★★★★ 三重県の人権問題 11 ★★★★ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前スレ 997の質問
熊野市から牟呂郡(和歌山新宮市)にかけて、東、松岡、田中というのはどうでしょうか? ∩∩
∩| || |∩
| .|| || || |
| __|
| (__.|. ∧_∧
ヽ.___.丿\(・∀・ ) ホレ!!
\ )
| | |
(_(__) 三重県四日市市で、52歳の女性に乱暴しけがをさせたとして19日、桑名市赤尾台のとび職・寺本将太容疑者(20)が、強制わいせつ致傷の疑いで逮捕された。
警察によると、寺本容疑者は8月12日夜、市内の駐車場で女性に抱きついて体を触るなどし、抵抗した女性に全治3週間のけがをさせた疑いが持たれている。
調べに対し寺本容疑者は
「胸などを触ったのは事実だが、けがをさせようとしたものではない」と容疑を一部否認しているという。
警察は、寺本容疑者の余罪についても調べる方針だ。
www.ctv.co.jp/ctvnews/news86236265.html ??ぼくのけっきょく南極大冒険返ちてぇ?????? 住居侵入と強姦致傷の疑い 27歳男を逮捕 名張署
(2017年10月 6日 09:58)
名張署は10月6日、住居侵入と強姦致傷の疑いで
名張市鴻之台の配送業、西峯拓也容疑者(27)を逮捕したと発表した。容疑を認めているという。
発表によると、西峯容疑者は今年6月3日午前0時から同30分ごろまでの間、
当時市内のアパートに住んでいた20歳代の女性会社員の部屋に侵入し、包丁を突きつけて脅し、性的暴行を加えた疑い。
女性は全治1週間のけがを負った。
署によると、女性からの被害届を受理し捜査。現場周辺の防犯カメラや聞き込みなどから、容疑者を割り出した。
現在、動機などにについて調べている。
↑の西峯拓也と希望ヶ丘の哲也は親戚か? 人権や平和と言いながら私利私欲の講演会とは恐れ入る
愛人囲うのは人権的にどうなの? 部落内の工事現場で作業員や警備員の人権が踏みにじられております。。。 名張毒ぶどう酒事件の再審、また棄却されたな
昔当時のあの集落は結構楽しそうw 全国の廃村、廃集落や小規模集落を紹介してるブログ
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/ >>45の三重県の所で非公開になってるこの場所ってどこかわかりますか?
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/24.Mie/closed_Mie01.html 和歌山だけど山奥になかなかパンチの効いた場所
https://goo.gl/maps/zpK5mbSvk4n
ここにはジジイが住んでいて、そのジジイはバイクのライダーを襲ってくるらしく
高野山への抜け道沿いでツーリングのライダー連中にはちょっと知られた場所 三重県
桑名藩T
刑場
慶長6年(1601)、上総大多喜藩より家康譜代の重臣・本多忠勝が10万石で伊勢国桑名郡桑名( 現・三重県桑名市)に入封したことにより、桑名藩が立藩した。
藩庁は桑名城におき、城郭や城下を整備し藩の礎を固めた。
藩処刑場の所在地を示すと思われるHP『桑名観音巡り三十三ヶ所霊場案内記 第20番一雲寺』の記事からご紹介する。
“境内に明治42年(1909)大山田川原(処刑場)にあったものを移した、文政10年(1827)建立の野村増右衛門供養地蔵塔と、同時に処刑された44名の供養塔がある。”
桑名藩では、宝永7年(1710)、藩の政治に尽力しながらも公金横領などの理由で逮捕された野村増右衛門とその一族は、藩当局から十分に吟味されることなく、死罪や追放されるといった野村増右衛門刑獄事件が起きた。
その処刑場所が、大山田川原だったようだ。
『ふらり987 勢州桑名を訪ね歩く(51)大正寺』という別サイトには、こう続いている。
“松平家が後に桑名に再移封された時、増右衛門の罪はゆるされ、供養塔が大山田川の河原に建立された。後の明治42年(1909)に当寺へ移された。”
処刑場跡地がどうなったのか、『第18回北勢線の魅力を探る 野村増右衛門 』のサイトは『大山田村史』の関連箇所を引用している。
“「大山田川南堤ニアリ、越州定重公ノ家臣野村増右衛門吉正ガ死骸ノ捨所ナリ。」
これは『久波奈名所図会』にある「野村塚」の冒頭の部分である。
文政10年(1827)この場所に野村増右衛門供養地蔵菩薩塔と、同時に処刑された44人の供養碑が建てられた。しかし、明治42年(1909)12月、ここに大山田村屠牛場を建設することになり、東方の大正寺境内に移された・・ 後略”
和歌山人権研究所『紀要 創刊号』所収、和田勉著「非人番の警刑吏役について −伊勢地方を中心に−」には、宝暦四年(1754)「桑名上使通行次第」に次のような内容が確認できる。
”一 死罪御仕置者有之上、御太刀取縄取、其外重キ御仕置之者有之候節、御振合致承知致之事
御答 太刀取之儀は、試之者抱置候縄取番人ニ而取扱、牢屋足軽も罷出候、死罪下手ハ牢口ニジ而
取斗、斬罪は大山田堤と申所ニ而取斗(後略)!”
天明2年(1782)の百姓騒動では、首謀者6人が員弁川下流の町屋川原で処刑されて獄門に架けられた。
文政6年(1823)に起きた文政一揆の首謀者3人のうち2人は大山田川原で処刑され、残る一人は、一揆勃発の前後に国替えで忍藩領となった田光村民であったため、忍藩側にて処刑している。
大山田川原の処刑場跡地は、大正寺から程近い桑名市東方町の通称・日物谷だと伝えられている。
『桑名町人風聞禄』は、桑名城下の福江町に住んだ町人が近世後期から明治初頭まで半世紀近く書き継がれた風聞記録「豊秋雑筆」を翻刻・校訂したものであるが、この中にもしばしば”小山田沢””小山沢””大山田沢”での御仕置の記録が確認できる。 >>52
いま生きてたら92歳になる亡父から聞いたところでは、
「二見はいっぱいある。●●っていうところはほとんど全部やろ、
●●もそうや。●にもあるわな」とのこと。
大切なことは「大字がまるごとBということはあり得ない」ということだ。 >>55
そうなんですね。今一〇を部落と表現した人がいたんで、単に集落という意味で
そういう表現したのか、Bという意味で言ったのかどっちなんだと思ったので。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています