【タイ】日用品枯渇を恐れて首都圏で消費者が買いだめ 即席麺・ティッシュペーパーなど[3/4]
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日用品枯渇を恐れて首都圏で消費者が買いだめ 即席麺・ティッシュペーパーなど
バンコク首都圏では、新型コロナウイルスの感染拡大問題が商品の生産などに影響することを懸念した消費者が日用品の買いだめに走っており、商店では空の商品棚が目立つようになっている。
消費者が買いあさっているのは、即席麺、コメ、ティッシュペーパー、魚の缶詰、飲料水など。大手小売店の担当者は、「少し前から日用品をたくさん購入する人が増えている。給料日の関係かとも思ったが、新型コロナウイルスの感染拡大問題が要因だと気づいた」と話している。
ただ、「日用品に関しては物によっては納品が多少遅れることがあるかもしれないが、小売店への供給に問題はない」と説明。即席麺メーカー首脳も「タイ国民全員に十分に行き渡る生産能力を有しており、品不足を心配する必要はない」と話している。
バンコク週報
https://bangkokshuho.com/thaieconomy-369/ 日本でも先日の日曜は商品棚に空きが目立ってたけど昨日はもう補充されてた
と言うかトイレットペーパーは山積みされてた トミティとマスゴミでやっちまったな。
軽率にもほどがあるわ(´・ω・`) >>6
地方は何もねぇーんだよw
パルプも古紙物も何にもないw ティッシュもキッチンペーパーも無いw
補充されたのは大手量販店がしのぎを削る所だけだろう >>1
テレビを捨てネットも自国民の為だけの情報共有所にしないとなw
まだ害ジン処罰、排除をやらないつもりかね?
陰湿なゴミカス害ジンは「何度も歴史をなぞり同じ事を繰り返す」
【オピニオン】「日本はソフトな独裁国家」天才哲学者マルクス・ガブリエルが評するワケ [02/12]
210七つの海の名無しさん2020/02/16(日)
国際社会から消えるべき犯罪連合国が
恥知らずにも居座り続けるから同じことが何度も繰り返されるんだぞ
善意のララ物資転売搾取のアメリカ連合国といい
イギリスが逃げた「偽人権団体による」途上国での「物資横領脅し性犯罪」もそうだ
犯罪連合国が犯罪者を保護し増長させた >>12
犯罪国アメリカの占領下で、日本人は酷い環境の中飢餓状態にもあり悲惨な状態だった
それを助けたのは日系だが犯罪ガイジンは報復されない状態であれば犯罪の限りを尽くす穢れた汚物だ
いまだにホロコースト政策を強行する自称ユダヤやキリストカルト教徒、
植民地主義を捨てない害獣寄生虫ガイジンは一匹も要らん
『アメリカの食糧輸出戦略』
(1)ガリオア、エロア援助
昭和 21 年 ( 1946 年 )12 月から、 米国産の脱脂粉乳 を中心とする学校給食が始まりました。
それが 米国産小麦粉 から作る パンを主食とする完全給食になったのは、
大都市では昭和 2 5年 ( 1950 年 ) 2 月からで、全国の都市部では翌年 2 月からでした。
この給食は ガ リ オ ア GARIOA ( Government Account for Relief In Occupied Areas ) 占領地救済資金 、
及び エ ロ ア EROA ( Economic Rehabilitation in Occupied Areas ) 占領地経済復興基金 、
からの援助 プログラムによる米国産の小麦の払い下げを受けて発足したもので、
ガリオア 援助には食糧以外にも原綿、肥料、燃料、医薬品も含まれていま した。 麺やペーパーなんかいくらでも供給できるから
買いだめのあとは生産過剰になるのが落ち >>13
日本に対する援助はこれ以外に【 国連が管理した() 】 ラ ラ LARA ( Licensed Agency for Relief of Asia )
アジア救済機関 による援助があり、これにより米国産の粉 ミルク が日本全国の小学校児童に配給されま した。
ガリオア による援助は昭和 23 年 ( 1948 年 ) に エ ロ ア 援助に吸収されま したが、
基金の性格、その目的 ( 米国における 余 剰 農産物の処理 )から、本来占領地域に対する無償援助の 「 はず 」 でした。
(2)だ ま し と 、ブ ラ フ ( Bluff、脅 し ) の 手 法
これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助である マーシャル ・ プラン に対応したもので
日本に対しても当初は無償援助と言っておきながら サンフランシスコ 講和条約締結を前に、
昭和 23 年 ( 1948 年 )1 月に米国政府が 突然
総額 2 0 億 ド ル 当時の為替 レートで 7,200 億 円 )の援助の 立て替え代金 を請求 したので、日本政府は 「 寝耳に水 」 と驚きま した。
無償援助ではなく有償でもない、 貸 与 し た とする口実を米国は考えついたのです。
品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。 >>15
しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、
占領中には国会で 米 国 の 援 助 に 対 す る 感 謝 決 議 まで して来たのです。
も し仮に 貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在 しませんでした。
また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づ くものであるならば、
その売買契約書が存在 し、売買金額 ( ト ン 当たり いくら、または総額いくら ) が当然その契約書に記載されているはずです。
ところが ガリオア、エロア 援助に関する公文書には売買契約に関する文書 や
それに 関する 条項 がな く、金額の記載も全くありませんで した。
値段も決めずに 何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。
日 本 は 米 国 か ら 詐 欺 に 遭 っ た の で す。 >>16
最初に巨額な金額を要求 して交渉相手をひるませる ブ ラ フ ( Bluff、脅 し ) と呼ばれる交渉 テクニックは、
アメリカ では 弁 護 士 の 常 套 手 段 です。
相手をひるませて交渉の主導権を握り次に要求を少し 減額 して
譲歩 の 姿勢 を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。
それにより交渉を有利に進め、最後には 目 的 と し た 金 額 を 相 手 に 支 払 わ せ る 、とする戦術です。
交渉は難航 しましたが、昭和 37 年 ( 1962 年 )1 月に、米国が援助の経緯を勘案 した結果、
当初請求 した金額を定石通りに 4 億 9 千万 ドル( 1,764 億円 )に減額 して 交渉成立に 誠意を示 した(?)ので、
日本は 15 年の年賦での返済に応 じることとなり、後にはそれを完済 し解決 しま した。
かなり減額 したように思えますが、それまでに日本はアメリカ軍の占領に要する経費である 終戦処理費と して、
50 億 ドル ( 当時の為替 レートで 1 兆 8 千億円 ) もの大金を占領軍の為に ( アメリカ の 国益 のために ) 支出 したのです。
(※恥知らずのアメリカは「日本に報復手段が無かった」のでこのような横暴で傲慢な態度に出た
妊婦も赤子も飢餓状態にあったにも関わらず、日本を占領していたアメリカは金儲けに走った) >>17
(3)、パ ン 食 導 入 計 画、そ の 影 響
昭和 29 年 ( 1954 年 )には学校給食法が国会を通過 し
「 小麦の 粉食形態を基本と した学校給食の普及拡大をはかること 」 が明文化されて、
米作地帯の 農村 までも コッペパン による 学校給食の普及が進められました。
当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パ ン 食 普及協議会が作成 した小冊子 「 学校給食とパ ン 」 には、
コ メ を 食 べ て い る と 身体 が 弱 く、頭 が 悪 くなり、ガ ン や 脳溢血 になり 易 い
と書かれていま した。
(※コレはキリスト教以外を悪魔教と詰る醜悪なやり方と同じ。無宗教の奴は頭が悪い!と言ってアホのハクジンをキリスト教に固定する為の暴言にも)
実は米国からの農産物援助には 米を主食 とする日本人を、
子供の頃から パン食に慣れさせて 、自国産小麦の輸出を図る アメリカ政府の遠大な戦略があったのです。
終戦後の学校給食の パン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて
日本人の食生活にも次第に パン食が普及して、その計画は見事に成功しました。 >>18
>>14
昭和 39 年 ( 1964 年 ) に マクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると
米国が スポンサーとなった学校給食 プログラムによって、
日本の子供達が米国の ミルクと パンを好むようになり、日本が米国農産物の 最大の顧客 となった
と書かれています。具体的には米国産小麦の日本への輸入量は
昭和 28 年度 ( 1953 年 )の 168 万 トン から、昭和 39 年度 ( 1964 年 ) には 359 万 トン と 2 倍以上に増加しました。
それ以来 パ ン 食が 普及するのに伴い 主食である米の需要が次第に減少 して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。
その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、
適正備蓄量 160 万トン のところ、平成 12 年度では 2 倍近い 280 万トン にも達していて
食糧倉庫には古米 ( 生産後 1 年以上経過したもの )、
古々米 ( 2 年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、
米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける ) が溢れています。 >>19
それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから
毎年 600 万トン を超える小麦を輸入していて 世界最大の小麦輸入国 となっていますが、その小麦の 7 割は米国産 です。
つまり米国は自分の カネ ではなく、日本人の税金を使って パン 食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて
大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのでした。
(4)、食糧自給率の低下
その後、昭和 31 年 ( 1956 年 ) には 「 米国余剰農産物に関する日米協定 」 を結ばせ、
農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。
それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、
その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、
食糧自給率の試算を始めた昭和 35 年度 ( 1960 年 ) 当時の 79 パーセント から、
平成 14 年度 ( 2002 年 ) では カロリー換算で 40 パーセント まで低下しています。
やるなら【 外国産の小麦とそれを使っている商品の不買、飲食店拒否 】だ >>1
ジェノサイド被害に遭った地は粘着される
犯罪連合国が実行した日本の地獄化
【神戸は連合国兵、コリアンらによって修羅場にされた】
『ポツダム宣言受諾の放送後』
その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。
終戦の報に茫然自失する市民とは対照的に
朝鮮、中国人たちの一部は欣喜雀躍し、略奪の火蓋を切ったのである。
その日の午後七時。徒党を組んだ一団は国鉄駅構内の貨車を襲って配給物を強奪。
これを皮切りに市内随所で襲撃・略奪事件が起こり,一般市民の不安も高まった。
終戦当時、国内には朝鮮人、中国人が200万人以上いたが、とくに兵庫に多く、
昭和18年の時点でも13万5千人、全体の7パーセント強を占め、大阪、東京につぐ3位という数であった。 >>21
終戦直後の神戸の闇市は、国鉄三宮駅高架下で一個5円の饅頭が中国人の手で売り出されたのが始まりといわれている。
一個5円といえば、当時の米一升の公定価格と同じ値段である。
これをきっかけに彼らを主とする闇市が三宮、新開地、大正筋、長田など神戸市内に17ヶ所もひらかれ、
20年10月には国鉄三宮の高架から神戸駅北東に至るまで、えんえん二キロにおよぶ日本一の長い闇市が生まれていた。
一日わずか二合一勺(330グラム)の配給米さえ欠乏するという深刻な食料難で餓死者が続出し、
市民はあらゆるものを物を金に替え、闇市で高い食料を求めた。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、
白昼の路上で見境なく集団で婦女子にいたずらする。
善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。 >>22
こうした不良分子は旧日本軍の陸海空の飛行服を好んで見につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプをひっさげた彼らの略奪、暴行には目に余るものがあった。
さらにこれに加えて一部の悪質な米兵の乱行も目にあまった。
戦時中、神戸市内には脇浜小学校はじめ六ヶ所の捕虜収容所があったが、解放されたその捕虜たちの一部は
民家に侵入して拳銃をつきつけ、泣き叫ぶ婦女子を襲った。白昼強盗も横行した。
9月25日、【米軍第6軍33師団、17000人が
神戸へ進駐してくると治安はさらに悪化】し、制しにはいる警官は袋叩きにあう。
終戦直後の神戸は、まさに酸鼻をきわめる地獄絵図だった。 世界中で日用品の取り合いだな
外国に売った奴は死刑くらい法律作れ
鳩山アウトww >>1
捨てられてるマスクを拾ってきて再生して新品として売ってる国だからな。
国中、エイズだらけの国だから良い子は近づかないようにしましょう! タイなら一部の常緑樹の葉が一年中あるから、
トイレットペーパーに関してはそんなに気にしなくてもいい >>2
ホントだよ
JCJKのおまんこも、リア充どもで奪い合わずオレらにも分けてほしいもんだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています