他板に投稿された、興味深い格言の転載スレ 17
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生命というものは、その時々の状態によって説明されるものではない。
その歩みによって説明されるものだ。
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人を愛することの本質は、互いに相手を見ることではなく、
共に同じ方向を見る中にあるのだ。
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家や星や砂漠や、そういったものに美しさを与えるのは、
何か目に見えないものだ。
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重要なのは自分の生きるよすがとなったものが、
どこかに残っているということだ。さまざまな慣習でもいい。
家族の祝いごとでもいい。思い出を秘めた家でもいい。
重要なのは還ることをめざして生きるということだ。
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犠牲とは、お前をなにものからも切断することなく、
逆にお前を富ますものだ。
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人にとって最も必要なことは、ついに「存在する」ことであり、
存在の豊かさの内に死ぬなら、獲得とか所有とかは問題になるはずがない。
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問題はただ一つ、効果があるかどうかだ。
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あなたがバラのために時間をかけた分だけ、
バラはあなたにとって大切なものとなる。
サン・テグジュペリ ★
さあ、いつまでもぐずぐずしないで。
いらいらするから。行くって決めたのなら、もう行って。
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彼女はぼくをいい匂いでつつみ、明るくしてくれたんだ。
ぼくはぜったい逃げてはいけなかったんだ!
彼女の下手な駆け引きの裏にある優しさを見抜くべきだったんだ。
でも、ぼくは彼女を愛するには若すぎた。
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ぼくは、あの星のなかの一つに住むんだ。その一つの星のなかで笑うんだ。
だから、きみが夜、空をながめたら、星がみんな笑ってるように見えるだろう。
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相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪におちいらせるようなことを
言ったりする権利は、誰にもないのです。
大切なことは、相手をどう思うかではなく、相手が自分自身のことを、
どう思っているかなのです。相手の人間としての尊厳を傷つけることは、
犯罪だということをわきまえておきましょう。
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人がそれを見つめて、大聖堂を思い描いた瞬間、石はただの石ではなくなる。
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きみが夕方の四時に来るなら、ぼくは三時から嬉しくなってくる。
そこから時間が進めば進むほど、どんどん嬉しくなってくる。
そうしてとうとう四時になるともう、そわそわしたり、
どきどきしたり。こうして、幸福の味を知るんだよ。
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置いていかなければならない宝物を持っていることを、天に感謝したい。
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あんたはこのことを忘れちゃいけない。
めんどうみた相手には、いつまでも責任があるんだ。
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一度犯した失敗は今後もう起こりにくいので、
この先、失敗する可能性はひとつ減ったことになる。
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知性にしても、判断力にしても、創造者ではない。
サン・テグジュペリ ★
秩序とは、生命の結果であって、その原因ではない。
秩序とは、ある強力なる都市のしるしではあるが、その起源ではない。
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この子が綺麗なのは、心の中に薔薇を一輪持ってるからだ。
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子どもたちは、ぼろきれのお人形に時間を費やす。
だからそのお人形はとっても大事なものになる。
それで、とりあげられると泣くんだね・・・
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過去とは成就された全体、
かつて未来としてあったものを乗り越えた全体であろう。
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努めなければならないのは、自分を完成することだ。
試みなければならないのは、山野の間にぽつりぽつりと
光っているあの灯火たちと心を通じあうことだ。
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私は私自身の証人である。
サン・テグジュペリ ★
自信というものは、いわば雪の様に音もなく、
幾時の間にか積った様なものでなければ駄目だ。
そういう自信は、昔から言う様に、お臍の辺りに出来る、頭には出来ない。
頭は、いつも疑っている方がよい。
難かしい事だが、そういうのが一番健康で望ましい状態なのである。
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「あいつは、ああいう奴さ」という。甚だ厭な言葉である。
だが、人を理解しようとして、その人の行動や心理を、どんなに分析してみた所が、
最後につき当る壁は、「あいつは、ああいう奴さ」という同じ言葉であるから妙である。
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ただ「葦」であるには「考え」がありすぎ、ただ考えるには「葦」であり過ぎる。
僕という存在は、僕という観念を超え、又、その逆でもある。
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「あわれ」とは、歎きの言葉である。
何かに感動すれば、誰でも、ああ、はれ、と歎声を発する。
この言葉が、どんなに精錬されて、歌語の形を取ろうとも、
その発生に遡って得られる、歎きの声という、その普遍的な意味は失われる訳がない。
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美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、
妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも
実は遙かに美しくもなく愉快でもないものである。
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思い出のない処に故郷はない。
確乎たる環境が齎す確乎たる印象の数々が、
つもりつもって作りあげた強い思い出を持った人でなければ、
故郷という言葉の孕む健康な感動はわからないのであろう。
そういうものは私の何処を捜しても見つからない。
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青年は観察されることをきらう。観察されていると知るや、すぐ仮面をかぶる。
その点で、青年ほど気難かしく、誇り高いものはない。
青年は困難なものと戦うのが最も好きだ。
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幾時の間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、
豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、
実証的関係を踏み超えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。
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問いがそのまま答えになるほど執拗に問う人もあり、
問う能力がないから答えを持っている人もあるのだ。
解決を欲しがる精神が、奴隷根性の一変種であるのが大体普通なのである。
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映画を見に出かける人々には、
酒場や踊場に行く人々と全く同じ基本的な念願がある。
自分では織れなくなった夢を織って貰いに行くのだ。
小林秀雄 ★
自然は、美や真理を提供してくれるモデルではない。
自然とは貧乏人にこたえる冬の事だ。
こたえない人は、恐らく人間の一部を廃業したのだろう。
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2+2=4とは清潔な抽象である。
これを抽象と形容するも愚かしい程最も清潔な抽象である。
この清潔な抽象の上に組立てられた建築であればこそ、
科学というものは、飽くまでも実証を目指す事が出来るのだし、又事実実証的なのである。
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詩を失ったリアリズムとは、無私な観察というものの過信による文体の喪失である。
独特の文体を持たぬ作家の観察という様なものが一体何んだろう。
そんなものを誰も文学から期待しやしない。
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あらゆる思想は実生活から生れる。
しかし生れ育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、
凡そ思想というものに何んの力があるか。
大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。
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批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。
批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!
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人間は自分の姿というものが漸次よく見えて来るにつれて、
自己をあまり語らない様になって来る。
これを一般に人間が成熟して来ると言うのである。
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疑いを挑発しない解決という様なものが、この世にありようがない。
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「人間喜劇」を書こうとしたバルザックの眼に、恐らく最も驚くべきものと
見えた事は、人の世が各々異った無限なる外貌をもって、
あるがままであるという事であったのだ。
彼には、あらゆるものが神秘であるという事と、
あらゆるものが明瞭であるという事は二つの事ではないのである
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僕等は近代にいて近代の超克ということを言うのだけれど、
どういう時代でも時代の一流の人物は皆なその時代を超克しようとする処に、
生き甲斐を発見している事は、確かな事と思える。
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どんな天才作家も、自分一人の手で
時代精神とか社会思想とかいうものを創り出す事は出来ない。
どんなつまらぬ思想でも、作家はこれを全く新しく発明したり発見したりするものではない。
彼は既に人々のうちに生きている思想を、作品に実現し明瞭化するだけである。
小林秀雄 ★
実生活の自然な傾向は行為せずに眺める事を禁じている。
作家の眼は、この禁制を破る。
作家は、観照の世界という全く不自然な心的態度のうちに棲むものだ。
この世界に居ると、実生活は、狂態で充満していると見えるのが当り前な事なのである。
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死を目標とした生しか、私達には与えられていない。
その事が納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。
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私は、沢山売れる本は読みません。
沢山売れる本を決して軽蔑しているわけではないのでして、
私は本は勉強以外には読まぬ覚悟をしているだけです。
遊びたい時には外の事をして遊びます。
およそ、本を読むなどというとぼけた、愚劣な遊びは御免なのであります。
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芸術を愛する人々は、美というものを定義しようとも証明しようともしない、
愛してさえいれば、そんな必要がないからではなく、
愛していることが美の定義も証明も不可能だとはっきり教えてくれるからである。
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現実の苦がい経験を嘗めた人に、小説が軽薄に見えても仕方がない。
ただ問題は次の一事だ。生ま生しい経験を、生ま生しいままに貯えるには
一種の術が要る、というよりも一種の稀有の資質が要る。
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議論が、全く正しいという事の為には、
一つの言葉は明瞭に一つの概念を表すという頗るたわいもない仮定が必要だ。
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西洋模倣の行詰りと言うが、模倣が行詰るというのもおかしな事で、
模倣の果てには真の理解が現れざるを得ない。
そして相手を征服するのに相手を真に理解し尽すという武器より強い武器はない。
これは文化の発達の定法であって、
わが国の文化は、明治以降この定法通りに進んで来た。
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ドストエフスキイの発明した人間の自由に関する思想は、
彼のかけ替えのない体験の質によって保証された現実性によって、
その効力を発揮するが、ある集団の各人に平均的な自由主義という思想は、
頭数が増えるだけが頼みである。
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水掛論なるものが一体、両方に正しい理窟があるものじゃない、
中途までしかものを考えない内に議論を始める処から起る現象である。
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友と共感する為に何かを捨てる必要はない様に、
芸術作品に対しても、人々は自己流にしか共感しない。
芸術作品は、各人の自己を目覚めさせる事によって、人の和を作り出す。
小林秀雄 ★
真似は尋常な行為である。
子供は、理解する前に、まず真似をしなければ、大人にはなれないし、
私達の生活の大部分は人真似で成り立っている。
真似をするには、他人の存在が必要であるのみならず、他人への信頼が必要である。
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人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。
本当の苦しみは愛するものからやってくる。
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君が口にする社会不安という言葉さえ、
君のみじめな生活を隠す様に働いていると思った事はないか。
君の生活が混乱している様に君の精神は混乱しているか。
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善良な不平家というのがいちばん嫌いだ。いちばん救われないような印象を常に受ける。
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考えるとは、合理的に考える事だ。
どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、
現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、
どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思えるからだ。
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一体自分を語るのと他人を語るのと、どちらが難しい事であろうか。
いずれにしても、人間は、決して追い付けないもう一人の人間を追う様に見える。
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ドストエフスキイは矛盾のなかにじっと坐って円熟して行った人であり、
トルストイは合理的と信ずる道を果てまで歩かねば気の済まなかった人だ。
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見る事と生きる事との丁度中間に、いつも精神を保持する事、
どちらの側に精神が屈服しても、批評というものはない。
これは理智の上の仕事というより、寧ろ意志の仕事である。
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「自分の嗜好に従って人を評するのは容易な事だ」と、人は言う。
然し、尺度に従って人を評する事も等しく苦もない業である。
常に生き生きとした嗜好を有し、
常に溌剌たる尺度を持つという事だけが容易ではないのである。
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社会のあらゆる表現は決して捕らえる事の出来ぬ錯乱の証左である。
だがこの証左を悟る精神はまた愚劣に満ちている
小林秀雄 ★
私達は、皆、人間の顔には、非常に興味を持っている。
生活上の必要から、興味を持たざるを得ないから、
人の顔の表情に関しては特に鋭敏にもなっている。
私達は、皆、凡庸なものであろうが、肖像画家の眼を持っている。
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死はいつも向うから歩いて来る。俺達は彼に会いに出掛けるかも知れないが、
邂逅の場所は断じて明かされてはいないのだ。
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考えるという事と書くという事は二つの事実を指してはいないのである、
言葉という技術を飛びこして何か考えるなどとは狂気の沙汰である。
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重要な事は、人々は、人々のそれぞれの生活に
即した現実を見ているに過ぎないという事、
人々は各自の職業習性を離れて決して現実を眺める事は出来ぬという事である。
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実生活を離れて思想はない。
しかし、実生活に犠牲を要求しないような思想は、動物の頭に宿っているだけである。
社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲にほかならぬ。
その現実性の濃淡は、払った犠牲の深浅に比例する。伝統という言葉が成立するのもそこである。
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ヘーゲルは歴史上の一人物に過ぎず、
歴史がヘーゲルのシステムのなかにあるのではない
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僕がドストエフスキーをとうとうダメにしたのは、
キリスト教がわからなかったからなんです。どうしてもわかりません。
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自分の本当の姿が見附けたかったら、
自分というものを一切見失うまで、自己解析をつづける事。
中途で止めるなら、初めからしない方が有益である。
途中で見附ける自分の姿はみんな影に過ぎない。
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有効に行動する為に予見すること、これが知性の目的である。
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老醜という言葉は様々な生物にいえるが、
大木には当てはまらぬ。大木は老いていよいよ美しい。
小林秀雄 ★
誑かされるのが生きる事ではない。生きる事が誑かされる事なのだ。
この瓜二つに見える言葉は、俺には全く異なった音を伝える様だ。
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人生を解釈する上に非常に便利な思想というものは、その便利さで身を滅ぼす。
便利さが新たな努力を麻痺させるからだ。
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百五十年も前に、ナポレオン法典は、各人の思想発表の自由を規定したのである。
めいめいが好き勝手な事を主張する自由を認めた上で、
皆が協力して秩序ある社会を作ろうとは、
また何んという困難極まる理想を人間は抱いたものか。
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あゝ夏よ去れ心明かすな棲みつかぬ季節よ失せ行け切れぎれに惑ふわれかな
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姿は似せがたく、意は似せ易し。
言葉は、先ず似せ易い意があって、生れたのではない。
誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。
動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。
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表現以前にある個性という様なものは、全くの空想である。
芸術家は、材料と取り組み、己れを空しくしてある形を作り上げてみて、
はじめて己れの個性という様なものが、出来上がった形に現れるのを悟るものです。
その現れたものが最初にあったのではない。
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テレビを享楽しようと、ミサイルを呪おうと、
私達は、機械を利用する事を止めるわけにはいかない。
機械の利用享楽がすっかり身についた御蔭で、機械をモデルにして
物を考えるという詰まらぬ習慣も、すっかり身についた。
御蔭で、これは現代の堂々たる風潮となった。
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思想史とは社会の個人に対する戦勝史に他ならぬ。
……「犬は何故しっぽを振るのかね」「しっぽは犬を振れないからさ」。
この一笑話は深刻である。
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生きた人が死んで了った人について、
その無気なしの想像力をはたく。だから歴史がある。
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観察された或る事実が、動かし難い無二の現実性を帯びる為には、
観察者のその時一回限りの感動というものに、
その事実が言わば染色されていなければならない。
小林秀雄 ★
出来上った知を貰う事が、学ぶ事ではなし、
出来上った知を与える事が教える事でもなかろう。
質問する意志が、疑う意志が第一なのだ。
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どちらを選ぶか、その理由が考えられぬからこそ、人は選ぶのである。
そこまで人は追い詰められねばならぬ。
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小説の面白さは、他人の生活を生きてみたいという、実に通俗な人情に、
その源を置いている。小説が発達するにつれて、
いろいろ小説の高級な面白がり方も発達するが、
どんなに高級な面白がり方も、この低級な面白がり方を消し去る事は出来ないのである。
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人間精神は言葉によってのみ壮大に発展出来るのだが、
この事実は精神が永遠に言葉の桎梏の下にあることも語るものだ。
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文字という至便な表現方法を知らずに、いかに長い間人間は人間であったか、
優美や繊細の無言の表現を続けて来たか
★
小説とは、今日も依然として小人の説の織りなすドラマであって、
私小説とか社会小説とか言ってみたところで、
外面的な曖昧な区別たるを免れない。
本質的に考えれば、登場人物が一人であるか、多数であるかの区別しかないのである。
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一般に若い頃に旺盛だった読書熱というものを、
年をとっても持ちつづけている人はまことに少い。
本を読む暇がなくなったという見易いことには誰でも気が付くが、
本というものを進んで求めなくなって了った自分の心には、
なかなか気付がかぬ。又、気が付き度がらぬ。
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批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語る事である。
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俺はよく考える。俺達は皆めいめいの生ま生ましい経験の頂に
奇怪に不器用な言葉を持っているものではないのだろうか、と。
ただそういう言葉は当然交換価値に乏しいから手もなく置き忘れられているに過ぎない。
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思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、
ともかく現在在るものを超克し、これに離別しようとするところにある。
小林秀雄 ★
人間が種族保存上、有効に行動し生活する為に、
自然は、人間に、知性という道具を与えたのは確からしいが、
己れの謎を解いて貰う為に与えたとは到底考えられぬ事である。
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神経質で、敏感で、いつも自分がいい子になりたいと思っている奴は、
時とすると実によく相手の心持ちを見抜くものだ。
然し、自分に関係のない事柄、つまり、どっちにしたって
自分はいい子になってられるという場合には、恐ろしく鈍感になるものだ。
★
変わり者はエゴイストではない。社会の通念と変った言動を持つだけだ。
世人がこれを許すのは、教養や観念によってではない、附き合いによってである。
附き合ってみて、世人は知るのだ。自己に忠実に生きている人間を軽蔑する理由は何処にあるか、と。
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困難は現実の同義語であり、現実は努力の同義語である。
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何故に人間の捕えた理想は空しいのか。それは単なる人間精神上の戯れだからだ。
何故に人間を捕えた理想は現実的なのか。自然の理法は常に人間精神より沈著だからだ。
だが、誰が知ろう、お前の理想は捕えた理想か、捕えられた理想か。
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現在が語り難い様に過去は語り難い、殊に精神のうちの出来事は。
今飛び去っているものは捉え難いし、
既に飛び去って了ったものは形を変えて今飛び去っている。
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直情だけでは、直情の歌を作るに足りぬ。
天真と見える万葉の歌が、どんなに巧妙な鋭敏な言葉の使い方から生まれているかは、
現代の歌人が、絶えず驚きを新たにしている処である。
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モネの印象は、烈しく、粗ら粗らしく、何か性急な劇的なものさえ感じられる。
それは自然の印象というより、自然から光を掠奪して逃げる人の様だ。
可憐な睡蓮が、この狂気の男に別れを告げている。
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先ず何を置いても、全く謙遜に、無私に驚嘆する事。
そういう身の処し方が、ゴッホの様な絶えず成長を止めぬ強い個性には、
結局己れを失わぬ最上の道だったのである。
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電車に乗って前に腰掛けた人間達の顔を見渡してみたまえ。
如何に壮大なる愚劣を発見する事か。
兵隊も紳士も番頭も、神様から戴いた顔をどうしようもなく
肩の上で動かしている光景は、如何にすばらしく無惨な事か。
小林秀雄 ★
人間とは何かという問いは、自分とは何かという問いと離す事ができない。
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ともかくも俺は生きのびた。そうだともかくもだ。
ともかくもなどとなんとうまい言葉を人間は発明しただろう。
★
歴史を鏡と呼ぶ発想は、鏡の発明とともに古いように想像される。
歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間達に、
己れの姿を観ずる事が出来なければ、どうして歴史が、私達に親しかろう。
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エンペドクレスは、永年の思索の結果、
肉体は滅びても精神は滅びないという結論に到達し、噴火口に身を投じた。
狂人の愚行と笑えるほどしっかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはいないのである。
★
必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なく降りかかってくる、そのものです。
僕はそれをいつもそれを受入れる。どうにもならんものとして受入れる。
受入れたその中で、どう処するべきか工夫する。その工夫が自由です。
★
現在というものを理解する事は、誰にもいつの時代にも大変難しいのである。
歴史が、どんなに秩序整然たる時代のあった事を語ってくれようとも、
そのままを信じて、これを現代と比べるのはよくない事だ。
その時代の人々は又その時代の難しい現在を持っていたのである。
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幾人にでも分配の可能な、社会的思想という匿名思想には、
無論、個性という質がないわけであるから、その効力は量によって定まる他はない。
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吾々にとって幸福なことか不幸なことか知らないが、
世に一つとして簡単に片付く問題はない。
★
笑いの裡には常に防衛と不安とがある。微笑は何んの武器をももっていない。
微笑する人には、何んの不安もない。そこではただ生命の花が開くだけだ。
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人間は憎み合う事によっても協力する
小林秀雄 ★
美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。
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同じ理論を抱いているというので親友だと思い込む、
実はただひとりでものを言うのが不安だからに過ぎぬとは気が附かぬ。
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凡そものが解るという程不可思議な事実はない。
解るという事には無数の階段があるのである。
人生が退屈だとはボードレールもいうし、会社員も言うのである。
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互いに己れを主張し、攻撃と防禦の気を伺っている様な思想は、
権力のかぶった仮面に過ぎないからであります。
これらの思想は各々の陣営の中に住んでいるので、人間の精神の裡にあるのではない。
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己れを実現する為の、最も現実的な保証なり根拠なりを、
原子爆弾の数の上に置いている、さようなものを思想と呼ぶのは滑稽である。
この思想としての内的根拠を全く欠き、一方、物質のシステムの明瞭性も
全く欠いた怪物に、世人は、イデオロギイなどというえらそうな名を付けました。
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学者とはずい分長い間、書物に書いてある知識くらいは皆空で覚えていた人だったでしょう。
書物は、記憶の不確かな処を確かめる用しかしなかったでしょう。
★
詩は言うまでもないが、散文にしても物語だった。
読まれたのではない、語られたのです。
本は、歌われたり語られたりしなければその真価を現す事は出来なかったのです。
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凡そ究極的な問題は、直覚によって掴む他はないもので、
直覚の率直な表現が、屡々逆説と見えるという事は、ニイチェの作でいつも経験する事です。
真の逆説とは言わば認識に於ける極めて率直な決断なので、
ひねって逆を言ってみるという様な事てはない。
★
現代の批評病は、いろいろな症状を現しているが、
根本のところは、物に対するこの心の手ごたえを失っている事から来ている様に思われます。
何かを批評している積りであるが、その何かが実はないのである。
★
ベルグソンが、晩年の或る著述の中で、これからの世にも大芸術家、
大科学者が生まれるかも知れないが、大政治家というものは、もう生まれまい、
と言っております。つまり政治は、現在既に大政治家など
いよいよ必要としない傾向を辿っているというのです。
小林秀雄 ★
個人の独創により、普遍的人間性を表現しようとする十九世紀理想主義の
権化たる点において、ベエトオヴェンは、文学の世界で言うなら
ゲエテやバルザックに比すべき稀有な芸術家だった…
★
天下を整理する技術が、大根を作る技術より高級であるなどという道理は
ないのでありますが、やはり整理家は、無意味な優越感に取りつかれるらしい。
交通巡査でさえそうかも知れぬ。
★
自分の経験した直観が悟性的判断を越えているからと言って、
この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です。
★
私は、美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、
それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ、
と何時も答えています。
★
今日の知識人達にとって、己れの頭脳によって
理解出来ない声は、みんな調子が外れているのです。
その点で、彼等は根底的な反省を欠いている、といっていいでしょう。
★
近代科学の本質は計量を目指すが、精神の本質は計量を許さぬところにある。
★
極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。
絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。
頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。
★
ソヴェトには言論の自由はないであろうが、沈黙の自由ならある筈だ。
言葉のしゃれではない。黙らされた人間は、必ず沈黙によって自己を現すものであり、
この力は必ずしも言論の力に劣るものではありませぬ。
★
文字のなかった時代の教養人とは、無論、何でも頭で覚えていた人だ。
そしてこれを上手にしゃべった人だ。
そういう教養人の態度が、文字ができ、書物が書かれると、
急に変わってくるという様なことは考えられぬ。
★
浪漫主義が流行させた、独創とか個性とかいう言葉は濫用されています。
濫用しているうちに、知らず知らず、芸術作品の個性という意味が下落する。
下落して単なる個人個人の相違という意味と混同されます。
小林秀雄 ★
もし芸術作品の個性という事が言いたいのなら、
それは個人として生まれたが故に、
背負わなければならなかった制約が征服された結果を指さねばならぬ。
★
批評文の作者はいつも、ある命題が心に浮ぶと同時に、
その反対命題が心に浮ぶくらい鋭敏でなくてはならぬ。
★
人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ、とは何んと真実な思想であろうか。
★
心に疑惑の火を絶たぬこと、これが心に皺がよらない肝腎な条件に思えた。
★
人の心は問題の解決をいつも追っているかも知れぬが、
矛盾の解決によって問題を解決しようとは必ずしも希ってはいない。
生活意欲というものは寧ろ問題を矛盾したまま
会得しようと希っているし、事実それを日々実行している。
★
誰も彼もが他人の言葉には横を向いている。
迂闊だからではない、他人から加えられた意見を、
そのまま土台とした意見を捨てきれないからだ、
土台とした為に無意味なほど頑固になった意見を捨てきれないからだ。
誰も彼もがお互に警戒し合っている、騙されまいとしては騙し合っている。
★
ニューズの氾濫は人々に疲れやすい神経的昂奮を齎すばかりではない。
人々に戦争を悪く冷静に模倣する術も教えるのだ。
戦争に関する僕等の直覚力や想像力を、
この異常な人間経験に対する僕等の率直な理解を麻痺させて了う。
★
室町時代という、現世の無常と信仰の永遠とを
聊かも疑はなかったあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心している。
それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆どそれを信じているから。
★
科学主義というものは一と口で言えば、
問題を解決する事を知って問題を提出する事を知らぬ一面的な批評主義だ。
★
誰も、己れの心を、自分の感じ方でしか感じはしないし、
己れの語り方でしか語れはしない。
小林秀雄 ★
人間の生活を一番よく知っている人が一番立派な文学作家なのだ。
私はもう、それを信じて疑わない。他はみんな附けたりだ。
それでなくて何が文学というものが面白かろう。
文学だと思って読まなければ面白くないような文学は私はもういらない。
★
キリストの一生ほど、彼〔ドストエフスキー〕に強い疑いを起させたものはなかった。
人から来た疑いは解く事も出来よう。だが神から来た疑いを解く事は出来ぬ。
★
ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。
問題を出すということが一番大事なことだ。
うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。
この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。
★
諦観は悪い事かもしれないが、諦観に生きる人々は厳存する。
宿命観はいけないかも知れないが、宿命観を強いられる精神の苦痛は厳存する。
★
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
★
生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。
★
保守派は、現実の習慣のうちに安んじて眠っている。
進歩派は、理論のうちに夢みている。
眠っているものと、夢みているものとは、幾らでもいるが、覚めている人は少い。
★
終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。
それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、
私の精神を少しも動かさなかった様に思う。
★
言葉の故郷は肉体だ。
僕等の叫びや涙や笑いが、僕等の最初の言葉である事を疑う者はあるまい。
だが、言葉は拡散する。厄介な肉体の衣を脱いで、軽々と拡散する。
もう再び肉体を得ないのだとしたら、一体何処まで飛び去ればいいのだろうか。
詩人とは、その事に気附いた人間だ。
★
左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。
あんなもんに「私」なんてありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。
どうしてああ徒党を組むんですか。
小林秀雄 ★
才能の鍛錬が、才能の玩弄に落ちない事は、先ず稀有だと言っていい。
★
凡そ物の真相とは、人間が追求するが発見は出来ない或るものの様にも考えられるし、
発見はするが追求は出来ない或るもののようにも考えられる。
恐らくどちらも本当であろう。
★
人はこの世に動かされつつこの世を捨てる事は出来ない、
この世を捨てようと希う事は出来ない。
世捨て人とは世を捨てた人ではない、世が捨てた人である。
★
俺を支えているものは俺自身ではなく、ただ俺の過去なのかもしれない。
俺には何んの希望もないのだから。
だけど、俺が俺の過去を労ろうとすればするほど、それは俺には赤の他人に見えて来る。
★
理想に捕えられ、のたれ死にまで
連れて行かれたトルストイは、理想の恐ろしさをよく知っていた。
彼の定義に従えば、理想とは達する事の出来ぬものだ、
達せられるかも知れぬ様な理想は、理想と呼ぶ様な価値はないのである。
★
愛読書を持っていて、これを溺読するという事は、なかなか馬鹿にならない事で、
広く浅く読書して得られないものが、
深く狭い読書から得られるというのが、通則なのであります。
★
近代の歴史思想というものは、思想界に於ける産業革命の
如きものではあるまいかと、私はいつも思っている。
私達は、歴史に悩んでいるよりも、
寧ろ歴史工場の夥しい生産品に苦しめられているのではなかろうか。
★
真理の名の下に、どうあっても人々を説得したい、
肯じない者は殺してもいい、場合によっては自分が殺されてもいい。
ああ、何たる狂人どもか。
そこに、孔子の中庸という思想の発想の根拠があった様に、私には思われる。
★
人の有るが儘の心は、まことに脆弱なものであるという、
疑いようのない事実の、しっかりした容認のないところに、
正しい生活も正しい学問も成り立たぬという、
彼〔宣長〕の固い信念、そこに大事がある。
★
私達は皆めいめい自己流に生きている、そうであるより他はない、
これは実に厄介な困難な事である。
小林秀雄『政治と文学』 共感する
小林秀雄 ★
日本の歴史が今こんな形になって皆が大変心配している。
そういう時、果たして日本は正義の戦いをしているかという様な考えを抱く者は
歴史について何事も知らぬ人であります。
歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何ですか。空想の生んだ鬼であります。
★
極めて柔軟な精神は屡々懐疑的な精神と間違えられる。
極めて懐疑的な心は屡々無関心と誤られる。
これらには共通した消極的な類似があるからだ。
★
私は客観的な尺度などちっとも欲しかない。客観が欲しいのだ。
★
歌とは、敗北を覚悟の上でのこの世の定め事への抗言に他ならぬ。
★
古典は単に私達の眼前に在るのではない。歴史のぎりぎりの結論として在るのだ。
★
悲劇の反省など誰にも不可能です。悲劇は心の痛手を残していくだけだ。
痛手からものを言おうと願う者は詩人である。
そして詩人が、どんなに沢山の、どんなに当たり前な人間の心に
住んでいるかを知るのには、必ずしも専門詩人たるを要しないでしょう。
★
例えば、物忘れがひどくなったのが呆けた事なら、呆けた事など大した事ではあるまい。
詰まらない事を、あんまり覚え過ぎたから、いっそさっぱりしているようなものだ。
呆けたという特色は、そんなものではない。棺桶に確実に片足をつっ込んだという実感です。
★
古典とは、私達が、回顧の情をもって近づく生きて考えた優れた人間の姿なのであって、
分析によって限定する過去の一思想の歴史的構造ではない。
従って、古典とは、理解されるものというより、むしろ直覚されるものだ。
小林秀雄『「論語」(評論)』 共感する
小林秀雄 ★
あらかじめ売ることを考えて、新築する料簡は、千三ツ屋のそれに似ている。
★
作の真髄を会得する感覚を養うなら、幼少からじかに一流品に接するに如くはない。
★
肉眼と心眼があるかぎり、レンズの目は邪魔だと私は心得る。
★
けれどもこの世に、もし平和というものがあるならば、
季節のものだけしかない食膳の上にあるのではないかと、このごろしきりに思うのである。
★
非が常に他人にあって、みじんも自分になければ、経験が経験にならない。
★
ビニールレザーはビニールのくせに、革にみせかけた新建材である。その心根がいやしい。
★
金を貰ったくせに、貰わぬ昔のままでいたい、またいられると思うのは心得違いである。
★
本もののつむじ曲りは、自分がつむじ曲りであることを常に残念に思い、
かつ恥ずかしく思うものである。
★
むかし映画は大作でもないものを大作と言ったから、すこし大作のときは困って超大作、
もうすこし大作のときは超弩級と言って言葉の信用をおとした。
★
何の目的も学問もないものが、海外に遊んでも得るところはない。大仕掛けな「はとバス」に
乗ったようなもので、故に私は海外に旅しない。
★
ひとの懐を勘定して羨むのはいやしむべきことだが、人は本来いやしい存在である。
★
わが情報はいくらあっても肝心なことは書かない。
それをかいつまんで言うのがジャーナリストの務めなのに、言ったためしがない。
★
ある種の動物が全地球を覆うほどふえたためしはない。ふえればそのふえたことによって滅びる。
山本夏彦(コラムニスト。雑誌「室内」主宰) ★
世間には笑われておぼえることが山ほどあるのである。
★
この言葉を聞くと前の言葉はうそだと分る。それなら今の言葉もいずれはうそになる可能性がある。
★
政治家が国を誤るのは俗受けをねらってパフォーマンスをやる時に多い。
★
歳は勝手にとったのだ、白髪は知恵のしるしではない、老人のバカほどバカなものはないと
私は金言のありたけを並べるが、その誘惑にたえかねるのだろう、老人は教えたがる。
★
カメラマンはスキャンダルの主を追って三日三晩寝ずの番をして
首尾よく盗みどりに成功すると自慢である。
こんなことが男子一生の仕事かと、ためしに言ってみてもけげんな顔をするだけである。
★
毎日出勤途中見るビルたちは、全く無計画無秩序に建てたもので、見るにたえないが、
あれも自分の内奥を具体化したものだと笑うよりほかないのである。
★
禽獣の親は仔が一人前になるまでは実によく面倒をみるが、
一人前になるとあかの他人である、それが自然で孝は自然ではない、教育なのである。
★
先方からおしかけてくるものにロクなものはない。
★
こげ臭い菓子をつくる家の菓子は、いつもこげ臭い。
★
我々は大ぜいが言うことを、共に言う存在である。
この世の中は、自分で考える力のあるひと握りの人と、
自分では考える力がなくて、すべて他人に考えてもらう大ぜいの人から成っている。
山本夏彦 ★
有名な作家の、有名な作品を読むのも似たようなものだ。そんなに面白い作品なら、
作者が生きていようといまいと関係なく面白いはずである。作品は作者から独立すると、
作者は思いたいから思う。作品は不朽で、死後も遺ると思いたいから思う。ごく稀に死んで
からも売れる作品があるからそう思うのは無理もないが、作者は死ぬと同時に読者を失う。
★
読者も共に老いただろう。六十七十を越え、亡くなった人もあるだろう。
健康でも、もう本は買わないだろう。読まないだろう。
作者は長生きすると、読者がこの世からいなくなるのを見ることがある。
★
仕事らしい仕事がなくて、給料が世間並なら割がいいと、もし若者が思うなら間違いである。
終日仕事がないことが、どんなにつらいことか知らないのである。
人生、同業組合の職員になるなかれと、このとき私はながめて思ったのである。
★
原則として、大ぜいが異口同音にいうことなら、信じなくていいことだと私は思っている。
★
そのころのことを知るものがいないのをいいことに、私は若いとき貧乏した、苦労したと妻子や
他人に自慢したらおかしい。誰がおかしがるのでもない。私がおかしがる。
★
縁台は個人のものであり、横丁のものであった。これを町内という。今は地域社会という。
コミュニティの訳語だろうが、地域社会なんていっているかぎりよい町内はできないだろう。
★
寄せては返す波の音は自然の繰返しだから、慣れれば何でもなくなる。
山本夏彦 ★
まねっ子の方が売れて、元祖のほうが売れないとは神も仏もないが、
神と仏は住々ないものである。
★
ひとりで旅してひとりで暮らしたら、鴎外漱石の時代とたいした違いはないのではないか。
★
男はその精神の内部によって目立つことは許されても、
衣装のような外部によって目立つことは許されないと、
むかしものの本で読んでもっともだと思って以来、私は風俗には従うことにしている。
★
手巻きと称して手で巻いて棒状のままを、ぬっと鼻先につきつける。
なぜ切らないかと問うと、包丁の金けがうつるからだと小癪なことを言う。
ついこの間まで包丁をいれていたではないか。そのころは金けはうつらなかったのか。
★
私はただ自分の金なら惜しんで、他人の金なら
湯水のように使う私たちの料簡に深甚な興味をもつだけである。
★
有能は何をしでかすか分らない。
山本夏彦 ★
私はしばしばひとを当人と他人に分ける。
そしてこの世はその当人にみちみちたところだと見わたす。
イギリス人は自分の国の小学生に、わがイギリスが世界中に植民地を持ったのは、
南アフリカでは首長に懇望されたからであり、エジプトでは王の苦しい財政を助けるためであり、
インドではインド人の幸福を願ったためであると教えているという。
あまりのことに中国人も日本人も笑うが、その中国人は尖閣列島から
石油が出ると聞くと、すぐこの島々は中国領だと言いだす。
わが外務官僚はこのとき直ちに駁して尖閣列島は沖縄に属し沖縄はわが国に属すと言った。
日本の利益を代表する弁論である。ところがわが国の大新聞は中国に遠慮して、
その日もあくる日も沈黙して、十何日が何十日かたってから、ようやくわが国の領土だと社説で駁した。
山本夏彦 ★
あなた四十にもなって、ほんとうに男がほしくないの?と辻元清美に迫ったのは瀬戸内寂聴で
(「婦人公論」九月二十二日号)、辻元は言葉をにごしていた。
瀬戸内は辻元が袋だたきにされているのを見かねて、
話なら聞いてやるからいつでもおいでと言ってくれたので来たのである。
瀬戸内はその昔デビューした当時、女であることを売り物にしたといじめられた。
女にも当然性欲があること男と同じである。一人ならず何人とでも恋愛すると昂然といったのだろう。
再起できないまでにたたかれたのによく耐え、婦人の支持を得て次第に人気作家になった。
むかし身分ある老女に、女はいつまで女かと問うたら
桐の火桶を火箸でゆるりとかき回しながら、灰になるまでと答えたという。
平林たい子が亭主に逃げられたとき慰める女だちの手をふり切って、
この年でもう一度男ができると思うかと悲痛な声で叫んだと聞いた。
山本夏彦 ★
わが選挙権は税金(初め十五円のち三円)以上納めた成年男子にしかなかった。
税金と選挙権とは関係ない。成人したら自動的に選挙権あるべしち騒いで
制限選挙を撤廃し普通にせよと大正末年にめでたく成功したのはいいが、
婦人参政権を忘れていた。婦人もそんなものほしがらなかった。
かりに制限選挙のとき有権者は八百万人しかいなかったとせよ。それだけで沢山だ。
凡そ人間は汚濁ばかりの集団だとしても、稀には国益第一のものもいる。
良心あるものもまじっているに違いない。貧乏人代表がいないと仰有るならその代表何百人かをまぜるがいい。
ただ有権者が二倍になれば腐敗は十倍になる。
だから制限選挙でいいのだ、ギリシャ人は一定の税金を納め、
いったん緩急あれば武器をとってポリスを守る意志と能力のある壮丁にしか選挙権を与えなかった。
老いれば選挙権は失う。これが制限選挙の模範である。
山本夏彦 ★
日清日露の戦役まで侵略戦争だと支那人が言うのは勝手だが、日本人が言うのは不自然である。
それなら当人ではない。他人である。
当人というものは自分の利益とみれば沖縄県石垣の尖閣諸島でさえ自国領だと言いはるものである。
それが健康な個人であり国家である。わが家であり、わが社である。
故にと健康というものはイヤなものである。
けれどもおお、個人も法人も国家も健康でなければならないのである。
わが国のごとく他人が言いはることを先回りして言って良心的だと思う国家は、
怪しいかな他国に侮られるのである。
山本夏彦 ★
芸人の代表は力士だと私は見ている。
相撲とりは、幕下から十両、さらに関取と日の出の勢いで出世するから、贔屓が何十人もつくのである。
勝ち相撲のあとは座敷がかかる、着かえてかけつけ大杯をぐっと呑みほす、
祝儀を頂いてから次から次へと座敷をつとめる。最後の座敷には芸者が待っている。
関取は芸者に買われるのである。
芸者はいやな客の機嫌気褄をとって、そのうさ晴らしに役者買いをするのである。
橘屋のいろなら買いたいという旦那がつくのである。
大阪では白粉ちんこ、砂ちんこ、扇子ちんこといった。
役者買いは歌舞伎役者が第一、二の次は関取、噺家、講釈師はげてもの買いだといった
山本夏彦 ★
戦後といっても昭和三十年代までは戦前と同じである。
すべて石油によって変わったと思えば早分かりである。
三井三池の大ストライキ(昭和三十四年)は石炭が石油に変わったということで、
石炭は高いが石油はただ同然で、その石油を採用することによってわが高度成長は成ったのである。
したがって三井三池の血を血で洗うストライキは無益だったのである。
失業者の救済策だけ講じればよかったのである。このときマスコミが果した役割を思い出してみるといい。
一大決戦みたいなことを書き、負けるに決まった戦さを勝った勝ったと書くこと戦時中のようだった。
山本夏彦 ★
新聞は常に野党的である。これは旧幕臣で才あるものが新聞をおこしたから自然である。
新聞の反体制の根は遠くここにある。反政府でなければ「御用新聞」と同業にも読者にも見放された。
徳富蘇峰の国民新聞は日露戦争でわが国はすでに弾薬も兵糧も尽きている。この講和条約は渡りに舟であるから
結べと書いて、勝った勝ったと浮かれている読者の激昂にあって焼打ちされた。
社員は畳を盾に抜刀して応戦したと伝えられる。当時一流の新聞は徳富と同じ情報を得ていた。
講和やむなしと思いながら暴徒を恐れて徳富を見殺しにした。
国民新聞は御用新聞と言われて部数は激減して他は激増した。
新聞ははじめ薩長の藩閥政治反対の論陣を張った。薩長政府が去って政党政治に移ると、
今度は政党の汚職を連日あばいて政治家を「財閥の走狗、利権の亡者」と糾弾した。
それをまにうけた青年将校が浜口(雄幸)を犬養(毅)を倒すと、
テロはいけないがその憂国の至情は諒とするとかばって、軍部独裁への端を開いた。
汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼすのである。
山本夏彦 ★
五・一五、二・二六両事件の青年将校は、まじめと正義の権化だった。
話せばわかるまあ坐れと犬養毅は言ったが、問答は無用だ撃てと命じてなお正義だった。
まじめということはよいことだと思われているが、実は悪いことなのだ。
まじめと正義は仲良だ、したがって正義も悪いことなのだ。人は何より金を欲すつというが、
実はもっと正義を欲する。大好きな正義!正義は潔白の仲間だ、そして潔白は残念なのだ。
山本夏彦 ★
来世は男に生まれたいかと女に問うと、戦前はみんな男に生まれたいと答えた。
「人生婦人の身となることなかれ、百年の苦楽他人(夫)による」と唐代の詩人はうたったから、
千何百年も前からそうだったのだろう。女はソンで男はトクだと思っていたが、戦後は反対になった。
来世も女に生まれたいと答える女がふえたが、今は十人中九人までは再び女に生まれたいと答える。
どうしてと聞いても「どうしても」と言って要領を得ない。
稀代の美男に生まれて慕いよる娘を人妻を、片はしから犯したらさぞよかろうと言っても、
やはり女のほうがいいと笑って承知しない。
まれに一年間だけなら男に生まれてもよいがそれ以上はいや、もとの女に返りたいという娘がある。
これはまだ男を知らぬ女だ。男を知った女に問うと男は哀れだからと言う。
たいてい年増で、どこが哀れだと問つめてもそれ以上は答えない。
山本夏彦 ★
自分がその席に坐ったら必ずとるワイロを、坐れなかったばっかりに鋭く追及するのが正義か、
さすがに食傷してこのごろは読んでもうわの空になった。そしたらあろうことか検察官の頭株が汚職した。
そもそも検察を正義のかたまりだと思うのは迷信ではないのか。外務官僚その他と友でないのか。
★
痛烈というのは自分のことは棚にあげ、他を論難攻撃することである。
辻元清美女史は鈴木宗男議員を追いつめて、痛烈だったという。
(中略)今度は自分の政策秘書の給金の猫ババが露呈して、弁明も出来なかったという。
痛烈の正体をこれほど短時間に見ながら、なお人は痛烈が大好きなのである。
★
今はノンポリばかりである。新聞記事をファイルしておけと命じても脱落が多い、
朱でしるしをつけたところが貼ってないと言ったら、
この仕事はぼくには向きません向く人にやらせてください、ぼくには他の仕事を。
これまた言うべき言葉の用意がないので黙って、あるなら教えてくれ。ただしごくごく手短に
★
電通世界一に便乗して群小代理店も、
運搬以外の仕事がないのに電通が一流になったので自分も一流になったと誤解する。
それは幹部がむかし賤業だったのをかくすために誤ったプライドを植えつけた結果である。
教育しなおすことが出来ないことは電車内で行儀の悪い子を教育することが出来ないことに似ている
山本夏彦 ★
人の患いは好んで人の師となるに在りとシナの賢人が言っている。
人生教師になるなかれと私は教師の口もとを見て思うことがしばしばある。
★
旧幕のころは〜遣米使節木村摂津守、村垣淡路守の日誌をのちに読んで知った。
異人に伍してよく自己を失わず摂津守のごときは頭のてっぺんから足のつまさきまで貴人だと、
かの地の新聞に書かれた。「草の葉」の詩人ホイットマンは日本使節をたたえる詩を書いた。
★
論より証拠というのは昔のことで、今は証拠より論の時代だとは何度も言った。
論じれば証拠なんかどうにでもなる。
★
「今も昔もマッチポンプ」煙があがる、火がないはずがないと記者は必ず言う。
然り煙があがる、たとい自分がつけた火でも。
★
一流だろうが二流だろうがサラ金はサラ金で、
銀行がこれに貸すならその一味であることを白状するようなものである。
★
鹿を追う猟師山を見ずといって、税史は税だけを追って他を見ない。
山本夏彦 ★
大正デモクラシーというのはブルーカラーを低く見た時代で、
商人をバカにしてホワイトカラーを高くみた。
これは今も続いている。そろばんの動きを教えないのがいい学校だなんてその極みである。
★
社員でさえ読まない本 社史
★
駅のそばの丸井はもとは月賦屋といわれてさげすまれていた。
中野の店の二階の天井は昭和二十年代にぬけおちた。朽ちていたのである。
それがクレジットと称して一躍恥ずべきものでなくなった。ネーミングにはこれだけの力がある。
★
オカネ ガ アリマスというコラムを書いたことがある。
わが国の教育は維新で零落した士族の失地回復運動で、
東大さえ出ていれば十人の、百人の、千人の支配者になれると士族の子弟は一家をあげて、
東大をめざすこと今日の如くだった。武士は金銭を賤しむ風がある。
したがって金銭の教育をしない。
★
ノンポリがふえて日の丸と君が代騒ぎは来年は減るだろうと私は思わない。
あれは天皇制打倒の最後の砦である。死守するだろう。
死守したからといって公立学校ではクビにできない。それを承知の上での死守である。
山本夏彦 ★
「神州清潔の民」という言葉なら、私は子供のときから知っていた。
してみれば西洋人は不潔の民なのかとけげんに思った。
戦国乱世のころわが国に布教に来たフロイス以下の宣教師は、
日本人の入浴好きに驚き、街路に塵ひとつとどめないのに驚き、
皆々巧みに箸をつかって食事するのに驚いた。
★
ロケーションをしてだれに監督させるか、それにいくら払ったらいいか見当がつかないから、
いっさいを電通または博報堂にまかせる。三千万円のCFならそれなりの見積がでる。
コピーライターだのスタイルストだの髪結いだのはこの見積のなかにもぐりこんだから、
大金がとれるようになったのである。
★
味の素や三越のような大スポンサーには食わせる飲ませる握らせるサービスをして引き合ったのは
金額が大きいのと手数料の大半が外交のものになって、
会社にはっぽっちりしか納めないですんだからで、これを大外交といった。
それなら大外交は金持かというと、飲む打つ買うのごろつきで堅気ではなかった。
★
昭和三十年までの広告界は戦前とほぼ同じだった。今では日本一の大読売新聞だが、
当時は広告がなくて無断掲載や再掲載をすることしばしばだった。
無断掲載というのは朝日または毎日に出した広告を黙って読売にのせるのである。
空白のまま出すわけにはいかないから許可なくして載せるから無断掲載という
山本夏彦 ★
多く雑誌を出していれば松下グループの広告だけで毎月一億や二億にはなる。
テレビラジオならもっと莫大になる。それを総引き揚げするぞと言われたら松下の批評はできなくなる。
私は浅薄な正義は嫌いだが、こんな脅迫に屈するのはもっと嫌いだから今これを書く気になったのである。
★
花森安治は耳で聞いて分かる言葉を使え、全部ひら仮名で書いてみて、そのままで分かる言葉を使え。
いい文章を暗記せよ。写せ。英和辞典に出ている言葉は日本語だと思うなと叱咤したという。
そっくりそのまま新聞記事の批評である。テレビのコピーの批評である。
★
日本人はいつからニセ日本人になったか、私は怪しんで少年のころからじっと見守っていた。
昭和初年から日本の知識人はわが国を、この国と書くようになった。
この国あの国と書けば書き手とわが国の間に距離が生じる、ははあ自分は西洋人のつもりなんだな。
★
人はいつまで無実か(露見するまで)と私は書いた事がある。我ながら気に入っている。
外務省の何とか室長は長いこと室長のままでいて、新聞にその名を書かれなかった。
ひとたび逮捕されると実名をかかれたが、予算が余ると一本何万円もするワインを買って消化したという。
★
朝日新聞は重信房子を評して、いまだに革命ごっこの幻想を抱き続けて、ヒロインの役を演じているが哀れだと書いた。
この半世紀社会主義を支持した危険な火遊びに終止符を打って
商業主義の権化である正体をあらわしたが、若くして洗脳された思想は去らない。
なお外務省、文部省その他の省庁に新聞社のデスクにその申し子はいる。
水に落ちた犬を打てと故人は言っている。
山本夏彦 ★
新聞は、ことに朝日新聞は終始社会主義の味方だった。日教組を手なずけたのは大成功だった。
入試試験は朝日から出るぞとおどして部数をふやした。国鉄民営化にも反対した。
★
動労は国民に見放されたのになお千葉動労だけでもゼネストはできる、全国の動労に千葉動労の同志がいる、
その一人が一本ずつ犬くぎを抜けば、即ちゼネストだと豪語したが、
さすがに民心は離れたと見たのだろう新聞は全く書かなくなった。
報道がなければその言は存在しない。
★
新聞は近く日教組を見捨てる。その兆しはすでに投書欄にあらわれているとはいつぞや書いた。
日の丸君が代騒ぎは天皇制打倒の最後の砦だから組合は死守し新聞は味方したのである。
★
社会主義革命は成就すると同志を殺す。スターリンはラデック、ブハーリン、トロツキイを殺した。
永田洋子は革命が成就しないうちに同志を一人一人殺した。
★
戦後アメリカ一辺倒になった与党に新聞は反対して、ソ連中国にべったりになって、
国民に独立の気概を失わせた。社会主義には正義がある、資本主義にはない。
若者は正義に魅せられる。労働組合は悉く左傾した。
ソ連と中国が一枚岩の間はよかったが、不仲になるとわが社会主義も分裂した。
山本夏彦 ★
60年安保のたぐいはわが国の独立運動ではなかった。ソ連または中国の属国になって、
宗主国から首相に任命されて、にこにこして組閣する写真を見たような気がする、
どうしてこんな事になったか。日本人のすべては日米戦争なんかのぞんでいなかったからだ、
あの時我らはすでに「ニセ毛唐」だったのだ。
★
キャンペーンと称して正義と良心を読者に強い、賛成して共に言うならよし、
なお言わないと読者は読者を村八分にした。書き手と読み手はぐるなのである。
★
私が正義をほとんど憎むのは、自分のことを棚にあげて初めて正義だからである。
戦前は修身が説かれた。戦後は修身は追放された。けれども新聞の「天声人語」のたぐいは、
自分が決して実行しない正義を説いて好評を博した。
★
天が下に新しきことなしと古人は言った。この世の中にニュースはないと私は言う。
江戸の町人は浮世のことは笑うよりほかないと、世間を「茶」にした。
天下国家を論じるのをヤボとした。私も町人のまねをして天下国家を論じない
★
日本は独立国ではない、米国の属国だと言うとまじめ人間は驚く。
五十年来独立国だとわが国自身にあざむかれ、信じてきた事を覆されたのが何より不快なのである。
★
ソ連とアメリカ、北朝鮮と韓国、イデオロギイの違う国同士の間に話しあいはできないと言うと、
男は承知しても女はしない。だから婦人に選挙権を与えたのは誤りだと言うと立腹する。
山本夏彦 ★
工場や機械があればそれをかたに銀行は金を貸す。
プランには影も形もないから戦前の銀行は出版には全く貸さなかった。当然である。
戦後貸すようになったのは銀行の堕落だとは前に言った。出版と印刷(製本も)の違いを、
ひと口で言うと右の通りである。何事ごとも複雑に考えないほうがいい。
★
マスコミが印刷製本を一段下に見るのは奇怪だと、私は昔から不承知でこの世の中で
全く論じられないものの一つに印刷業と印刷術があると書いた。
(中略)出版と印刷の違いを、ひと口で言うと印刷には工場がある、機械がある、
出版には何もない。机と電話とプランがありさえすば〜出版たちどころに成る。
★
旧幕のころ三代目澤村田之助が脱疽を患ったのを手術して名高いヘボン博士は、
本当はヘップバーンHepburnであるが、耳にはへボーン、さらにはヘボンと聞える。
ヘボン式ローマ字はいまだにヘボンのままである。
★
黒岩涙香の四男菊郎は明治四十三年生まれ、昭和四十年代までの父兄は明治生まれがまだいた。
それが大正生まれになり、昭和生まれになる過程を履歴書で見た。
★
親の職業はもう参考にならないことはこのとき知った。質屋の娘だと聴いて、
質屋なら人情の機微をいくらか知るだろうと思ったら案に相違した。
娘を大学へやるほどの親だから商売のことを知らしめない。これは提灯屋のときも同じだった。
大学で提灯屋なんてかっこいいと珍しがられて自慢である。
★
学研は小学館のまねして戦後デビューした。小学館が書店売りなら学研は学校売りで
小学校の先生にまとめて買ってもらって成功した。私が学研の名を知ったのは
免状を出したことによってである。戦中戦後の免状は見られたものではなかった。
あれには本来大判の局紙が用いられた。それでこそ権威があった。
山本夏彦 ★
配給のキリンビールのラベルが墨一色になったのを見て、この戦争も終わりだなと思ったことは以前書いた。
★
「文章は経国の大業、不朽の盛時」という言葉がある。このごろ絶えて言わなくなったが、昔はよく言った。
文章は不滅であとまで残るというほどのことだから、恥ずかしくて言わなくなったのである。
文章は俗論に反することを述べるものだといえばお分かりだろう。
★
唐突だが戦前は職業婦人といった。どういうわけか電話の交換手は明治の昔から娘だった。
百貨店の売子、銀行の窓口嬢、昭和になってからはバス・ガールがあった。
いずれも志願者が多く、それをいいことに薄給だった。ただ高給をとったのは派出看護婦で、
一等二等三等があって、一等は昭和初年住み込みで三円五十銭とった。
専門職だから上膳据膳で家事は一切しなかった。のちに内田百閧ェ陸軍士官学校、
海軍機関学校さらに法政大学の教授をしながら高利貸と手を切れなかったのは
不思議でならなかったが(略)
山本夏彦 ★
新時代の堕落は、旧時代の堕落に負うところが多い。
★
犬猫でさえ人類よりましである。第一彼らは銭を持たない、従って売淫しない、戦争しない。
★
空腹と空腹感は、本来別物だそうだ。
★
青少年のくせに、何らかの反逆と革新の気概がなく、テレビにうつつをぬかすなら、フヌケである。
★
新薬の出現によって、百年このかた人は死ななくなった。ほんとは死ぬべき人が、生きてこの世を歩いている。
★
経験すれば人は利口になるというのは、迷信ではないのか。人は経験によって何かを増したろうか。
★
マジメ人間というものは、自分のことは棚にあげ、正論を吐くものである。
★
禁じられた遊びを遊んだことのない子は、動物としての感覚を欠く。
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人は分って自分に不都合なことなら、断じて分ろうとしないものだ。
★
八百屋が若い衆を社員、おかみさんを専務と、本気で呼んだらおかしかろう。
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実社会は互いに矛盾し、複雑を極めている。それは他人を見るより自分を見れば分る。
自己の内奥をのぞいてみれば、良心的だの純潔だのと言える道理がない。
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人はついに自ら見て、自ら考える存在ではないのか、ないのであると、自問自答して、
私は信じまいと欲して、信じざるを得なくて、あきらめかけているのである。
★
何ごとによらず、この目下大流行のものならうろんである。
山本夏彦 ★
俗に自分のことは他人の目で見よというが、いくら他人になっても、他人もまた人である。
★
居ながら見られるのは便利だが、病人じゃあるまいし、映画や芝居くらい見物に出かけてはどうか。
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自動車にもとづいた未来の都市計画案は、私には荒涼たる無人の廃墟に見えます。
★
その末端にあるカーをクーラーをテレビを享楽して、てっぺんの原爆だけ許すまじと
歌っても、そうは問屋がおろさぬと言ったことがある。
★
いくら世の中が変わっても、遊びは自分の金でするものである。
★
我々は世間が許す涙しか流さない。世間が許す笑いしか笑わない。
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人前で立派なことを言う人なら、たいていうそつきである。
★
印刷された言葉なら、まずたいていは眉つばだと、一度は疑ってかかるがいい。
★
この世は問答無用の些事から成っている。
★
歌は自らうたわれることを欲するのに、うたえば二重三重に金をとって、
なお不足で五十年にのばすとは図々しい。
★
その使いわけが面倒だというなら、かのフランスを見よ、
国語を大切にすること、わが国の比ではないと、事ごとに感服するふりなんぞしないがいい。
★
あれほど惜しんだ命、また魂とはついに何か。
山本夏彦 ★
大げさに言えば、このまずはめでたいの、まずはのなかに、千万無量の思いがこもっている
★
「春秋に義戦なし」と古人は言ったが、この世の中にニュースはないと、ながめて私は
楽しまないのである。
★
その席にすわらなかった、あるいはすわれなかったばかりに吐く正論を、私は謹聴しない。
★
おめず臆せず自分の見たところを言うものは、ばかでなければ勇気あるものである。
★
書評は多く八百長だから、まにうけるとびっくりすることがある。
★
明治末年以来、ずいぶん利の全盛時代が続いたから今度は義が争われる番かもしれない。
★
青少年の美的センスが堕落するということは、当代のセンスそのものが堕落するということである。
★
むかしは軍と官が言うことを禁じたが、今は誰が禁じるのでもない、
あたりをうかがってみずから禁じるのである。
★
むかし映画は大作でもないものを大作と言ったから、すこし大作のときは困って超大作、
もうすこし大作のときは超弩級と言って言葉の信用をおとした。
★
社員は制裁をうけるどころかエリート中のエリートである。
★
原爆許すまじという。何という空虚な題目だろう。
★
自分の職業の「分」を守って、他の仕事に手を出さないのは、昔はいいことだったが、
今はそうでなくなった。
山本夏彦 ★
事故を未然に防ぐ親切から作ったと、この悪意は親切を装うほどの悪意である。
★
女たちは男たちの上品が、口さきだけなのを知っている。
★
何の目的も学問もないものが、海外に遊んでも得るところはない。大仕掛けな「はとバス」に
乗ったようなもので、故に私は海外に旅しない。
★
生れるのが自然なら死ぬのもまた自然なのに、こんなに死ににくくなった時代はない。
★
一流だろうが二流だろうがサラ金は、サラ金で、
銀行がこれに貸すならその一味であることを白状するようなものである。
★
小なりといえども自動販売機は工業デザインの粋で、それが人の味覚を左右するとは
たぶん発明者の考えなかったことだろうが、大げさにいえばまあ文化の危機である。
★
男と女の交際ままならない時代に、遊郭を一大社交場にしたのはすぐれた知恵であり文化である。
★
字句はひかえ目のほうがショックはそれらしく伝わる。
★
三十年も同じことをしていれば、すこしはうまくなるだろう。
★
男の子なら端午の節句、女の子なら雛の節句にまとめて祝うのはいい習慣である。
★
鹿を追う猟師山を見ずといって、税史は税だけを追って他を見ない。
★
煙があがる、火がないはずがないと記者は必ず言う。然り煙があがる、たとい自分がつけた火でも。
山本夏彦 ★
論より証拠というのは昔のことで、今は証拠より論の時代だとは何度も言った。
論じれば証拠なんかどうにでもなる。
★
社員がかけつけるのは見舞のためではない。払わぬ理由をさがすためである。
★
いくらいいと言われてもキチガイじゃあるまいし、
新聞に求められて原稿料をもらってその紙上に新聞の悪口を書けるものではない。
★
ひとの懐を勘定して羨むのはいやしむべきことだが、人は本来いやしい存在である。
★
社会主義国にせよ資本主義国にせよ修身のない国はないのに、ひとりわが国にはない。
★
新聞が八つざきと言えば同じく言い、冤罪だと言えば同じく言うのは別人ではない。
全く同一の人物で最低の者どもだが、この世は最低の者どもの天下である。
★
情報の時代というのは情報があり余って、並のひとなら途方にくれる時代ではなかろうか。
★
わが情報はいくらあっても肝心なことは書かない。それをかいつまんで言うのが
ジャーナリストの務めなのに、言ったためしがない。
★
凡百のなぜを承知した上でのなぜが真のなぜなのである。
★
一日の苦労は一日で足りるのである。一日が充実していればそれだけでいいのである。
★
前にも言ったと思うが、何より自分の国を陰に陽に悪くいう教科書ならよくないにきまっている。
★
才能は天賦だというと絶望するものがあるから、才能は根気だとか努力だとかいって慰めるのである。
山本夏彦 ★
私たちが預金をそのままにしておくのは、稼業にはげんだほうがもし成功すればなまじな
利殖よりはるか有利だからである。それにまっ当だからである。
★
父母が生きているかぎり子と孫は歓迎されるが死んだらされない。
★
今年の魚が毒なら昨年の魚も毒だろう来年の魚も毒に違いない、魚食うべしいくらでもと
私が書いたら婦人たちはとびかかろうとしたが、そのうちそっぽを向くようになった。
★
ことに正義は自分にあって相手にないと思うと居丈高になる。
★
反対した幹部はいまその不明を恥じているかというと、
やめさせられはしたものの関連会社に天下って平気の平左である。
★
日経新聞のような一流新聞が家庭婦人にまでマネーゲームをすすめるとは狂ったかと
書いたら、なにあれはもともと株屋の新聞だよといわれた。
★
銀行が高利貸と区別されるのはモラルであるという点だけである。
★
つい戦前まで人前で脚を出し尻を出すくらいなら死ぬと言っていた女たちが、今は胸を出し脚を開く。
★
本も雑誌も誰も頼まないのに作っているのである。返されても仕方がないのである。
★
何より日本人は金持だ。しかもまったく無防備だ。
これを襲わないでだれを襲うのかと一朝彼らが目ざめたらことである。
★
男女を問わず人は衆をたのめば何でもする、何でも言う。一人では何もできない。
★
今の栄耀栄華は「一炊の夢」だと知っているせいかもしれない。
山本夏彦 ★
自分のよく知ることを全く知らない人に知らせることを、難なく出来ると思う人は絶対に出来ない人である。
★
世間には笑われておぼえることが山ほどあるのである。
★
いまの私たちの老後の諸問題は昔はみな孝が始末していたものである。
★
狼に育てられた子供に似て言葉はあとから教えても身につかない。
★
短くする発想がないのはけげんである。長いばかりが能ではないぞ。
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とらぬ狸の皮算用と承知の上で皮算用をして、見物も期待したふりをしてよくもまあ倦きも倦かれもしないものだ。
「「金」でなければメダルじゃない」より
★
不良銀行をつぶしたらそれが波及して優良までつぶれる、つぶれたら大衆の預金はふいになる、
それを守るために銀行を助けるのだと、大蔵省はこのごに及んでもなお預金者に恩を着せるのである。
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政治家が国を誤るのは俗受けをねらってパフォーマンスをやる時に多い。
★
横文字や片カナ語がいけないのはこれが全盛をきわめると、他がことごとく死にたえるからである。
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見ない相手にかいつまんで話して聞かせ、共に興ずるには多少の訓練がいる。
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★
自分には大事な宝物かもしれないが他人の目にはただのお多福である。
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古人が隠蔽したのはするだけのわけがあったのである。
★
コクがあるのにキレがあるなんて怪しい日本語を一ビール会社がひろめるのは恐れを知らない仕業である。
山本夏彦 ★
新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出る、
読むべき本があるとすればそれは古典で、十冊か二十冊である。
★
再販問題で本も雑誌も売れなくなる、文化の危機だと騒いでいるが、こんなものなくなって何の危機か。
★
戦前は金さえあればどんなお洒落でもできると貧乏人は思ったが、
それがとんだまちがいだということが、うそかまことか一億総中流になって分った。
★
「とかくこの世はダメとムダ」と私は見ているものだからこんなこと位で怒りはしない。浮世の
ことは笑うよりほかないと笑うだけである。
★
あらゆる不祥事にかかわらず銀行は平気である。
預金の利息をただ同然にしたからそのぶんまるごと利益になった。
★
祖国というのは「言葉」だとシオランは言っている。
私は理解を得る手がかりがなくてほとんど途方にくれている。
★
真の馬鹿はいかなる弁舌をもってしても説得することはできない。
孔子さまもただ上知と下愚は移らずと仰有った。
★
禽獣の親は仔が一人前になるまでは実によく面倒をみるが、一人前になるとあかの他人である、
それが自然で孝は自然ではない、教育なのである。
★
天が下に新しきものなしと洋の東西を問わず賢人は言っている。
★
金銭というものは清く正しいものではない。邪悪な暗いものだから株屋はあっていい。
ただそれには相応の差別があるべきだ。
★
ベレエ帽をかぶってアンカットのフランス語の詩集を携えて、
マイカーに婦女子を誘いいれて次々と殺した大久保清じゃあるまいし、
もしそれをかぶれば詩人にみえるなら詩人はベレエ帽をかぶらない。
山本夏彦 ★
我々はある国に生れたのではない、ある国語のなかに生れたのだ、祖国とは国語だ、国語
以外の何ものでもないというシオランの言葉を私は固く信じるものである。
★
タダは客と芸人とドラマを限りなく堕落させる。
★
漱石崇拝に抗して退屈が予想される長編を読むことがいかに苦痛かを書くのは勇気のいることである。敵は幾万である。
★
私は全くの死語は用いない、半死半生ではあるが、いま使えば息ふき返す言葉なら勇んで
用いる。抵抗である。言葉は五百年千年の歴史あるものは過去を背負っている。
★
かいつまんで言え、かいつまんで。
★
(破滅が来るまで)ひとはその日まで枕を高くして寝ている存在であることロスやニューヨークの市民に異ならない。
★
私は文語文に返れといっているのではない。そんなことはできはしない。ただ文語にあって
口語にないものは何々ぞと数えたのである。漢字と漢語は自然に減る。ただ半死半生の
言葉、今なら蘇生させることができる言葉をなぜ蘇生させないかと言っているのである。
★
マイコンのたぐいは操作すれども理解はせずで、子供ばかりでなく、大人も野蛮人に返ったのである。
★
本を読むことは死んだ人と話をすることで、私は本によって大ぜいではないが、何人かの故人を知った。
★
俗に猫に小判というが、三歳の童子は猫に似て、小判をありがたく思わない。
小判より声をかけてくれる人、かまってくれる人のほうを喜ぶ。
そして人の知能は多く三歳を越えないと、知能を調べる学者は言っている。
★
誤解を恐れないでいえば、犬と子供と女はよく似た存在である。それならどうして男も似た存在でないことがあろう。
山本夏彦 ★
我々は大ぜいが言うことを、共に言う存在である。
この世の中は、自分で考える力のあるひと握りの人と、
自分では考える力がなくて、すべて他人に考えてもらう大ぜいの人から成っている。
★
人気さえあれば天から降ってくる芸人の十万円と、
堅気の月給十万円は、同じ十万円ではあっても、全く別ものである。
★
所詮この世は生きている人の世の中である。
★
わが家にピアノがあって、隣家になくて、はじめて豊かなのである。
★
記事はまじめくさって、たわけたことを書く。
広告は割引いて読むからいいが、記事は額面通り読むからいけないのである。
★
戦前は陸海空の強制によって、書かざるを得なかったというが、今はだれの強制によるのだろう。
★
男は十年二十年働いて、保険金のご厄介にならないのに、
半年や一年しか働かない娘たちが、むやみにほしがるのは怪しい情熱である。
★
だから私はそば屋でそばを食べて、そのつど受取をもらう屈辱に、私たちは値いすると思うのである。
★
老人が老人らしく見えないのは、たいてい衣装のためで、
内部より外部のせいだとわかったのはめでたいが、さりとて男が今さら和服を着るわけにはいかない。
★
運を天にまかせたといえば聞こえがいいが、実は私たちは他の哺乳類と共に理解しないのである。
★
原則として、大ぜいが異口同音にいうことなら、信じなくていいことだと私は思っている。
山本夏彦 ★
用もないのに人は遠くへ行かない。
パリの住民でエッフェル塔へのぼったことのないひとはいくらでもいる。
★
私自身がすすめられてもしないだろうことを、すすめても仕方がない。
★
町で「合鍵三分でつくります」という看板を見る。
あれを見ると「四分目には泥棒にはいります」と言いたくなると笑った建築家がいた。
★
物くれる人はよい人だと古人は言っている。
★
以前は私たちの胸の中には、堪忍袋という袋があって、それには緒がついていて、めったに
切れなかったが、このごろはすぐ切れるようになったという。
★
寄せては返す波の音は自然の繰返しだから、慣れれば何でもなくなる。
★
自分の国の言語を、文章を、こんなに軽んじる国民は珍しい。世界中どこにもない。
★
本というものは、自分で買うものである。いくら良書でも、読めと与えられたら、薬くさくなる。
★
昨今の本はたいていこのリズムに欠くから、読むに難渋する。
★
給金は現金正貨で支払われるから、堅気の会社員とその妻子は、今でも手形を知らない。
★
治まる御代という言葉があるが、治まる御代というのは、
だれも憲法のことなど口にしない御代のことである。
★
私がここで言いたいのは、わが税制は税をとりたいばかりに、
何百年何千年来のモラルを破壊したということです。
たとえば、借りたものを返さないかぎり利益は生じない、倹約は徳だというがごときモラルをこわしました。
山本夏彦 ★
いまそれが美しいのなら五十年前百年前も美しかったはずです。
当時それを発見しないで、いまごろ発見したのを私は黒人の代わりに不快に思っているのです。
★
スナックのマスターやそこで知り合った麻雀友だちは、やはり友ではありません。
★
家庭教師をして何か得るところがあったかと問うと、
希に「家庭教師なんかするものじゃない、ということが分った」と答えるものがあります。
★
人は獅子や虎を猛獣と呼んで恐れますが、なに彼らは腹がいっぱいなら何もとって食いはしません。
★
欲ばれば出来るが欲ばらないと出来ないことをソ連人は気がつくのが遅いと、
それを見ていた中国人は気がついたのです。
★
自分は純真で無垢ですべて相手が悪いなんて、こんな好都合なことはありませんが、
そんなことはこの世にないことです。
★
私はただ自分の金なら惜しんで、他人の金なら湯水のように
使う私たちの料簡に深甚な興味をもつだけである。
★
有能は何をしでかすか分らない。
★
完璧を目ざしていつも完璧だから、
ひょっとしたらしくじりはしまいかと手に汗をにぎるのである。
★
哲学が読者を失ったのはにせの難解のせいである。
★
二流の名人は時代と妥協するが、一流の名人は孤絶するという。
山本夏彦 ★
改まらないものには改まらない十分なわけがある。
★
物が盛んなときは衰えるときである。
★
人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。
★
千万人といえどもわれ往かんという言葉がある。
自分で考えて正しければ、相手がたとえ千万人でも、自分が一人でも屈しないと訳されて、
今も時々用いられるが、千万人も往くなら俺も往こうと訳すのが本当である。
★
大ぜいが異口同音にいうことなら信じなくてもいいことだ。
★
歳月は勝手にきて勝手に去る
★
事典中に「木口小平」を掲げても軍国主義にはならない。
削除しても軍国主義を追放したことにはならない。
山本夏彦 ★
言葉というのは電光のように通じるもので、それは聞く方がその言葉を待っているからである
★
人は分って自分に不都合なことなら、断じて分ろうとしない。
★
明治の昔の貧乏と、今日のそれとは質的に相違したもので、
電気じかけの貧乏こそ真の貧乏だと、仔細あって私は信じている
★
高度成長はラクして月給をたくさんくれる仕事をよい仕事だと若者たちに思わせました。
★
私はこの世は、むだから成っているとみている。
そもそも私が生をうけ、こんにちまで生きてきたのは、むだそのものだとみている。
私はむだに終始して、いまだにむだ中に埋没している。どうして区々たるむだを争おうか。
★
事実があるから報道があるのではない。報道があるから事実があるのである。
★
善良というのものはたまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ
★
正邪美醜、その双方を兼ねて初めてひとなんだと思うんです。
★
実を言えば、人が傷つかないところで傷つくのは、才能の一種なのである。
★
私は、正直者は馬鹿をみるという言葉がきらいである。ほとんど憎んでいる。
まるで自分は正直そのものだと言わぬばかりである。この言葉には、自分は被害者で潔白だという響きがある。
悪は自分の外部にあって、内部にないという自信がある。
★
ほめる言葉の多少が文明の尺度なら、憎まれ口の多少も同じく文明の尺度である。
★
子供は大人がみくびるほど鈍くはない。彼らは大人が何を欲するか知っている。
★
よくおぼえさせるには、分らないことを一つ二つころがしておくほうがいい。
山本夏彦 ★
(嫉妬は)磐石のように存在している。だからその存在は認めなければならない。
認めると、それはそれなりの用をしていると分かるのである。
★
そこにあるものは目にはいるが、ないものは目にはいらない。したがって、そこにないものに私は注目する。
★
私は人生に対して「当人」であるより「他人」である。見物人である。
だから当人には見えないものが、時々見えることがある。
★
私の書くものを進んで読んでしばしば笑う婦人なら、きっと頭のいいひとだろうと勝手ながら私は決めている。
★
しゃれのわかる人としゃれを言う人は別人で、わかる人が十人いても言う人は一人の見当で、
そして言う人が二人いないと応酬はできないから、しゃれは急速に滅びたのである。
★
話は短いにかぎる。短くてよく分ると、聞くものは自分が頭がいいと思って喜んでくれる。
★
風邪は生きものだからなまじ治そうとしないほうがいい。
むしろ促進剤を開発して早くクライマックスに達しさせ退散させるにしくはない。売り出せ風邪の増長薬。
★
私は人生は些事から成ると見ている。些事にしか関心がない。
些事を通して大事に至るよりほか、私は大事に至りようを知らないのである。
★
私はもういつ死んでもいいのである。それは覚悟なんてものではない。いっそ自然なのである。
その日まで私のすることといえば、死ぬまでの暇つぶしである。
★
ワイロは浮き世の潤滑油である。
もらいっこない人は自動的に正義漢になるが、一度でももらってごらん、人間というものが分かる。
古往今来正義の時代は文化を生まなかった。
『文化は腐敗の時代に生まれた』と昔,渡部昇一は言った。卓見である
★
タバコの害についてこのごろ威丈高に言うものが増えたのは不愉快である。
いまタバコの害を言うものは、以前言わなかったものである。
いま言う害は全部以前からあったものである。
それなら少しはそのころ言うがいい。
当時何も言わないで、いま声高にいうのは便乗である。
人は便乗に際して言うときは声を大にする。
ことは正義は自分にあって相手にはないと思うと威丈高になる。
これはタバコの害の如きでさえ一人では言えないものが、いかに多いかを物語るものである
山本夏彦 ★
30枚のものを10枚に、10枚のものを3枚に削るのが私の仕事だ
★
むしろ短くせよ、一言でいえ
★
イデオロギーの相違は根本的かつ絶対的で、話し合いで解決できるようなものではない。
もし話しあいで理解に達したら、それは理解ではなく屈服したのだ
★
私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。
ただ、正義と良心だけは売り物にしてはいけない
★
アポロは月に着陸したという。勝手に着陸し、次いで他の星にも行くがいい。
神々のすることを人間がすれば、必ずばちが当たるといって分かりたくないものは分かるまい
★
『愛する』という言葉を平気で口に出して言えるのは鈍感だからだ
★
大昔から食いものを捨てる国民、助平の限りを尽くした国民は滅びました。
ギリシャ・ローマの昔から王侯貴族だけが独占できた贅沢です。
それを100年に一回くらいずつ革命を起こし、人類は健康を保ってきたのです。
ところが20世紀末の現在、大衆が食い物を捨て助平の限りを尽くしても倒す人がいなくなった。
まるごと倒れるほかなくなりました
★
身辺清潔の人は、何事もしない人である。できない人である
★
二十七年前(昭和四十年)山口証券が倒産に瀕したとき大蔵省と日銀は山一を助けた。
当時山一はまだ株屋である。世間の評価は高くなかった。株屋を見はなすチャンスだった
★
神は細部にこそやどる
★
一人安全かつ居丈高なのは新聞の正義だけである。けれども、およそ大ぜいが
異口同音に言う正義なら安物で眉ツバにきまっている。
たとえ肉体は売っても、正義を売り物にするなかれ、と古人が言っている
山本夏彦 ★
私はジャーナリズムを嫌悪し、かつ軽蔑しながらなお長年そのなかで衣食してきたものである。
だから、せめて自分でも信じないことは書くなと言いたい
★
大蔵省は銀行が一行つぶれたら恐慌がおこると恐れるが、アメリカでは年中つぶれている。
我が国だって東洋信金は事実上つぶれたが痛くもかいくもなかったではないか
★
銀行は国民の敵ですぞと私は何度も言ったが、実はその背後にいる大蔵省が敵なのである。
不良銀行をつぶしたらそれが波及して優良までつぶれる、つぶれたら大衆の預金はふいになる。
それを守るために銀行を助けるのだと、大蔵省はこの期に及んでもなお預金者に恩を着せるのである
★
齢をとって利口になるのなら歳をとった価値はあるが、白髪は知恵のしるしではない。
それでは若くさえあればいいのかというと、あれは今の老人の0十年前の姿だから同じく何の価値もない
★
日本人とは何か、一口で言ってみる。あれは『ニセ毛唐だ』
★
年寄りの馬鹿ほど馬鹿なものはない
★
人の人生はちょうど50冊の手帳程度のものだ。
高く積めば一メートル。横に広げれば一坪。
そのぐらいの程度である
★
言論の自由は、大勢と同じことを言う自由であり、罵る自由であり、罵らない者を村八分にする自由である。
これが言論の自由なら、これまであったし、これからもあるだろう
★
衣食足ると偽善を欲する
★
人は分かって自分に不都合なことなら、断じて分かろうとしない
★
同類は何百人集まっても一人である
★
嫉妬は正義の仮面をかぶってやってくる
山本夏彦 ★
欲張って損した者を、欲張らない者は笑う資格がある。
笑って、自分の内部にある欲張り根性を封じるのである。
それは、すんでのことで、躍りでて同じことをしようとした根性である
★
才能というものは、のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、〆て十年続けばいいほう
★
あれ、老衰の兆なんですよ。
年をとってから一番避けなくちゃならないのは、人生の師匠になりたがることと説教すること。
年とったからって自動的にひとの師匠になれるなんて、とんでもない誤解ですよ。(意地悪は死なず)
★
先生ぐらい意地悪なものはありませんよ。真面目な先生ほど意地悪だね。
そして意地悪の自覚がないんだから困る。
意地悪っていうものはそもそも自覚を欠くものなんですね、あれ。(意地悪は死なず)
★
理解をさまたげるものの一つに、正義がある。
良いことをしている自覚のある人は、他人もすこしは手伝ってくれてもいいと思いがちである。
だから、手伝えないと言われるとむっとする。むっとしたら、もうあとの言葉は耳にはいらない。
★
そこにないものを見ないと、世の中のことは分らない。
それというのも、ものはそこにあるものより、ないものから成ることが多いからである。(二流の愉しみ)
★
私は、女が女である部分、男たちが追い回して争う部分を見ようとした。
はじめから見たかったが、恐れていた部分である。私はかっと目をみひらき、
重複した襞と、隠湿なその奥をのぞいたが、たちまち顔をそむけた。
男がこんなものを追及するのは、まちがっている。それは美とは無縁なもの、むしろ醜なるものである。
白昼正視にたえるものではない。(日常茶飯事・夢で女に)
★
テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。
私はそれを「茶の間の正義」と呼んでいる。眉ツバものの、うさんくさい正義のことである。
(茶の間の正義・はたして代議士は犬畜生か)
山本夏彦 ★
芸人や文士は、最後の個人だる。かせげばかせぐほどまきあげられる。
彼らは特殊な、個人的な才能で、国は何一つ手助けしない。しようにも出来ない。
それなのに七割を奪って、三割を投げ与える。だから〇〇芸能プロと称する法人を作り、
そのプロから給与を貰ったことにすれば、タレントは法人になり得る。
言うまでもなくそれはトンネル法人、ニセ法人で、彼は彼個人をごまかして、
税の大半をまぬかれるのである。税はまぬかれても、心身の頽廃をまぬかれることはできない。
自分の金を自分で盗むとは、神武以来の椿事である。頽廃の極である。
…中略…こんなにウソで固めた時代は、有史以来なかったのではあるまいか。
ここまで固めてはいけないのではないか。それもこれも、わが税制のゆえである。
これを改めない限り、区々たるモラルを論じてもはじまらない。ろんじてもむなしい。
モラルは税制の結果だとは、すでに言った。個人が法人に変装したのは、国が強いたからである。
私は我が身をかえりみて、わが半身が法人と化しつつあることを認めないわけにはいかない。
もとの個人にしてかえせ、と言いたい。(茶の間の正義・株式会社亡国論)
★
私は「暮らしの手帖」をほめたことがある。
ひと口に雑誌の性格というが、その性格は、誌面にあるものからばかり成っているのではない。
むしろ、ないものから成っている。たとえば、この雑誌には、流行作家の小説がない。
芸能人のスキャンダルがない。政治に関する議論がない。身上相談、性生活の告白のたぐいがない。
さながら、ないないづくしである。けれども、以上は偶然ないのではない。
ほかの雑誌にあるものを、わざと去って、それによって、この雑誌の性格は顕著なのである。
だから、あるものばかりでなく、ないものを見よとほめたのである。(変痴気論・暮らしの手帖)
★
文はうそなり、と私は思っている。
文は人なりという言うが、それは同時にうそなのである。(毒言独語・文はうそである)
★
異端を述べる言論は、二重の構造になっていなければならない。
すなわち、一見世論に従っているように見せて、読み終わると何やら妙で、
あとで「ははあ」と分かる人には分かるように、正体をかくしていなければならない。
いなければ、第一載せてくれない。(毒言独語・文はうそである)
山本夏彦 人の一生 四年 山本夏彦
おいおい泣いているうちに三つの坂を越す。
生意気なことを言っているうちに少年時代はすぎてしまう。
その頃になってあわてだすのが人間の常である。
あわててはたらいている者を笑う者も、自分たちがした事はとうに忘れている。
かれこれしているうちに二十台はすぎてしまう。
少し金でも出来るとしゃれてみたくなる。
その間をノラクラ遊んでくらす者もある。
そんな事をしているうちに子供が出来る。
子供が出来ると、少しは真面目にはたらくようになる。
こうして三十を過ぎ四十五十も過ぎてしまう。
又、その子供が同じことをする。
こうして人の一生は終ってしまうのである。
(「文藝春秋」平成13年6月号。山本氏が10歳の頃に書いた、小学校の作文) 【乞食速報】
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経営者に課せられた第一の責任とは、
現有の資源から最大の経済的効果を挙げることである。
★
天才的なひらめきをあてにするオーナー起業家は、ひらめきのように消えていった。
★
知識労働者の動機づけは、ボランティアの動機づけと同じである。
報酬ではなく仕事そのものから満足を得なければならない。
★
組織にも違いがある。凡庸と一流の違いというよりは、学んでいない組織の違いである。
★
新しいものは常に障害にぶつかる。その時戦う者を必要とする。
成功させると胸を張り、取り組む者を必要とする。
★
教育ある人間は、現在に影響を与えるために、
自らの知識を役立たせる能力をもたなければならない。
★
あらゆる組織が3つの領域における成果を必要とする。
すなわち、直接の成果、価値への取り組み、人材の育成である。
これらすべてにおいて成果をあげなければ、組織は腐りやがて死ぬ。
したがって、この3つの領域における貢献をあらゆる仕事に組み込んでおかなければならない。
★
危険や弱みが機会の存在を教える。それらを機会に転化するとき、異常な成果が得られる。
時には、そのような転化はマネジメントの姿勢だけでもたらされる。
★
自ら未来をつくることにはリスクがともなう。
しかし、自ら未来を創ろうとしないことのほうがリスクは大きい。
★
組織が偉大たりうるのは、トップが偉大だからである。
ピーター・ドラッカー ★
(リーダーを)信頼するということは、リーダーを好きになることではない。
常に同意できることでもない。リーダーの言うことが真意であると確信できることである。
★
マネジメントは、医療が科学でないのと同じ意味において科学ではない。
マネジメントも医療も実践である。
★
知識労働者は生産手段を所有する。
それは頭の中にあり、持ち運びができる膨大な資本財である。
★
重要なことは、わが子をその人の下で働かせたいかと思うかである。
★
イノベーションこそ、マネジメントの中核に位置づけなければならない。
★
仕事のできないことを、設備、資金、人手、時間のせいにしてはならない。
それではすべてを世の中のせいにしてしまう。
よい仕事ができないのをそれらのせいにすれば、あとは堕落への急坂である。
★
イノベーションの真贋は、価値を創造しているかによって判定される。
イノベーションとは、顧客にとっての価値の創造である。新奇さは面白いだけである。
★
実のところ、販売とマーケティングは正反対である。
同じ意味でないことはもちろん、補い合う部分さえない。
★
マネジメントの仕事ぶりとは、主として明日に備えて優れた仕事をすることを意味する。
★
企業とは有機体である。
ピーター・ドラッカー ★
(組織において)重要なことは、人を変えることではない。
人の持つあらゆる強み、活力、意欲を動員し、そうすることによって全体の能力を増大させることである。
★
情報とは組織を一体化させるものであり、
かつ一人ひとりの知識労働者に成果を上げさせるものである。
したがって、組織としても個人としても、いかなる情報を必要とし、
いかにしてそれらを手に入れるかを知らなければならない。
★
妥協には二種類ある。
一つは「半切れのパンでも、ないよりはまし」であり、
もう一つは「半分の赤ん坊は奪われるよりも悪い」である。
★
人々を動機づける能力がなくては、経営者とは言えない。
★
貢献に焦点を合わせることが、仕事の内容、水準、影響力において、
あるいは上司、同僚、部下との関係において、
さらには会議や報告の利用において成果をあげる鍵である。
★
自由とは楽しいものではない。幸福、安心、平和、進歩のいずれでもない。
それは選択の責任である。権利ではなく義務である。
真の自由は何かからの自由ではない。それでは特権にすぎない。
★
成果をあげる人に共通するものは、つまるところ成果をあげる能力だけである。
成果をあげることは一つの習慣である。実践的な能力の集積である。
実践的な能力は習得することができる。
★
働く人たちこそ同僚であり、主たる資源である。
★
知力や想像力や知識は、あくまでも基礎的な資質である。
それらの資質を結果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。
知力や想像力や知識は、限界を設定するだけである。
★
真摯さは修得できない。仕事についたときに持っていなければ、あとで身につけることはできない。
ピーター・ドラッカー ★
マネジメントは神学ではない。実学である。
★
(組織の)成功の鍵は、自分の情報を必要としているのは誰か、それはどのような情報か、
逆に自分は誰の情報を必要としているかを全員が自問することである。
★
イノベーションに優れた組織は、科学的あるいは技術的な重要度によってではなく、
顧客への貢献によってイノベーションを評価する。
★
自らの果たすべき貢献を考えることは、知識の段階から行動の段階への起点となる。
★
(職場では)自らの強み、仕事のやり方、価値観とともに、
ともに働く者全員の強み、仕事のやり方、価値観が重要な意味を持つ。
あらゆる者が個性を持ち、大きな違いを持つ。
★
強みに集中せよとの格言は常に正しい。組織は多角化していないほどマネジメントがしやすい。
★
起業家が金に無頓着ということはあまりない。多くの場合、貪欲である。
そのため利益を重視する。しかし、それはベンチャーとして間違った態度である。
利益は結果としてもたらされるのであって、最初に考えるべきものではない。
★
意思決定とは行動を約束することである。
起こるべきことが起こらなければ、意思決定を行ったことにはならない。
★
想像力や知識は成果の限界を設定するのみで、成果をあげることとは関係がない。
成果をあげるためには、仕事をやり遂げる能力を持つこと。
★
イノベーションに関わる仕事、とくに事業、製品、サービスの開発を目的とする仕事は、
既存事業の現場のマネジメントではなく、イノベーション担当の役員のもとにおかなければならない。
ピーター・ドラッカー ★
いかなる組織といえども、多くの分野において卓越することはできない。
しかし、一つの分野において卓越することはできる。
成功するには、この一つの分野における卓越性に加えて、多くの分野において並以上でなければならない。
★
自らの強みと仕事の仕方が合わないことはあまりない。
両者は相乗的である。ところが、強みと価値観が合わないことは珍しくない。
★
時間を管理するためには、自由になる時間をまとめなければならない。
★
組織に働く者の場合、自らの成長は組織のミッションと関わりがある。
★
運と機会はあらゆる人間活動に影響を与え、事業に影響を与える。
しかし、運だけで事業はつくれない。機会を発見し、それを開拓する企業だけが繁栄し、成長する。
★
自由とは解放ではない。責任である。
楽しいどころか一人ひとりの人間にとって重い負担である。
それは、自らの行為、および社会の行為について、自ら意思決定を行うことである。
そしてそれらの意思決定に責任を負うことである。
★
成果をあげる人の共通点は、行うべきことを行っているだけである。
★
今日では、援助が経済開発をもたらさないことは、十分すぎるほど明かである。
一国の経済を外部から発展させることはできない。なかんずく援助では無理である。
★
行動に出るのもいいし、尻込みして奇跡を願うのもいいだろう。
確かに奇跡はすばらしい。いつ起こるのかはわからないが。
★
能力は、仕事の質を変えるだけでなく人間そのものを変えるがゆえに、重大な意味を持つ。
能力なくしては、優れた仕事はありえず、人としての成長もありえない。
ピーター・ドラッカー ★
このような転換期に生き残るためには変化を待っていてはいけない。
自ら変革の担い手となりなさい。もちろん大きなリスクがある。
でも受身で変化に飲み込まれてしまうより、リスクはずっと小さい。
★
人は、生物的存在として呼吸するための空気を必要とするように、
社会的政治的存在として機能するための社会を必要とする。
しかし社会を必要とするということは、必ずしも社会を手にしていることを意味するわけではない。
★
イノベーションを実現させるためには、
欠けているものは何か、成果を一変させる一歩は何か、
資源の能力を一変させる小さな変化は何かを問わなければならない。
★
時間の使い方を知っている者は、考えることによって成果を上げる。
行動する前に考える。
くり返し起こる問題の処理について、体系的かつ徹底的に考えることに時間を使う。
★
学問的な言い方ではないが、仕事ができる組織は仕事を楽しんでいる。
★
繰り返し起こる混乱は、ずさんさと怠慢の兆候である。
★
成功の展開が機会志向の体質をつくりだす。組織も伸びる。
★
リーダーシップとは、人のビジョンを高め、成果の水準を高め、人格を高めることである。
★
誰かにできることは他の者にもできるというものである。
★
これからは誰もが自らをマネジメントしなければならない。
自らをもっとも貢献できる場所に置き、成長していかねばならない。
ピーター・ドラッカー ★
凡庸な人間に凡庸ならざることをさせることが組織の目的である。
★
生産性は労働者の責任ではなく、経営者の責任だ。
★
知識は本のうちに求めることはできない。本には情報がのっているにすぎない。
知識は情報を特定の仕事の達成に応用する能力だ。それは人間の頭脳や手技からのみ発現する。
★
知識労働とサービス労働は、何を行うか、
どのような技能によって行うかによって生産性が左右される。
★
働く者としての責任とは、成果をあげることに責任を負うだけでなく、
成果をあげるうえで必要なことのすべてを行い、それらの成果に全力を傾けることである。
★
決定は実務レベルに下ろさないかぎり、決定とは言えず良き意図にすぎない。
★
重要なことは、できないことではなく、できることである。
★
いかなる事業であっても、焦点を絞らなければならない。
多角化が成功するのも、情報があるときだけである。
★
客観的な指標によって、三年から五年後に倍の規模に(企業が)成長することが
明らかになったならば、やがて必要となるトップマネジメント・チームの構築が急務である。
★
自己開発とは、スキルを修得するだけでなく、人間として大きくなることである。
ピーター・ドラッカー ★
組織は存在することが目的ではない。種の永続が成功ではない。
組織は社会の機関である。外の環境に対する貢献が目的である。
★
組織に必要とされるものは、
真摯に仕事をする有能なトップマネジメントであって、超人ではない。
今日何人かのスーパーマン的なトップがいるということ自体が、トップマネジメントの危機を表している。
★
組織が存在するのは社会のニーズを満たすため。
組織はあくまで手段である。それら組織の中核がマネジメントだ。
★
小さく始めなければならない。大がかりな万能薬的な取り組みはうまくいかない。
★
私が定量化を行わない最大の理由は、
社会的な事業の中で真に意味のあるものは定量化になじまないからである。
★
成果に向けた一人ひとりの自己啓発こそが、組織として社会ニーズに応え、
個として自己実現するための唯一の方法である。
それこそが、組織の目標と個のニーズを合致させる唯一の方法である。
★
イノベーションの能力とは、一見関係のないものを一つの全体として見る能力である。
★
未来を予測するだけでは問題をまねくだけである。
なすべきことは、すでに起こった未来に取り組み、
あるいは来るべき未来を発生させるべく働くことである。
★
リーダーが公言する信念とその行動は一致しなければならない。
少なくとも矛盾してはならない。
★
そもそも社会的責任のためとして不経済なことをするのは、責任ある行動ではなかった。
たんに情緒的な行動だった。損害を被るだけのことだった。
ピーター・ドラッカー ★
変化をマネジメントする最善の方法は、自ら変化をつくりだすことである。
★
成長するには、ふさわしい組織でふさわしい仕事につかなければならない。
基本は、得るべき所はどこかである。
この問いに答えを出すには、自らがベストを尽くせるのはどのような環境かを知らなければならない。
★
人が抜きん出ることのできるものは一つか、せいぜい二つか三つの分野である。
よく出来るはずのことを見つけ、実際にそれを行わせなければならない。
★
技術の発展はマネジメントの領域を拡大する。
★
問題は、何に貢献したいかと思うことではない。
何に貢献せよと言われたかでもない。何に貢献すべきかである。
★
正しい人事のために4時間をかけなければ、あとで400時間とられる。
★
真摯さはごまかしがきかない。
一緒に働けば、特に、部下にはその者が真摯であるかどうかは数週間でわかる。
★
企業の人たちも、官僚と同じように昨日に愛着を持つ。
★
知識労働者というものは、自らが自らに課す要求に応じて成長する。
★
起業家は変化を当たり前のものとして見る。
自ら変化を起こそうとはしないが、変化を探し、変化を機会として利用しようとする。
それが起業家である。
ピーター・ドラッカー ★
仕事が刺激を与えるのは、成長を期しつつ、自ら興奮と挑戦と変化を生み出すときである。
これが可能となるのは、自らと仕事の双方を新たな次元で見るときである。
★
産業が衰退する最初の兆候は、
能力と意欲のある者に訴える力を持たなくなることである。
★
資金開拓とは、NPOの使命が支持するに値するがゆえに
資金を拠出するという、支持者を獲得する行為である。
資金を拠出することによって活動に参画する仲間を開拓することである。
★
人は優れているほど多くの間違いをおかす。優れているほど新しいことを行うからである。
★
仕事の定義が、もたらすべき成果を明らかにする。
しかし、何を成果とすべきかの答えは複数ありうる。
デパートの場合、買い物一回当たりの売上も正しいし、リピート率も正しい。
★
何をもって(人に)覚えられたいか、五十歳になっても答えられなければ、
人生を無駄に過ごしたことになるよ。
★
知識労働者は、ほとんどが専門家である。
彼らは一つのことをよく行うとき、すなわち専門化したとき大きな成果をあげる。
★
最も簡単にかつ効果的に生産性を向上させる方法は、
1.仕事を定義し直すこと。2.やる必要のない仕事をやめること。
★
企業家として成功した人を大勢知っているが、リスク志向の人はいなかった。
★
企業買収はいかに相乗効果が大きそうに見えようと、
買収される側が買収する側に何を貢献するかではなく、
買収する側が買収される側に何を貢献するかを検討しつくして、はじめて成功する。
ピーター・ドラッカー ★
企業活動の目標は、富の創出能力を最大化することにある。
★
組織より長生きするがゆえに、知識労働者は仕事を変えることができなければならない。
★
企業の目的は顧客の創造である。
★
(IT革命の)鍵はエレクトロニクスではない。認識科学である。
★
生徒に先生役をさせるほどの近道はない。
★
新しい任務を行ううえで必要なことは、卓越した知識と才能ではない。
それは、新しい任務が要求するもの、新しい挑戦、仕事、課題において
致命的に重要なものへの集中である。
★
知識労働者には二つのものが不可欠である。
その一つが、知識労働者としての知識を身につけるための学校教育である。
もう一つが、その知識労働者としての知識を最新に保つための継続教育である。
★
第一に、今日必要な現金がない。
第二に、事業拡大に必要な資金がない。
第三に、支出、在庫、債権を管理できない。
おまけに、これら三つの病は同時に起こる。
★
経営者本来の仕事とは、?経営理念の確立 ?社運を左右する決断 ?
後継者の養成 ?対外関係の調整 である。
★
2.あらゆる製品、サービス、プロセスを組織的かつ継続的に改善していかなければならない。
ピーター・ドラッカー ★
時間は最も貴重な資源である。
有能な経営者とは、時間の有効な使い方を知っている者である。
★
知識労働者の生産物は、それだけでは役に立たない。
それらのものが意味をもつためには、他の知識労働者がインプットとして使い、
何らかのアウトプットを生み出してくれなければならない。
★
データ化できないものを考えなければならない。
★
業績をあげられないのでは、企業は他のいかなる責任も遂行できない。
よき雇用者にも、よき市民にも、よき隣人にもなれない。
★
いつもその仕事の上で、すぐれた成果をおさめることに失敗するような人間、とくに管理者は、
これを容赦なく排除することが経営者の任務である。
★
真摯さはごまかしがきかない。
一緒に働けば、その者が真摯であるかどうかは数週間でわかる。
★
3.成功、特に予期せぬ成功、計画外の成功を追求していかなければならない。
★
4.体系的にイノベーションを行っていかなければならない。
★
仕事の効果をあげる第一条件は、努力の集中である。
優れた経営者は、最も重要な仕事から一つずつ片付ける。
★
事業売却は、販売の問題ではなくマーケティングの問題である。
考えるべきは、何をいくらで売りたいかではなく、
この事業は誰にとっていくらの価値があるかである。
ピーター・ドラッカー ★
ソフトとは仕事の再編である。知識の適用、特に体系的分析による仕事の再編である。
★
強みの上に築け。
★
成果をあげるには手を広げすぎてはならない。一つのことに集中する必要がある。
★
成果をあげる者は、時間が制約要因であることを知っている。
あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは最も欠乏した資源である。
それが時間である。
★
品性より頭脳が大切だと考える人を、経営管理者に任命してはならない。
★
もはや起業家的なイノベーションを
マネジメントの枠外ないしはその辺境に位置づけることは許されない。
★
企業とは何かを決めるのは顧客である。
★
成果をあげるためには、大きな固まりの時間が必要である。
★
学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、
始めから身につけなければならない資質が、一つだけある。
才能ではない。真摯さである。
★
IT革命が行ったことは、昔からあったプロセスのルーティン化だ。
ピーター・ドラッカー ★
(企業にとって)利益は目的ではなく、
社会貢献を続けるための原資。利益とは、企業存続の条件。
★
知識社会とは非階層の社会であって、上司と部下の社会ではない。
★
その人が真摯であるか否かが分かる問い。「その者の下で自分の子供を働かせたいと思うか」
★
大恐慌以来、失業は、現代社会と現在経済に特有の病、かつ最も危険な病とされてきた。
しかし年金社会では、失業の増大に代わって、インフレがその地位に座ったとしてよい。
★
職業選択の用意ができている者は驚くほど少ない。
強みは何か、弱みは何かと聞くと、怪訝な顔をする。
仕事についての知識で答えようとするが、それは間違いである。
履歴書でも、依然として、経験してきた地位を階段のように列挙する。
★
人こそビジネスの源泉。
★
真摯さを定義することは難しい。
しかし真摯さの欠如は、マネジメントの地位にあることを不適とするほどに重大である。
★
事業はすべて、資金の配分と人材の配置によって具体化される。
この二つの資源が、優れた業績をあげるか、貧弱な業績しかあげられないかを左右する。
資金と人材は慎重に投入しなければならない。
★
プロにとっての最大の責任は、2500年前のギリシャの名医、
ヒポクラテスの誓いの中にはっきり示されている。
「知りながら害をなすな」である。
★
ベンチャーが成功するのは、多くの場合、思いもしなかった市場において、
思いもしなかった顧客が、思いもしなかった目的のために買ってくれることによる。
ピーター・ドラッカー ★
万人が生産手段としての知識を手に入れ、
しかも万人が勝てるわけではないがゆえに、成功と失敗の並存する社会となる。
★
個人にとっては、社会的な位置づけと役割がなければ、社会は存在しないも同然である。
★
ネクスト・ソサエティにおける企業の最大の課題は、社会的な正統性の確立、
すなわち価値、使命、ビジョンの確立である。他の機能はすべてアウトソーシングできる。
★
経済発展は、社会的目的の達成を約束するかぎりにおいてのみ望ましい。
★
「何によって憶えられたいか」──これは、自らの成長を促す問いである。
★
経済的な不安ではなく、心理的な不安が社会を不安定化する。
恐怖をもたらす。しかも、その恐怖は未知にして予測不能なものであるがゆえに、
生贄と罪人を求める。
★
何らかの販売は必要である。だが、マーケティングの理想は販売を不要にすることである。
★
責任に焦点を合わせるとき、人は自らについてより大きな見方をするようになる。
★
最初の仕事はくじ引きである。最初から適した仕事につく確率は高くない。
★
体重を五ポンド減らすほうが、体重を五ポンド増やさないようにするよりもはるかに難しい。
コスト管理についても同じことがいえる。
ピーター・ドラッカー ★
能力は、仕事の質を変えるだけでなく人間そのものを変えるがゆえに、重大な意味を持つ。
★
NPOは、単にサービスをしているのではない。人を変えようとする。
そのためにサービスをする。与えるのではなく、一体化しようとする。
★
あらゆるニッチ戦略に共通する弱点が永続性の欠如である。
★
これからはマネジメントの階層が急減する。
その代わりに、情報を中継すべく残された者は、きわめて有能でなければならなくなる。
★
マネジメントとは、仕事の絆で結ばれたコミュニティとしての組織において機能すべきものである。
★
マネジメントとは多様なニーズと目標をバランスさせることである。
利益だけを強調することは、企業の存続を危うくするところまでマネジメントを導く。
★
組織に、社会・経済・コミュニティ・一人ひとりのための
成果をあげさせることが、マネジメントの役割である。
★
「われわれの事業は何か」を問うことがマネジメントの責任だ。
★
大切なのは肩書きではなく責任である。
責任をもつということは、仕事に相応しく
成長したいといえるところまで真剣に仕事に取り組むことである。
責任に焦点を合わせるとき、人は自らについてより大きな見方をするようになる。
★
知識労働者には特有の問題がある。若くしてやる気を失うことがある。
四十代での燃えつき現象は、仕事のストレスによるものではない。仕事への飽きから来る。
ピーター・ドラッカー ★
(企業や事業の)予期せぬ失敗は、顧客の認識や価値観の変化を示す。
★
知識に関わる者は、高度の倫理基準を求められる。
★
成果をあげるには、自らの果たすべき貢献を考えなければならない。
手元の仕事から顔を上げ目標に目を向ける。
組織の成果に影響を与える貢献は何かを問う。そして責任を中心に据える。
★
(企業や事業の)予期せぬ成功や予期せぬ失敗は、
消費者側の認識の変化によるものであることが多い。
認識の変化が生じても、事実は変わらない。起こるのは意味の変化である。
★
事業の定義は(絶えず)検証していかなければならない。
(事業の定義は)石版の碑文ではない。仮説である。
★
組織の目的は、人と社会に対する貢献である。
★
組織の精神とは、訓戒、説教、善意ではない。実践である。
★
リーダーは仕事に目を向ける。重要なのは仕事であって、自らはその道具に過ぎない。
★
やがて妥協が必要になるからこそ、何が受け入れられやすいかではなく、
何が正しいかを考えなければならない。そもそも、何が正しいかを知らずして、
正しい妥協と間違った妥協を見分けることはできない。
★
知識労働者は生計の資だけの仕事では満足できない。
彼らの意欲と自負は、知識人としての専門家のものである。
彼らは、知識をもって何事かを成し遂げることを欲する。
したがって知識労働者には挑戦の機会を与えることが不可欠である。
ピーター・ドラッカー ★
あらゆる知識労働者に、三つのことを聞かなければならない。
1.強みは何か、どのような強みを発揮してくれるかである。
2.何を期待してよいか、いつまでに結果を出してくれるかである。
3.そのためにはどのような情報が必要か、どのような情報を出してくれるかである。
★
知識労働者は自らをマネジメントしなければならない。
自らの仕事を業績や貢献に結びつけるべく、
すなわち成果をあげるべく自らをマネジメントしなければならない。
★
問題解決を図るよりも、新しい機会に着目して創造せよ。
★
やたらに危機感を煽ったり、人を無理矢理、牛馬のように駆り立てるマネジメント方式ではだめだ。
★
会議を成果あるものにするには、会議の冒頭に、
会議の目的と果たすべき貢献を明らかにしなければならない。
そして会議をその目的に沿って進めなければならない。
特定の目的のある会議を、だれもが勝手に素晴らしいアイデアを
言い合う自由討議の場としてはならない。
★
革新とは、単なる方法ではなくて、新しい世界観を意味する。
★
忙しい人達が、やめても問題ないことをいかに多くしているかは驚くほどである。
なすべきことは、自分自身、自らの組織、他の組織に
何ら貢献しない仕事に対しては、ノーと言うことである。
★
たいていの経営者は、その時間の大半を「昨日」の諸問題に費やしている。
★
成功した企業は、きまって誰かがかつて勇気ある決断をした。
★
組織にとっては、リーダーを育てることのほうが、
製品を効率よく低コストで生産することよりも重要である。
ピーター・ドラッカー ★
人材は、企業規模とは無関係である。
★
階層をなす組織の危険は、上司の言うことを部下がそのまま実行することだ。
★
企業の目的と使命を定義するとき、出発点は一つしかない。顧客である。
★
昨日を捨てよ。自分が得意だと思っていることに溺れるな。
物事の本質を鋭く透察する心を持て。
★
学校は長くいればいるほど、自分で意志決定を行う機会が少なくなる。
★
これまでの実績など捨てなさい。自分の強みを過信した者は、生き残れません。
★
リーダーは尊敬されるが、必ずしも好かれるとは限らない。
★
選択肢を前にした若者が答えるべき問題は、
正確には、何をしたらよいかではなく、自分を使って何をしたいかである。
★
現実が主人である。
カリスマの公約、プログラム、思想に対し現実のほうが膝を屈することはない。
★
経営者と知識労働者にとっての唯一のツールは情報である。
ピーター・ドラッカー ★
意思決定における第一の原則は、意見の対立を見ないときには決定を行わないことである。
★
経営者が第1になすべき、また絶えず行うべき職責は、
現存の資源を用いて最高の成果をあげることである。
★
企業は何よりも「アイデア」であり、
アイデアを生むことができるのは個々の人間だけである。
★
人を見分ける力に自信のある人ほど間違った人事を行う。
人を見分けるなどは、限りある身の人間に与えられた力ではない。
★
間違った問題定期への正しい答えほど始末に負えないものはない。
★
決断の場面にあっては、トップはつねに孤独である。
★
明日は必ず来る。そして、明日は今日とは違う。
★
管理者は、高潔な品性をもってこそ、指導力を発揮し、多くの人の規範となりうる。
★
今日、完全な青写真を提示している者は、
何が本当の問題かを知らないことを暗に白状しているにすぎない。
★
顧客にとっての価値を想像してはならない。直に聞かなければならない。
ピーター・ドラッカー ★
自らの貢献に責任を持つ者は、
その狭い専門分野を真の全体に関係づけることができる。
★
複雑なものはうまくいかない。
★
人間にとって成長ないし発展とは、
何に対して貢献すべきかを自らが決定できるようになることである。
★
未来を語る前に、今の現実を知らなければならない。
現実からしかスタートできないからである。
★
マネジメントと呼ばれるものの大部分は、働く人たちにとって面倒なものである。
★
マネジメントとは物事を正しく行うことであり、
リーダーシップとは正しい事を行うことである。
★
世の中の認識が、「コップに水が半分入っている」から「半分空である」に変わるとき、
イノベーションの機会が生まれる。
★
コミットメント(責務)なしでは、単に約束と希望があるだけで、そこに計画はない。
★
元々しなくても良いものを効率よく行うことほど無駄なことはない。
★
効率とは物事を正しく行うことであり、効果とは正しい事を行うことである。
ピーター・ドラッカー ★
変化はコントロールできない。できることは、その先頭に立つことだけである。
★
人に教えることほど、勉強になることはない。
★
ビジネスには二つの機能しかない。マーケティングとイノベーションである。
★
マーケティングの目的とは、顧客を理解し、
製品とサービスを顧客に合わせ、おのずから売れるようにすることである。
★
生産性の本質を測る真の基準は量ではなくて、質である。
★
コミュニケーションで最も大切なことは、
相手の言わない本音の部分を聞くことである。
★
働く人たちの姿勢は、何にもまして経営管理者の行動を反映する。
彼らの姿勢は、経営管理者の能力と構造を映す。
★
時間は最も乏しい資源であり、それが管理できなければ他の何事も管理することはできない。
★
計画とは未来に関する現在の決定である。
★
将来についてわかっている唯一のことは、今とは違うということだ。
ピーター・ドラッカー ★
リスクには2種類ある。
踏むには危険が大きすぎるリスク。それと逃すにはあまりにも惜しいリスクだ。
★
経験をつんだ後のほうが勉強できる科目は多い。
マネジメントがその一つである。
しかも一般的にいって、重要な科目ほど経験をつんだ後のほうが学びやすい。
★
あらゆる者が、強みによって報酬を手にする。弱みによってではない。
したがって、常に最初に問うべきは、「われわれの強みは何か」である。
★
必要条件を簡潔かつ明確にするほど、決定による成果はあがり、
達成しようとするものを達成する可能性が高まる。
逆に、いかに優れた決定に見えようとも、必要条件の理解に不備があれば、
成果をあげられないことが確実である。
★
「責任」は同時に「権限」を意味する。一方があって他方がないということはありえない。
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ビジネスの目的の正しい定義はただひとつ。顧客を作り出すことである。
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コミュニケーションで一番大切なことは、
相手が口にしていないコトバを聞き分ける力である。
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最も重要なことから始めよ。
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傲ってはいけません。企業は、社会に存在させていただいているものなのです。
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日常化した毎日が心地よくなったときこそ、
違ったことを行うよう自らを駆り立てる必要がある。
ピーター・ドラッカー ★
優れた者をさらに優秀にするより、
無能を凡人にする方がはるかに大きなエネルギーが必要だ。
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定年の必要は実際のところ、年老いたということではない。
おもな理由は、若者たちに道をあけなければならないということにある。
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手っ取り早く、効果的に生産性を向上させる方法は、
何を行うべきかを明らかにすることである。
そして、行う必要のない仕事をやめることである。
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誰かが勇気ある決断をしなければ、どんな事業も成功しないだろう。
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我々が行動可能なのは現在であり、また未来のみである。
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働く者が満足しても、仕事が生産的に行われなければ失敗である。
逆に、仕事が生産的に行われても、人がいきいきと働けなければ失敗である。
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自分はここで何を貢献できるかを考えよ。
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世界一になりなさい。さもなければ撤退しなさい。
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チャンスとは、ひとつのことに一心に集中することによって、
かろうじて見つけることができるものである。
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重要なことは「明日なにをするか」ではない。
不確実な明日のために「今日なにをするか」である。
ピーター・ドラッカー ★
経営トップの一番大事なことは何か、それは品性だ。
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もし私が会社の社長だったら、一番恐れることは、
大会社とその経営者が自分では露ほども不法なことをしていると考えず、
道徳観念がルーズで無神経に行動することである。
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市場に関する報告書など信頼してはいけない。マーケットはトップ自身の目と足で確かめよ。
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企業にとって何よりも大事なのは、新しい生きたアイデアをどう生むかだ。
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イノベーションの戦略の一歩は、
古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てることである。
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経営者に必要なのはキャラクターの高潔性だ。
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反対論がない場合には結論を出してはならない。
勇気と勉強に不足があれば反対論は出ない。
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多くの人が、話上手だから人との関係は得意だと思っている。
対人関係のポイントが聞く力にあることを知らない。
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部下の弱みに目を向ける事は、間違っているばかりか無責任である。
上司は、部下一人ひとりの強みを可能なかぎり生かす責任がある。
そして、部下に対して彼らの強みを最大限に生かす責任がある。
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優れた者ほど間違いは多い。それだけ新しいことを試みるからである。
一度も間違いをしたことのない者、それも大きな間違いを
したことのない者をトップレベルの地位に就かせてはならない。
間違いをしたことのない者は凡庸である。
そのうえ、いかにして間違いを発見し、いかにしてそれを早く直すかを知らない。
ピーター・ドラッカー ★
何も行動しないということは、いかなる行動にも劣らない立派な意思決定である。
問題に対しては、つねに行動をとらなければならないという考えそのものが、迷信にすぎない。
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成果をあげる人とあげない人の差は才能ではない。
いくつかの習慣的な姿勢と、基礎的な方法を身につけているかどうかの問題である。
しかし、組織というものが最近の発明であるために、
人はまだこれらのことに優れるに至っていない。
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企業経営のエッセンスは、何かに「卓越」することと、「決断」することである。
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決定のためには、いろいろな案がなくてはならない。
可・否の二案だけでは不足であり、決定しない、という決定もある。
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仕事を生産的なものにするには、
成果すなわち仕事のアウトプットを中心に考えなければならない。
技能、情報、知識は道具にすぎない。
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未来を予測する最良の方法は、未来を創ることだ。
未来を予測しようとすると罠にはまる。
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できることから始めるのではなく、正しいことから始めるのです。
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自らに対し、少ししか要求しなければ、成長はしない。
極めて多くを要求すれば、何も達成しない人間と同じ程度の努力で、巨人にまで成長する。
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エコノミストは数字を見る。私は人を見る。人と社会、その価値観の動きを観察する。
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重要なことは、未来において何が起こるかではない。
いかなる未来を今日の思考と行動に織り込むか、どこまで先を見るか、
それらのことをいかに今日の意思決定に反映させるかである。
ピーター・ドラッカー ★
今を生きるということは、明日を今に巻き込み引き寄せることだ。
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当時のIBMは大恐慌でも社員を解雇せず、
社員の訓練に注力する異色の存在だった。
これによって倒産せずにすんだのである。
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会社よりも家庭が大切である。
しかし会社を休むことだけが家庭を大切にすることではない。
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金銭的報酬についての不満は勤労意欲を低下させる。
しかしその満足は必ずしも勤労意欲を鼓舞しない。
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間違いや失敗をしたことのない者だけは信用してはならない。
そのような者は、無難なこと、安全なこと、つまらないことにしか手をつけない。
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どんなに苦しくとも遵守しなければいけない原則が一つある。
資源配分、特に高い能力を有する人的資源の配分においては、
最も有望な分野のニーズを最大限にまず満たさなければならないということだ。
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自らの強みを知り、それをいかに強化するかを知り、
かつ自らのできないことを知ることが継続学習の鍵である。
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「できないこと」ではなく、「できること」に注目せよ。
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問題が起こったとき手を貸せないのであれば、意思決定に関与してはならない。
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すべての人々が年中会議をしているような組織体は、
誰も何事も達成できない組織だといわねばならない。
会議は原則であるよりは、むしろ例外でなければならない。
ピーター・ドラッカー ★
各責任領域に関して「どんなことが起きそうか」「実際に起きたか」
「なぜ起きたか」「見込みと相違」「次に何が起きると予期しているか」
「それに対してどうしようと考えているのか」「長期的な目で見た機会と脅威は何か」
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組織の中心的存在は、頭脳を用いて仕事をする知的労働者である。
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「体質」「組織風土」とは、
「仕組み」「判断の傾向」「ナレッジ」と言い換えることができる。
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労力を節約する機械や装置は掃いて捨てるほどあるが、
「思考を節約する装置」「仕事を節約する装置」は、いまだ誰も発明していない。
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優先順位を決めるうえで大切なことは、分析ではなく勇気だ。
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ヒットラーかゲッペルスのどちらかは演説で
「われわれはパンの値段の引き上げも引き下げも固定化も求めていない。 ナチスによる値段を求めている」
と叫び、農民の喝采を浴びた。これはファシズムの本質を的確に示していた。
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人はコストではなく資源である。
共有する目的に向けて共に働くとき、大きな成果が得られる。
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不振に陥った企業は、問題点に注目するのではなく、成功例に注目する姿勢を取り戻すことが必要だ。
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「知りながら害をなすな」との言葉こそ、
プロとしての倫理の基本であり、社会的責任の基本である。
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一度で成功できなかったら、もう一度だけやり直すことだ。
ピーター・ドラッカー ★
成功は常に、その成功をもたらした行動を陳腐化する。
新しい現実をつくりだす。新しい問題をつくりだす。
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生産性とは機械や道具や手法の問題ではなく、姿勢の問題である。
換言するならば、生産性を決定するものは、働く人たちの動機である。
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経営管理の96%は、ルーティーン的な定例反復業務であることを決して忘れてはならない。
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品質が価値だという。だが、この答えはほとんど間違いである。
顧客は製品を買っているのではない。
買っているのは、欲求の充足である。彼らにとっての価値である。
何を価値とするかは、顧客だけが答えられる複雑な問題である。
推察してはならない。顧客のところへ出かけて行き、聞かなければならない。
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専門化した知識は、それ単独では何も生み出さない。
仕事に使われて、はじめて生産的な存在となる。
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なすべきことは、自分自身、みずからの組織、他の組織に
何ら貢献しない仕事に対しては、ノーと言うことである。
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忙しい人たちが、やめても問題のないことをいかに多くしているかは驚くほどである。
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知識労働者は単なる従業員ではなく、むしろボランティアとして取り扱わねばならない。
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直感に頼ることなく、明確でシンプルな事業の定義をもつことが、
成功する事業の特徴である。
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成長に必要なものは責任である。あらゆるものがそこから始まる。
ピーター・ドラッカー ★
仕事ができる人は、仕事を楽しむ。
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経営者の仕事から最終的に生まれるのは、
知識と洞察ではなく、「意思決定」と「実行」である。
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リーダーは、専門家をファシリテートするだけではなく、
複数の異なる知識分野を統合する。
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知識が技能をなくすことはない。逆に知識は技能の基盤となりつつある。
高度の技能を身につけるには、ますます多くの知識が必要となっている。
しかも、知識は技能の基盤として使うとき、はじめて生産的となる。
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すぐれた医者は、正しい診断を最も多く下す人ではなく、
誤った診断をすばやく見つけ、それを直ちに改めることのできる人である。
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自己管理によるマネジメントは、人間が責任、貢献、成果を欲する存在であることを前提とする。
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目標を設定することによって初めて、事業は晴雨、風向き、事故に
翻弄されることなく、達すべきところに達することができる。
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リスクなき構想は必ず失敗する。成功の可能性は必要だが、等しく失敗の可能性も必要なのだ。
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価値観に反する仕事は人を堕落させる。強みすら台無しにする。
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利潤は事業の妥当性をはかる物指しである。
ピーター・ドラッカー ★
世界中の人々が新たなコミュニティを求めて集まってきますが、
それは地理的なコミュニティではなく、機能的なコミュニティです。
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より大きな悪を防ぐために悪を利用しようとするとき、人は悪の道具とされる。
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組織において、力強くはあっても腐ったエグゼクティブほど、ほかの者を腐らせる者はいない。
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昨日を守ること、すなわちイノベーションを行わないことのほうが、
明日をつくることよりも大きなリスクを伴う。
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指揮者は、一人の人間を受け入れるために、楽譜を書き直したりはしない。
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組織は人間から成るものであるがゆえに、完全を期すことは不可能である。
したがって、完全ならざるものを機能させることが必要となる。
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生産性を向上させるには、その職種で上級幹部になれるというところに委託すべきである。
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経済的な業績こそ、企業の第一の責任である。
少なくとも資本のコストに見合うだけの利益をあげていない企業は、社会的に無責任である。
社会の資源を浪費しているにすぎない。
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経済的な目的は、企業が社会的責任を免除されるべきことを意味しない。
逆に、企業にとっての利益の追求が、自動的に社会的責任の遂行を意味しなければならない。
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成果とはつねに成功することではない。そこには、間違いや失敗を許す余地がなければならない。
ピーター・ドラッカー ★
急激かつ予測不能な変化の時代にあっては、
基本的なトレンドにのった戦略をもってしても、成功が保証されるわけではない。
しかし、それなくしては失敗が確実である。
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真のマーケティングは、顧客から出発する。すなわち人間、現実、欲求、価値から出発する。
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一つの成果をうるためには数千のアイデアを育てなければならない。
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企業の精神は、どのような人たちを高い地位につけるかによって決まる。
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部下の成長は、育成した者にとって昇進に値する貢献としなければならない。
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力を集中するための第一の法則は、もはや生産的でなくなった過去のものを捨てることである。
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忠誠心を買うことはできない。獲得すべきものである。
金の力で引き留めようとすれば、引き留められた者が
誘惑に対する自分の弱さを会社のせいにするだけである。
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(組織の)内を見るよりも外を見るほうが易しい。しかもそのほうが賢い。
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できない子は、生まれつきではなく、できる子であるわけがないという決めつけから作られる。
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企業の目的は何か?利益は、目的ではなく手段である。
企業とは社会のための道具であり、社会のための組織である。
ピーター・ドラッカー ★
後継者を自分一人で選んではならない。どうしても20年前の自分に似た者を選びたくなる。
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問題の分析によって解決案が一つしか見つからなければ、
その解決案は、先入観に理屈をつけたにすぎないものと疑うべきである。
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我々に足りないものは何か。それはアイデアではない。
使えそうな優れたアイデアでさえ、掃いて棄てるほどある。
我々に欠けているのは、アイデアを積極的に歓迎するマネジメント体制である。
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目指すべきは、組織に働く全員を責任ある存在にすることである。
問うべきは「いかなる資格があるか」ではない。「いかなる責任があるか」である。
全員を「ボス」にすることではない。全員を「貢献者」にすることである。
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自らの製品、サービス、プロセスを自ら陳腐化させることが、
誰かに陳腐化させられることを防ぐ唯一の方法である。
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事業の存続と繁栄にとって、最小限の利益が必要とされるという意味において、
利益は「最大」という概念よりはむしろ「最小」という概念に結びついている。
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四十年前には広く受け入れられていた「組織人間」の概念ほど短期間で覆されたものはない。
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リスクという言葉は、語源的には「今日の糧をかせぐ」という意味のアラビア語である。
経営者にとって「危険を冒す」ことと「今日の糧をかせぐ」ことは同じ意味である。
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どんな愚かな人でも予算を守ることができる。
しかし、守るだけの価値ある予算をたてられる人はめったにない。
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「正しい答えは何か」ではなく、「正しい問いは何か」を求めなければならない。
ピーター・ドラッカー ★
組織と働き手との関係の希薄化は、きわめて危険である。
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成果の90%は上位10%の事象によって生み出されるが、
コストの90%は成果をもたらさない残り90%の事象が原因で発生する。
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企業および企業文明の目的は、優れた人間を作ることである。
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自らの成長のために最も優先すべきは、卓越性の追求である。そこから充実と自信が生まれる。
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情勢の変化に適応するだけでなく、情勢の変化を作り出すことが必要である。
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真の資本は知識である。
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効果的な経営者は、次のように自らに問うのである。
「自分の属している組織の業績や成果を大きく向上させるためには、私に貢献できることは何か」と。
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誰の指揮下にもなく、誰をも指揮しないという状況、
つまり指揮権というもののない状況下で、どう管理していくかを学ぶ必要がある。
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仕事を失うことが人を傷つけるのは、金銭ではなく誇りのためである。
仕事とは、人格の延長である。
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目標は絶対のものではなく、方向を示すものである。
命令されるものではなく、自ら設定するものである。
未来を決めるものではなく、未来をつくるために資源とエネルギーを動員するためのものである。
ピーター・ドラッカー ★
10年以内に規模を倍にできないのであれば、
資金、人、資源の生産性を倍にする目標を掲げなければならない。
生産性の向上はつねに現実的な目標であり、つねに実現可能な目標である。
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専門性の進化と、異分野との接触のバランスを実現しなければならない。
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顧客は特定の商品を買うのではなく、特定のニーズの充足を買う。
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イノベーションを行うのは人である。人は組織のなかで動く。
したがってイノベーションを行うには、
そこに働く人間一人ひとりがいつでも起業家になれる構造が必要である。
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政府、大学、ビジネス、労組、教会のリーダーたる者が
意思決定の前提とすべきものが、「すでに起こった未来」である。
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まだ行っていなかったとして、今これを始めるか?
★
あらゆる生産手段のうち、人的資源ほど効率の悪いものはない。
この人的資源の活用に成功したわずかな企業が、生産性と産出量の飛躍的な向上を実現する。
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リーダー的存在であるためには、
公共の利益が自らの利益を決定するといえなければならない。
この確信だけが、リーダーとしての唯一の正統性の根拠である。
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組織は、自らのために存在するのではない。
組織は手段である。それぞれが、それぞれの社会的な課題を担う社会のための機関である。
ピーター・ドラッカー ★
つまるところ、成果を生むために既存の知識を
いかに適用するかを知るための知識がマネジメントである。
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五十年も働くことが当たり前になったからには、自らを再生することが不可欠となる。
たんに活力を得ることを超え、新しい自分をつくらなければならない。
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仕事ができる者は、多くのことで成果をあげなければならないことを知っている。
だからこそ集中する。
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重要なことは「すでに起こった未来」を確認することである。
★
イエズス会の司祭とカルヴァン派の牧師は、
重要なことを行うときには期待する成果を書きとめておくことになっていた。
そして九ヵ月後、実際の成果と比べなければならなかった。
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リーダーシップの本質は
1.リーダーシップを仕事とみること。
2.リーダーシップを責任と考えること。
3.信頼が得られること。
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起業家精神とは体系的な作業であり、イノベーションとは技術よりも経済に関わることである。
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私は、仕事を楽しんでいない組織のコンサルティングを引き受けない。
仕事が好きで、かつ楽観的であれば、それだけで組織の空気は違ってくる。
ピーター・ドラッカー ★
知識ではなく叡智に、力ではなく自己規律に、成功ではなく卓越性に焦点を合わせる。
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知識にあふれた人たちは管理できないという発想から始めるのがよいかもしれません。
彼らの生産性を上げることに力を貸すこと以外には、何もできないのですから。
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イノベーションとは物事を新しい方法で行うことによって
資源のもつ富の創出能力を増大させることである。
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毛沢東が行ったよいことの一つが、読み書きのできない人を大幅に減らしたことである。
まことに古い方法で問題を解決した。字を読めるようになった子供に先生役をさせた。
生徒に先生役をさせるほどの近道はない。
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企業の目的として有効な定義は唯一つである。顧客の創造である。
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エコノミストは長期と短期は容易に両立するという。
実際にマネジメントを行っているものは、そう簡単でないことを知っている。
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目的と使命に取り組むうえで答えるべき究極の問いは、顧客にとっての価値は何かである。
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真の全体を創造するには、全体としての成果と、
それらの成果を実現するための多様な活動との双方をを見なければならない。
ピーター・ドラッカー ★
マネジメント・サイエンス(経営科学)は、一つの前提を持たなければ鳴らない。
企業とは有機体であるとの前提である。
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変化は組織の外で起こる。
★
顧客は誰かという問いこそ、企業の目的と使命を定義するうえで、
最初に考えるべき最も重要な問いである。
★
コミュニティと家族は安定のためのものである。
安定を求め、変化を阻止し、あるいは変化を減速しようとする。
しかしわれわれは、人の手によるあらゆるものが歳をとり、硬直化し、
陳腐化し、苦しみに変わることを知っている。
★
日本の成功は、マネジメントが原動力であり、経済発展はその結果であることを示した。
★
ニーズを書き出すだけではニーズを満たしたことにはならない。
しかしニーズを書き出して、はじめて望む成果を得るための必要な条件を知ることができる。
★
知識労働者は、ほとんどが専門家である。
彼らは一つのことをよく行うとき、すなわち専門化したとき大きな成果をあげる。
しかし専門知識はそれだけでは断片にすぎず不毛である。
専門家のアウトプットは、他の専門家のアウトプットと統合されて成果となる。
ピーター・ドラッカー