【考古学】奈良の纏向(まきむく)遺跡の”桃の種” 年代は卑弥呼の時代と重なる 邪馬台国研究の新資料[05/14]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、
女王・卑弥呼の時代と重なることがわかりました。邪馬台国の謎に迫る新たな資料として注目されます。
纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡で、邪馬台国があった場所の有力な候補の1つとされています。
遺跡では、8年前、卑弥呼の宮殿跡との説もある3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上見つかりました。
この桃の種を、名古屋大学の中村俊夫名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲さんが、
それぞれ放射性炭素を使った年代測定を行ったところ、
いずれも西暦135年から230年の間のものの可能性が高いことがわかりました。
卑弥呼は中国の歴史書「魏志倭人伝」で、3世紀前半ごろに邪馬台国を治めていたとされ、
今回の結果は卑弥呼の時代と一部、重なっています。また、桃は古くから神聖な果物とされていたことから、
卑弥呼が行った祭しで供えたのではないかという指摘もあるということです。
桜井市纒向学研究センターの寺澤薫所長は、「魏志倭人伝の記述にある卑弥呼の時代と重なり、
纒向遺跡について考えるうえで重要な資料だ」と話しています。
■邪馬台国九州説の研究者「卑弥呼 明確には結びつかず」
邪馬台国が九州にあったとする説を唱える、佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は、
「参考になる研究成果だが、邪馬台国の所在地や卑弥呼と結びつく明確な材料はなく、
今回の成果で論ずるのは無理があるのではないか」と話しています。
関連ソース画像
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/e/4/e4e19_1509_bbb0e83d_2ee86e0b.jpg
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180514/k10011438091000.html >>1
この桃の種は発芽しないもんかねえ(´・ω・`)オオガハス… >>233
その理屈は無理です。
>南至投馬國、水行二十曰。
>南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
全行程が「水行十日、陸行一月」なら、前段の「水行二十曰」と辻褄が合いません。
「南」と方角を指してるのが奇妙ですが、
古地図にある倭国が南北に長く描かれてるものがあることはご存知でしょう。
↓に掲載されてますが。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E4%B8%80%E7%96%86%E7%90%86%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E9%83%BD%E4%B9%8B%E5%9B%B3
この古地図では、南に行くということは、近畿に行くという意味になります。
当時の中国人の日本列島の認識はこの程度なんですよ。 一つは水行と陸行の中身だろうかな。
水行には対象の行程の全水行が含まれるのか。
水行には気象待ちの日数も含まれるのか。
陸行には川を利用した移動も含まれるのか。
個人的に仮に宇佐→近畿だとすると、豊予海峡わたって四国を通って紀伊水道をへて倭かなと思ったり。
海を2回わたる分を合わせて10日とする。四国の瀬戸内側の河川をたどって1か月。大和へも川伝い。
当時舗装された道はなかったんじゃね。あと馬車や荷車はあったんだろうか。 南の投馬国に行くのは水行20日と参考までにかいてるにすぎない いずれにしても、我田引水で解釈してる結果、
何十年かけても、九州説の中でも場所が統一できないという現状を見れば、
魏志倭人伝の行程を重視しても何かが決まるわけではないと、結論が出ています。
では、何を決め手にすればいいかと考えれば、
考古学的に、九州に強大な王権は存在せず、畿内にヤマト王権が生まれている、その事実だけを直視すべきです。 ヒミコの話と古墳時代とは年代がずれるよね
東征の伝説も正史に書かれてるしな >>239
いずれはヤマト王権にいくのは、わかっている。しかし、同時期に鉄器の出土、北九州発祥の横穴墓の全国展開。福岡の国内最大の銅鏡。
銅鐸文化圏の銅剣が、鉄器、鉄剣などさかんに出ている地域を力でおさえれるか?
など、過渡期を感じるだけ。 3世紀の距離認識なんて当時でさえ検証不能な数字だろ
誰もがおかしいなぁと思いつつ個々人の判断で生きてたレベルでしょ
方角もそう
太陽の運行をカレンダーという形で確定できるだけで王朝の長になれる時代よ
それよりも国名や内容
投馬国はどこなんだと
さらに言えば
出雲の国譲りと神武東征が何の歴史的事実に対応するのか考古学的解釈が知りたいので教えろください >>241
>力でおさえれるか?
まず、武力で制圧するという発想を捨てたらどうですか?
東遷説にしても、九州勢力が畿内を武力制圧したような痕跡は一つも発見されていません。
九州の銅剣や鏃が畿内で大量に見つかったなどという話しは聞きません。
逆もまたしかりで、
ヤマト王権が九州を制圧できたのは、武力によるものではありません。
近畿中心の経済圏に、九州が参画しただけのことです。 >>242
>出雲の国譲りと神武東征が何の歴史的事実に対応するのか考古学的解釈が知りたいので教えろください
神武東征の考古学的証拠はありません。
神話でも、神武の率いる少数部族が、先住民の抵抗にあいつつ、
なんとか奈良盆地の橿原に住み着いたというだけのことです。
けして、神武の軍隊が、近畿のクニグニを制圧したなどという勇ましい話しではありません。
出雲の国譲りは、記紀神話と、出雲風土記の内容が異なっているために、
後世の創作であることは明白です。
出雲のご当地の伝説では、「国ゆずり」という大事件を、記録していません。 記紀神話で有名な、スサノオのヤマタノオロチ退治の伝説にしても、
出雲風土記には登場しません。
ほかの地域の人が、スサノオの伝聞をふくらませてヤマタノオロチ伝説が創作されたことは明白です。
国譲り神話は、ヤマト王権に出雲が服属することを強調して、記紀の編纂時に創作されたと考えるべきです。
逆に言えば、記紀の編纂時においても、出雲がヤマト王権に完全に服従してなかったという傍証にもなるでしょう。 最も重要な点があります。
卑弥呼=アマテラスと考える方が多いと思われますが、
アマテラスもまた、後世の創作にすぎません。
卑弥呼=アマテラスとして考察する余地が無い以上、東遷説は成立しません。
ヤマト王権でアマテラスを初めて祭ったのは崇神天皇ですが、
崇神天皇は、アマテラスの神威が強すぎるというので、大和国から追放してしまいます。
そして、各地を転々として、今の伊勢に落ち着き、伊勢神宮が作られたのは7世紀の事です。 そのようなわけで、出雲風土記には天照大神は登場しません。
かわりに、出雲国造神賀詞には、高天の神王高御魂命が最高神として登場します。
出雲国造というのは、天津神の子孫の家系なので、天照大神のことは知っていないといけませんが、
神賀詞では触れていないわけです。
あくまでも、出雲国造の立場では、高天原の最高神は、高御魂命であり、アマテラスではないというのが立場なのです。
ここで、アマテラスを最高神とする7世紀のヤマト王権と対立してくるわけです。
ちなみに、アマテラスを皇祖神として祭ったのは、天武天皇ということになります。 記紀神話をよく読めばわかりますが、
高天原の最高神は、タカミムスビと、アマテラスの2柱となっています。
出雲国造が高御魂命として奉っていたように、もともとは、タカミムスビが倭国の最高神でした。
そこに、アマテラスをもぐりこませて、最高神を2柱体勢にしたのが、7世紀のことです。
壬申の乱で、天武天皇が天下を取ったときに、そのように神話を作り変えました。
もともとアマテラスは、八百万ある神の一人、伊勢の地方神でしかなかったのですが、
天武天皇はアマテラスの太陽信仰に傾倒したわけです。
そして、天武天皇以後、倭国の国号を、「日本」と改める流れになります。
日本からの遣唐使の井真成墓誌に「日本」という文字が初めて書き残されることになります。 では、アマテラスとスサノオの「誓約」とは何か?
アマテラスが後世の創作なので、この神話も基本的に後世の創作です。
出雲風土記に登場しない話しなので、異論は無いでしょう。
早い話、アマテラス=ヤマト王権と読み替えてください。
出雲がヤマト王権に服属したことを象徴的に述べていることになります。
誓約の結果、何が起きたかとというと、ヤマト王権は、宗像氏を取り込むことに成功しました。
宗像氏は、もともと出雲と同盟関係にあったわけですが、
出雲がヤマト王権に取り込まれたことで、宗像氏もヤマト王権のためにマツリゴトをするようになるのです。
宗像氏が祀る宗像三女神は、記紀神話では、アマテラスとスサノオの誓約で生まれたことになっています。
世界遺産にもなった沖ノ島は、宗像氏の聖地です。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E5%B3%B6
>沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から古墳時代前期、4世紀後半頃と推測される。
>391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期に相当する。
>また、宗像氏がヤマト王権の力を背景に朝鮮半島や中国(当時は北魏)との交易に乗り出したのも同時期であり、そうした遺物も確認されている
というわけで、誓約神話の成立時期も、古墳時代前期以後と考えられるでしょう。 誓約神話のキモは、アマテラスとスサノオの誓約で、宗像氏の宗像三女神が生まれてること。
宗像氏は九州の氏族なので、
邪馬台国九州説で、アマテラス=卑弥呼なら、
出雲を服属させた後で、宗像氏を従属させるなどという、まだるっこい手順は必要ないでしょう。 アマテラス=卑弥呼とすると神武はその5代後 天皇の平均在位が15年くらいだから
卑弥呼没年248年+15x4=308年で4世紀初頭の古墳時代の始まりと良く合致する
東征神話も当時の古奈良湖畔沿いでの戦いの記述が続いていて水位線以下での記述はない
記紀の書かれた8世紀には奈良湖は消滅していたから東征の話がでっち上げとは
考えられない 水位の記憶と、東征が史実かは、全くの別問題。
いまだに東遷説に騙されてる人が多いのは、哀れというかなんというか。 皇室の出自が九州で東遷してヤマトを収めた、なんて話を正史である記紀にわざわざ書くのは
それが事実である以上の動機がないだろ
大和が発祥なら大和発祥と書くはずで祖先は九州から来ましたなんて話を役人が創作して
書くはずがないわ
神武東征は史実と主張しつつ、その後の八代天皇は架空だと言ったり、
都合の良い解釈のオンパレードで、まともな思考をしてるなら、一笑に付す。
いまどき東遷説信じてるのは、昭和で頭が固まった爺さんだけだよ。 >>253
なぜ、最初に天孫降臨したニニギが初代天皇としてカウントされてないのか、
おまえの大好きな東遷説のセンセイは何か理由を語ってるかね? 神話には真実が含まれると言ったのはレヴェ・ストロースだ
しかし記紀には真実と同時に嘘も含まれる 嘘は年代詐称
中国の歴史に伍するため紀元前600年に神武を持ってこようとして
欠史8代をねつ造したり天皇の寿命を180歳とか有り得ない寿命にしてる
記紀には嘘と真が混じってるんだよ
先に書いたがアマテラス=卑弥呼として平均在位15年をかければ記紀の記述は
史実と合致する(欠史8代を除いて) 「記紀には真実と同時に嘘も含まれる」
これは事実だが、どれが史実で、どれが嘘か、どのように区別できるのかね?
詭弁に詭弁を重ねて、都合の良い解釈を並べてるだけで、話を聞くだけ時間の無駄。
それが東遷説。 アマテラス(卑弥呼)という女の始祖がいて、その5代後の神武が九州から大和に攻め入り
初代王朝を確立したという事実
繰り返すが皇室の出自が大和なら正史にわざわざ九州から来たなんて書く理由がない
もし理由があるなら教えてくれ >>258
最初に天孫降臨したニニギが初代天皇とされていないのは、なぜなのか説明しなよ。
東遷説を唱えるのなら、納得のいく説明をしてからだ。 またか それで陸行1月は納得したのかい(´・ω・`)
お前にちゃんと説明したって反論出来なくなると黙るから面白くないんだよw
ところで、東遷説のセンセイは、今も庄内式土器が九州発祥とか言ってるわけですかね?
神武東征に伴って、九州で作られた庄内式土器が畿内にもたらされたそうですが。
知らないうちに自説を引っ込めてたりしてたら、恥ずかしいですね。 ニギハヤヒの一族が有力氏族として残ったってことはヤマトの王族が外から来たのは事実だろうけど
その出自を大陸に近い西に求めたのは創作でも不思議じゃないね
なるほどです
彼が考古学的にどの遺跡の主にあたるのか興味津々です 日本人は主に沖縄経由の東南アジア系と中国韓国方面の勢力と北海道から南下した勢力の3種類の混血だとDNA解析で分かっている
畿内の大集落は北と大陸の終着点で共に交易で栄えたんじゃないかな
逆に沖縄経由組と大陸組は九州の真ん中で対立したんだよね
俺の予想では卑弥呼の死後に大陸組の勢力は衰退して畿内に集結して大和王権を作ったと思ってる 思うのは勝手だが、事実だと決め付けるのは間違ってる。
神武東征だって、「神武が九州から来た」という伝承を天皇家一族が伝えていて、
それに対して誰からも異論はでなかったために、記紀に記されただけ。
当時の役人は、天皇の言うことだし、否定する材料もないので、言われるままに書いただけ。
ここからわかることは、天皇一族は、「ヤマトに直接、天孫降臨してきた」とは言えない事情があった。
天皇一族は、ヤマトの住人から見たらヨソ者で、神武が来る前は、他の王(ニギハヤヒ)が統治していたことを、
ヤマトの先住人は皆知っていたということである。
そして、ニギハヤヒから平和的に権力の移譲を受けたという主張をしている。
実際に、神武が九州から来たかどうかは不明だが、当時の天皇家は、そう主張していたということだ。
そして神武は、「自分は、九州の女王の何代目の王である」とは、宣言していない。
あくまでもヤマトの初代王という立場だ。
これは、東遷説にとっては、奇妙な話しである。
九州を支配していた王の末裔であることを隠す必要などないし、
その後、わざわざ九州討伐にヤマト王権は軍を送っている。
神武が九州を支配していた王の末裔であるなら、ヤマトは九州勢力の一部になっただけであり、
九州のクニはヤマトに抵抗する理由が無い。
しかし、歴史上、九州は、幾度と無くヤマトと敵対していたことは事実である。 いや、タラミの桃缶詰工場が奈良県にあった歴史的な証拠じゃないのか? >九州を支配していた王の末裔であることを隠す
誰も隠してないぞ
記紀に神武は日向から来たアマテラスから5代目の王だと明確に書いてある。
>>266
なんで九州に天孫降臨したニニギが初代天皇じゃないのか、説明しろっての。 神武以降は大和にいたから後の大和朝廷は神武を最初の大和の王としただけで大した意味はない
>>268
魏に金印もらった卑弥呼女王の系譜を否定する理由は何よ?
日向に降臨したニニギを含む三代の存在をおろそかにする理由は何よ?
もともと九州にあった、ナ国と、ヤマトの関係が記紀に記されてない理由は何よ? そんな事はどうでも良い
問題はアマテラス=卑弥呼で、卑弥呼から5代目の神武が東征して大和を制圧し
大和で古墳時代が始まったということだ
卑弥呼没年 258年+15年x4 = 308年
都合が悪い話しは、どうでもいいで片付けるわけね。
これだから東遷説は相手されないんだよ。 だいたい、神武がヤマトを制圧って、
ヤマトの遺跡のどこから、九州の鏃やら銅剣やら銅矛が出てくるのかな?
九州の墓制である、カメ棺は、ヤマトで出てくるのかな?
ヤマトの考古学者は、九州との関係を調べるべく必死に発掘調査してるけど、
ヤマトには九州と関わりのある痕跡が全く無いんだよなあ。 学者にしても些末なことに拘って日本古代史のメインプロットを見誤っている奴らが大杉なんだよ
中国の史書にも記録が残る有名な女王、倭の卑弥呼と皇室の始祖たる女神アマテラスが
同一人物とすれば邪馬台国を含む古代史の謎は氷解する
>>264
だから、そこで、八咫鏡につながるんでしょ。
物的な裏付けや新たな視点が。
八咫鏡が、イシコリドメ「鏡作りの祖」によって、つくられたが、錫がとれないと
無理。古事記に書かれた内容は、ぴったり合う。そんな場所、高千穂以外の
日本の他にあるかな。
錫だよ。華北、華東、華南のほぼ、全土の中国になく、半島になく、日本でも極端に錫鉱山ないのに。雲南省から大仏の錫10トン輸入した? >祭し
祭祀くらい漢字で書いてくれんと一瞬戸惑ったわ。 >>275
卑弥呼とアマテラスは同一人物ではありません。
もともとアマテラスは男神なので。
ちゃんと民俗学も含めて調べてください。
浅知恵で何か主張しても、無知をさらすだけで格好悪いですよ。 天の岩戸伝説では、岩戸にとじこもったアマテラスをおびきだすために、
アメノウズメが裸踊りしてます。
それを覗き見しようとしたアマテラスは引きずり出されるわけですが、
この伝承は、太陽神を男とみたてて、女性の巫女に奉仕させるという古代の儀式の名残です。
伊勢神宮のアマテラスも、けして女性として祭ってるわけではありません。
伊勢神宮に参拝したことが無いなら、一度は行ってみてはいかがですか?
アマテラスを女性に見立ててるようなグッズは一個もありませんから。 >アマテラスは男神
ほほう、雑誌のムーにでも書いてあったのかねw
猿女君という、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族がいます。
アメノウスメはその始祖とされております。
ニニギが天孫降臨した折に、サルタヒコと出会い、
アメノウスメはサルタヒコと共に伊勢に降臨したことになっています。
つまり、アメノウズメは伊勢を拠点としていた祭祀氏族で、
伊勢で祭られていたアマテラスに仕える巫女ということになります。
ということは、アメノウズメが活躍する天の岩戸伝説は、実は伊勢の民話だったという話しになります。 岩戸は季節のお祭りのうち冬至のお祭りだろう。
太陽が死んで再生する物語。
岩戸自体は真床追衾の原型かもしれんと思ってる。
前年の太陽役の女性と今年の太陽役の女性が同じ岩戸にはいって出てくるよな感じ。
アメノウズメは太陽を生む役目かな。 なぜ、アマテラスが女性になったかというと、
記紀が書かれた時代背景を知らなくてはいけません。
壬申の乱で、天武天皇が天下を取ったことで、自分が天皇を名乗り、
倭(やまと)国を「日本」として国号を改めました。
これは、天武天皇が伊勢のアマテラス信仰に傾倒したことによります。
壬申の乱でも、勝利を祈願して、アマテラスを拝んでいるわけです。
そして、伊勢神宮を新しく建立しています。
天武天皇の次に時統天皇が女帝として登場するわけですが、
ここで、アマテラスを女神に見立て、時統天皇はアマテラスの威光で天下を統治することになります。
その流れで、記紀が編纂されていきます。
よって、記紀には、わざわざスサノオがアマテラスを「姉」と呼んだり、女神としてのキャラ付けをしてるわけです。 伊勢なんてアマテラスの祟りを収めるために垂仁天皇25年に建立された新しい御宮だよ。
皇室の本廟は宇佐で皇室は明治天皇まで伊勢には参拝していない。
以下、Wiki
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を
皇居の外に移した。 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後各地を移動し垂仁天皇25年に
現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。 天の岩戸伝説は西暦247年3月24日に北部九州で観測された皆既日食と
卑弥呼がその年に没した事を合わせて創られた神話
これもアマテラス=卑弥呼の重要な証拠の一つだな
天照大神は男神として古代から伊勢で崇められていましたが、
女神として天照を呼び直したケースがあります。
「天照日女尊」
万葉集の長歌で、柿本人麻呂が謳ったものですが、
もともと天照大神が女神なら、わざわざ「天照日女尊」(アマテラス+ヒメ)と呼びなおす必要はありません。
『天地の初の時ゆ久方の、天の河原に八百万、千万神の神集ひ、集ひ居まして神分り、
分りし時に天照日女尊、天をば知しめしぬと葦原の、瑞穂の国を天地の、依相の極み知しめす、
神の命と天雲の、八重掻別けて神下り坐し奉りし』
柿本人麻呂は、時統天皇を意識して、アマテラスを女神として称えたわけです。 >>1
昔若い遺跡研究者の講演を聞く機会があったけれど、
時間を忘れて話され、止めが入った時にも
まだ話したいことがあったのにと残念そうだった
そういう研究の情熱が奈良にはあるのだなと思ったわ >>286
>皇室の本廟は宇佐で皇室は明治天皇まで伊勢には参拝していない。
ウソをついても、すぐバレますよ?
あなたより、知識の豊富な人はいっぱいると思いますし。
時統天皇は、なんども伊勢参りをしてます。
伊勢神宮の建立事業をした人ですからね。
ただし、アマテラスを祭った天武・時統の系譜はこのあと途絶えてしまいます。
ttp://www.i-live.ne.jp/~jkimura/history/tenji-tenmu.html
>ところが、この「泉涌寺」の歴代天皇を祀る仏間「霊明殿」から、
>不思議なことに天武系の9人の天皇即ち、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳の位牌だけが除外されており、
>天智からいきなり光仁、桓武へと続いているそうである。
せっかく天武が、アマテラスを祭ったのに、後世の天皇は、伊勢神宮に参拝することを遠慮したようですね?
なぜかというと、もともと、アマテラスと天皇家は、縁もゆかりも無い間柄だからです。
天武天皇が、アマテラス信仰に傾倒して、勝手に皇祖神にアマテラスを置き、記紀神話を書かせたのです。
はい、アマテラス=卑弥呼説は、ここで完璧に論破されました。 宇佐については、>>211で書いたように、
渡来人によって奉られた聖地です。
卑弥呼とは何の関係もありません。
関係があるのは、秦氏とかですね。
八幡神社とかね。 皇室は渡来人の王でその始祖のアマテラス(卑弥呼)も渡来人
宇佐が皇室の宗廟であり卑弥呼の墓であることになんの矛盾もない
ちなみに歴代天皇皇后は必ず宇佐参りをしている (ただし雅子妃だけは例外)
宇佐は皇室にとって朝鮮人の言う本貫の地なのだよ
興味深いのは宇佐の神殿のある丘の前に皇族下車の立て看板がある
天皇であれ始祖卑弥呼の墓に参る場合には徒歩で行けってことだな
神殿の丘は古墳で頂上の神殿のある場所には巨大石棺が埋設されていることが
昭和改修の際に確認されている これが魏志倭人伝に記されている”棺ありて郭なし” 卑弥呼の棺だな
>>293
そういう方向性でいくわけね。
まあ、がんばれ。 皇室が渡来系じゃなくて縄文先住系であったら新嘗祭で稲作を祭ったり
皇后が蚕を育てたりするわけないだろ
三種の神器の系統からも皇室が朝鮮をルーツとする渡来系であることは明らかだよ
>>290
伊勢神宮は、日向の大御神社じゃないかな。 伊勢神宮を三重県に置いたのは、垂仁天皇の皇女倭姫(やまとひめ)が、神武天皇が青春時代を過ごした日向の伊勢と同じような場所を探して、天照大神を鎮めたため。
高千穂峡から、五十鈴川をおりてきたら、日向市だし。
日向の伊勢ケ浜の真横に、大御神社がある。 日向市の伊勢ケ浜とすると古事記にある「神風の伊勢ノ海」という箇所は、矛盾がなくなる。
さらには、伊勢ヶ浜横の大御神社の宮司は、
下記のように言っている。
平成11年に国登録有形文化財指定される前に、文化庁から言われて、神社屋根裏を見たところ、『天照皇大神宮』と書かれた祈願札が出て来た。つまり、200年前までは大御神社ではなく、そう呼ばれていた。今、天照皇大神宮と呼ばれているのは伊勢神宮内宮だけです。 古事記を読むとやはり、
イシコリドメの記述も高千穂の祖母山に、
当てはまると思う。
ただ、記述のなかで、錫をおしていたが、
1つだけ、気になる点があり、
深掘りしていた。結果納得というか、
天孫降臨に、別の視点をつけれるかも
しれないと思った。
それは、錫が、何故この地域、祖母山、傾山系に、集中しているのか。そして、錫の放射性同位体の海外との変動の違いまで、つながる。 『天安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津まらを求ぎて、イシコリドメノミコトに科せて鏡を作らしめ、』
この河上に行けば、グーグルでも祖母山に行くのがわかる。ここは、納得したんだが、
堅石を取りが、ずっと引っかかっていた。
なぜなら、錫石は、モース硬度で、6〜7。
10はダイアモンド。6-7は、石英だから、水晶などの硬度。堅石やはないなあと、考えていた。 納得した考察は、エメリー鉱ということ。
エメリー鉱がとれるのは、日本では、ここが日本唯一どころか、世界で、祖母山・傾山とギリシャ、トルコ、ニューヨークなど、数箇所でしか採れない、ダイヤモンドより硬いとも言われる。
ダイアモンドカッターもまけるほど。
モース硬度は9。個人的には、9-10かなと思う。
日本では、祖母・傾山系の「木浦鉱山」のみ。
つまり、古事記の堅石をワザワザ表記したのは、後世にこの石をつたえたかったかもね。
で、この石はスカルン鉱床だから、熱水が必要。 なるほど、中国や半島、九州北部、他広範囲な場所、東アジアどころか、アジアには、エメリー鉱は、ないね。そりゃ、魏もみにきたくなると思う。
更には、このエメリー鉱は、実は、隕石の
痕跡もあるのではないかといわれている。
下記は、最近の報告で、祖母山、傾山も同じ地層帯にあるかとおもう。
2013年9月日には、熊本大学、九州大学、海洋研究開発機構の研究グループが、
網代島と同じ地層がつながる
津久見市江ノ浦のチャートに含まれる
オスミウムの濃度を分析した結果、
約2億1500万年前に地球に衝突した
隕石の痕跡が発見され、この隕石の規模は
最大で直径約8km、重さ約5千億tに及ぶと
推定されるとの研究結果が、イギリスの
ネイチャー系オンライン科学誌
『ネイチャー コミュニケーションズ(英語版)』で発表された。
これは、大きさが推定された隕石の中では、
恐竜絶滅(K-Pg境界)の原因になったとされる
メキシコ・ユカタン半島のチクシュルーブ・クレーターの隕石に次ぐ規模 つまり天孫降臨とは、古代の人が、そんじょそこらで、みつからない堅石「エミリー鉱」を
なんとか把握しようとして、結果、
天から降ってきた、隕石や天からの贈り物などとして、祭祀を行ったことが、はじまりやないかな。 放射性同位体は、熱により、同位体の変動は、影響を、受けやすいと思われる。
隕石の熱水を受けた祖母山系の錫石は、
雲南省の錫石とも成形過程がかわるから、
変動差もうまれるのかもしれない。 エメリー鉱は、愛媛県でもとれるともあるが、
ここでは、硬度の高いコランダムやスピネルとして、捉えている。 まぁ伊都(糸島)と奴国は福岡だけど、
邪馬台国だけ水行で10日もかかってそのあと陸行で1日とすると、
瀬戸内海→今の堺あたりに上陸→大和だろうね・・・
西暦100年代後半の倭国大乱以後は大和に一大勢力があった訳だから・・・
普通に考えれば、伊都(イト)なんかはそのまま糸島に比定されてるのに
邪馬台(ヤマタイ?ヤマト?)を大和にしたくないっていうのは、かなり捻くれてると思う >>287
皆既日食なんてちょっとの間空が暗くなる程度だし、昔の人間たちが
そんな気にしたとは到底思えないな。夏場の夕立とかであっという間に
太陽が隠れて暗くなることは良くあることで、その程度の出来事だった
と思う 現在のような天文学知識の無い古代の人々は、突然太陽が欠け、時には見えなくなる日食の発生を
非常に恐れた wiki
アマテラスと卑弥呼は無関係なので、日食を考察しても無意味です。 桃の実について解説しましょう。
日本神話では、「黄泉の国」のエピソードで登場します。
死んだイザナミを取り戻すために、イザナギは死者の国に行くわけですが、
すでに死体となったイザナミに恐れおののいて、イザナギは逃げ出します。
怒ったイザナミは、化け物たちにイザナギを追いかけさせます。
イザナギが、黄泉比良坂の坂下まで着いたときに、そこにあった桃の木から桃の実を三つ取って投げつけてやると、
化け物たちはみな逃げて行きました。
このように、桃は神聖な果物で、穢れを追い払う効能があると思われていたわけですね。
中国の神仙思想とか、道教から来ています。
遺跡から大量の桃の種が見つかったということは、
第一に桃を食べれば健康で霊力もつくだろうという考えがあったことが伺えます。
桃太郎の話しも、元は桃を食べたじいさんばあさんが元気になって、子供を授かったという話しです。
卑弥呼の鬼道がどのようなものであるかはわかりませんが、鬼は「霊」を意味するので、
死者を弔うという意味で、黄泉の国の神話と通じるものがあります。
ざっくり言えば、生きてる間は桃を食べて健康に暮らし、死んだものには桃を供えて弔う、
そういった儀式が執り行われていたでしょう。 モモと名のつく巫女が、ヤマト王権に実在します。
ヤマトトトヒモモソヒメという名前で、
埋葬された箸墓古墳は、3世紀では最大級の前方後円墳です。
当時の大王の墳墓よりも大きな墓を、ひとりの巫女を弔うために作られました。
ということは、その巫女は、当時の大王よりも強大な権力を持っていたことを表します。
はやいはなしが、ヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼であり、
箸墓古墳が卑弥呼の墓であるわけです。
ちなみに、後を継いだトヨは、「トヨスキイリヒメ」という名前で、日本書紀に登場します。
崇神天皇の皇女で、天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮です。
はい。もう、答えが出てしまってますね。
もう、何十年も前から、答えは出ているのですが、九州説の人だけが無知無教養なために、
納得してくれないというのが現状ですね。 畿内説の人でも、
アマテラス=卑弥呼という認識で語る人もいるので、話しがややこしくなってしまいます。
アマテラスというのは、太陽神の名前ですが、
太陽神の依代としての鏡を祭器として祀ったのが、卑弥呼の後を継いだトヨです。
卑弥呼と呼ばれた、ヤマトトトヒモモソは、三輪山のオオモノヌシを祭った巫女ということになります。
オオモノヌシというのは、国津神であり、国譲りをさせられた神の代表格です。
出雲のオオクニヌシの分霊みたいなものをヤマトで祀ってるわけですね。
ようするに、国家の繁栄を祈願して、地鎮祭みたいなものを、卑弥呼は行なってたわけです。
霊を沈めるために、桃の実が供えられました。
そんなわけで、日食は関係ありません。 オオモノヌシを祀っていたモモソヒメ(卑弥呼)と、
アマテラスを祀ってたトヨスキイリヒメ(トヨ)は、
それぞれ、崇神天皇の時代(3世紀)に、平行して祭祀を行なっていました。
モモソヒメは、崇神天皇の伯母で、トヨは、崇神天皇の娘です。
ヤマト王権の主祭神はオオモノヌシで、モモソヒメが祀っていたわけですが、
モモソヒメは高齢だったので、先にモモソヒメが亡くなり、
崇神天皇の娘のトヨが、アマテラスを祀り、ヤマト王権の祭祀を引き継ぐことになります。
ところが、アマテラスの神威が強すぎるというので、ヤマトから追い出してしまいました。
というのは、巫女による祭祀で国家を運営するのではなく、
崇神天皇の実権で国家を運営することに方針転換したという意味です。
ここに、実質的なヤマト王権がスタートするわけです。 いやぁ
モモソヒメの祖先は九州の日向からきたのかもしれん
その祖先に卑弥呼=アマテラスがいたのかもしれん
古墳は短里だと考える
年代がずれてたらあり得る話しになる
物証だ
巻向遺跡の物証プリーズ
年代測定は誤差が大きいから複数例が必要だ
この業界捏造もあったしな
少しでは信用ならん >>316
>この業界捏造もあったしな
放射性炭素年代測定のことでしょうか?
無知な人は、すぐ科学的な証拠を捏造だと言うものです。
考古学者は放射性炭素だけを根拠に年代測定をしているわけではありません。
地層を細かく調べ、地層から出てくる土器の形状を調べます。
土器の形状は、地域や時代によって細かく区分されます。
土器の形状が時代によって変化する様子を詳しく編年することで、
放射性炭素を使わずとも、土器の作られた年代は絞り込むことができます。
土の成分から、土器の作られた場所もわかります。
ヤマトには、近畿を中心として、吉備や東海地方で作られた土器が出土します。
邪馬台国が存在した3世紀のヤマトでは、
近畿を中心とした広い範囲で、人や物の移動、交易が行なわれていたことがわかります。
もっと昔の銅鐸を作っていた頃でも、東海で作られた銅鐸が出雲に奉納されていた様子もわかっています。
弥生時代後期のクニは、分裂していたのではなく、より強化な結びつきをしていたことがわかっています。
ヤマトは交易の中心地として、邪馬台国の時代に繁栄していたことは、否定しようがありません。 ヤマトにある唐古・鍵遺跡は、弥生時代中期から隆盛を極めた環濠集落です。
規模としては、全国から見ても最大級です。
古墳時代前期にいたるまで、細かく発掘調査されています。
弥生時代から古墳時代まで、何か戦乱があって荒廃したような痕跡はありません。
つまり、弥生時代から古墳時代まで、神武東征や、邪馬台国東遷を思わせるような戦乱は起きていない、
ということがわかっています。
ヤマトという土地は、弥生時代から連続的に発展してきた土地なわけです。 唐古・鍵遺跡の場所は、奈良県磯城郡田原本町にあります。
そして、ヤマトトトヒモモソヒメの父は孝霊天皇で、居城であるその黒田廬戸宮は、
奈良県磯城郡田原本町黒田周辺とされています。
ということは、孝霊天皇は、唐古・鍵遺跡の王であり、
ヤマトトトヒモモソヒメは、そこで育った娘であることがわかります。
孝霊天皇は欠史八代とか言われて架空の天皇扱いされることもありますが、
遺跡としては、そこに現実として存在しています。 魏志倭人伝に卑弥呼の墓は徑百餘歩の無槨塚と書いてあるのに
わざわざ有槨の前方後円墳でおまけに馬具まで出てる箸墓を持ち出して
卑弥呼の墓などという主張をするのは余程の無知の輩だなw
文献に何が書いてあろうが、遺跡として物証が存在しなければ、
文献の内容は信憑性が認められません。
魏志倭人伝原理主義者は、魏志倭人伝一語一句を事実と考えているようですが、
それは古代史研究のアプローチとして、間違っています。
物証が存在して、はじめて、文献の内容が正しかったと認められるのです。 馬具はどうなるんだい 3世紀の日本に馬は居ないぞw
>>323
馬具は、捏造とは言わないのですね?
なぜでしょう?
誰かがわざとそこに埋めたのかも知れないのに? ttp://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-top.html
>平成22年、邪馬台国の中心地とも言われる奈良県纏向遺跡から、
>2,765個のモモの種(桃核)が出土したことが報じられましたが、
>実は岡山県でも約10,000個ものモモの種が弥生時代の遺跡から見つかっているのです。
岡山でも、弥生時代に桃を栽培してたわけですね。
奈良と、結びつきでもあったのでしょうか?
はい、あります。
ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)の弟として、彦五十狭芹彦命(キビツヒコ)がいます。
この人が、古代の吉備の王でした。
現在も、吉備津彦神社として、祀られています。
そして、岡山といえば、桃太郎ですね。桃太郎のモデルは、ずばり、キビツヒコと言われています。
魏志倭人伝に、卑弥呼の男弟が登場しますが、キビツヒコがその人です。
ヤマトの政治を補佐していたのが、吉備国だったことがわかります。
ということは、魏の使いも、大和に向かう途中で、吉備に立ち寄ったことでしょうね。
投馬国=吉備国というのは、かなり確率高いでしょう。
もう、とっくの昔にここまでわかってるのですから、悪あがきしないでくださいね。 俺も前方後円墳は無いと思うけどもし大和政権が卑弥呼の子孫でもとあった場所から移したなら最初の墓が見つからないのはつじつまが合う どうでもいいよ
今でも歴史コロコロ変わって信用できんわ また、前方後円墳に奉納された特殊器台・特殊壺は、吉備地方で発達した土器になります。
このことからも、吉備国は、祭祀の方面でも、ヤマト王権を補佐していたことがわかります。
このように、物証があって、文献の信憑性が担保されるのです。 たとえ、箸墓古墳が卑弥呼の墓でないにしろ、
ヤマトには、他にもホケノ山古墳が存在します。
箸墓古墳より古い古墳として、ホケノ山古墳という前方後円墳があるので、
年代が信じられないと言ったからってどうにもなるものではありません。
邪馬台国の時代に、ヤマトには、前方後円墳を作る王権が確かに存在していたのです。
そしてホケノ山古墳からは、画文帯神獣鏡が出ています。
実はこれこそが卑弥呼のもらった鏡で、ホケノ山古墳が卑弥呼の墓だと言っても別に問題ありません。 邪馬台国近畿説派は箸墓がダメならホケノ山か 適当でいい加減だな
なにが 別に問題ありませんだwww ぶっちゃけ、畿内説は、奈良盆地のどこかに卑弥呼の墓があればいいだけです。
九州説みたいに、佐賀だ福岡だ宇佐だ日向だと散漫な説ではありません。 >>308
これも古事記から、疑問点があり、掘り下げた箇所なんだよね。 >>332
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
ここのところで、よく1ヶ月と認識して、
かなりの距離になるとおもうけど、
本来は、水行二十日より短い日数と思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています