【ベルギー】男性が女性を殴るハンバーガー店の広告に非難殺到「DV根絶運動に真っ向から反していて不快で不真面目すぎる」 [10/12]
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・男性が女性を殴る広告に非難殺到 ベルギーのハンバーガー店
【10月12日 AFP】ベルギーの広告規制協議会が9日、同国のハンバーガー店のオンライン広告に苦情が殺到したことを明らかにした。広告は、別の店の商品を渡した女性を男性が殴りつける様子をポップな劇画タッチで描いたもので、ネット上で拡散されていた。
フェイスブック(Facebook)上で公開された広告は、ベルギーのハンバーガー店「ビッキーバーガー(Bicky Burger)」のもの。ポップ・アートの代表的な画家、ロイ・リキテンスタイン(Roy Lichtenstein)の作品やコミック「バットマン(Batman)」を思わせるタッチで、スーツを着た男性が、ファストフード店の容器を手渡した豊満なブロンドヘアの女性に対し、「ふざけるな。こんなのビッキーじゃない」と叫びながら拳を振るう姿が描かれている。
消費者や議員らからは、ドメスティックバイオレンス(DV)を根絶する啓発運動に真っ向から反した広告で、「不快」「不真面目過ぎる」と非難の声が上がっている。
ベルギー広告規制協議会のサンドリーヌ・セプール(Sandrine Sepul)代表はAFPに対し、24時間以内に一般市民から300件の苦情が寄せられたことを明らかにした。この広告はオランダの食品会社イジコ(Izico)が制作を発注したもので、届いた苦情はオランダの広告規制協議会に送ったという。
セプール氏によると、イジコは説明を求められており、場合によって何らかの処分が「数週間以内」に下される可能性がある。(c)AFP
・"Sérieux", le Jury d'éthique va être saisi pour la publicité sexiste de la marque Bicky Burger
https://www.rtbf.be/info/belgique/detail_serieux-le-jury-d-ethique-va-etre-saisi-pour-la-publicite-sexiste-de-la-marque-bicky-burger?id=10336485
(画像)
https://pbs.twimg.com/media/EGWxwPmX0AAIIE7.jpg
2019年10月12日 20:00 AFP
https://www.afpbb.com/articles/-/3249224?act=all 女にも殴られる権利はある。
男にも犯される権利はある。 こんなのだせば普通に考えて苦情来ることぐらい簡単に予想出来ただろうに何故OK出したし 2000年代にアメリカのプロレスラーでワイフビーター(妻殴り)って名前のレスラーがいたけど今じゃ許されんだろうな 貴方にお勧め:
カサブランカ・ダンディ - 沢田研二 ファイナルファイトみたいに女キャラはオカマってことにすりゃ大丈夫 おっさんにハンバーガー取られそうになった女の人が、スエーで躱したところじゃないの? これ、女が男を殴ってたらまったくクレームないんだろうな 実は殴ってるのが女で
殴られてるのが男だとしたら? メトポのポスターは部下が上司をビンタしてたな
あのシリーズ面白くないけどな 別に俺は表現の自由的には問題ないと思う
勿論広告としては最低だと思うが これは殴られてる方が一見女性に見えるからと言って
女性とは限らない
殴ってる方が一見男性に見えるからと言って
男性とは限らない もっというと
これは両者合意のプレイなのかもしれない 逆だったら賞賛されるのか?いずれにしろ、非難する
人には差別する心がすでに存在している。 殴られている方も男性です
人を見かけで判断しないでください 女性のネックレスと腕輪が同じ物やん
むしろこのセンスのなさに鉄拳お見舞いしたいわ 家庭内じゃないのにどうしてDVなんだよ?
スーパーガールが男性悪役殴ったらDVか? 女の股間にガッチガチに勃起したチンコを描いておけば問題なかったのに >>9
ホントにね。
矛盾しかないポリコレクズは皆殺せ! 女の人に殴られたことあるけど
体重の乗った右フック痛かったよ プロ市民「男子便所より女子便所のほうが狭いのは差別!アベが悪い!」 【東海アマ】
1995年、戦後はじめての社会党村山政権が登場したとき、いったい何が起きたのか?
阪神大震災と地下鉄サリン事件である。
そして、戦後二番目の菅直人民主党政権で何が起きたのか?
311、フクイチ巨大事故である。
【朝堂院大覚】
オウムが言ってたのは、人工地震がこれから起こるかもしれないと言ってて。
そのとき私は、ハ? て思いまして。
地震って自然に起こる地震以外にあるのかって思ってたのですけど、阪神地震がありましたよね。
それで人工地震の件がどうなのかと思いつつも、
阪神震災があったというところで、その情報がなぜオウムまで言ってたのか。
それで幹部が殺されたとき、村井さんでしたよね。
そのときに間違いなく村井さんは、ユダヤにやられたと言ったんですよ。
それはちゃんとテレビでも流れいて、
それをマズいと思ったのか、上祐さんが、ユダヤではなくユダだったと、切り替えましたね。
だから村井さんが、最後の最後に暴こうとしたことを誤魔化して、生き延びてるわけですよ。
あれだけ中心にいたのに逮捕もされずに、また新しい組織作ってるでしょ。
://www.youtube.com/watch?v=a47SZb1z96g
【シオンの議定書・第九の議定】
諸君は、非ユダヤ人が事前に我々の計画に気付いたら、武器を持って我々を襲うというかも知れない。
だがこれに備え、我々は、どんなに勇気ある者も震え上がるような最後の手段を持っている。
やがて世界のすべての首都には地下鉄網が張りめぐらされるが、
いざという時にはここから首都の建物といわず、文書といわず、爆破してしまうのである。
://rapt-neo.com/?p=11777
>>24
それもあるな。
「他社のバーガーを買うのが殴るぐらいに許しがたいこと」と主張したかったんだろうけど、
文脈にそこまでの説得力がないから「くだらないことで殴ってる。 しかも男が女を」となる。 ハンバーガーだけを殴ればよかったのにな
いや今度はヴィーガンが騒ぐかもしれんが あまり絵もうまくないし、何の広告かよくわからんなあ
ほとんどの人は不快に思うだろう
でも津田はこれも表現の自由だというんだろうな この広告が店頭に出るまで何も問題視されないこのバーガーの会社って
当然まともな会社じゃないんだろ >>1
ほいよ^^
17名無しさん@1周年2019/09/26(木) 19:41:19.46
>>恐ろしいのは全ての日本人が知るべき「連合国の非人道的犯罪」が周知されていないことだろ^^
日本人だけでなく世界中の人々が知らなければならない非人道的犯罪の一つだ
日本人はジェノサイド加害国の悪事を指摘し非難し続けなければならない
それが連合国の非人道的犯罪を撲滅させる最も重要な事だ
アメリカの戦争犯罪
ナチスが毒ガスを〜などと言い続けているが戦時中に【毒ガス攻撃はあった、被害者は日本人】
ひめゆり学徒隊にも黄燐弾が使われ女子学生らは苦しみながら死んだ、惨殺だ >>1
>つまり「アメリカ蛮族は一匹残らず+ね!!!」と日本人に思って欲しいってことだろ^^
>ジェノサイド無視に協力するってのは憎悪増幅への協力だ
※アメリカの戦争犯罪
十月十日は犯罪アメリカンのゴミカスが日本人に対し謝罪する日
犯罪アメリカン一匹一匹が人に対し贖罪意識を持つべきだ
『十・十空襲』または沖縄大空襲
太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)10月10日に
南西諸島の広い範囲で【アメリカ海軍機動部隊が行った大規模な空襲】
所在の日本軍艦船などに甚大な損害を与えるとともに、【那覇市の市街地の大半が焼失するなど民間人にも大きな被害】が出た
最も被害の大きかったのは那覇市で、11日まで続いた火災により当時の
【市内市街地のうち9割が焼失】し、死者は255名にのぼった
【本島全体では330人が死亡し、455人が負傷】している.
