>>344
(続き)

結果、83年冬の参院選で自民党は過半数を割った。追加公認で過半数にこぎつけ
新自由クラブと連立を組んだが、ほぼ5年にわたる政権の最大の危機だったろう。
中曽根首相は「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」との総裁声明を出したが、
混乱は収まらない。翌年の総裁選では田中派の二階堂進氏の擁立劇が勃発、頓挫したが
苦汁をなめた。

他方、煩悶させたのは政権が終了した翌々年の89年、竹下登首相に対してであり、
理由はリクルート事件だった。

「中曽根裁定」により後継候補3人から安倍晋太郎、宮沢喜一両氏を退けて誕生させた
政権だった。総主流派体制を誇り、竹下首相本人をはじめ、田中派の伝統を継いで
選挙と国会対策に秀でた竹下派が要路を占めた政権は手堅く見えた。

だがリクルート事件が発覚、宮沢蔵相らが次々と辞任した。野党は前政権の構造汚職
だとして中曽根前首相の証人喚問を求め、予算審議を拒否して譲らない。

安倍晋太郎幹事長との会談でも「疑惑がないので必要ない」と中曽根氏の拒絶は
変わらない。自身の借入金問題も加わり、予算成立の展望を失った竹下首相は89年春、
退陣を表明した。

喚問が実現したのはその1カ月後であり、中曽根氏は議員辞職を拒んだ。自民党は
宇野宗佑首相を後継に担いだが夏の参院選で大敗、衆参は大きくねじれ、中曽根氏も
離党した(のちに復党)。

昭和から続いた自民党の長期政権時代が途絶する予兆だったろう。消費税導入への
反発もあったが、疑惑に対し説明を尽くし責任をとる努力を怠った結果の敗北だった
ことは間違いない。

(続く)