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【英サウジ】サウジアラビア駐英大使がエリザベス女王2世に信任状を捧呈 [11/13]
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0001SQNY ★2019/11/15(金) 01:58:31.21ID:CAP_USER
・サウジアラビア駐英大使がエリザベス女王2世に信任状を捧呈

ハリド王子はこれまでにサウジアラビア駐独大使を務めている

アラブニュース、ロンドン

ハリド・ビン・バンダル・ビン・スルターン王子が水曜日にロンドンのバッキンガム宮殿でエリザベス女王2世に謁見し、駐英サウジアラビア大使として女王に正式に信任状を捧呈した。

捧呈前にハリド王子は同国と英国の人民に仕えたい意を表し、二国間の関係強化に努めたいと述べた。

ハリド王子はこれまでにサウジアラビア駐独大使を務めている。

・Saudi ambassador to UK presents credentials to Queen Elizabeth II
https://www.arabnews.com/node/1583601/saudi-arabia

(画像)
https://www.arabnews.com/sites/default/files/styles/n_670_395/public/2019/11/13/1843241-1258922830.jpeg

13 Nov 2019
https://www.arabnews.jp/article/saudi-arabia/article_3701/
0002七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 02:09:57.31ID:RZepNV2P
サウジでは王族が大使やってるのか

火星ちゃんや秋篠宮殿下が大使をやってるようなものだな
0003七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 12:29:56.94ID:/uWUUr8T
エリザベス2世も、大正生まれだというのに元気だなあ・・・
0004七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:03:36.27ID:UHq28sIp
ところでこのハリド王子というのは何人なんだ?ww
0005七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:04:16.89ID:UHq28sIp
「なぜ大東亜戦争は起きたのか? インドネシア・パレンバン落下傘部隊の記録 空の神兵と呼ばれた男たち」

>欧米がアジアでどんなひどい侵略行為を行ってきたか
>そしてそれを食い止めるため、大東亜共栄圏を目指して立ちはだかったのが日本

>オランダの長年の非道な占領のなか、落下傘でインドネシア・パレンバンに降り立った日本兵たち

>フィリピンで、米軍はあのダグラス・マッカーサーの父、アーサーを司令官に据えて残忍な掃討戦を実施していく。
その象徴がサマール島事件だった。アーサーは、報復にサマール島と隣のレイテ島の民約十万人を皆殺しにさせた

>米国はフィリピンを植民地にしたあと、御体裁にフィリピン自治政府を作る。
大統領になったのはマニュエル・ケソン。生粋のスペイン人でフィリピンの血は一滴も入っていない
0006七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:04:34.60ID:UHq28sIp
>米国も空挺作戦にはためらいを見せ、ヘリコプターが登場するや
落下傘での兵員展開という発想はあっという間に消え去った。
落下傘部隊はあの時期だけに咲いた「二度の成功はない」あだ花ともいえる
>ただ、例外があった、日本だ。
各国と同じに日本でも落下傘部隊の歴史は短いが、ただ実施した二回が二回とも見事に成功させている。
さらに言えば、そのうちの一回は、海軍が実施している

>インドネシアには、「空から神の兵が降りてきて圧政者を倒す」という伝説がある。
日本は、オランダ支配に終止符を打つと、まず彼らにジャカルタ語を共通語にするように指導した。
オランダは四百年支配しながら、彼らに共通の言語も与えなかった。
それを日本は三年余りでやり、学校を創り、行政を学ばせた。そして警察と彼ら自身を守る軍隊「ペタ」も創設した。
彼らはそれを通して急速にインドネシア人として目覚めていった

>パレンバン奇襲作戦は、昭和17年2月6日に「挺進第一連隊」が
任務を遂行することに決まっていたが、海難事故があり、急きょ動員が命じられたのが
「挺進第二連帯」編成されたばかりで、しかも飛行機からの降下訓練を
ほとんど経験していない部隊に対して、無謀ともいえる出動命令が下ったのである。
結果的には、こんなにわか仕立ての未熟な部隊が
製油所、飛行場をほぼ無傷で占領するという大勝利を収めたのである

>インドネシアの人々は三百年を超える長い期間、オランダの支配下で搾取に苦しめられており、
自由と解放を望んでいた。落下傘部隊は、インドネシアの人たちから、救世主として迎え入れられた
0007七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:05:10.10ID:UHq28sIp
シロアリゴキブリハクジンによるキチ害報復()

>日本が作ってあげた、ムシ川にかかるアンペラ橋
アンペラとは、「虐げられた人々への償い」という意味で、「日本軍が戦争中にインドネシア人を虐殺、
資源を収奪した償いにこの橋が造られた」ということにされた
インドネシアでも日本を悪くする歴史操作が行われている

>捕虜が日本兵と共に餓死したのはアメリカイギリスが補給や医療船を爆撃し続けた為(国際法違反
→元凶を非難せず人道を貫き通した日本軍を口撃しカネも要求

>オランダ蛮族「正当な戦闘行為で快勝した日本軍は戦争犯罪者!死刑にしろ!」
→英雄を拘束し、長い間虐待し殺害
0008七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:05:43.64ID:UHq28sIp
■「日本は自由であるべきである」

1951(昭和26)年9月6日午前11時、
スリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナの演説が始まった。

51カ国からの代表が集まって、日本との講和条約を結び、
日本の独立を認めるかどうかを議論する場であった。
ソ連は日本の主権を制限する対案を提出し
さらに中国共産党の出席を求めたりして、審議引き延ばしを図っていた。

ジャヤワルダナ代表は、自らはスリランカ代表ではあるが、
「日本の将来に対するアジアの人々の全般的態度における彼らの感情をも述べうる」として、こう語った。

アジアの諸国、セイロン(JOG注:スリランカ)、
インド及びパキスタンの日本に対する態度を活気づけた主要な理念は
日本は自由であるべきであるということであります。
・・・
「自由であるべき」とは、日本の占領を解いて独立を回復させるべき、という意味である。
0009七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:06:04.37ID:UHq28sIp
■「アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のため」

講和条約への賛成を表明した後、ジャヤワルダナ代表はその理由を述べた。

アジアの諸国民が日本は自由でなければならないということに
関心をもっているのは何故でありましょうか。
それは日本とわれわれの長年の関係のためであり、
そしてまた、アジアの諸国民の中で
日本だけが強力で自由であり日本を保護者にして
盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民が
日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。

私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、
そしてビルマ、インド及びインドネシアの指導者のあるものが
かくすることにより彼等の愛する国々が解放されるかも知れないという
希望によって日本人と同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すことができるのであります。

「共栄のスローガン」とは、
日本が大戦中に唱えた「大東亜共栄圏」のことであり、
実際に欧米諸国の植民地支配からの独立を目指す国々の代表が
東京に集まって、「大東亜会議」が開催されている。

さらにビルマ、インド、インドネシアでは、
日本が支援して設立された独立軍が、
これらの国々の独立戦争に大きな役割を果たした。

ジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄すると続けた。
0010七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:06:19.84ID:UHq28sIp
この後、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ国が
講和条約に署名し、翌年4月28日、日本はついに独立を回復したのだった。

■西洋の植民地支配400年

スリランカとは「光り輝く島」という意味で、
その美しい豊かな自然から「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。
北海道の8割ほどの国土に、現在では2千万人の人々が住んでいる。

紀元前5世紀に北インドから移住したシンハラ人が王国を作り、
紀元前3世紀に仏教が伝わると、それ以降、現在まで仏教国として信仰を守ってきた。

しかし、スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、
そのため、早くから西洋諸国の侵略にさらされた。
1505年にポルトガル人がやってきて、約150年間、沿岸部を支配した。
1658年からは今度はオランダが替わって約140年間、植民地支配を続けた。
さらに1796年にはイギリスが支配者となり、全島を支配下においた。

イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とし、
米まで輸入しなければならない状態にしてしまった。
独立を求めて大規模な反乱が三度起きたが、いずれも武力鎮圧された。
0011七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:06:28.89ID:UHq28sIp
イギリスは南インドから移住してきた少数派のタミル人を優遇し、
彼等を教育して役人とし、多数派のシンハラ人を治めさせた。
この巧妙な分割統治が、現在も続く民族闘争の原因となった。
同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧した。
シンハラ人のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかった。

イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと
19世紀末に立ち上がったのが、スリランカ建国の父と呼ばれるアナガーリカ・ダルマパーラであった。

日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを打ち破った。
日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。
ダルマパーラも「こんな素晴らしいことはない。
皆さんは気づいていないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに死の淵から生還したのだ」と語っている。
0012七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:06:40.42ID:UHq28sIp
■「次に生まれるときには日本に生まれたい」

大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路満洲と朝鮮も訪れた。
日本はこれらの地に惜しみない資本投下を行って、急速に近代化を進めていた。
ダルマパーラは「日本が2、3年の内にこの地で完成させたことを、
イギリスがインドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、
植民地を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。

ダルマパーラの活動によって、仏教に根ざしたシンハラ人の民族主義運動が高まっていった。
イギリスの植民地当局はこれを警戒し、おりから発生した暴動の
首謀者としてインドで5年間もダルマパーラを拘束した。
弟も捕らえられ、半年後に獄死した。
それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、
69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。
「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していたという。
0013七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:06:58.46ID:UHq28sIp
■1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカを訪れた。

「外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、
慣習などはほとんど消え去りそうになっていました。
このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下で
同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国民達は日本を称賛し、
尊敬していたのです。
先の80年の間、日本はアジアにおいて
独立国として立ち上がっていたのです。
西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配していた時に、
あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打ち負かしていました。」
0014七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:07:07.20ID:UHq28sIp
■「私達は日本に、このことを感謝しなければなりません」

日本の終戦日は「Victory over Japan Day(対日勝利の日)」と呼ばれ、
大きな都市では記念式典が開かれた。
デヴェンドラ氏が住んでいたラトゥナプラでも式典が開かれ、
イギリス側代表の後で、氏の父親がスリランカ側を代表して演説を行った。

「この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。
しかし、私達は日本によって得られたものがあります。
それは愛国心という心でした。
それは、日本によって全てのアジアの国々にもたらされたのでした。

戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、スリランカ、
ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意識を得たのです。
私達は日本に、このことを感謝しなければなりません。」

「対日勝利の日」に、英国側の前で、
日本に感謝する演説を行うとは、まことに大胆な言動である。
それだけ強い気持ちが籠もっていたのだろう。

1948年2月4日、スリランカは独立を果たした。
日本が設立を支援したインド国民軍の指導者たちを
イギリスが「反逆者として軍事裁判にかけようとした事に対して、
インド全土に暴動、ストライキが広まり、それがきっかけとなってインドは独立を勝ち得た。
それとともに、イギリスはスリランカからも撤退したのである。
0015七つの海の名無しさん2019/11/15(金) 23:19:56.40ID:xL2ITiOa
ID:UHq28sIp
ドイツのホロコーストやナミビア人虐殺には触れない不思議な五毛
0016七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 18:56:32.29ID:pCOELa7t
>>4
王子なんだからサウジ人に決まってんじゃんw
0017七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:01:15.04ID:6kTl5F9E
>>14

■ヘレロ・ナマクア虐殺(ヘレロ・ナマクアぎゃくさつ、ドイツ語: Völkermord an den Herero und Nama)は、ドイツ領南西アフリカ(現・ナミビア)においてドイツ帝国が先住民族に対して行った虐殺。アフリカ分割の動きの中の1904年から1907年にかけて行われ、20世紀最初のジェノサイドと考えられている。

■ドイツの本性

隠れている歴史を見てみよう。ドイツの醜悪な顔が一つ一つ見えてくる。1904年、ドイツは植民地のナミビアから土地を奪うためにヘレロ族・ナマ族を無惨に殺害した。
井戸に毒をまいたという話もある。

20世紀初めの人種虐殺だった。ヘレロ族8万人のうち6万5000人、ナマ族2万人の半分の1万人が死亡した。これだけでなくドイツは生存者2000人を強制収容所に入れて人体実験もした。その後、ドイツは遺体を本国で運んで研究用として使用し、2011年に20人の遺骨を本国に返した。


■ナミビア先住民、ドイツ植民地時代の虐殺めぐり集団訴訟
https://www.afpbb.com/articles/-/3113437

ナミビアでドイツ植民地時代に起きた先住民ヘレロ(Herero)人とナマ(Nama)人の虐殺をめぐり、両先住民の代表団が5日、ドイツ政府に補償を要求する集団訴訟を米ニューヨーク(New York)の裁判所に起こした。代表団は虐殺をめぐるナミビア政府とドイツ政府との交渉にも参加させるよう求めている。

 さらに原告団は、入植者らがヘレロとナマの女性や少女たちをレイプし、両民族を強制労働させていた事実を植民地政府が黙認していたと非難している。

■ドイツは直接補償を拒否
 1904〜05年に起きたヘレロとナマ人大虐殺をめぐり、ナミビア政府とドイツ政府は共同宣言の発表に向けて協議を続けている。

 ドイツ側は虐殺の事実を認める一方、ナミビアが1990年に南アフリカから独立してから、ドイツは数億ユーロ規模の開発援助を「ナミビア国民の利益のため」に続けてきたことを理由に直接補償は拒否し続けている。

■ドイツ、旧植民地ナミビアに石柱返還=過去反省の「盲点」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051800176&;g=int
 ただ、独政府はこれまで、ナミビアで20世紀初頭に独軍が先住民数万人を虐殺したことに対する賠償は拒否するなど、植民地支配への補償には他の欧州諸国と同様に消極的な姿勢を示している。(2019/05/18-06:19)
0018七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:35:29.80ID:4lDsJLmx
>>1
「ジェノサイドと強奪の歴史と文化伝統しかないイギリス」は現実を直視しろよ

デイビッド・ギシェル(74歳)は、1963年の独立前に、
中央ケニアの森林アジトから出て英植民地軍と戦った元ゲリラである。

彼は、不作の予感と同様、英国との戦い、
そして国を植民地主義から解放した人々に対する
その後のケニア政府の扱いにまつわる思い出に苦しめられている。
しかし、レジスタンス兵士、独立戦争生存者の功績を見直す動きが始まった。

ギシェル老人が言うところの「白人侵入者」に対する組織的抗戦は、
1952年に開始された。
彼同様、ケニア最大の部族キクユ族出身の数百人の若者が、
植民地主義者を国から追放しようと誓い、マウマウ団を結成したのである。

彼は、「我々にはナイフと斧しかなかった。
古いライフルを持っている者もいた。多くが白人に撃たれた。
私の体にはその時の弾が今も残っている。
恐ろしかったが、独立のために戦わなければならなかった」と語る。

ハーバード大学の歴史学者で、ケニアの自由闘争に関する著書
英国軍は1950年代に10万人強のケニア人を殺害したと推測
その多くは、マウマウ団への支援阻止を目的に
キクユ族を収容するため建てられた強制収容所で死亡した
0019七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:36:21.44ID:egqScRyn
>>18
■ヘレロ・ナマクア虐殺(ヘレロ・ナマクアぎゃくさつ、ドイツ語: Völkermord an den Herero und Nama)は、ドイツ領南西アフリカ(現・ナミビア)においてドイツ帝国が先住民族に対して行った虐殺。アフリカ分割の動きの中の1904年から1907年にかけて行われ、20世紀最初のジェノサイドと考えられている。

■ドイツの本性

隠れている歴史を見てみよう。ドイツの醜悪な顔が一つ一つ見えてくる。1904年、ドイツは植民地のナミビアから土地を奪うためにヘレロ族・ナマ族を無惨に殺害した。
井戸に毒をまいたという話もある。

20世紀初めの人種虐殺だった。ヘレロ族8万人のうち6万5000人、ナマ族2万人の半分の1万人が死亡した。これだけでなくドイツは生存者2000人を強制収容所に入れて人体実験もした。その後、ドイツは遺体を本国で運んで研究用として使用し、2011年に20人の遺骨を本国に返した。


■ナミビア先住民、ドイツ植民地時代の虐殺めぐり集団訴訟
https://www.afpbb.com/articles/-/3113437

ナミビアでドイツ植民地時代に起きた先住民ヘレロ(Herero)人とナマ(Nama)人の虐殺をめぐり、両先住民の代表団が5日、ドイツ政府に補償を要求する集団訴訟を米ニューヨーク(New York)の裁判所に起こした。代表団は虐殺をめぐるナミビア政府とドイツ政府との交渉にも参加させるよう求めている。

 さらに原告団は、入植者らがヘレロとナマの女性や少女たちをレイプし、両民族を強制労働させていた事実を植民地政府が黙認していたと非難している。

■ドイツは直接補償を拒否
 1904〜05年に起きたヘレロとナマ人大虐殺をめぐり、ナミビア政府とドイツ政府は共同宣言の発表に向けて協議を続けている。

 ドイツ側は虐殺の事実を認める一方、ナミビアが1990年に南アフリカから独立してから、ドイツは数億ユーロ規模の開発援助を「ナミビア国民の利益のため」に続けてきたことを理由に直接補償は拒否し続けている。
0020七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:36:50.20ID:4lDsJLmx
>>18
「英国軍がケニアで行った残虐行為は、
戦争に関するあらゆる国際協定に違反する非人道的犯罪である」

エルキンズ氏によると、マウマウ団を、
夜中に眠っている白人を殺害し婦女子を強姦する「野蛮人」とする
誹謗キャンペーンを開始したのは英国政府という

提案されたケニア新憲法(案)には、ケニア独立の犠牲となった人々を称え、
10月20日のケニアッタ・デーをマシュジャ・デー(英雄記念日)とすることが盛り込まれている。
キバキ大統領はまた、ケニア歴史博物館の建設を約束している。

しかし、連邦議員Gachara Muchiri氏は、これは誤った施策と主張する。
同氏は、「元マウマウ兵の殆どは、貧しい人々である。
自由の戦士(freedom fighters)を支援するのに金が必要な時に、
何故数百万シリング(ケニアの通貨単位)を博物館建設に費やすのか」と語っている。
0021七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:37:20.62ID:4lDsJLmx
世界の汚物、病原菌、シロアリゴキブリどもはもう国際社会から消えろよ

【日本の世界史上初】
1941年12月10日、日本軍航空隊がイギリス海軍の誇る最新鋭の戦艦
「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈
※これが真実の”平和の象徴”
「マレー沖海戦」にて【航行中の戦艦を飛行機だけで沈めた世界初の出来事】
「航空機優位」の時代が到来したことを日本は緒戦で世界に示しこれにより「イギリス東洋艦隊」は壊滅

キリストカルト教国の侵略植民地・奴隷解放

【アメリカの世界史上初】
東京大虐殺、民間人を狙いたった2時間で10万人以上を焼殺す
原爆ホロコースト、民間人を標的にした兵器実験

―――――――
欧米シナ露による捕虜虐待・惨殺、日本軍による法遵守・人道的措置

欧米シナ露「捕虜はとらない」=「 全員虐殺 」
日本「捕虜はとらない」=「物資や白旗持たせて解放」

―――――――
他国にやった事・日本と害コクの差

欧米露蛮族「農作物潰して金目的のもんを強制的に作らせ働かせる」
日本人「その土地に合った農作物や民族に沿った食べ物を保護・提案し経済も安定させる」

欧米露蛮族「自然破壊」
日本人「枯れた土地に木を植え緑を育てる」

欧米露蛮族「無教育・自言語禁止・侵略言語の強制」
日本人「教育・学校創設・自言語使え」

欧米露蛮族「反乱・革命者は見せしめ虐殺、抵抗力愛国心を奪う」
日本人「警察や医療、自衛の為の訓練も施す」
0022七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:37:27.64ID:egqScRyn
>>20
■ヘレロ・ナマクア虐殺(ヘレロ・ナマクアぎゃくさつ、ドイツ語: Völkermord an den Herero und Nama)は、ドイツ領南西アフリカ(現・ナミビア)においてドイツ帝国が先住民族に対して行った虐殺。アフリカ分割の動きの中の1904年から1907年にかけて行われ、20世紀最初のジェノサイドと考えられている。

■ドイツの本性

隠れている歴史を見てみよう。ドイツの醜悪な顔が一つ一つ見えてくる。1904年、ドイツは植民地のナミビアから土地を奪うためにヘレロ族・ナマ族を無惨に殺害した。
井戸に毒をまいたという話もある。

20世紀初めの人種虐殺だった。ヘレロ族8万人のうち6万5000人、ナマ族2万人の半分の1万人が死亡した。これだけでなくドイツは生存者2000人を強制収容所に入れて人体実験もした。その後、ドイツは遺体を本国で運んで研究用として使用し、2011年に20人の遺骨を本国に返した。


■ナミビア先住民、ドイツ植民地時代の虐殺めぐり集団訴訟
https://www.afpbb.com/articles/-/3113437

ナミビアでドイツ植民地時代に起きた先住民ヘレロ(Herero)人とナマ(Nama)人の虐殺をめぐり、両先住民の代表団が5日、ドイツ政府に補償を要求する集団訴訟を米ニューヨーク(New York)の裁判所に起こした。代表団は虐殺をめぐるナミビア政府とドイツ政府との交渉にも参加させるよう求めている。

 さらに原告団は、入植者らがヘレロとナマの女性や少女たちをレイプし、両民族を強制労働させていた事実を植民地政府が黙認していたと非難している。

■ドイツは直接補償を拒否
 1904〜05年に起きたヘレロとナマ人大虐殺をめぐり、ナミビア政府とドイツ政府は共同宣言の発表に向けて協議を続けている。

 ドイツ側は虐殺の事実を認める一方、ナミビアが1990年に南アフリカから独立してから、ドイツは数億ユーロ規模の開発援助を「ナミビア国民の利益のため」に続けてきたことを理由に直接補償は拒否し続けている。
0023七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:37:43.23ID:4lDsJLmx
太平洋地域担当の従軍記者エドガー・L・ジョーンズは、
一九四六年一昭和二十一年一の『アトランティック・マンスリー』誌に、
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、
病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、
敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、
まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、
死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、
または他の骨でぺーパーナイフを作るとかしてきたのだ」と書いた。

これらの陰湿な虐殺行為は政府によって公認されたこともあった。

ジョン・ダワー教授はいう。
「ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、
日本兵殺害の中には上官の命令下に行なわれたもの、
あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。
たとえば【日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百何千という
生き残り日本兵を銃で撃ち殺した】アメリカの潜水艦艦長は、
この【虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞】を与えられている。」

「【連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたまま】だ。
そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、
補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側が
それでも【交戦法規を忠実に守って】、
【大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ】様々な問題が生じたのである。 」


>日本は国際法を遵守して捕虜を扱った
>敗戦したイギリス海軍兵に対し人道に人道を重ね、”また戻ってきては花を海にやり弔った”

>対して連合国兵は捕虜や海に漂う兵士、病人怪我人、補給・医療船の非戦闘員に対し
>非人道的な虐殺を行い、その場を離れ、近くの基地で補給し”また戻ってきては虐殺を繰り返した”
0024七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:37:51.77ID:egqScRyn
>>23
■ヘレロ・ナマクア虐殺(ヘレロ・ナマクアぎゃくさつ、ドイツ語: Völkermord an den Herero und Nama)は、ドイツ領南西アフリカ(現・ナミビア)においてドイツ帝国が先住民族に対して行った虐殺。アフリカ分割の動きの中の1904年から1907年にかけて行われ、20世紀最初のジェノサイドと考えられている。

■ドイツの本性

隠れている歴史を見てみよう。ドイツの醜悪な顔が一つ一つ見えてくる。1904年、ドイツは植民地のナミビアから土地を奪うためにヘレロ族・ナマ族を無惨に殺害した。
井戸に毒をまいたという話もある。

20世紀初めの人種虐殺だった。ヘレロ族8万人のうち6万5000人、ナマ族2万人の半分の1万人が死亡した。これだけでなくドイツは生存者2000人を強制収容所に入れて人体実験もした。その後、ドイツは遺体を本国で運んで研究用として使用し、2011年に20人の遺骨を本国に返した。


■ナミビア先住民、ドイツ植民地時代の虐殺めぐり集団訴訟
https://www.afpbb.com/articles/-/3113437

ナミビアでドイツ植民地時代に起きた先住民ヘレロ(Herero)人とナマ(Nama)人の虐殺をめぐり、両先住民の代表団が5日、ドイツ政府に補償を要求する集団訴訟を米ニューヨーク(New York)の裁判所に起こした。代表団は虐殺をめぐるナミビア政府とドイツ政府との交渉にも参加させるよう求めている。

 さらに原告団は、入植者らがヘレロとナマの女性や少女たちをレイプし、両民族を強制労働させていた事実を植民地政府が黙認していたと非難している。

■ドイツは直接補償を拒否
 1904〜05年に起きたヘレロとナマ人大虐殺をめぐり、ナミビア政府とドイツ政府は共同宣言の発表に向けて協議を続けている。

 ドイツ側は虐殺の事実を認める一方、ナミビアが1990年に南アフリカから独立してから、ドイツは数億ユーロ規模の開発援助を「ナミビア国民の利益のため」に続けてきたことを理由に直接補償は拒否し続けている。
0025七つの海の名無しさん2019/11/16(土) 22:38:46.49ID:egqScRyn
【何が、どのようにわかったか】
https://en*cyc*lop*edia.ush*mm.org/
content/ja/article/at-the-killing-centers

「ニュルンベルク裁判の目的は、単にナチスドイツの指導者たちに有罪判決を下すことではなく、ましてそれが主な目的でもありませんでした... 当初から私が感じていたように、それよりもはるかに重要であったのは、歴史の検証に耐え得るヒトラー体制の記録を残すことでした。」
—ロバート・ストーリー、米国検察団長

国際軍事裁判(IMT)が目指していたのは、判決や量刑をはるかに超越したものでした。この戦犯裁判を実行した者たちは、第二次世界大戦中にドイツにより行われたホロコーストを始めとする恐ろしい犯罪の公的記録を慎重に収集していきました。
アメリカ人の主席検事官ロバート・ジャクソンは、「記録が残されない限り… 次の世代の人々は、この真実がどれほど恐ろしいものであったか信じられないであろう。」との懸念を表していました。

後の世代が不公正と感ずることのないよう、個人的証言に依拠とした告発を避け、ドイツ人自身によって記録された文書主にに基づいた裁判を行うことが検事により決定されました。
この膨大な量の文書は法廷における4つの公用語に翻訳され、その重要性が吟味されて被告側弁護団と他の裁判参加者への配布用として再編されました。
検察側は、その他にも参考資料、図説、強制収容所でナチのカメラマンによって撮影された写真などによる物的証拠を提示しました。

立件するために、19の調査のチームがドイツの記録を精査し、証人と面談したり大暴虐の現場へ足を運んだりしました。

ニュルンベルク裁判における目撃証言は、アウシュビッツの殺人施設、アインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)によって行われた残虐行為、ワルシャワゲットーの解体、および殺害された推定600万人のユダヤ人に関する詳細を含む、現在私たちがホロコーストについて知る事実の多くの基盤となっています。
0026七つの海の名無しさん2019/11/24(日) 04:34:35.60ID:BbfvRbWn
>>25
連合国史観?
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