宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」のナウシカ役(1984年)、「ルパン三世カリオストロの城」のクラリス役(1979年)をはじめ、多くの人気作品で知られる高知市出身の声優、島本須美さん。

 島本須美さんが出演し、スタジオジブリの映画音楽を楽しむ「オーケストラによるドリームコンサート〜ジブリの思い出がいっぱい〜」が4月9日午後2時から高知市の県民文化ホールで行われる。残席わずか。問い合わせは県民文化ホール(088・824・5321)へ。

 涼やかに澄んだ声、清廉な印象はずっと変わっていない。このほど高知に帰省した島本さんに、おてんばだった子ども時代や、声優としての足跡を振り返ってもらった。

子どものころ
 ―鏡川のそばで育った島本さん、どんな子ども時代だったんでしょう?
 男の子とけんかしたり、ヘビのしっぽを持ってブンブン振り回したり。(笑)

 ―あらまあ…(カリオストロの城の上品なヒロイン)クラリスがヘビを…。

 ごめんなさい、ンフフ。

 ―川のそばだからヘビがたくさんいたんですね。

 はい、いっぱい。もうね、おともだち! 白い石を川に投げ入れて、それを探す遊びなんかをしてましたね。水がとても透き通ってましたから。
 (鏡ダムの工事は1963年に始まり、完成は1967年。ちょうど彼女が小学生のころに重なる)

 ―ごきょうだいは?

 三つ下の妹、七つ下の弟がいます。妹はどこに行っても「ああ、あのお姉さんの…」って言われたみたい。私は運動が得意で、小学校の時は、ラジオ体操になると、みんなの前に走って出ていって、お手本役を務めるような子でしたから。

 (活発で、大勢の人の前に出ても物おじせず楽しめる性格。テレビで見る女優への憧れや夢らしきものが、ぼんやりと生まれていたのだろう)

 ―朝倉中学から高知商業高校に進み、演劇部へ。その時ソフトボール部の顧問の先生から熱心に勧誘されたそうですね。

 はい。体力測定の遠投で50メートル以上投げちゃって「絶対うちの部に入れ」「演劇部は就職に役立たないけど、ソフトボール部なら有利だよ」と(笑)。その時の言葉が心にずっと引っ掛かって、いまだに「(演劇部でも)ちゃんと食べられてますけど?」って思うことがあります。後になって高知商業高校に講演で呼ばれると、先生は校長になられてました。(笑)

俳優になったころ
 (桐朋学園芸術短期大学に進み、卒業後は縁あって青年座へ。入団後の初舞台は1977年のフランク・ヴェデキント作の古典「春のめざめ」だった。以後1983年ごろまで「ブンナよ、木からおりてこい」の全国公演や東京ヴォードヴィルショーなどの舞台、NHK大河ドラマ「花神」や朝ドラ「マー姉ちゃん」、「西遊記」などのテレビ、山口百恵、三浦友和主演の映画「泥だらけの純情」など次々出演を重ねる)

 ―俳優として順調なスタート。当時のことを教えてください。

 青年座に入った時、初井言栄さんがいらして、1カ月ほど付き人をやらせていただいたんです。初井さんは後に宮崎さんの「天空の城ラピュタ」に出演(海賊ドーラ役)するなど、声優のお仕事もされていて「マイクにしゃべる時はこうすればいいんだよ」とか「語り掛ける場面は、マイクを相手だと思ってしゃべりなさい」とか、たくさんいろいろなことを教わりました。とてもいい先輩に恵まれたと思います。

 ―本格的な声優の仕事はいつから? 舞台などとのバランスはどう取ったのでしょう。

 アニメの初レギュラーは「ザ☆ウルトラマン」(1979年)。この作品は絵の仕上がりが遅くて、何もないまま『赤い線が出てくるところがあなたのせりふよ』みたいな状態でした。時間拘束がきつく、舞台がやりたくて役者になったのに旅公演に行けない。だから「声優のレギュラーものは仕事に入れないでください」って事務所にお願いしました。

 (声優業を増やすことへのためらいの一方、舞い込んだのがルパン三世カリオストロの城だった)

 形としてはオーディションだったんですけれど、ご指名だったようです。きっかけは(前年に受けた)高畑勲監督の「赤毛のアン」のオーディション。スタッフだった宮崎さんの頭に残っていたみたいでした。

 ―ルパンのオーディションは、宮崎さんもいましたか。

 いえ、誰も。ディレクターさんと私だけ。「僕も内容が分からないですけれど」って言いながらプリントを渡されて「ちょっとここ読んでみて」と。一応確認のために呼んだ、という感じでした。

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