■無名の人物から最初の戦国大名となった北条早雲

定年やら年金やらに思いを馳せたり、急に新しいこと(英会話など)を始めては挫折したり……。
40代以降というのは迷走しがちな、なかなか難しいお年頃です。
しかし、北条早雲は、55歳になってからメキメキと力をつけていき、なんと無名の武人(単なる浮浪人という説もある)から、
戦国大名になった人物です。今でいえば、平社員がいきなりベンチャー社長になり、
あっという間に成功、関東圏を制覇したというような感覚でしょうか。

北条早雲は、最初の戦国大名とされています。
しかし、40歳までは何をしていたのかまったくわかっておらず、その出自も不明という謎めいた人物です。
もともとは伊勢新九郎(いせしんくろう)、宗瑞(そうずい)という名でした。
ちなみに、鎌倉時代に執権の北条氏が権力を握りましたが、その「北条」とはなんの関係もないので、
「後北条氏(小田原北条氏)」といって区別されています。

5歳のとき駿河に流れてきて、興国寺(こうこくじ)城(現・沼津市)が与えられます。
当時、関東に割拠していた勢力が、下総の古河公方と伊豆の堀越公方、
また扇谷(おうぎがやつ)上杉家と山内上杉家でした。

早雲は地味に暗躍するタイプの戦国武将で、伊豆修善寺温泉に宿泊すると見せかけて、
スパイを送りつつ興国寺城の部下らを率いて堀越公方を滅ぼし、伊豆一円を支配してしまいました。
このとき、早雲は60歳でしたが、単に一国一城の主におさまらず、
関東の拠点を制覇しようという壮大な野望を胸に抱いていたのでした。

伊豆国を奪い取った早雲は、韮山(にらやま)城(現・静岡県伊豆の国市)を拠点として活動をします。
「次は相模の小田原だ!」とターゲットを決定。
小田原城(現・神奈川県小田原市)をどうやって奪い取るか、知恵をしぼりました。

「そうだ、小田原城の城主は最近病死したから、その跡継を油断させて乗っ取ってしまおう」。
そう考えた早雲は、またまた直接対決はせずに、リスクゼロパターンの作戦を考えます。

■豊富な人生経験が生んだリスクゼロの戦法

早雲は、小田原城の跡継ぎ城主・大森藤頼(ふじより)にいろいろとプレゼントをしながら接近し、
相手が油断したところで、相談を持ちかけます。「先日、伊豆の山で鹿狩をやったんですけど、
たくさんの鹿が大森様の領内にある箱根方面に逃げてしまいましてね。
うちの勢子(せこ・狩人的な人のこと)が鹿を回収したいんですけど、入っちゃっていいですねー」と。
大森氏も「おお、大丈夫だよ」なんて軽く快諾。というのも、北条早雲が最初の戦国大名といわれるわけですから、
当時はまだ戦国時代手前。リアルタイムの大森氏は「今は戦国の世じゃ」なんて自覚があるわけもなく、スキだらけだったのです。

早雲はさっそく強い若武士をセレクトして、勢子に変装させます。
さらに牛を1000頭も用意。夜になると角に松明を結びつけ、山の方から小田原城へ向けて牛を走り出させました。
法螺貝を大げさに鳴らして、ものすごい大群が攻めてくるように見せかけたのです。
実際は、牛が走り下りているだけのフェスティバルみたいなものですが、
小田原城の城兵たちは「敵は何十万いるんだ!?」と大慌て。早雲軍は城下町に火をつけながら、
小田原城の大手門まで攻め寄せて、あっという間に城を奪い取ったのでした。

かわいそうな大森藤頼はかろうじて城から脱出。「あのホラ吹きジジイめ!」と激怒したに違いありません。
このとき、先頭で自ら戦った北条早雲は64歳でした。
この歳で先陣をきって戦うとは並の体力の持ち主ではなかったようです。

続きはソースで

関連ソース画像
http://tk.ismcdn.jp/mwimgs/6/a/1140/img_6ae000cd4689b869527206a7eaf537ce307933.jpg

東洋経済オンライン
http://toyokeizai.net/articles/-/210309