【考古学】奈良の纏向(まきむく)遺跡の”桃の種” 年代は卑弥呼の時代と重なる 邪馬台国研究の新資料[05/14]
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>>355
四神は、四方の方角を司るから、
方格規矩四神鏡も頷ける。その鏡の中心は、
まさに天壇とおなじだよ。
さらには、四神は、
季節にも付随しているし、天人相関説だね。
仙人がでたら、呉の思想だと思う。 畿内厨大惨敗w
【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529329558/ >>358
(ノ∀`)アチャー
686 :名無しさん@1周年 :2018/06/23(土) 11:58:47.58 ID:W+tyEJzC0
>>681
あまり知られてないけど、吉備の上東遺跡からは纏向をはるかに上回る1万個近い数の桃核が出土してる
この事実を知っていれば纏向の桃核を見て「卑弥呼の鬼道がー!」とかバカらしくて聞いてらんない
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-syutudoiseki.html
729 :名無しさん@1周年 :2018/06/23(土) 17:47:44.29 ID:nnSj0re70
>>686
これは本当、そこそこ弥生時代興味ある人でも案外知らんかもなあ
ちょっと検索してみたが、
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-joutou.html
モモの種は勿論、ト骨まで出てる
占いに使うやつな
畿内派があんなに騒いでた纏向の桃の種やト骨とは一体何だったのか 纏向の桃核の時代がどうあれ、その他の状況から、
奈良が邪馬台国なのは揺るがない事実なのです。
桃核の存在は、卑弥呼の祭祀がその場所で行なわれた傍証にはなるというだけ。
この程度で九州説が立証されると喜んでるなら、せいぜい夢を楽しむことだね。 >>360
それが畿内教のお題目なのですねw
でも+じゃほとんどが九州説www >>361
神武東征とか卑弥呼はアマテラスだとか言ってるやつばっかりじゃん。
浅知恵の素人がいくら空想を語っても学問の分野には影響しない。 今どき畿内だと言ってる学者は橿原の一部だけだよ 大半は九州説に傾いている
>>362
京大閥が無理筋をゴリ押ししてるだけの畿内説なんて世間一般じゃ相手にされてないってことだよ
しがらみのない人間が見ればどう見たってウソの塊なのは一目瞭然だからなw 九州は朝鮮の鉄材バブルで一時期繁栄した一地方じゃないの、砂鉄たたらの普及でバブル崩壊。それに中国の王朝が地方都市を知ってて首都を知らないわけがないでしょ。 .
神功皇后の実施応仁天皇の父親は天皇ではない(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 >>365
こと、考古学については、世間一般の常識なんて関係ありませんので。 ところで、その世間一般の常識ってのは、
九州の地名が奈良の地名と一致してるから、
九州の邪馬台国が奈良に東遷したってやつかな?
で、アマテラスが卑弥呼で、神武東征が4世紀で、欠史八代は架空だから、
神武と崇神と同一人物ってやつかな?
九州から出土する鉄器のほうが、奈良より多いから、九州のほうが勝ってるってやつかな?
平原遺跡の鏡はとても大きいから、ヤタノカガミに間違いないってやつかな?
三種の神器が九州の墓で見つかったから、日本神話の起源は九州ってやつかな?
他にも何かあったら、言ってみ。 畿内と魏志倭人伝の記述は矛盾することばかり
1.邪馬台国の風俗は海人 奈良には海は無い どこで蛤を拾うんだよw
今倭水人好沈没捕魚蛤
2.邪馬台国までの行程に吉備も出雲も出てこない
3.倭国の絹や鉄は畿内からはほとんど出ない 蠶桑緝績
4.邪馬台国は伊那国や奴国の南と記されている
5.棺ありて槨なし 有棺無槨
魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば畿内は有り得んな .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 俺は邪馬台国は皇室宗廟のある宇佐だと思うよ 宇佐から日向に抜けるには佐伯経由の
海沿いのリアス式海岸を行くより九重、高千穂経由で延岡に抜けるほうがよっぽど楽
天孫降臨というのは稲作農耕民がアマテラス=卑弥呼の国 宇佐から高千穂を経由して
日向に抜けた話を書いてるのだと思う そして日向三代のあと神武は本貫の宇佐を経由して
畿内に攻め込んだのだな >>370
「魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば」
何十年も前から、お決まりのフレーズですなあ。
>>372
天皇は渡来人というわけですね。 >>371
九州の人は、原を「はる」と発音しますよね?
でも、高天原は「はら」と発音されてます。
おかしいとは思わないのですかな? 九州出身だが(母親の実家が宇佐近郊) 原は ”はら” だね はるなんて聞いたことがない
皇室が渡来人である証拠は三種の神器 この系統は朝鮮の錦江流域出身
だいたい出発点が魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は何処?って議論で魏志倭人伝は間違い
っていう話なら最初から議論にならんでしょ >>366
砂鉄たたらは邪馬台国よりずっと後だろ
ああ、つまり邪馬台国は九州ってことか 魏の使者は末盧国に上陸後、伊都国まで【陸行】している
つまり使者が乗ってきた船は末盧国に停泊中なわけでこの時点でもう畿内は無い >>375
>九州出身だが(母親の実家が宇佐近郊)
卑弥呼に母ちゃんの面影見てるの?
そういうのは、「幻の邪馬台国」でおなかイッパイ。
魏志倭人伝ねえ。信用できないねえ。
厳密に言えば、いまのところ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのが、学問的立場。
それとも、魏志倭人伝が事実だと言い張るなら、
>>377
水行10日、陸行1月を説明してもらおうか。 >>378
>厳密に言えば、いまのところ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのが、学問的立場。
>>364 >>378
卑弥呼は長崎出身で売り出したが実際は東京生まれだったからな 【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529329558/
https://mainichi.jp/articles/20180618/dde/014/040/002000c
JCal整備に努める坂本稔・歴博教授(文化財科学)に聞くと、「(精度が上がったものが)できていない」。
信頼度を高める検証が進まず、09年段階で止まっていた。とすると、国際標準と日本産樹木のズレはどうなっているのか、
との疑問もわくが、傍証も複数あり、ズレは明らかという。ならば、今回公表されたモモの年代が変わる可能性の方を問わねばならない。
というのも、近藤論文には「議論を深める材料に」とJCalのグラフも参考に掲載され、今回の炭素年代を当てはめると、
実年代で4世紀を考える必要が出てくる。卑弥呼の時代ではない。
ガッカリニュースだった模様だな 九州に邪馬台国が実在した証拠は何一つないんだから、
ガッカリも何もないけど。
悔しかったら、九州の中で邪馬台国の場所を特定してみなさい。
卑弥呼が渡来人とかいうのは、もう聞いたから、宇佐以外で。 もともと箸墓は4世紀のものだっていわれてたじゃん?あれは覆ったの? 馬具が出てきたことが決定的だな 歴史上馬が出てくるのは4世紀以降だし
魏志倭人伝にも馬は居ないと書いてある 其地無牛馬虎豹羊鵲 箸墓以前の古墳も奈良には継続して存在してるので、
そのような議論は無意味なんだよなあ。 一方、九州では、3世紀に隆盛した遺跡が無い。
これが全てなんだよ。 其死、有棺無槨、封土作冢
邪馬台国では死者の塚は作るが古墳は作っていない
むしろその時代の古墳がないことが邪馬台国の証拠
魏書』張遼傳
「成遂將其衆就蘭轉入灊山灊中有天柱山高峻二十餘里道險狭歩徑裁通蘭等壁其上遼欲進諸將曰兵少道險難用深入…略
このなかに、「天柱山」の高峻二十余里とかいている。
道のりが、二十余里ではない。高さが二十余里。
天柱山は、1488メートル。やはり、短里76〜77メートルで計算されている。
長里なら、チョモランマ山どころか
世界一高い山になる。 実際、短里、長里あるが、なぜ使い分けられたかの歴史的背景を探れば、みえてくる。
また、唐は、長里になるが、そのときに、
陸行は、ロバ、馬車、歩兵、水行も遡上、湖、などによって、分けられている。
唐の陸行の距離を把握すれば、
短里であろうが長里であろうが、
物体の動く距離をみるわけだから、時代間で、
差異はないと思う。
要は、その当時、現在に換算して、何キロ移動
するかが、重要。 《蜀志·诸葛亮传》
后的陈寿上表(泰始十年二月一日)∶“
伏惟陛下,迈纵古圣”。
“陛下”指西晋第一代君主武帝,
“古圣”指文章中出现的咎繇(舜的臣)、
周公等人。
这表明了西晋的天子不欲承汉制,
而要恢复周以前的制度、政治。
因而它同时也就宣明∶
对作为制度之一的里单位
不取秦汉新制的“长里”,
而复用周以前古制的“短里”。
ここに、西晋は、秦漢の新制度を使わず、
周以前の制度にもどすと言って、
短里を使っている。
武帝は、漢制を使わない。
舜的臣とは、舜帝の末裔や家臣などの
意味だろう。 晋书·元帝纪》∶“
优复之科,一依汉氏故事。
元帝是东晋的第一代君主,
这一节录自大兴三年(320年)的诏书,
可以认为这是恢复汉制的宣言。
汉继承秦的新制,
沿用“长里”,正如《史记》、
《汉书》所记述的那样。
东晋也复用“长里”
東晋の元帝は、320年に、
漢制を引き継ぐと言っている。
史記、漢書は、長里として、
書かれていく。 陳寿さんがかいたものは、短里でいいかと
思われる。 陳某とヤマトの姫様の謁見の記述がない事から、楽浪郡あたりで伝聞を収集しまとめたものが魏志倭人伝。正式な魏の使いだったら現地まで行って謁見はしますよ。その場合方角と距離に誤りはないはず。 >>393
張政さんが、行っている。軍事
司令官(塞曹掾史)として、驻倭二十年。
壱岐島も最低でも4回は見ている。記述は、短里で捉えている。
商人や役人でなく、軍事専門がきている。
その報告は、帯方郡長官や魏の天子もみるもの。具体的な記述にならなければ、報告として、
採用されないだろう。 >>389