本島で全損となった家屋は11451戸(うち那覇11010戸)、半壊62戸であった。宮古島でも民家13軒が半焼している
日本政府は、同年12月、【非軍事目標である市街地を攻撃したことが戦争犯罪に該当】するとして
中立国のスペイン政府を通じた外交ルートでアメリカ政府に正式抗議した
しかしアメリカ側は、【従来の自国の解釈からすれば戦争犯罪に該当する】としつつ
【それを認めると捕虜になったパイロットが訴追される危険】があることや
被害実態が日本側主張通りか明らかでないことを考慮し、この【抗議を黙殺】した >>1
「生ゴミヨーロッパ蛮族とその取り巻き蠅はアホ揃い」キャンペーンだなw
『パトリス・ルムンバの暗殺』
1961年1月17日午後9時40分過ぎ、コンゴのカタンガの森の中でパトリス・ルムンバは
ベルギー軍憲兵たちによって、銃殺されました。35歳。
この暗殺を“二十世紀で最も重要な暗殺”と呼ぶジャーナリストや学者がいます
ルムンバを殺した同じ力が同じ理由で、10月20日、リビアのカダフィを殺しました
ルムンバの暗殺に関する最も重要で決定的な書物は Ludo De Witte 著の『The Assassination of Lumumba』
この本の影響で、2002年2月、ベルギー政府はパトリス・ルムンバの暗殺について正式にコンゴの人たちに謝罪の声明を発表しました。
アメリカ政府は謝罪していません。これからもしないでしょう。
アフリカ問題についての【権威者とされている白人たちの多くが如何に見事に米欧の新植民地主義、
帝国主義的政策の走狗として奉仕】しているかについての実感があります
DRC(コンゴ民主共和国)の、そしてまた、アフリカの経験では
【繰り返される暗殺はアフリカの人々の真正な自己自決を圧殺】するためのものであった
これらの犯罪の中でも、ルムンバの殺害とその隠蔽は今もアフリカ全土にわたって響きわたり、
【集団大虐殺的な政治と経済状況の繰り返しのパターンからの脱却】を求める叫びとなっている。
ルムンバは民主的に選出されたコンゴの最初の首相であった
コンゴ民主共和国は1960年6月に独立を獲得したが、
ベルギーの植民主義者たちが望んだのは独立後の状態が植民時代の状態から変わらないことであった。
ベルギーは、ヨーロッパでは内部分裂した社会を抱える小国だが、
コンゴでは独立以前から、コンゴを支配する大君主のような地位に立つことを成し遂げたつもりであった
そのベルギー人たちの目から見て、ルムンバの犯した許し難い罪は、
1960年6月の独立記念式典でベルギー国王の行なったスピーチに反論したことであった 【[国王のスピーチは植民地時代の所業に対する一片の謝罪もなく、むしろ、ベルギーはコンゴに文明をもたらしたと、
過去を恩着せがましく正当化する厚顔無恥の内容だった。それに対するコンゴ人たちの当然の反発を反映して、
コンゴの大統領カサブブは既に用意していた祝辞原稿から前宗主国ベルギーに対する儀礼的な感謝の言葉を含む部分を大きく削除し、
また、祝賀式典のプログラムにはなかった首相ルムンバの発言が急遽追加されたのだった。]】
ルムンバは【ベルギーの使命がコンゴ人たちを文明化し近代化することであったという主張を受容することを拒否】したのであった。
ルムンバは独立から2ヶ月もたたない内に首相の座から追われ、自宅に監禁された
彼は脱走したが捕えられ、殴打され、拷問にさらされ、挙句の果てに惨殺された。
この【暴行、拷問、殺害のパターンは今日まで、ルムンバの暗殺から50年後の今に至るまで続いている】
ルムンバの暗殺の時以来【真の独立の道を辿ろうとしたアフリカ人指導者のほとんど誰もが暗殺された】
指導者たちに対する暴力は、アフリカ人の抑圧とアフリカの資源の略奪に反対の声を挙げたジャーナリスト、学生、
野党指導者、社会勢力に対する脅迫と暗殺行為を同時に伴った。
1964年ジョンソン政府がコンゴの二度目の独立闘争を流産させようとして
外国傭兵隊の支援に乗り出した後に、マルコムXはAbdurrahman Babu とチェ・ゲバラと会合した。
その会合で、コンゴとさらにはアフリカにおいて自由解放の計画を立てるという政治的動員を乗り越えて
行動をおこすための戦略で彼らは一致した。三人の偉大な自由の戦士たちのこの歴史的会合から4ヶ月後に
マルコムXはハーレムで銃弾に倒され、続いてCIAはチェ・ゲバラを追いつめて殺害した。
ジョン・F・ケネディは、1963年11月、全世界にわたる死への傾斜を推し進める産軍共同体と情報機関の勢力によって暗殺された。 >>57
発狂してるバカ害ジンが自分がどうしたいのか「ヒト」からどう見られるかわかってないからなぁ
ルムンバの暗殺以来【ヨーロッパと北米の主流の知的著作やメディアはルムンバが暗殺された時の状況を隠蔽し、歪曲】してきた。
国連の元職員たちはその当時コンゴに関与していた国際的機関の行動決定の過程に
アメリカ合州国が及ぼした影響について多数の書物を書いている。
【暗殺を隠蔽するために主要な国際機関が操作された事実】の記録は各種の権威筋によって確立されている。
アメリカ合州国はコンゴ問題に関して国連を操作していたから、ヨーロッパ人傭兵隊の排除に国連の介入を要求していた
パトリス・ルムンバとクワメ・エンクルマは【当の国連がそのヨーロッパ人傭兵隊と彼らを雇った
”ベルギー、フランス、アメリカ合州国の雇用主たち”を支援】していることを見出したのだった。
当時、国連の事務総長だったダグ・ハマショルドがこの事実に目覚めた時、彼自身もまた暗殺された。 ロシアを負かし「中東アフリカに希望・民族自決意識」を齎した日本軍
欧米諸国を負かし「アジアに希望・民族自決意識」を齎した日本軍
いまだに自称ユダヤ=キリストカルト教徒=ハクジン=共産党員=コリアンは
日本軍の偉業・日本ジェノサイドに対する謝罪や正しい歴史認識を表明する事から逃げている
慰安婦問題という「強姦・人身売買連合国&コリア」の連携もそうだ
人権・平和と喚きながらやっている事は被害国を攻撃、改竄、偽証、すり替えテロ
何も変わらない「ハクジン=シナコリアンという害獣・寄生虫」のおぞましさよ 毒ガス攻撃
『岡山空襲』
1945年6月29日の午前2時43分から午前4時7分にかけてアメリカ軍により行われた岡山県の岡山市に対する空襲
計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された
この空襲ではアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB-29およそ140機が用いられ
空襲警報が出されず全くの【不意打ちであったため死者1737人】にも及んだ
6月29日には岡山県の岡山市のほか宮崎県の延岡市、福岡県の門司市が空襲を受け
夜には長崎県の佐世保市が空襲を受けた
アメリカ軍は軍事的な拠点よりもその下請けとなっている
多数の小規模な工場と労働者、すなわち【一般市民を攻撃対象】とした
6月29日午前2時43分、138機のB-29による岡山市への爆撃が開始
【照明弾と焼夷弾が使用された】
【焼夷弾は爆風による破壊効果をもつ大型の油脂焼夷弾】(AN-M47-A2)と
殺傷能力を高めるために【猛毒の黄燐が混入された小型の集束焼夷弾】(AN-E48、集束弾からAN-M74焼夷弾38本が散開)の
2種類が約890t(約95000発)投下され【市街地は一面火の海となり逃げ場を失った1700人を超える岡山市民が殺害された】
なお、この岡山空襲で世界的外科医の三宅速も犠牲となっている
【市街地の73%が焼け野原】と化し【国宝に指定されていた岡山城の天守閣や
蓮昌寺の伽藍を始めとした中世から近世に掛けての文化財も失われた】
一方のアメリカ軍は7月上旬、岡山市を上空から偵察し岡山市の破壊面積率を63%とする報告を行った
これは、当初アメリカ軍が1回の空襲によって破壊を計画していた面積の119%にあたるものだった 戦争犯罪塗れの連合国軍
ホロコースト賛美、擁護の連合国&人権団体
1945年3月23日、女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊が沖縄陸軍病院にて看護
戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる
しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており
また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した
最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である
第三外科壕は19日朝、【黄燐手榴弾】などの攻撃を受け【壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡】
さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は【壕脱出後に米軍の銃乱射で死亡】3名が重傷を負った
第三外科壕にいた人々のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに5名(ひめゆり学徒隊の生徒が4名、軍医が1名)のみである
職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが
このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり
さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている
沖縄戦
ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の従軍記者アーニー・パイルは
沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」
「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している
実際に、攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり
これは史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名も上回っていた いや、ヨーロッパってそうやって発展してきた地域やん
自己否定ですか? 安全区国際委員長、ラーベ(正統史観
『南京安全区国際委員会ジョン・ラーベ代表』
安全区国際委員長だったラーベは虐殺を1件も目撃しませんでした。
ラーべの日記や手紙の中では
ラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもありません。
ラーベは、1937年12月17日に、日本軍による破壊や犯罪が極めて少数で
秩序が回復した旨の『第6号文書』を日本大使館宛に送っていました。
ところが、東京裁判で検察側書証として提出された
「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」
(ジーメンス社社長マイアー宛の手紙)には、
「約2万の婦女子を冒し、数千の無辜の市民を殺害」と書いていました。
さらに、『ヒトラーへの上申書』には、
「中国側の申し立てによりますと、10万の民間人が殺されたとのことですが、
これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。
我々外国人はおよそ五万から六万と見ています」と報告しました。
ラーベの報告は、数千だったり5〜6万だったり滅茶苦茶です。
もしも、本当に日本軍が市民大虐殺をしていたのなら、
日本軍憲兵隊に通報したり日本大使館に抗議するのが
安全区国際委員長の責務であるのに、それをせず、
南京の外(上海やドイツなど)に向けてのみ、
日本軍の犯罪を発信していたのは、
彼が嘘の宣伝工作をしていたとしか考えられません。 このラーベの嘘宣伝は、安全区国際委員会全体が
嘘の宣伝工作委員会と化していたのが大きな理由ですが、ラーベ独自の事情もありました。
ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを
幾つも持っていた支那軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていました。
これは、中立と、安全区の保護を責務とする安全区国際委員長としては、
言語道断であり、この行為自体が支那軍のための工作活動です。
また、当時ジョン・ラーべは、支那の蒋介石政権に重電機・通信機などを
売って莫大な利益を得ていた「軍需産業ジーメンス」の南京支社長でした。
支那事変が始まってから
日本は再三ドイツに支那への軍需品輸出をやめるように要請していました。
ヒトラーはソ連を牽制するためにも、
日本と手を組む事を選び、支那への軍需品輸出を控えました。
ラーベにしてみれば、
自分が30年間も支那で培ってきた商売が水の泡になるので、
「日本はこんなひどい事をしている。こんな国との同盟は止めてくれ!」
と言いたかったのでしょう。
しかし、ラーベの荒唐無稽な「数千人」とか「5〜6万人」とかの虐殺の話は
あまりにも不自然過ぎて、同胞のドイツ人にも信じて貰えませんでした。
1938年1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、
2月10日、自分の目で実情を確かめた上で漢口のドイツ大使館に、
ラーベが語る日本軍の暴行事件について、
「暴行事件と言っても全て支那人から一方的に聞いているだけ」
と書き送っています。
結局ラーべの策略は実らず、ドイツに呼び戻され、
二度と支那の土を踏むことはありませんでした。 『第6号文書』安全区国際委員会
「1938年1月14日付のドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙」
(ジーメンス社社長マイアー宛の手紙)
『ヒトラーへの上申書』『ラーベの日記』
1937年、支那事変の発端である第二次上海事変の前、
蒋介石は1932年の第一次上海事変の上海休戦協定を無視し、
呉淞と真茹を結ぶ線の北側の非武装地帯に
クリークや2万個以上のトーチカを作るなどして軍事要塞線(ゼークト・ライン)を築いていた。
【支那にいたドイツ軍事顧問団の最高責任者アレクザンダー・フォン・ファルケンハウゼン】が
保存していた内部文書。(ドイツ、フライブルク連邦軍事資料館所蔵)
ファルケンハウゼンは【ドイツが国民党軍に武器を供給する際、その取引可否を決裁する権限を持っていた】
この人物と家族ぐるみで親しかったのが
南京安全区国際委員長でナチ党員のジョン・ラーベで、
【ラーベはシーメンス社の武器部門責任者】だった。 >>1
英マンチェスター・ガーディアン紙・中国特派員、H・ティンパーリー(正統史観
『曾虚白自伝』 曾虚白・元国際宣伝処処長
我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、
我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を探して
我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。
ティンバーリーは理想的人選であった。
かくして我々は手始めに、金を使ってティンバーリー本人と
ティンバーリー経由でスマイスに依頼して、
日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。
ティンパレーの『What war means: The Japanese terror in China』
の内容は、エドガー・スノー「アジアの戦争」にも派生、
様々な著作・メディアに引用され、東京裁判でも大いに重宝され
「日本軍による南京大虐殺」なるものの本家本元・元祖家元となっている。
国民党国際宣伝処の処長・曾虚白は自伝のなかで次のように書いている。
「ティンパレーは都合のよいことに、
我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の
『抗戦委員会』に参加していた3人の重要人物のうちの1人であった・・・
当時、極めてタイムリーに出版された日本断罪の書、
『戦争とは何か』と『南京地区における戦争被害』(「スマイス報告」)が、
実は、中立的立場の第三者の人物によって書かれたものではなく、
国民党の戦時宣伝戦略のために資金援助を受けて執筆されたものであることが判明したのである。 ティンパレーは序文の中で、見聞したという日本軍の暴行記事を
ガーディアン紙に打電しようとしたが上海の日本側電報検閲員に発電を差し止められたので、
本を書くことで世界に知らせようとした、と記している。
しかし、根拠のない30万という数の記事など、非常識として差し止めるのは当然であり、
むしろ彼は承知のうえで「差し止め」させる状況をわざと作り、
「差し止め」られるとその事実を誇大に宣伝することで
自分の捏造記述に信憑性を持たせたのだった。
そして、理不尽な日本の弾圧をくぐりぬけ、
良心的ジャーナリストとして真相を発表・告発したのだと、自分と自著を持ち上げた。
昭和13年1月17日、ティンパレーのこの
「南京その他で30万を下らない民間中国人が殺戮された」
という記事を広田弘毅外相名でワシントンの日本大使館に送信、それがアメリカ側に傍受され解読されていた。
これをもって、当時の日本の軍中央や政府の指導者が
南京大虐殺を知っていた証拠だと嬉々として述べる人がいる。
しかしこれは「こんな与太記事を流す記者がいる」と伝達しただけのもので、
南京の暴虐を事実としたものではない。 「ハロルド・ジョン・ティエンパレー」
1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。
ロイター通信の北京記者となる。
その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。
1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、
宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。
編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある
ティンパーレーの日本語訳本を出した「龍渓書舎」というのは、
実は「チャイナ・ウイークリー・レビュー」が
中国語訳本を出版するときに使われた書店名であることもわかった。
チャイナ・ウイークリー・レビューは、
そもそもが国民党の息のかかった英文紙だったのである。・・・
ここで新たにわかったことは、ティンパーレーは、
南京から送られてきた手紙を、
ただ「真実」として読者に伝えようと思ったのではなく、
「宣伝部」という国民党組織と一緒になってあの本を書いた、ということである。
中央宣伝部が総力を挙げて製作したのが、宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』であった。
この本は「死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、
つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした」とか、
「強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。また、邪魔になった子供たちも突き殺されました」
といった南京の「度重なる殺人」を描いていた。 「元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏」(正当史観
【※下記は南京戦から50年以上が経って述べられたダーディンの回顧談の一部だが作り話】
南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89・10から)
予想されなかった虐殺
―――――――
日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか?
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
銃剣を使う場合もあった。
とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
―――――――
HPのタイトルが『南京事件を世界に知らせた男』とされているのは
南京事件に関する彼のレポート(記事)が
1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに掲載されていたため
しかし、その記事を読めば分かるが、【ダーディンは日本軍による民間人虐殺を目撃していない】
見出しとその直後にある要約部分に「婦人への暴行」とか「民間人の殺害」という言葉を挿入しているが、
その後にある約5000字におよぶ長文レポートにそれらに関する説明がまったくない
回顧談のとおり、ダーディンが、本当に南京で日本軍がウサギを殺すように
多数の民間人を虐殺したのを目撃したなら、そのような記事には決してならない ダーディンの約5000字におよぶ長文レポートは、殆どが伝聞記事で、
彼自身の目撃記事は支那人便衣兵の悪行や便衣兵の処刑や戦闘状況など僅か
日本軍による民間人虐殺に関する目撃記事は全くない
本当に日本軍による民間人殺害を目撃していれば、こんな記事は有り得ない。
新聞を売るために「東スポ」と同じように派手な見出しを付けただけだった
同じ頃、【シカゴ・デイリー・ニューズのスティールも、これと酷似した記事を書いている】が、
それは2人とも、【ベイツが安全区委員会として作成したメモ(レポート)に基づいてそれぞれ記事を書いたから】
(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』105頁)
ベイツなど南京に長期間残った安全区委員会のメンバーは誰も日本軍による市民虐殺を目撃していない。
1937年12月15日に早々と船で南京を離れたダーディンやスティールが、
日本軍による民間人殺害を目撃する筈がない
特にダーディンは句容に行っていて南京に戻ったのは14日の夜
また、【ベイツは支那国民党の顧問】だったことが判明しており、国民党の宣伝に関わっていたことは間違いない。
(「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」『諸君!』2002年4月号、『正論』2002年4月号)
ダーディンの記事の派手な見出し「民間人も殺害」に関しては、当然世間は相手にしなかった
ところが、それから8年以上が経った戦後の東京裁判で、日本軍による南京市民大虐殺事件があったことになってしまった
「東スポ」のように、見出しなど一部にだけ派手に「民間人も殺害」という言葉を入れていたダーディンは、
一躍、『南京事件を世界に知らせた男』となった。自分でも、さぞかし驚いたことでしょう。
ダーディンは、1962年のニクソン訪中で北京に同行し、1988年には南京の虐殺館を訪問した。
古森義久氏への回顧談でも、見て来たようなウソをつき通すしかなかった
(注)ダーディンの記事は、ベイツ(宣伝工作員)の宣伝用レポート(メモ)を基に書かれた。 ダーディンは、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズで、
――――――――
日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。
彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、
高さ六フィートの小山を築いていた。
水曜日(15日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、
さらには、その後の2日間、軍の輸送車が、
人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。
(12月18日付NY・タイムズより一部抜粋)
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という記事を書いておきながら、
後(1987年8月)に、
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この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、
お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。
前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、
この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。
この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。
中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、
これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。
この地域で戦闘はありませんでした。
(『南京事件資料集』アメリカ関係資料編)
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と、あっさり嘘を告白した。 また、
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南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89.10から)
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の回顧談と、ダーディンの1938年1月9日付ニューヨーク・タイムズの記事には以下の矛盾もある。
●新聞記事
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「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」ニューヨーク・タイムズ
1938年1月9日 F・ティルマン・ダーディン
「(中略)
南京を掌握するにあたり、日本軍は、
これまで続いた日中戦争の過程で
犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。」
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●回顧談
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上海から南京近郊に到達するまでの過程で、日本軍が中国側の捕虜や民間人を
多数殺したという話しは当時あったのですか?
「いや、それはありませんでした。(中略)虐殺に類することは
なにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。」 >>1
『エドワード・テラー』
ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ人理論物理学者
アメリカ合衆国の「水爆の父」として知られる。ローレンス・リバモア国立研究所は彼の提案によって設立された
核開発の推進者
1958年から1960年にかけ、テラーはローレンスリバモア国立研究所の所長になった後
カリフォルニア大学バークレー校で教える傍ら、同研究所の副所長をつとめた
1975年、テラーは引退してリバモア研究所の名誉所長に指名され、フーバー研究所のシニア研究員にも任命される
引退後もテラーは絶えず核計画推進の主張者であり続け、実験と開発の継続を訴えた
戦略防衛構想が撤回されたときにも、テラーはその最も強力な擁護者の1人だった
1982年、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンより【アメリカ科学界最高峰の栄誉とされるアメリカ国家科学賞を贈られた】
水爆を開発したことに関しては、生涯肯定的な言動を行い、悔いることはなかった トリニティ実験(Trinity)
1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験
この実験はアメリカ・ニューメキシコ州ソコロの南東で行なわれた
実験場は現在ではアラモゴードに本部を持つアメリカ陸軍ホワイトサンズ・ミサイル実験場の一部となっている
トリニティ実験は爆縮型プルトニウム原子爆弾の爆発実験で、同型の爆弾『ファットマン』が、後に日本の長崎県長崎市に投下された
この実験による核爆発は、約20ktのTNTの爆発と同規模のもの
核兵器の実現可能性を調べる研究は、アメリカとイギリスによって
1939年には開始されていたが、実際の開発が本格的に始まったのは
1942年に研究がアメリカ陸軍の権限の下に委譲されてマンハッタン計画となってからのことだった
マンハッタン計画の目的は核兵器の内部で起こる核分裂連鎖反応の源となる
核分裂性物質を開発することと、核兵器自体の設計であった
この計画はニューメキシコ州のロスアラモス研究所で最高機密として進められた
実験の予想
トリニティ実験の結果を観察する研究者たちの間では爆発の大きさについての賭けが行なわれた
予想には「0(不発)」というものから「TNT 換算で18kt」(I. I. ラービによる予想)
「ニューメキシコ州を破壊」、「大気が発火して地球全体が焼き尽くされる」というものまであった
(幸いにも最後の予想については事前の計算でほぼ除外できることが分かったが、
研究者の中にはしばらくの間これを心配する者もいた)。結果的にはラービが賭けに勝つこととなった
なお、核融合を用いた更に強力な爆弾の開発を主張していたエドワード・テラーは
破壊力の「小ささ」に落胆し「こんなちっぽけなものなのか」と漏らしたという >>1
誇らしい自称ユダヤ&キリストカルト教徒の非人道的犯罪
戦争犯罪を誇る学校に実験を祝う記念日
”誇らしい”のに何故毎年別件で盛り上がりすり替え記事を乱発させ自作自演テロをやる必要があるんだ?w
1965年12月21日にトリニティ実験場はアメリカ国定歴史建造物 (National Historic Landmark) に指定され
1966年10月15日には国定史跡 (National Register of Historic Places) にも指定された
実験から50年以上が経過した2003年現在でも実験場跡地では通常環境の約10倍というわずかな残存放射線が検出される
アメリカ陸軍当局は、トリニティ実験場に1時間滞在する間に浴びる放射線の量は
食物を摂取したり日光を浴びたりする際に受ける放射線量よりもずっと少ないとしている
実験場に建てられている高さ約3.65mの溶岩でできた記念碑は爆発の中心地表を示している
トリニティ実験場は現在も【「核ツアー (atomic tourism)」の客たちにかなり人気の目的地】となっている
2005年7月16日には【トリニティ実験60周年を祝う特別ツアー】が企画され
数百人(報道によっては数千人)の訪問者がこの記念日を祝うために集まった
実験場付近住民への調査
トリニティ実験場付近の住民は長年に亘り、判然としないがんの発症例が
ニューメキシコ州南中部一帯で繰り返し発生し、それにより多くの住民が死亡していると主張した
また、政府に対して核実験の放射線量の影響を判断するよう求めた
これに対して2008年に未公表の報告草案がまとめられたが、推計が含まれており住民が納得できるものではなかった
こうした中、2014年9月、実験当時にニューメキシコ州に居住していた住民を訪ね
実験によって汚染された食物の摂取による内部被曝の影響をアメリカ国立がん研究所で調査することとなった 15七つの海の名無しさん2019/08/07(水)
今年も「原爆ホロコースト無視」に多数の国が参加してるしな
「我々非人道的犯罪国は絶対に謝罪しない!」と表明し或いは
「我々は犯罪国批判をせず被害国日本を批判し犯罪国に擦り寄る!」と表明している
国内では毎度の如く自作自演テロ、芸ノージン、災害の防災すり替えが乱発中で酷いもんだ
>>
「ヒトの世界」を壊して強奪・模倣・増殖増長したのが自称ユダヤとキリストカルト教だろ^^
害虫害獣の思い込み、逆切れ、野蛮さに「ヒト」は甚大な被害を受け続けているなぁ げいじゅちゅ言う奴は擁護しないのか?
怒りを拳で表現しただけだろう。 あかねちゃんが乱馬を殴るのはギャグになるのに
乱馬があかねを殴ると虐待になるのはなぜだ 男に見えるのが性転換した女性
女に見えるのが女装家の男
容器の中は生理用品
こんな裏ストーリーがあったらどうなるんだろ 「ビッキーバーガー(Bicky Burger)」
ぐぐったらまずそうだった(´・ω・`) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています