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福田恒存の名言【読売文学賞・芸術選奨・芸術院会員
0001名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 10:54:54.44ID:6afvVRGw
福田 恆存(ふくだ つねあり)。生没年1912-1994。
文壇では相当冷遇されたまま亡くなったらしいが、
この人の文章のいくつかは、後世に残す価値があるように勝手に感じたので、スレを立てた。

なお、以下のレスの大半は、福田氏の死後にまとめられた、
文春文庫の『日本への遺言 福田恒存語録』(題名が説教臭いな)よりの引用となる。
0002名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:01:49.90ID:6afvVRGw
★自由について
自由ということ、そのことにまちがいがあるのではないか。
自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。私はそう考える。

自由によって、ひとはけっして幸福になりえない。自由というようなものが、
ひとたび人の心を領するようになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。
方向は二つある。内に向うものと、外に向うものと。
自由を内に求めれば、かれは孤独になる。
それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。
だから奴隷の思想だというのだ。奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、
つねにその二つのうち、いずれかの道を選ぶ。
0003名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:02:04.91ID:6afvVRGw
★正義論について
他人にたいする寛容というのは現代的な美徳であるが、
昔は独りを慎む礼儀というものがあって、それは主張や表現を
事とする文章の世界をも支配していた。たとえばエロティックな事柄を
口にする場合、「デカメロン」でも「アラビアン・ナイト」でも、
ユーモアやレトリックなしではすまされなかったのである。
0004名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:02:20.23ID:6afvVRGw
★民主主義の心理について
民主主義政治の原理は、自分が独裁者になりたくないという心理に
基づいているのではなく、他人を独裁者にしたくないという心理に
基づいているのである。一口に言えば、その根本には
他人に対する軽蔑と不信と警戒心とがある。
0005名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:02:51.47ID:6afvVRGw
★革命について
ひとびとが考えるように、私はかならずしも反革命の徒ではない――ただ悪から逃れ、
悪を否定しようとする安易な考えから革命に期待をかける善意の破壊主義者に、
いささかの共感をも持たぬまでである。革命もまた悪の力から生まれ、悪を生む。
既存の制度の悪にたえきれぬ人種のうちから、革命の悪にたえうる革命家が
生れることを、私は期待できない。
0006名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:03:49.47ID:6afvVRGw
★民主主義過信について
民主主義とは為政者の側が最も大事なことを隠すために、
つまらぬことを隠さぬようにする政治制度である。
0007名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:04:05.52ID:6afvVRGw
★民主主義過信について2
私は民主主義を否定しているのではない。民主主義だけでは駄目だと言っているのである。
今日、私たちの政治体制として民主主義以外のものは考えられない。
とすれば、政治や政治理念だけで、今日の政治的混乱を処理することは不可能だということになる。
恐ろしいのは利己心と怠惰と破壊と、そしてそれらを動機付けし理由付けする観念の横行である。
考えるとは今ではそういう観念を巧みに操ることを意味するようになってしまった。
そういう世の中で本当に物を考え、物を育てていくことがどんなに難しいことか。
0008名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:04:25.85ID:6afvVRGw
★民主主義について
民主主義においては、ウォータゲイト事件などその恰好の一例だが、
人々は悪の摘発に熱中するが、善の推進にはそれほどの情熱をもたない。
また「弱者」や「無能者」の救済には力を入れるが、「強者」や「有能者」に対しては、
その瑕きんすら許そうとせず、彼等の手脚を縛って、もっぱら引きずり降ろし策に腐心する。
他人が自分の頭を土足にかけはせぬかという警戒心のみが発達し、
そこから生れた規則や制度が個人の情熱や人類の生命力を抑圧する。

いや、事実はその逆かもしれない。人類が生命力を失ってゆく過程に
適応した政治思想が民主主義だと考えるべきであろう。
したがって致命的な事には、それからは「待った」の声はかかっても、
「それ、行け」の声は期待できない消極的概念なのである。
0009名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:04:40.37ID:6afvVRGw
★観念語について
最も不愉快なことは、人々は表に「マス・コミ」の「害」を論じながら、
裏ではそれを除去しようという努力をほとんどしていないことだ。
それが言いすぎなら、「害」を除去するための具体的な行動より、
それを指摘したり分析したりする抽象的な操作の方を、興がっているということだ。
(後略)
0010名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:05:11.46ID:6afvVRGw
★新聞週間について
新聞をたたえる標語を新聞に載せても、そこには新聞をつくる自分たちを
たたえさせたという罪の意識は出てこないのである。ここでも、新聞は神になる。
0011名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:06:17.19ID:6afvVRGw
★急進主義と漸進主義について
漸進主義という言葉と急進主義という言葉について、人々はその両者の違いが
それぞれの手段にあると考えやすい。あるいは単に速度の相違にあると考えやすい。
が、そうではない。急進主義は進歩を社会改善の唯一最高の手段と見なす考え方であり、
それにたいして漸進主義はそれをいくつかの手段の一つとしか見ない考え方である。

したがって、両者は程度の差ではなく、進歩にたいする本質的な考え方の相違なのだ。
言うまでもないが、進歩主義はその発生において、また日本における在り方において、
急進主義たらざるをえぬ宿命をもっている。
0012名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:06:41.44ID:6afvVRGw
★個性教育について
現在、教育界で「個性」と呼んでいるものは、むしろ「適性」あるいは「機能」と
いいかえるべきです。アメリカの教育において重視されている「適性検査」も、
つまりは「機能」の見わけであって、個性とはなんの関係もない。
(後略)
0013名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:06:56.77ID:6afvVRGw
★小心について
酒を飲まず、花を愛することと汚職とは両立しうる。
村の働き者と戦争における残虐行為とは両立しうる。
「汝の敵を愛せよ」という教えと宗教裁判とは両立しうる。
要するに、あらゆる善とあらゆる悪とは両立しうる。

悪や罪などというものは、私たちがそう思っているほど、善良な市民生活から
遠いところにあるものではない。ただ、私たちがそのわなに陥らないのは
「小心」のためであり、機会がないためなのである。
格別道義心に富んでいるためではない。
見つからなければ、「きせる」くらいは誰でもやりかねない。
0014名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:07:24.35ID:6afvVRGw
★代議士について
乱暴なことを言うようだが、何年目かに与えられる、それもただの一票で、
全社会人中最も低劣だといわれる陣笠代議士を選ぶという、わずかそれだけの
権利を与えられただけで、主権在民も何もあったものではあるまい。
もしその気になっている人がいたら、やはり何かにだまされているのである。
0015名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:07:59.87ID:6afvVRGw
★「象徴」天皇について
「象徴」という言葉はいけない。憲法に用いるべき言葉ではない。
旧憲法でも神という言葉は用いず、はっきり、「元首」としている。
「象徴」よりは「元首」の方がよいに決まっている。「元首」というのは
政治上の性格、機能を表すものだ。国政上の一つの機関、一つの位置を表すものだ。
0016名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:08:18.52ID:6afvVRGw
★レトリックについて
現代の日本ではレトリックを言葉のごまかしと解し、これを退ける傾向が一般である。
近代日本文学ももっぱらその方向を辿って来た。が、レトリック無しに言葉の芸術としての
文学は成立たない。さらに言えば、それでは言語生活そのものも成立たない。

レトリックとは言葉による建築術なのであって、たとえばnatureのように
日常生活での次元では一般に一つ乃至は二つの意味にしか使われていない語を、
何回何十回と繰返し使ってゆくうちに、その求心力と遠心力とを
相互に対立させながら強めることなのである。

そうすることによって、読者、あるいは観客は、それまで自分のうちにあって
無関係に分裂孤立していた表象が一つのものとして統合され、日常生活とは異なった次元に
完全な世界を発見する。言換えれば、秩序の快復を得るのである。
0017名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:08:38.07ID:6afvVRGw
★文化について
文化という言葉は大体に主に用いられている。
第一は、民族や時代の生活様式を集中的に表している建築、美術、工芸、
音楽、文学、教育などを指す。無形文化財、室町文化がそれである。
その他は第二の意味に属する。すなわち、進歩的で西洋的でハイカラで、
文明開化の響きを有している。しかし、両者ともに間違っている。
すくなくとも表面的である。では、文化とは何か。
エリオットによれば、文化とは民族や時代の「生き方」なのである。

私たちが歴史を知ろうとするとき、たとえば室町時代の人はもう存在しないから、
その「生き方」を見るわけにはゆかない。そこで銀閣寺や雪舟を取上げるわけだが、
それは当時の人間の「生き方」としての文化の頂点を示すものであって、
それだけが文化なのでもないし、それが文化なのでもない。
また、そこに室町時代人の「生き方」が表れており、察せられもするという点では、
政治も戦争もそうである。政治も戦争も文化なのである。
歴史教科書の政治、経済、文化という分類説明法は、単なる便宜に過ぎない。
0018名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:08:57.24ID:6afvVRGw
★文化人について
私が非難してきた「文化人」というのは、世間のあらゆる現象相互の間に
関係を指摘してみせるのがうまい人種のことであります。
関係さえ見つければ、それで安心してしまう。
それを聴くほうも、説明さえつけば、解決されたとおもいこんでしまう。
0019名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:09:24.86ID:6afvVRGw
★文化人について
第一に、反権力的抵抗者としての知識階級は、
自分たちの敵とする権力者もまた知識階級であることを忘れているということです。

第二に、自分たちは近代であって、敵方は前近代乃至は反近代とのみ思い込んでいるが、
実は、権力者の推進する現実的な近代化の凄じさに、
善かれ悪しかれ、この種の知識人の神経が適応していけなかったのではないかということ、

随って第三に、そうとすれば、それは近代と前近代との差ではなく、
神経が細いのと太いのとの差に過ぎぬのではないかということです。

第四に、そのために権力者の促進する近代化の現実に対し、彼等は近代化の理念を
対置することによって、現実から手を引こうとしたのではないかということ、

第五に、そしてそのことは、というのは現実から手を引こうとする姿勢は、
かれらが最も現実的、行動的であったときでさえ、
いや、むしろその時こそ最も顕著に出てくるのではないかということです。
0020名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:10:09.09ID:6afvVRGw
★性について
よく身上相談などで、
「彼は一個の精神的人格として、私を求めていたのではなく、ただ私を通じて女を求めているだけだ」
などという憤懣が語られます。

が、ロレンスにいわせると、「それなら、まことに結構」ということになる。
男は女のなかから花子を選びだしてはならぬ、花子のなかから女を引きだせ、
そう、ロレンスはいいます。

もし男が他の女ではない花子を選ぶとすれば、その花子が相手の男にとって
最も女をひきだしやすい女であるという理由をおいてはない。
そういう恋愛と結婚とのみが、真の永続性をかちえる。精神だの人格だのいっているからいけない。
というより、誰も彼も自分の性欲を、精神的人格という言葉のかげに、押しやってしまう。
人々は性に触れたがらない。いや、直接に触れたがらない。
精神的愛という靴の革を通して、霜焼けを掻くように性欲をくすぐっているだけだ。
そうロレンスはいっております。
0021名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:10:24.34ID:6afvVRGw
★忠実について
自己に対して忠実であるというのは言葉の矛盾であって、
元来、忠実、誠実は対他的の概念であり、自己を越えたものに対するものでなければ、
それが果して忠実であるか否かの判定の基準は何処にも求められない。

自分以外にそれを判定するものが存在しない以上、何をしても自己欺瞞の逃げ道があり、
自己即芸術家になる為に書くことが最も自己に忠実であるということになる。
そこから文士の非社会化、非体制化を通じて、
反俗、あるいは虞族、そして反体制への転落が始まる。

なぜそれを転落と呼ぶかと言えば、その場合でもなお
自己に忠実という原理に忠実でありさえすればよい以上、安全地帯での
反抗の姿勢だけで満足し、自己欺瞞の度合はますますひどくなるばかりだからである。
0022名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:10:45.12ID:6afvVRGw
★夫婦の理解について
「理解」はけっして結婚の基礎ではない。むしろ結婚とは、二人の男女が、
今後何十年、おたがいにおたがいの理解しなかったものを
発見しあっていきましょうということではありますまいか。

すでに理解しあっているから結婚するのではなく、
これから理解しあおうとして結婚するのです。

である以上、たとえ、人間は死ぬまで理解しあえぬものだとしても、
おたがいに理解しあおうと努力するに足る相手だという直観が基礎になければなりません。
同時に、結婚後も、めったに幻滅に打ちまかされぬねばり強さも必要です。
0023名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:11:15.45ID:6afvVRGw
★自己実現について
おのれがおのれを表現しうる――そんな安易な考えに頼っているかぎり、
われわれはせせこましい告白のリアリズムから抜け出られぬであろう。
われわれが敵としてなにを選んだかによって、そしてそれといかに
たたかうかによって、はじめて自己は表現せられるのだ。
0024名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:11:32.56ID:6afvVRGw
★教育について
教育において可能なのは、知識と技術の伝達あるのみです。
なるほど「教育好き」はそれ以上の欲望を起す。つまり、相手の人間を
造ってやろうとする。が、どうしてそんなことが教師に可能か。
幼いときから始終子供を手もとにおいている親にもできないことです。

第一、子供をこう造り変えたいという人間の理想像を、
教師はなにを根拠としてどこから拾ってきたのか。
また、どんな教師にその資格があるのか。教育においていつも変らぬ原則は、
自分が真に所有しているものだけしか、子供に与えられぬということです。
0025名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:12:38.78ID:6afvVRGw
★教育について2
教育者はすべてを意識するわけにはいかない。
人間教育においては、すべてを計量しつくすわけにはいかない。
児童心理学や指導法はここではほとんど無力です。それらを知っているに
越したことはないが、知っているために起る弊害のほうが、知らぬよりははるかに恐しい。
その知識で子供が理解でき操れると思いこむからです。
それこそ、子供の人格にたいする冒?というものではないか。

そもそも子供の心が読めると思うのがまちがいですし、
それが読み切れなければ教育ができぬという考えかたもまちがいです。
教育においてもっとも大切なことは、すべてを意識化してはならぬということ、
またそんなことはできぬと諦めることであります。
0026名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:13:05.63ID:6afvVRGw
★教育について3
殴る教育が悪いからといって、殴らぬ教育がいいとは申せません。
生徒を殴ってはならぬという原則があって、
しかも教師が怒りを発し、我を忘れて生徒を殴ったとする。
それは悪いことかもしれない。が、すくなくともその感情は本物であります。
殴られた生徒は本物の人間関係のうちに置かれているのです。
それにくらべて、自他を意識した教師のにこやかな説得の方が
虚偽であるという場合が、いくらでもありうる。
贋物の善より本物の悪の方が、ずっと教育的だということを、私たちは忘れてはならない。
人間を信じるというのはそういうことです。
私は単純な性善説などを説いているのではありません。
0027名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:13:50.35ID:6afvVRGw
★教育について4
親たちは誤解をしています。
年をとった先生の方がいいのは経験を積んでいるからではありません。
もし経験を積んでいるとすれば、そのために諦めて不熱心になったからです。
決して自分に子供がいるからだけではない。
教師にたいして親のごとき愛情を期待するのはまちがいです。(中略)

冷淡で職業的であることは教師の最低の資格であり、たとえ最低の資格でも、
それをもたない、あるいは入口をまちがえた、熱心な「教育好き」の先生より、
ずっといいということです。素人より専門家の方がいいのは当然でしょう。
0029名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:16:24.03ID:6afvVRGw
★歴史について
「将来に向かってよりよい歴史をつくり出す」という家永三郎氏の発言は何事か。
歴史は作り出すものではない。勿論、作り出したものでもない。
0031名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:19:27.33ID:6afvVRGw
民主主義、平和主義も歴史が作り出したのである。
最良の史書においては歴史が主人公になり、
その顔が見えるように描かれている。家永氏の軽視した「記紀」は正にそういうものではないか。
0032名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:20:08.35ID:6afvVRGw
右に引用した家永三郎氏の「新日本史」末尾に徴して見ても明らかな通り、
この書物の主人公は歴史ではなく現代である。
現代の顔を、あるいは自分の顔を映し出す自惚れ鏡を歴史教科書と称することは許されない。
古来、歴史を鑑と称して来たのは、それによって現代、及び自分の顔の歪みを
ただす意味合いのものではなかったか。
0033名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:21:14.40ID:6afvVRGw
★歴史について2
自然は私達に忍耐を教え、勇気を教え、親切を教える。思いやりや愛情を教える。
また時には冷酷になれと教え、厳しくなれと教える。
草木や山や河や、雪や嵐や、その他、自然現象のすべてが
季節の転変を通じて、私達に絶えず道徳教育を施しているのだ。

が、文明は一途に自然科学的な対自然の態度によりかかり、
自然の驚異から守るという名目で私達を自然から遠ざけることに熱中している。
おかげで私達は自然と無縁に暮せるという錯覚を懐き、
自然は人間が手を加えてやらねば、人間に何物をも与えてくれぬものであり、
人間が教えてやるだけで人間には教えてくれぬものであると思いこみ始めたようである。
私達は自然との附合い方を自然から教わることを忘れ、
したがって、自然との附合い方を知らずにいる人がだんだん多くなっている。

右の一節の「自然」という言葉を「他人」という言葉に置換えてみるがよい。
現代の対人関係がそのまま窺えるであろう。

歴史もまた自然と同様、こちらから附合おうとしないかぎり、
向うの方でこちらの都合を考えてはくれぬものである。
0034名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:21:29.93ID:6afvVRGw
★良心について
現代日本では良心があったら仕事はしにくい。
が、仕事をしない良心ほど悪質なものはあるまい。
仕事をするためには虚実皮膜の間を切りぬける才覚を必要とする。
この才能こそ良心以上に貴重なものだ。才能なき者は良心にたのむことなかれ。
0035名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:21:51.97ID:6afvVRGw
★国語審議会について
私は最近国語問題に口出しをし、国語審議会の人たちと何度も会談をして、
痛感したことがある。それは国語において何が正しいかという観念より、
何が易しいか、何が便利かという観念のほうが優先しており、
しかも彼等はそれを決して怪しまないということだ。

そればかりではない。彼等は何が正しいかと言う観念をもたず、
その観念の存在すら許さない。つまり、彼等にとって、正しいものは存在しないのだ。
もしそれがあるとすれば、容易、便利、それのみを考えることが、
国語における唯一の正しさの拠り所なのである。

それは何を意味するか。言うまでもなく、現実の動きに即するということだ。
そして現実は動く。なんなら進歩すると言ってもよい。
なぜなら人々は易しさを欲し、便利を欲するからだ。
たとえ間違いでもそれを欲する。なぜなら、言葉に関するかぎり、
間違いが一般に通用してしまえば、それは間違いではなくなるからだ。
国語審議会員の半ばは、国語問題は世間の間違う方向に随うべしと考えているのである。
0036名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:22:11.72ID:6afvVRGw
★古典教育について
たくさん漢字を知っている人間が、その苦労を一般人から解除してやろうという善意は、
金持が貧乏人に向って、金ゆえの不幸を説いて聴かせるのに似ていはしませんか。
たとえ古典は読めなくとも、また読みっこないにしても、
そのつながりをつけ、道を通じておく教育は必要なのです。

原則はむずかしく、正しいかなづかいはできなくとも、一向さしつかえりますまい。
古典kらの距離は個人個人によって無数のちがいがある。
その無数の段階の差によって、文化というものの健全な階層性が生じる。
それを、専門家と大衆、支配階級と被支配階級、というふうに
強いて二大陣営に分けてしまい、両者間のはしごを取りはずそうとするのは、
おおげさにいえば、文化的危険思想であります。
0037名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:22:31.13ID:6afvVRGw
★言文一致について
明治以来の言文一致はその動機において正しかったが、
結果的には大変な誤りを犯したと、私は考えております。
なによりの証拠は私たちの文学が詩を失ってしまったことです。
ということは、私たちが文学を失ったということです。

これは漢学者の松本如石氏に伺った話ですが、坪内逍遥は早くも明治三十五六年ごろに、
言文一致の主張が間違っていたと、述懐していたそうです。
おそらく、それは間違っていた。なぜなら言文一致ということにおいて、
音声言語の文語による鍛錬と格あげを考えることなしに、
一方的に文字言語の口語による破壊と格さげだけしか考えなかったからです。
0038名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:22:48.74ID:6afvVRGw
★「見れる」について
(中略)明治以来、ことに戦後は「過去」とか「慣習」とかいう言葉は
権威を失ったが、少なくとも言葉に関するかぎり、
これを基準としなければ、他に何も拠り所は無くなってしまうのである。
全く通じさえすればよろしいということになる。

が、「通じても相手は心の中で笑っていますよ」と言われ、
その嘲笑を避けようとする殊勝な心掛けも、教育も、言語観も、
今は地を払ってどこにも見出せない。
0039名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:23:19.73ID:6afvVRGw
★照れくささについて
現代の日本人が明確な理想的人間像をもたないということは、
とりもなおさず自己感性への情熱をもってないということだ。
自己感性の情熱とは、自分が偉くなろうということであり、
自分を偉くしようとつとめることにほかならない。

自分を偉いものにしようというんだって――冗談じゃない、そんな小便くさい夢は
若僧にまかしておけ、というわけでぼくたちは、たとえそんな夢をかいまみたとしても、
自分の甘さをわらわれるのがいやさに、それをひとしれず葬ってしまう。
やがて、おとなになり、そんな乳臭い野望をもらす青年のまえで、
照れくさそうにおなじような嘲笑をくりかえす。日本人ほど照れくさいという感情を
知っているものは他に類があるまい。
0041名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:39:17.51ID:6afvVRGw
★理想と現実について
日本人には、理想は理想、現実は現実という
複眼的なものの見方がなかなか身についておりません。
自分ははっきりした理想を持っているという意識、
それと同時に、現実には、しかし理想はそのままいかせられないから、
こういう立場をとると言う現実主義的態度、

つまり態度は現実的であり、本質は理想主義であり、
明らかに理想を持っているというのが、人間の本当の生き方の筈です。
これは個人と国家を問わず同じ筈です。
これをもっと日本人は身につけるべきだと私は思っています。
0042名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:39:49.86ID:6afvVRGw
★非倫理性について
なにが悪でも、なにが善でもないという現代日本人の非倫理的性格
――私の仕事のすべてはその究明に集中されてきたといっていい。
平和問題も、この日本人の非倫理的性格から発しているのです。
私はその善し悪しをいっているのではない。たんに事実を述べているのです。

平和ということの華やかなことばのかげには倫理の陰翳がすこしもない。
ただ命が大事だというだけです。こっちの命が大事なら、向うの命も大事です。
向うも生き残るつもりでやっている。なにをかいわんやであります。

個人の生命より大事なものはないという生きかたは、窮極には自他のエゴイズムを
容認することになる。個人が死ぬにたるものがなくては、個人の生の喜びすらないのです。
相対主義の考えかたでは、どうしても、そこから抜け出られません。
それが積極的な理想にまで高まるには、個人倫理の絶対性と相ふれなければならないのです。
現代の平和論者が内村鑑三とまったく異るゆえんです。

さらにまずいことに、倫理観の稀薄さと平和論とがなれあいになるという事実です。
よく揚げ足とり的にいわれることですが、愛を標榜するクリスト教が、
残酷な宗教裁判をやったり、十字軍を起したりするといって非難する。
そういう非難は宗教というものに対する無理解から生じたものです。
あるいは、相とかエゴイズムとかいうものに対する無理解から生じたものです。
0043名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:40:08.08ID:6afvVRGw
★芸・道について
テレビどころか、あらゆる芸術は実用の世界の詰らなさ、辛さからの
逃避という動機を含んでいるもので、その意味では玩具なのである。
だから、それはいっそ大人用の玩具として、その気で盛大に遊んだほうがいい。

しかし、日本人には一種の心の狭さからであろうか、
玩具は大人の威厳をそこなうという通念があって、茶湯でも生花でも、
せっかく実用の世界から逃げだしておきながら、すぐうしろめたくなって
深刻な芸や道に昇格させてしまう。
0044名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:40:25.95ID:6afvVRGw
★行司について
私は勝負の写真判定優位説に反対する。
写真よりも行司の目のほうが正確だというのではない。
行司の差違いはしばしば起る。が、それでよいではないか。
弱い力士が間違って勝つことがあるのと同様に、
行司が間違って軍配を差すことを許してもよいはずである。
そこが日本の相撲と西洋のスポーツと違うところで、
相撲では勝負は力士同士だけのものではなく、行司も参加しているのだ。
だから行司の黒星という言葉も生じたのであろう。

行司は見物代表であって、審判ではない。相撲の勝負を決めるのは見物であり、
その見物が勝負に参加する形式は日本独特のものなのである。
ストップ・ウォッチやテープで「科学的」に優劣を競う西洋のスポーツと一緒にしてはいけない。
勝負を見ていて、あれは行司の差違いではないか、いや、あれでいいと
見物がぶつぶつ文句を言い、行司に与えた代表権を問題にする余地を残しておいてこそ、
相撲は他のスポーツと異った魅力を持続しているのではないか。

たとえ行司が間違えても、その間違いを絶対として受入れるべきである。
いくらでも文句は言うがよい。が、言うだけ言ったら、
力士も見物も審査員も、最後はその不合理なる神に服従すべきである。
それが厭なら、一勝負ごとに裁判でもやるほかはない。
物的証拠に写真を何枚も出して、証人をそれぞれ登場させて、
力士の背中の砂の附着部分を検証して、いや、それでもやはり文句は防げまい。
0045名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:47:37.78ID:6afvVRGw
★繰り返し論法について
「お前の言い分はもっともだ」と言い出したら際限が無い。何も彼ももっともになる。
一応もっともでなければ、人は自分の言い分など持出しっこないからだ。
いずれにも分がある二つの「もっとも」のうち、いずれかを選ぶこと、
時には分の悪い方を選ぶこと、大げさに言えば、それが決断であり行為というものです。
0046名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:47:54.75ID:6afvVRGw
★「女が主役」について
(中略)
なるほど「嫁しては夫に従うべし」という徳目がありました。
が、それは役割の分担を明らかにする約束に過ぎません。
それがすべて男に有利に出来ていたことは確かです。が、だからといって、
男がつねにそれを有利に用いていたかは別問題です。約束は原理です。
原理からただちに作用を類推し、両者を同一視することは危険です。
(中略)
0047名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:48:41.66ID:6afvVRGw
★権力否定について
日本の近代史においては、政治的関心というのは常に政治批判を、
というよりは権力否定を意味して来ました。その最も通俗的な表現は、
「それは政治が悪いからだ」という形を採ります。また国鉄の大事故などが
起きると、その責任を最高の地位にある総裁にまで持っていきたがります。

しかし、これは最高権力や最高地位に対する憧憬と期待とを裏返しに
したものに他ならず、「お上を頼りにしていたのに」という感情を
裏切り示すものと言えましょう。上の者は下の者の面倒を見、下の者の過失を
庇うべきだという、それこそ封建的な縦の人間関係に基づく考え方だと言えそうです。
0048名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 11:49:04.31ID:6afvVRGw
★大東亜戦争について
端的に言えば、大東亜戦争は罪悪なのではなく、失敗だったのである。
失敗と解っていなければならぬ戦争を起したことに過ちがあったのに過ぎない。

吾々は多額の月謝を払った。が、それを罪悪とし、
臭い物には蓋をせよという考え方によっては、その月謝は取返せない。
もしあの戦争を悪とする綺麗事にいつまでも固執するなら、その必然的結果として、
それを善に高めようとする居直りを生じるであろう。

皮肉なことに、この綺麗事も居直りもアメリカの占領と安全保障条約とによって、
その微温的性格を破られずに今日まで保たれて来た。もしそれが無ければ、
吾々は疾くにヴィエトナム、あるいはインドネシアの悲運を経験していたであろう。
大事な事は吾々は吾々の国家を如何にして何処に見出すかということである。
0049名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 12:40:54.83ID:6afvVRGw
★「立派な国」について
日本はなぜ西洋と優劣を競わねばならないのか。日本人が日本を愛するのは、
日本が他国より秀れており正しい道を歩んできたからではない。
それは日本の歴史やその民族性が日本人にとって宿命であるからである。

人々が愛国心の復活を願うならば、その基は宿命感に求めるべきであって、
優劣を問題にすべきではない。日本は西洋より優れていると説く愛国的啓蒙家は、
その逆を説いてきた売国的啓蒙家と少しも変わりはしない。
その根底には西洋に対する劣等感がある。というのは、両者ともに
西洋という物差しによって日本を評価しようとしているのであり、
西洋を物差しにすることによって西洋を絶対化しているからである。
0050名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 12:43:00.70ID:6afvVRGw

愛は自然にまかせて内側から生まれてくるものではない。
ただそれだけではない。愛もまた創造である。意識してつくられるものである。
0051名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 12:43:25.34ID:6afvVRGw

自然のままに生きるという。だが、これほど誤解されたことばもない。
もともとも人間は自然のままに生きることを欲していないし、それに堪えられもしないのである。
程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがっている。また演じてもいる。
0052名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 12:44:15.59ID:6afvVRGw

現実はままならぬということだ。私たちは私たちの生活のあるじたりえない。
現実の生活では、主役を演じることができぬ。
いや、誰もが主役を 欲しているとはかぎらぬし、
誰もがその能力に恵まれているともかぎらぬ。
生きる喜びとは主役を演じることを意味しはしない。
端役でも、それが役であればいい、なんいかの役割を演じること、
それが、この現実の人生では許されないのだ。
0053名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 12:44:50.07ID:6afvVRGw

舞台をつくるためには、私たちは多少とも自己を偽らなければならぬのである。
堪えがたいことだ、と青年はいう。
自己の自然のままにふるまい、個性を伸張せしめること、それが大事だという。
が、これはたんに「青春の個性」というありきたりの役割を
演じているのではないか。私にはそれだけのこととしかおもえない。
0054名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 12:45:18.60ID:6afvVRGw

個性だどというものを信じてはいけない。
もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。
0055名無しさん@お腹いっぱい。垢版2018/11/08(木) 12:45:37.49ID:6afvVRGw

私たちが真に求めているものは自由ではない。
私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。
そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、
なさねばならぬことをしているという実感だ。
なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。
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