胡三省さんが、書いた「资治通鉴卷胡注」は、
それだけで、歴史書といえる。
司馬光が著した歴史書『資治通鑑』の研究に尽くして、『資治通鑑音注』・『通鑑釈文辨誤(釈文弁誤)』という注釈書を著した 胡三省注资治通鉴
資治通鑑卷第二百五十九 35に、
下記のように書いている。
魏志倭人伝の1月は、
15日と個人的におもうが。
〔唐制:
陸行之程,
馬日七十里,
步及驢五十里,
車三十里。
水行之程,
舟之重者泝河日三十里,
江四十里,
餘水四十五里。
空舟泝河四十里,
江五十里,
餘水六十里、
沿流之舟則輕重同制,
河日一百五十里,
江一百里,
餘水七十里。 >>396
一番最初は
唐六典に、書かれたもので、度支郎の説明の
なかに、その陸行、水行が、書いてある。
つまりは、租庸を集める財務官について、
説明している。
中国,唐・宋代の中央の財務官庁の制度。漢,魏以来,度支尚書があり,その下に度支侍郎 (度支郎中) がおかれ,国家の財政を司っていた。唐代には戸部尚書といわれ,その下に度支郎中がおかれた。 >>383
>>381を見ると全く覆ってないな
むしろ補強された >>398
九州説唱えてる学者は、いまとなっては九州の女子大だけじゃん。 >>398
別に学者と言ったって、アマ研究者と大した差はないだろ。
強いて言えば、九州説を唱えれば研究費がもらえないとか、出世できないとか
そういうどうでもいいバイアスがかかってるわけで しかも、九州説を補強する新しい根拠は、ここ30年何も出てこず。
ただ、畿内説を批判するだけ。
九州の中で、卑弥呼の墓を見つけてた学者はいない。
見つけたと言ったら掘らないといけないしな。
掘っても何も無いのをわかってるから掘らない。
九州説の生き残りのためだけに、畿内説を批判して、九州説の面目を保つしかない。
ようするに、九州説利権にしがみついてるだけの職業九州説だな。 >>403
畿内説の自己紹介お疲れ様ですw
九州じゃこないだも伊都国から硯が出たりと着実に成果が出てるよん
赤村の巨大前方後円墳も地主の発掘許可待ちだしね
むしろ畿内説こそ魏志倭人伝の記述と全く関係ないものしか出ないよねw ttps://www.youtube.com/watch?v=skPVvq4zMpc
この動画を見て、何を思うかね? >>405
反論できません、とw
畿内説は本当にオワコンだな >>406 まるで畿内説と同じだなw 魏志倭人伝をちゃんと読めよ 魏志倭人伝原理主義者が科学の発展を阻害する。
考古学という科学は、物証を元に古代の状況を復元する。
物証で得られた知見では、3世紀の九州は衰退し、畿内が繁栄しヤマト王権として継続していく。
文献は、物証を傍証するものでしかなく、
文献だけで古代の状況を推察するのは科学ではなく「歴史小説」である。
したがって、3世紀の倭国の状況を記した記録に「邪馬台国」が登場しているならば
「やまと国」と読んでヤマト王権と同一と考えなくてはいけない。
否定する物証は、九州説側が用意しなければ、議論にもならない。 赤村に巨大前方後円墳があるというが、自然の丘陵を古墳だと誤認しているだけ。
>>406が、古代ギリシャの天文機械と、何の接点も無い日本の銅鏡を比較してるのと同じ。
知識の無さと、視野の狭さゆえに、「見たいものしか見えない」という自覚が無い。 歴史書なくして歴史は語れない 物証だけで人類の歴史を云々するなら明治さえ遠い彼方だなw
>>410
いや畿内は>>381にあるように4世紀のものを3世紀だと言い張ってるだけじゃん
単なる捏造の塊、それが畿内説 弥生時代には既に淡路島まで九州勢に制圧されていたのに畿内が繁栄とかw
もし畿内にも王権があったならそれは九州の分家だろうよ
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 >>414
文化の伝播が征服の証拠になるなら、
明治時代の日本は欧米に占領されていたと、未来の人は考えることになる。
君は、頭が悪すぎる。 鉄の鏃
魏志倭人伝は、倭人は鉄の鏃を使うと記す。
鉄の鏃は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍の鏃が出土する。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈
倭人伝には、倭人は兵器に矛を持つと記す。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
絹
倭人伝には、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記す。
絹は、畿内よりも、九州からはるかに多く出土する。
奈良県に比べると、福岡県は圧倒的に出土地の数が多い。
時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で作られていた絹が、後の古墳時代になって、
近畿など他の地域に広がったように見える
以上のように、『魏志倭人伝』に記されているもので、ほぼ、邪馬台国時代の遺跡から出土するものに
かぎれば、奈良県には、ほとんどみるべきものがなく、福岡県と奈良県とのあいだには、圧倒的な差がある。
この状況は4世紀になると逆転する。 邪馬台国と大和がひらがな読みすると似てるとかとんでもない事じゃなく発掘事実が正解ですね 現代考えても田舎モンが都会に行く。
半島との交易も基本倭人が出向く形だと思う。
記紀で渡来人云々は小中華としての天武朝が
百済新羅を蛮夷とかけないから渡来人という言葉を作ったんじゃね。 >>416
当時の中国人は、倭国の風習といったら九州を眺めて言ってるのだから、なんの問題にもならない。 >>410
アイヌ人をエミシとも呼んでたけど
もともと、アイヌ人を指してたとは限らない。
大和朝廷が、朝廷に従わない東の方に居た倭人を
一括してエミシと読んでたに過ぎない訳だ。
アメリカ先住民をインディアンと呼んでたのも。
実際のインド人とは関係なく
白人がアメリカ大陸をインドと勘違いしたことから
インディアンと呼んでただけな訳だ。
(当のアメリカ先住民からしたら、べつに騙ってる訳でも無く。
白人が自分らをインディアンと呼ぶから
「我々はインディアンだ」と名乗ってるに過ぎない)
とかく、異人種の呼び名については無責任だ。
そう考えると、邪馬台の発音が
実際にヤマトと読むのは有りそうに思うが。
むしろ、近畿地方のヤマト名は
先のインディアンの例と同じく、大陸から
邪馬台由来で倭人をそう呼んだ結果の
外国語なんじゃないかと。
そうだとすれば、邪馬台とヤマトが同じ言葉由来でも
場所自体が無関係な事は普通に有りえる。
たとえばアイヌ人が「我々はエミシだ」と言ってたとしても
これも先のインディアンの例と同じく、
倭人が自分らをそう呼ぶから、そう答えてるに過ぎない。
別にエミシの語源が、最初からアイヌを指してた根拠には無らない。
同じ事、同じ事…… >>419 ほほう、やっと倭国が九州だと認めたね(´・ω・`)
>>421
九州は倭国だろ。
で、ヤマトは、倭国じゃないとでも? 3世紀前半の卑弥呼の時代の畿内は倭国じゃなくて銅鐸国だな
魏志倭人伝にも記紀にも全然出てこない銅鐸が近畿地方から多量に出土する
これは倭国とは違う文化形態を持つ連中=出雲族が近畿にいたという証拠だね
そして4世紀以降 銅鐸族は近畿エリアから一掃される
吉野ヶ里の銅鐸をどう説明するかはおいといて弥生時代から古墳時代にどう移行したのかは気になります
大王が現れて統治を一変させ遠征などを実施する軍政に変わったのでしょうか
武器に銅を使えば銅鐸は作りませんよね
そういえば箸墓古墳の時代、崇神天皇の四道将軍派遣があり、三韓征伐をへて応神天皇の頃には南朝鮮を押さえてますよね 四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する
王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を
示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域と
ほぼ重なっている。 wiki
神武と崇神が同一人物だとすると九州から東征して4世紀初頭に畿内の銅鐸(出雲)族を駆逐した後に
四道将軍を派遣して吉備や出雲を攻撃したのが事実だろうね >>425
>神武と崇神が同一人物だとすると九州から東征して4世紀初頭に畿内の銅鐸(出雲)族を駆逐した後に
>四道将軍を派遣して吉備や出雲を攻撃したのが事実だろうね
古くさすぎる歴史小説です。
神武と崇神が同一人物(仮定)
九州から東征して(仮定)
4世紀初頭に(仮定)
畿内の銅鐸(出雲)族(仮定)
駆逐した(仮定)
全部、脳内妄想のオンパレード。
考古学的物証が無ければ、議論にものぼりません。 ちなみに、銅鐸は、他の勢力によって滅ぼされたのではありません。
自主的に、銅鐸祭祀を捨てたのです。
九州の銅矛文化はどうでしたか?
近畿の銅鐸が消えた後も、九州の銅矛文化は続いていましたか?
続いていませんね。近畿と同じように、自主的に銅矛文化を捨てたのです。
祭祀を捨てた理由は、王に権力を集中するためです。
シャーマンが神託で民を率いるのではなく、王が権力を持って民を統率する政治形態に以降したわけです。
その王権こそ、ヤマト王権であり、象徴となる王の墓が前方後円墳です。
当然、前方後円墳は、”九州発祥ではありません。”
まあ、40年前の九州説で頭が止まってる人には理解できない文章でしょうなあ。 朝鮮半島の錦江(白村江)発祥の祭祀である3種の神器は
日本で最も古い弥生遺跡・王墓である福岡市の吉武高木遺跡
を経て現在も皇室で守られている
自ら祭祀を捨てるなどということは有り得んよ (´・ω・`)
3種の神器がなんですって?
古墳時代に珍重されたのは、鎧兜ですが? 日本の皇室は三種の神器を祭祀しています。 剣と鏡と玉です。
これは王権の象徴でこの3点セットを持つものが王の権威を得る事になります。
八尺瓊の曲玉、八咫鏡・草薙剣ですね。 日本書記を、一度通して読んでみるといいです。
「三種の神器」なるものが、どれほど登場するのか?
神代にちょろっと出てくるだけで、後は皇室の祭祀などでは出てきません。
なぜかというと、「三種の神器」なるものは、天武天皇の創作だからです。
「三種の神器」といいつつ、鏡は伊勢、剣は尾張と、
なぜ、東国に分散してるのか、考えたことがありますか?
天武天皇が壬申の乱で、勝利して天下を手に入れたわけですが、
東国の兵力を借りてこその勝利でした。
その論功行賞として、東国の宝物(鏡、剣)を、皇室の三種tの神器に組み入れ、
神話に登場させたわけ。
古代の墓から、三種の神器が見つかるのは、古代から貴重品だっただけのことです。 だいたい、草薙剣なるものは、そもそも尾張氏一族の宝物であって、
皇室とは関係ありません。
天武が、三種の神器の一つとして、尾張氏一族の宝物の草薙剣を選んだのです。
尾張氏にとっては、ありがた迷惑だったことでしょう。
自分達の宝物を、皇室に奪われたようなものですからね。 >古代の墓から、三種の神器が見つかる
ちょっと違いますね 正しくは、
古代の王墓から、三種の神器が見つかる ですよ
大王以外の一般豪族の墓からは金輪際出ませんぜ
どうせ、尾張風土記も読んだことがないでしょうから、
ここで紹介しましょう。
熱田神宮の剣は、ヤマトタケルが忘れていった剣で、
それを取ろうとしたら光輝いて神懸ってたので、祀ることになったのです。
「三種の神器の一つだ」などということは、どこにも書かれていません。
単に、神剣の一つという認識でしかありませんでした。 とりあえず先に卑弥呼の墓を見つけさえすれば解決する事なので見つけましょうよ 尾張風土記には、以下のようにも書かれています。
ヤマトタケルがエミシ征伐の帰りに、剣をこの地に奉納した。
この剣は、ヤマタノオロチの尾から出たものである。
そこで、「尾張」という。
剣の出所と、地名説話となってますが、ここでも、「三種の神器の一つ」などとは紹介されていません。
そういう認識があれば、もっと誇らしい記述になったでしょう。
アマテラスに献上して、神武に持たせたとかね。
でも、そういう設定は、この当時の尾張にはなかったのです。 ちなみに、出雲風土記には、ヤマタノオロチなど出てきません。
これで、日本神話が、日本各地の風土記の伝聞を寄せ集めてこしらえたということが理解できるはずです。
よほどのバカでなければ。 考古学を否定して、文献だけで類推するのもいいですが、
7世紀までの文献なんて、数えるほどしかないのですから、
せめて、全て目を通してから、何か主張してください。
日本書紀、古事記、古語拾遺、風土記、万葉集、新選姓氏録、
このあたりは最低、目を通して、何が書かれてるか理解することです。
卑弥呼=アマテラスとか、九州説がいかにばかばかしいか、
文献を調べただけでもわかります。 >>438 魏志倭人伝もお忘れなく
魏志倭人伝を調べただけで畿内説がいかにばかばかしいか判りますw .>>439
風土記、万葉集、新選姓氏録から、神武東征の証拠を提示してください。
前方後円墳は、九州発祥ではないことも、お忘れなく。 集落外の王権に頼る理由はなんでしょう
警察力?
墳墓築造の農閑期公共事業?
正確な暦?
理由がなきゃ移行しないと思います >>441
農耕の効率化のためには、ムラごとに種まきや収穫をしていては、おいつきません。
計画的に人員を動員して、治水整備することで、田畑を広げることができます。
収穫が増えれば、民衆は満たされ、王への尊敬が生まれます。
バカはすぐに「武力で民衆を押さえつけた」などと、マンガみたいな話をはじめますが、そういうことはありません。 3世紀の九州が衰退したのは、収穫量を増やすための治水工事がはかどらなかったためです。
九州は、鉄器があるから有利だとか、バカはすぐに言い出しますが、
その鉄を使った農機具で、いくらでも田畑を広げることができたはずなのに、
九州には、広大な水田の遺跡というものが多くはありません。
九州の人は飢えていたので、作物の奪い合いをして争っていたのです。
発掘した人骨から、戦争の後がわかります。 >>443
それは、倭国大乱が、九州であったと言ってるよ。
黄巾の乱が、なぜ倭国大乱にも関係あり、
帯方郡が、この時期にでき、公孫度がおさめたか。
さらに公孫一族から、魏が、帯方郡を
取り戻したのち(密かに山東省から黄海へ渡った)卑弥呼は、朝貢使の難升米を派遣した。 >>444
>それは、倭国大乱が、九州であったと言ってるよ。
そうですよ?
九州は、疲弊して大混乱、民は餓死寸前。
そこに、畿内のヤマトの卑弥呼が救いの手を差し伸べたのです。
もっと、感謝したらどうかと思いますね。
現実を見もしないで、邪馬台国が九州とか、根拠の無い妄想ばかり。 ヤマト王権も、公孫氏と関係を持っていたと思われます。
丹後半島の太田南古墳で、青龍三年銘(235年)の「方格規矩四神鏡」が出土しています。
卑弥呼の時代と同一のもので、
ヤマト王権と丹後が強い結びつきを持ってることは、説明しなくてもいいでしょう。
丹後から朝鮮半島に使者を出すことも容易なので、
ヤマトの卑弥呼は、まず公孫氏と交渉して魏へ朝貢する足がかりにしたでしょう。 大阪の安満宮山古墳からも、青龍三年の方格規矩四神鏡が出土しています。
ヤマトと丹後の結びつきを考えれば、不思議ではありません。
滋賀県甲賀市水口町に水口神社があり、
大水口宿禰という人物が祀られています。
卑弥呼と同時代に生きた人で、ヤマト王権に神託などしていました。
水口という名前は、「水源を管理する人」という意味です。
灌漑工事なども指揮していたでしょう。 >>445
倭国大乱は、魏志倭人伝に書かれているし、
邪馬台国までの距離までかいている。
帯方郡−邪馬台国の1万2千余里から帯方郡−不彌国の1万7百余里を引いた不彌国−邪馬台国は僅か1千3百余里しか残りません。
この魏志倭人伝のときは、周の制度を再度使うとして、短里で書いています。
すると、奈良までいかなくなります。
短里も約77メートルと計算されています。
魏書にも山の高さを表現したものもあり、
短里計算で、現在の山の高さにぴったり合います。調べていき、短里と納得し、
高低にも短里がある。
また、周に戻すといっている。
どの説が、という思いでなく、中国の文献や
古事記などをみながら、長里では、
無理があるのではないかと思うわけです。 大水口宿禰は、新撰姓氏録では、神饒速日命の六世孫とも伝えます。
つまり、神武と同時代のニギハヤヒよりも、数代後の人物が、
箸墓古墳を築造していた頃のヤマト王権に助言を与えていたことになります。
これによって、神武=崇神は、成立しないわけです。
神武=崇神とか言ってる九州のセンセイは、魏志倭人伝と、日本神話以外、何も文献を読んでいないので、
こういう恥ずかしいミスを平気でするわけです。 >>448
魏志倭人伝の内容が、一言一句正しいという前提に立つのはやめたほうがいいね。
他人と、話が合わないから。
だからこそ、九州説の中でも、統一した邪馬台国の場所を決められないわけでしょ。 >>447
>大水口宿禰という人物が祀られています。
>卑弥呼と同時代に生きた人で、ヤマト王権に神託などしていました。
日本の史書には卑弥呼なんて一切出てこないのによくこんな妄想を断言できるな
やっぱり畿内論者がウソツ畿内だのゴッドハンダー畿内だのと呼ばれているのは伊達じゃないな >>447
青龍三年の方格規矩四神鏡
235年の四神鏡は、やはり魏からきていたか、
帯方郡が、238年に、魏側になるため、
公孫一族からのか、以前に作ったのをもらったのか、 >>452
大水口宿禰はニギハヤヒの末裔で、崇神に助言していた人です。
これによって、神武=崇神という構図は成立しないことになります。
つまり、ヤマト王権の始まりは、邪馬台国が魏志倭人伝に登場するよりも過去に遡ります。
理解できますか? >>453
魏からの鏡と思います。一方で、神獣鏡が一面あるため、呉からの影響を受けた箇所も見受けられます。 >>450
そうかもしれませんが、非常に重要な視点もくれるため、古事記との関連性も伺えます。
魏志倭人伝 宋版の語注に、
「魏略曰 其俗不知正歳四節 但記 春耕秋収 為年紀」
とかいてます。これは、一年二歳として、当時の日本は、数えていたということ。
わざわざ、注意書きしてます。
これは、やはり、周時代のものを使用していたとおもわれます。古事記と日本書記の違いも
これによるかと思います。 >>256
ごめんなさい。
貴方の引用した漢文のどこが、「一年二歳として、当時の日本は、数えていた」に該当するのでしょう? >>457
魏志倭人伝の宋版の語注は、魏も周の制度を、利用していたが、さらに四節を、しらないとかいている。 >>256
この内容は、かいてないからわからないが、
一年二歳説は、説明する。 >>459
魏略には、倭人は、太白の子孫とかいていたわけだから、文化は、周につながる。
さらに言えば、魏も周につながる。
周公の家臣なになには、上で書いている。
宋版の春秋という下りで一年を把握しているのは、かなり古い周の文化になる。 >>458
「春夏秋冬」の4季節を知らなくて、
種まきと収穫の2季節の概念しかないとしか読めないのですが。
それがどうして、1年を2年と数えるという解釈になるのか、わかりません。
学術論文があるなら、提示してください。
貴方個人の妄想でないなら、お願いします。 >>461
周岁,
是国际通用的年龄计算方式。
它计算的是出生后已经度过的时间长度
(为基数,故也可以计算尾数,
如三岁零两个月,七岁半等)
在中国,为了与传统的计龄方式,
即计算出生后正在经历的年份次序
(为序数),
才有了周岁和虚岁这两种名称。
注:每到公历生日的当天便龄一岁。
这种计龄方式是公认的传统,无需法律规 >>461
そのようにかいていますね。ただ、そこに
さらに深読みして、魏の更に進んだ24季節
とかもしらず、かなり古いのを使ってた。
つまりは、わざわざ語注にしたのは、
特記すべきことで、かなり古い方法使ってるなあと思うわけ。 間違えないで欲しいのは、一年を二年とは、書いてない。一年を二歳としているだけ。
それは、周岁という数え方。古代の数え方。
3歳02カ月なら7歳半になるような。
つまりは、古事記の年齢もそうみたらいいんやないかと。
上にもかいたが、没年月が古事記だけ16日以降ないからね。 >>463
申し訳ないですが、わざわざ1年を2年と倭人が考えていたと
解釈しなければいけない意味がわかりません。 >>465
解釈やなく、春秋で一年を、とらえるのは、
当時からしたら、周の時代やないかと。
それで生活していたんやと。だから、語注に
したんだと思う。解釈やなく、ただ使っていただけ。日本書記からは、記載がかわるから、
文化的な移行は、起きてる。 >>464
2倍歴なる論があることは、承知してますよ。
しかしながら、「没年月が古事記だけ16日以降ない」ことから、
1月〜12月を、前半の180日
次の1月〜12月を、後半の180日の記録と考えることは否定します。
なぜなら、日付には季節も書かれておりますが、
「春9月10日」とか「秋3月7日」などといった記載は一切ありません。
あなたの論は破綻しています。 >>467
六十甲子表では、かかれている。
甲午9月9日。
この
六十甲子表は、陰陽五行説から来ていて、
周王朝に、発展完了したといわれている。 六十甲子表とやらは、60年周期で繰り返しになりますが、
それが倭国に導入されたら、30年でくり返すように運用されたとでも主張するのでしょうか?
それとも、中国でも30年で繰り返していたのを、そのまま倭国で運用されたとでも主張するのでしょうか?
そんな苦しい主張をして、何を得られるのかわかりません。 >>469
一年を二年と言ってない。一年二歳として、
とらえるとだけ、話して、
それは魏志倭人伝の宋版の語注から、
読んでいるだけの話。
で、周につながる話をしているだけ。
あなたは、短里を否定しているんですか? >>470
>一年を二年と言ってない。一年二歳として
事例を示してください。
貴方の妄想にはつきあえません。 >>470
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E4%B8%80%E7%96%86%E7%90%86%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E9%83%BD%E4%B9%8B%E5%9B%B3
>>235のように、
古地図にある倭国が南北に長く描かれてるものがあることは、ご存知ですよね?
中国人は日本列島の形も、方位も正確に把握してなかったのです。
里数が長里だろうが短里だろうが、厳密に考えるだけ無駄です。 測量しなけりゃ方位も形も判るわけない 距離単位とは別次元の話だね(´・ω・`)
>>472
马王堆三号汉墓 地形图
これは、西漢時代の墓からでたのだか、
それみるだけでも、測量技師を
伺い知れます。 >>474
魏志倭人伝より数百年前で、
現代の地図とほぼかわらないのを
書いているわけだし。 >>462
もう少し補足します。
周岁に対して虚岁が、大体実際の年齢に、
「+1」していきます。もちろん旧正月の
前後に生まれたかで、そこだけで
1歳も変わります。
今の残るのが、母親の中にいる10カ月をすぎ、
生まれた瞬間に、1歳とする風習です。
虚岁の現代の名残はそれで終わります。
何故、虚岁がうまれたか?
それは、古代、子供はうまれてくるまで、
流産や堕胎の可能性が高かった。
責任持って把握するため、お腹の中から、
数えたということ。
男進女满といういみは、男性は、虚岁で
計算して、女性は周岁の現代と同じ年齢
計算で、行われるいみです。
男性だけ何故、虚岁を使ったか。
それは畏敬もふくめて、歳をとれば、
取るほど長老のように権利を持つことが
増え、またその年齢を聞くことで、
より違いをだすためとも思われる。 そもそも、古代の天皇は架空だとほざいてた九州説が、
古代の天皇の没年をもって2倍歴が存在したとか、二枚舌もいいとこだ。 >>477
私は、どこ説でもない。
ただ論文や実際の墳墓から、でてくるものから、点と点を繋げたいだけ。
今は、倭国大乱が、黄巾の乱によると書いた
背景を探っている。
論文で、でている古代の気候変動によるかと
思う。 補足:鮮卑という民族がよくでてくるが、
この語源は、古代の表記の残りかと。
現代のシベリアは、漢字で書くと
西伯利亞(俄语:Сибирь),
古代表記「鮮卑利亞」或「錫伯利亞」とかく。
このシベリアのシベだね。
シベリアは、なるほど蒙古の真北あたりだから、騎馬民族系になりますね。 じゃあ、シベリアは「しばれる」が語源ということか。 邪馬台国がどこだろうと、日本の歴史学の後退現象が起こるような気がする。
記紀至上主義に確定邪馬台国周辺の歴史偏重が加わるだけのような。 神御衣祭を思えば、上代の人が365日単位でなく、
夏季と冬季で「暦のようなもの」を作っていたのかもとは思う。 日の出時の山の影がどこどこに伸びたら冬至、夏至 とかの知識はどの土地でもあったろうね
証拠も何も知らないけど三輪山信仰もそういう部分あったんじゃないのかなぁ 戸数や官の名前が違いすぎてどう仕様もないが、
倭人伝の地理の記述は異なる2つの情報源をひとまとめにしたとしたらどうだろう。
一つは地理志的な情報、もう一つは日記的な出張記録。
対海国と投馬国が同じなら、帯方から船で二十日で対馬についた。
そこから船で十日、陸上を一月で邪馬台国みたいな。 >>483
上の話は一年を二回で数えているということは正しいが、それは年齢を数える方法で
あってカレンダーではないと思う。
古代日本神話で異常な長生きの天皇が居たが、これは単に長生きしたのではなく、
当時の年齢の数え方が一年二回で計数していたということ。
そうなると実際の天皇の年齢は資料に記載される数値の1/2ということになり、標準的な
寿命にちかくなる。 >>489
古代の天皇を架空だと言ったり、実年齢が半分だと言ったり、
見解を統一させよ。
古代の天皇が実在で、実年齢が半分の場合でも、神武東征は紀元前300年だから、
東遷説は否定されるぞ。 >>489
上代の人の精神は永遠にわからないかもしれないが。
トンデモを書いておくと前方後円墳は天岩戸とそこから漏れる日光をあらわして、
復活信仰の埋葬だったのかもといっとこう。三星堆の縦目仮面も光線を立体で表してるらしいし。
太陽神の夏至と冬至の衣替えで太陽の年を数えて、
その続きで太陽神に連なる首長の年を数えたのかもしれん。 2018/02/03
【言語/民俗学】沖縄・奄美の言語、どう広がった? 琉球語の系統樹作成へ 狩俣琉大教授ら[02/03]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1517641169/137-138
2018/07/13
【人類学】縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読[07/11]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1531460749/
2018/08/03
【遺跡】“日本人の起源に迫る” 弥生人の骨をDNA分析へ “地下の弥生博物館”と呼ばれる遺跡 詳しい年代も明らかに?★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1533307071/79
2018/08/02
【考古】「日本書紀の埴輪誕生説話の元になった可能性」 垂仁天皇陵の埴輪制作?古代の埴輪製作集団、土師氏の集落 奈良・菅原東遺跡
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1533199602/ >>1
> 西暦135年から230年の間のもの
幅ありすぎ(~_~;) 年代測定するには近年すぎるな。数万年、数千年単位なら信用出来そうだけど。これが卑弥呼に結びつけるには無理がありそうだ。
ただ、九州の刀の出土説も今一つ説得力ないな。
刀を地中に埋める必要性などない。近畿では貴重な鉄をあまり粗末にしなかっただけともいえるわけだし。
名称だけでも、ヤマタイ〜ヤマトの類似性には近畿説の説得力になるけど、九州がヤマタイを名乗るには厳しくないか?九州のヤマタイはその後どうなったんだ?滅ぼされたなら相手は誰?
まぁ、ヤマタイが近畿だと都合が良くない点もあるので、九州で全然構わないんだけど、九州派はもっと頑張るべき。 >>496
魏志倭人伝には倭では鉄の鏃を使用しているとあるんだよ
一般兵の鏃に使うほど鉄があったのに有力者の副葬にはケチったとか有りえんわな
ヤマトの地名は九州にも複数箇所ある
これで岡山説が浮上したな。
岡山県観光課が動き出すだろう。
あかんそれ考えると経済学的には邪馬台国論争決着ついたらまずいになる
未来永劫決着つかなさそうだ >>49
>>133 >>358,381
>>488 >>494
2018/08/04
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1533360836/ つか、邪馬台国九州論者って、
昔は九州がスゴカッタ! 今は九州ダメダメというのを自ら認めてる感じで
すごくキライなんですけどw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています