末盧国に上陸後、伊都国まで【陸行】している
つまり使者が乗ってきた船は末盧国に停泊中なわけでこの時点でもう畿内は無い >>375
>九州出身だが(母親の実家が宇佐近郊)
卑弥呼に母ちゃんの面影見てるの?
そういうのは、「幻の邪馬台国」でおなかイッパイ。
魏志倭人伝ねえ。信用できないねえ。
厳密に言えば、いまのところ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのが、学問的立場。
それとも、魏志倭人伝が事実だと言い張るなら、
>>377
水行10日、陸行1月を説明してもらおうか。 >>378
>厳密に言えば、いまのところ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのが、学問的立場。
>>364 >>378
卑弥呼は長崎出身で売り出したが実際は東京生まれだったからな 【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529329558/
https://mainichi.jp/articles/20180618/dde/014/040/002000c
JCal整備に努める坂本稔・歴博教授(文化財科学)に聞くと、「(精度が上がったものが)できていない」。
信頼度を高める検証が進まず、09年段階で止まっていた。とすると、国際標準と日本産樹木のズレはどうなっているのか、
との疑問もわくが、傍証も複数あり、ズレは明らかという。ならば、今回公表されたモモの年代が変わる可能性の方を問わねばならない。
というのも、近藤論文には「議論を深める材料に」とJCalのグラフも参考に掲載され、今回の炭素年代を当てはめると、
実年代で4世紀を考える必要が出てくる。卑弥呼の時代ではない。
ガッカリニュースだった模様だな 九州に邪馬台国が実在した証拠は何一つないんだから、
ガッカリも何もないけど。
悔しかったら、九州の中で邪馬台国の場所を特定してみなさい。
卑弥呼が渡来人とかいうのは、もう聞いたから、宇佐以外で。 もともと箸墓は4世紀のものだっていわれてたじゃん?あれは覆ったの? 馬具が出てきたことが決定的だな 歴史上馬が出てくるのは4世紀以降だし
魏志倭人伝にも馬は居ないと書いてある 其地無牛馬虎豹羊鵲 箸墓以前の古墳も奈良には継続して存在してるので、
そのような議論は無意味なんだよなあ。 一方、九州では、3世紀に隆盛した遺跡が無い。
これが全てなんだよ。 其死、有棺無槨、封土作冢
邪馬台国では死者の塚は作るが古墳は作っていない
むしろその時代の古墳がないことが邪馬台国の証拠
魏書』張遼傳
「成遂將其衆就蘭轉入灊山灊中有天柱山高峻二十餘里道險狭歩徑裁通蘭等壁其上遼欲進諸將曰兵少道險難用深入…略
このなかに、「天柱山」の高峻二十余里とかいている。
道のりが、二十余里ではない。高さが二十余里。
天柱山は、1488メートル。やはり、短里76〜77メートルで計算されている。
長里なら、チョモランマ山どころか
世界一高い山になる。 実際、短里、長里あるが、なぜ使い分けられたかの歴史的背景を探れば、みえてくる。
また、唐は、長里になるが、そのときに、
陸行は、ロバ、馬車、歩兵、水行も遡上、湖、などによって、分けられている。
唐の陸行の距離を把握すれば、
短里であろうが長里であろうが、
物体の動く距離をみるわけだから、時代間で、
差異はないと思う。
要は、その当時、現在に換算して、何キロ移動
するかが、重要。 《蜀志·诸葛亮传》
后的陈寿上表(泰始十年二月一日)∶“
伏惟陛下,迈纵古圣”。
“陛下”指西晋第一代君主武帝,
“古圣”指文章中出现的咎繇(舜的臣)、
周公等人。
这表明了西晋的天子不欲承汉制,
而要恢复周以前的制度、政治。
因而它同时也就宣明∶
对作为制度之一的里单位
不取秦汉新制的“长里”,
而复用周以前古制的“短里”。
ここに、西晋は、秦漢の新制度を使わず、
周以前の制度にもどすと言って、
短里を使っている。
武帝は、漢制を使わない。
舜的臣とは、舜帝の末裔や家臣などの
意味だろう。 晋书·元帝纪》∶“
优复之科,一依汉氏故事。
元帝是东晋的第一代君主,
这一节录自大兴三年(320年)的诏书,
可以认为这是恢复汉制的宣言。
汉继承秦的新制,
沿用“长里”,正如《史记》、
《汉书》所记述的那样。
东晋也复用“长里”
東晋の元帝は、320年に、
漢制を引き継ぐと言っている。
史記、漢書は、長里として、
書かれていく。 陳寿さんがかいたものは、短里でいいかと
思われる。 陳某とヤマトの姫様の謁見の記述がない事から、楽浪郡あたりで伝聞を収集しまとめたものが魏志倭人伝。正式な魏の使いだったら現地まで行って謁見はしますよ。その場合方角と距離に誤りはないはず。 >>393
張政さんが、行っている。軍事
司令官(塞曹掾史)として、驻倭二十年。
壱岐島も最低でも4回は見ている。記述は、短里で捉えている。
商人や役人でなく、軍事専門がきている。
その報告は、帯方郡長官や魏の天子もみるもの。具体的な記述にならなければ、報告として、
採用されないだろう。 >>389
胡三省さんが、書いた「资治通鉴卷胡注」は、
それだけで、歴史書といえる。
司馬光が著した歴史書『資治通鑑』の研究に尽くして、『資治通鑑音注』・『通鑑釈文辨誤(釈文弁誤)』という注釈書を著した 胡三省注资治通鉴
資治通鑑卷第二百五十九 35に、
下記のように書いている。
魏志倭人伝の1月は、
15日と個人的におもうが。
〔唐制:
陸行之程,
馬日七十里,
步及驢五十里,
車三十里。
水行之程,
舟之重者泝河日三十里,
江四十里,
餘水四十五里。
空舟泝河四十里,
江五十里,
餘水六十里、
沿流之舟則輕重同制,
河日一百五十里,
江一百里,
餘水七十里。 >>396
一番最初は
唐六典に、書かれたもので、度支郎の説明の
なかに、その陸行、水行が、書いてある。
つまりは、租庸を集める財務官について、
説明している。
中国,唐・宋代の中央の財務官庁の制度。漢,魏以来,度支尚書があり,その下に度支侍郎 (度支郎中) がおかれ,国家の財政を司っていた。唐代には戸部尚書といわれ,その下に度支郎中がおかれた。 >>383
>>381を見ると全く覆ってないな
むしろ補強された >>398
九州説唱えてる学者は、いまとなっては九州の女子大だけじゃん。 >>398
別に学者と言ったって、アマ研究者と大した差はないだろ。
強いて言えば、九州説を唱えれば研究費がもらえないとか、出世できないとか
そういうどうでもいいバイアスがかかってるわけで しかも、九州説を補強する新しい根拠は、ここ30年何も出てこず。
ただ、畿内説を批判するだけ。
九州の中で、卑弥呼の墓を見つけてた学者はいない。
見つけたと言ったら掘らないといけないしな。
掘っても何も無いのをわかってるから掘らない。
九州説の生き残りのためだけに、畿内説を批判して、九州説の面目を保つしかない。
ようするに、九州説利権にしがみついてるだけの職業九州説だな。 >>403
畿内説の自己紹介お疲れ様ですw
九州じゃこないだも伊都国から硯が出たりと着実に成果が出てるよん
赤村の巨大前方後円墳も地主の発掘許可待ちだしね
むしろ畿内説こそ魏志倭人伝の記述と全く関係ないものしか出ないよねw ttps://www.youtube.com/watch?v=skPVvq4zMpc
この動画を見て、何を思うかね? >>405
反論できません、とw
畿内説は本当にオワコンだな >>406 まるで畿内説と同じだなw 魏志倭人伝をちゃんと読めよ 魏志倭人伝原理主義者が科学の発展を阻害する。
考古学という科学は、物証を元に古代の状況を復元する。
物証で得られた知見では、3世紀の九州は衰退し、畿内が繁栄しヤマト王権として継続していく。
文献は、物証を傍証するものでしかなく、
文献だけで古代の状況を推察するのは科学ではなく「歴史小説」である。
したがって、3世紀の倭国の状況を記した記録に「邪馬台国」が登場しているならば
「やまと国」と読んでヤマト王権と同一と考えなくてはいけない。
否定する物証は、九州説側が用意しなければ、議論にもならない。 赤村に巨大前方後円墳があるというが、自然の丘陵を古墳だと誤認しているだけ。
>>406が、古代ギリシャの天文機械と、何の接点も無い日本の銅鏡を比較してるのと同じ。
知識の無さと、視野の狭さゆえに、「見たいものしか見えない」という自覚が無い。 歴史書なくして歴史は語れない 物証だけで人類の歴史を云々するなら明治さえ遠い彼方だなw
>>410
いや畿内は>>381にあるように4世紀のものを3世紀だと言い張ってるだけじゃん
単なる捏造の塊、それが畿内説 弥生時代には既に淡路島まで九州勢に制圧されていたのに畿内が繁栄とかw
もし畿内にも王権があったならそれは九州の分家だろうよ
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 >>414
文化の伝播が征服の証拠になるなら、
明治時代の日本は欧米に占領されていたと、未来の人は考えることになる。
君は、頭が悪すぎる。 鉄の鏃
魏志倭人伝は、倭人は鉄の鏃を使うと記す。
鉄の鏃は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍の鏃が出土する。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈
倭人伝には、倭人は兵器に矛を持つと記す。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
絹
倭人伝には、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記す。
絹は、畿内よりも、九州からはるかに多く出土する。
奈良県に比べると、福岡県は圧倒的に出土地の数が多い。
時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で作られていた絹が、後の古墳時代になって、
近畿など他の地域に広がったように見える
以上のように、『魏志倭人伝』に記されているもので、ほぼ、邪馬台国時代の遺跡から出土するものに
かぎれば、奈良県には、ほとんどみるべきものがなく、福岡県と奈良県とのあいだには、圧倒的な差がある。
この状況は4世紀になると逆転する。 邪馬台国と大和がひらがな読みすると似てるとかとんでもない事じゃなく発掘事実が正解ですね 現代考えても田舎モンが都会に行く。
半島との交易も基本倭人が出向く形だと思う。
記紀で渡来人云々は小中華としての天武朝が
百済新羅を蛮夷とかけないから渡来人という言葉を作ったんじゃね。 >>416
当時の中国人は、倭国の風習といったら九州を眺めて言ってるのだから、なんの問題にもならない。 >>410
アイヌ人をエミシとも呼んでたけど
もともと、アイヌ人を指してたとは限らない。
大和朝廷が、朝廷に従わない東の方に居た倭人を
一括してエミシと読んでたに過ぎない訳だ。
アメリカ先住民をインディアンと呼んでたのも。
実際のインド人とは関係なく
白人がアメリカ大陸をインドと勘違いしたことから
インディアンと呼んでただけな訳だ。
(当のアメリカ先住民からしたら、べつに騙ってる訳でも無く。
白人が自分らをインディアンと呼ぶから
「我々はインディアンだ」と名乗ってるに過ぎない)
とかく、異人種の呼び名については無責任だ。
そう考えると、邪馬台の発音が
実際にヤマトと読むのは有りそうに思うが。
むしろ、近畿地方のヤマト名は
先のインディアンの例と同じく、大陸から
邪馬台由来で倭人をそう呼んだ結果の
外国語なんじゃないかと。
そうだとすれば、邪馬台とヤマトが同じ言葉由来でも
場所自体が無関係な事は普通に有りえる。
たとえばアイヌ人が「我々はエミシだ」と言ってたとしても
これも先のインディアンの例と同じく、
倭人が自分らをそう呼ぶから、そう答えてるに過ぎない。
別にエミシの語源が、最初からアイヌを指してた根拠には無らない。
同じ事、同じ事…… >>419 ほほう、やっと倭国が九州だと認めたね(´・ω・`)
>>421
九州は倭国だろ。
で、ヤマトは、倭国じゃないとでも? 3世紀前半の卑弥呼の時代の畿内は倭国じゃなくて銅鐸国だな
魏志倭人伝にも記紀にも全然出てこない銅鐸が近畿地方から多量に出土する
これは倭国とは違う文化形態を持つ連中=出雲族が近畿にいたという証拠だね
そして4世紀以降 銅鐸族は近畿エリアから一掃される
吉野ヶ里の銅鐸をどう説明するかはおいといて弥生時代から古墳時代にどう移行したのかは気になります
大王が現れて統治を一変させ遠征などを実施する軍政に変わったのでしょうか
武器に銅を使えば銅鐸は作りませんよね
そういえば箸墓古墳の時代、崇神天皇の四道将軍派遣があり、三韓征伐をへて応神天皇の頃には南朝鮮を押さえてますよね 四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する
王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を
示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域と
ほぼ重なっている。 wiki
神武と崇神が同一人物だとすると九州から東征して4世紀初頭に畿内の銅鐸(出雲)族を駆逐した後に
四道将軍を派遣して吉備や出雲を攻撃したのが事実だろうね >>425
>神武と崇神が同一人物だとすると九州から東征して4世紀初頭に畿内の銅鐸(出雲)族を駆逐した後に
>四道将軍を派遣して吉備や出雲を攻撃したのが事実だろうね
古くさすぎる歴史小説です。
神武と崇神が同一人物(仮定)
九州から東征して(仮定)
4世紀初頭に(仮定)
畿内の銅鐸(出雲)族(仮定)
駆逐した(仮定)
全部、脳内妄想のオンパレード。
考古学的物証が無ければ、議論にものぼりません。 ちなみに、銅鐸は、他の勢力によって滅ぼされたのではありません。
自主的に、銅鐸祭祀を捨てたのです。
九州の銅矛文化はどうでしたか?
近畿の銅鐸が消えた後も、九州の銅矛文化は続いていましたか?
続いていませんね。近畿と同じように、自主的に銅矛文化を捨てたのです。
祭祀を捨てた理由は、王に権力を集中するためです。
シャーマンが神託で民を率いるのではなく、王が権力を持って民を統率する政治形態に以降したわけです。
その王権こそ、ヤマト王権であり、象徴となる王の墓が前方後円墳です。
当然、前方後円墳は、”九州発祥ではありません。”
まあ、40年前の九州説で頭が止まってる人には理解できない文章でしょうなあ。 朝鮮半島の錦江(白村江)発祥の祭祀である3種の神器は
日本で最も古い弥生遺跡・王墓である福岡市の吉武高木遺跡
を経て現在も皇室で守られている
自ら祭祀を捨てるなどということは有り得んよ (´・ω・`)
3種の神器がなんですって?
古墳時代に珍重されたのは、鎧兜ですが? 日本の皇室は三種の神器を祭祀しています。 剣と鏡と玉です。
これは王権の象徴でこの3点セットを持つものが王の権威を得る事になります。
八尺瓊の曲玉、八咫鏡・草薙剣ですね。 日本書記を、一度通して読んでみるといいです。
「三種の神器」なるものが、どれほど登場するのか?
神代にちょろっと出てくるだけで、後は皇室の祭祀などでは出てきません。
なぜかというと、「三種の神器」なるものは、天武天皇の創作だからです。
「三種の神器」といいつつ、鏡は伊勢、剣は尾張と、
なぜ、東国に分散してるのか、考えたことがありますか?
天武天皇が壬申の乱で、勝利して天下を手に入れたわけですが、
東国の兵力を借りてこその勝利でした。
その論功行賞として、東国の宝物(鏡、剣)を、皇室の三種tの神器に組み入れ、
神話に登場させたわけ。
古代の墓から、三種の神器が見つかるのは、古代から貴重品だっただけのことです。 だいたい、草薙剣なるものは、そもそも尾張氏一族の宝物であって、
皇室とは関係ありません。
天武が、三種の神器の一つとして、尾張氏一族の宝物の草薙剣を選んだのです。
尾張氏にとっては、ありがた迷惑だったことでしょう。
自分達の宝物を、皇室に奪われたようなものですからね。 >古代の墓から、三種の神器が見つかる
ちょっと違いますね 正しくは、
古代の王墓から、三種の神器が見つかる ですよ
大王以外の一般豪族の墓からは金輪際出ませんぜ
どうせ、尾張風土記も読んだことがないでしょうから、
ここで紹介しましょう。
熱田神宮の剣は、ヤマトタケルが忘れていった剣で、
それを取ろうとしたら光輝いて神懸ってたので、祀ることになったのです。
「三種の神器の一つだ」などということは、どこにも書かれていません。
単に、神剣の一つという認識でしかありませんでした。 とりあえず先に卑弥呼の墓を見つけさえすれば解決する事なので見つけましょうよ 尾張風土記には、以下のようにも書かれています。
ヤマトタケルがエミシ征伐の帰りに、剣をこの地に奉納した。
この剣は、ヤマタノオロチの尾から出たものである。
そこで、「尾張」という。
剣の出所と、地名説話となってますが、ここでも、「三種の神器の一つ」などとは紹介されていません。
そういう認識があれば、もっと誇らしい記述になったでしょう。
アマテラスに献上して、神武に持たせたとかね。
でも、そういう設定は、この当時の尾張にはなかったのです。 ちなみに、出雲風土記には、ヤマタノオロチなど出てきません。
これで、日本神話が、日本各地の風土記の伝聞を寄せ集めてこしらえたということが理解できるはずです。
よほどのバカでなければ。 考古学を否定して、文献だけで類推するのもいいですが、
7世紀までの文献なんて、数えるほどしかないのですから、
せめて、全て目を通してから、何か主張してください。
日本書紀、古事記、古語拾遺、風土記、万葉集、新選姓氏録、
このあたりは最低、目を通して、何が書かれてるか理解することです。
卑弥呼=アマテラスとか、九州説がいかにばかばかしいか、
文献を調べただけでもわかります。 >>438 魏志倭人伝もお忘れなく
魏志倭人伝を調べただけで畿内説がいかにばかばかしいか判りますw .>>439
風土記、万葉集、新選姓氏録から、神武東征の証拠を提示してください。
前方後円墳は、九州発祥ではないことも、お忘れなく。 集落外の王権に頼る理由はなんでしょう
警察力?
墳墓築造の農閑期公共事業?
正確な暦?
理由がなきゃ移行しないと思います >>441
農耕の効率化のためには、ムラごとに種まきや収穫をしていては、おいつきません。
計画的に人員を動員して、治水整備することで、田畑を広げることができます。
収穫が増えれば、民衆は満たされ、王への尊敬が生まれます。
バカはすぐに「武力で民衆を押さえつけた」などと、マンガみたいな話をはじめますが、そういうことはありません。 3世紀の九州が衰退したのは、収穫量を増やすための治水工事がはかどらなかったためです。
九州は、鉄器があるから有利だとか、バカはすぐに言い出しますが、
その鉄を使った農機具で、いくらでも田畑を広げることができたはずなのに、
九州には、広大な水田の遺跡というものが多くはありません。
九州の人は飢えていたので、作物の奪い合いをして争っていたのです。
発掘した人骨から、戦争の後がわかります。 >>443
それは、倭国大乱が、九州であったと言ってるよ。
黄巾の乱が、なぜ倭国大乱にも関係あり、
帯方郡が、この時期にでき、公孫度がおさめたか。
さらに公孫一族から、魏が、帯方郡を
取り戻したのち(密かに山東省から黄海へ渡った)卑弥呼は、朝貢使の難升米を派遣した。 >>444
>それは、倭国大乱が、九州であったと言ってるよ。
そうですよ?
九州は、疲弊して大混乱、民は餓死寸前。
そこに、畿内のヤマトの卑弥呼が救いの手を差し伸べたのです。
もっと、感謝したらどうかと思いますね。
現実を見もしないで、邪馬台国が九州とか、根拠の無い妄想ばかり。 ヤマト王権も、公孫氏と関係を持っていたと思われます。
丹後半島の太田南古墳で、青龍三年銘(235年)の「方格規矩四神鏡」が出土しています。
卑弥呼の時代と同一のもので、
ヤマト王権と丹後が強い結びつきを持ってることは、説明しなくてもいいでしょう。
丹後から朝鮮半島に使者を出すことも容易なので、
ヤマトの卑弥呼は、まず公孫氏と交渉して魏へ朝貢する足がかりにしたでしょう。 大阪の安満宮山古墳からも、青龍三年の方格規矩四神鏡が出土しています。
ヤマトと丹後の結びつきを考えれば、不思議ではありません。
滋賀県甲賀市水口町に水口神社があり、
大水口宿禰という人物が祀られています。
卑弥呼と同時代に生きた人で、ヤマト王権に神託などしていました。
水口という名前は、「水源を管理する人」という意味です。
灌漑工事なども指揮していたでしょう。 >>445
倭国大乱は、魏志倭人伝に書かれているし、
邪馬台国までの距離までかいている。
帯方郡−邪馬台国の1万2千余里から帯方郡−不彌国の1万7百余里を引いた不彌国−邪馬台国は僅か1千3百余里しか残りません。
この魏志倭人伝のときは、周の制度を再度使うとして、短里で書いています。
すると、奈良までいかなくなります。
短里も約77メートルと計算されています。
魏書にも山の高さを表現したものもあり、
短里計算で、現在の山の高さにぴったり合います。調べていき、短里と納得し、
高低にも短里がある。
また、周に戻すといっている。
どの説が、という思いでなく、中国の文献や
古事記などをみながら、長里では、
無理があるのではないかと思うわけです。 大水口宿禰は、新撰姓氏録では、神饒速日命の六世孫とも伝えます。
つまり、神武と同時代のニギハヤヒよりも、数代後の人物が、
箸墓古墳を築造していた頃のヤマト王権に助言を与えていたことになります。
これによって、神武=崇神は、成立しないわけです。
神武=崇神とか言ってる九州のセンセイは、魏志倭人伝と、日本神話以外、何も文献を読んでいないので、
こういう恥ずかしいミスを平気でするわけです。 >>448
魏志倭人伝の内容が、一言一句正しいという前提に立つのはやめたほうがいいね。
他人と、話が合わないから。
だからこそ、九州説の中でも、統一した邪馬台国の場所を決められないわけでしょ。 >>447
>大水口宿禰という人物が祀られています。
>卑弥呼と同時代に生きた人で、ヤマト王権に神託などしていました。
日本の史書には卑弥呼なんて一切出てこないのによくこんな妄想を断言できるな
やっぱり畿内論者がウソツ畿内だのゴッドハンダー畿内だのと呼ばれているのは伊達じゃないな >>447
青龍三年の方格規矩四神鏡
235年の四神鏡は、やはり魏からきていたか、
帯方郡が、238年に、魏側になるため、
公孫一族からのか、以前に作ったのをもらったのか、 >>452
大水口宿禰はニギハヤヒの末裔で、崇神に助言していた人です。
これによって、神武=崇神という構図は成立しないことになります。
つまり、ヤマト王権の始まりは、邪馬台国が魏志倭人伝に登場するよりも過去に遡ります。
理解できますか? >>453
魏からの鏡と思います。一方で、神獣鏡が一面あるため、呉からの影響を受けた箇所も見受けられます。 >>450
そうかもしれませんが、非常に重要な視点もくれるため、古事記との関連性も伺えます。
魏志倭人伝 宋版の語注に、
「魏略曰 其俗不知正歳四節 但記 春耕秋収 為年紀」
とかいてます。これは、一年二歳として、当時の日本は、数えていたということ。
わざわざ、注意書きしてます。
これは、やはり、周時代のものを使用していたとおもわれます。古事記と日本書記の違いも
これによるかと思います。 >>256
ごめんなさい。
貴方の引用した漢文のどこが、「一年二歳として、当時の日本は、数えていた」に該当するのでしょう? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています