「(抵抗した農民の数は)ざっと1000万人くらいでした。
抵抗する農民どもには極北の土地をくれてやりました」
(第二次世界大戦中に会談したチャーチルに対して1930年代の農業集団化に対して聞かれた時)


「モロトフにもちょっと役立つところがあります。パーティーを取り仕切る名人で、本人も相当いける口なんです」
(チャーチルを自宅に招き、モロトフに乾杯の音頭を取らせた。その時、チャーチルにこう紹介した)


「あれは非常に苦しかったが、必要だったのです」
(自宅アパートで、チャーチルと農業集団化について話した時)


「過去のことは水に流しましょう。私が許すのではありません。神が許すのです」
(ソ連建国直後にイギリスが干渉した件でチャーチルが謝罪した時)


「戦争は呪いである。我々は地上の全ての民衆と、平和のうちに暮らすことを望む」
(1934年に、スヴェン・ヘディンがウルムチのロシア・クラブの壁の赤い幕に、
金の刺繍で縫い付けられていたのを目撃したもの)


「私が小指をちょいと動かせば、あんな奴、吹き飛ばされて木端微塵さ」
(1948年頃にチトーを評した際の言葉)


「私にも見当がつかん。連中は私の身内も全員刑務所に放り込んだではないか」
(1949年、妻ポリーナが逮捕された理由をモロトフがスターリンに尋ねた時に。連中とはベリヤのこと)


「あなたがひどい目に会おうと私は指一本もあげないから、毛に助けてもらいたまえ」
(1950年、金日成に韓国侵攻を認めたときの言葉)


「日本は最後にはまた這い上がってくる」(第二次世界大戦終結直後)


「ドイツがわがロシアに殲滅戦を望むのなら、同じことをあいつらにくれてやろうじゃないか」
(1941年11月6日 モスクワの戦い時のモスクワの地下鉄マヤコフスキー駅における演説の一部)


「老人の機嫌をとるつもりらしいが・・・・こんなので元気になれるものでもない」
(1949年に勲章を受領した時の言葉)


「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計上の数字でしかない」

ヨシフ・スターリン(1879-1953年)